一日でも長くこの世に
若い時分には夢があった。夢と現実の狭間でなやみもした。それが人間の辿る道だと自分に言いきかせた。同じように見える日々を繰り返しながら失敗しながら、そうして今、人生の晩年を迎えている。
主人の叔父である曹洞宗の師家・白山老師に先だってお電話で話したことがある。叔父は年が明ければ90歳になられる方である。
「私、このごろ希望といいますとごくちっぽけなものになってますの。主人と一日でも長くこの世に生きたい・・・なんてそんなことを思ってます。」
「それでいいのではないかな。一日を清らかに生きられたら、それは・・・それはいいことでょうね。」
受話器を置いた後で、私はその言葉を反芻してみる。いやいや、そのような境地には遠い自分だ。まだまだ片付けなければならないことがわんさとある。部屋の中のこの散らかりようはどうだ。ハウスキーパーとしてはまったく失格だ。それに何より美味しいものには思わず口元がゆるむではないか。
そんなことも忘れて、あのようなことを叔父に話した自分に苦笑を禁じえない自分がいる。
40から50を過ぎた男の顔は領収書。女の顔は請求書。こうした格言のようなものを何かで読んだことがあった。なるほどと妙に感心したのだった。
いま、請求書でなく私の領収書にはマイナスがくっきりと書かれている。求めた道の夢と、実現したこととはあまりにも遠い。
そうしてやはり思うことは、一日でも長くこの世に生きていきたい・・・いっしょに・・と。
誰しもが思うであろうことを思ってしまう。
注 上の画像は白山老師の書。信者の方が銅版に彫られたもので、語は「七佛通戒之偈」(しちぶつつうかいのげ)
諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸佛教 ( もろもろの悪を作すことなく もろもろの善を奉じおこない みづから心を浄くす これが諸仏の 教えである )
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