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2002年12月の記事

2002年12月31日 (火)

一日でも長くこの世に


若い時分には夢があった。夢と現実の狭間でなやみもした。それが人間の辿る道だと自分に言いきかせた。同じように見える日々を繰り返しながら失敗しながら、そうして今、人生の晩年を迎えている。

主人の叔父である曹洞宗の師家・白山老師に先だってお電話で話したことがある。叔父は年が明ければ90歳になられる方である。

「私、このごろ希望といいますとごくちっぽけなものになってますの。主人と一日でも長くこの世に生きたい・・・なんてそんなことを思ってます。」
「それでいいのではないかな。一日を清らかに生きられたら、それは・・・それはいいことでょうね。」

受話器を置いた後で、私はその言葉を反芻してみる。いやいや、そのような境地には遠い自分だ。まだまだ片付けなければならないことがわんさとある。部屋の中のこの散らかりようはどうだ。ハウスキーパーとしてはまったく失格だ。それに何より美味しいものには思わず口元がゆるむではないか。
そんなことも忘れて、あのようなことを叔父に話した自分に苦笑を禁じえない自分がいる。

40から50を過ぎた男の顔は領収書。女の顔は請求書。こうした格言のようなものを何かで読んだことがあった。なるほどと妙に感心したのだった。
いま、請求書でなく私の領収書にはマイナスがくっきりと書かれている。求めた道の夢と、実現したこととはあまりにも遠い。

そうしてやはり思うことは、一日でも長くこの世に生きていきたい・・・いっしょに・・と。
誰しもが思うであろうことを思ってしまう。


注 上の画像は白山老師の書。信者の方が銅版に彫られたもので、語は「七佛通戒之偈」(しちぶつつうかいのげ)

諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸佛教 ( もろもろの悪を作すことなく もろもろの善を奉じおこない みづから心を浄くす これが諸仏の 教えである )

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2002年12月25日 (水)

花束を贈って下さった学生さん


先の花束をそのまま部屋のなかに飾っておいたら暖房でしおれてしまった。それで束を解いて水切りをしてから古い海鼠(なまこ)の壷に入れてみた。まもなくシャンと生きかえったので、玄関の供待ちの隅へ置いて写真を撮った。

私は主人にそれとなく尋ねた。「カードにお隣の国の人と思える苗字が書いてあったけれど、ほら、金さんって?」「ああ、そうか、日本人の女子学生で最近同級生の男と結婚したのだ。」
なんだか新しい時代になったような感じだった。オープンに誇りをもって、外国人の夫の姓を名乗る。覚悟のある女性だと私は思った。

いま日韓、日朝間には越えがたい難問が山積している。政治はそうであっても若い人たちの間に純真な情熱があり、国家を超えて共によりよき人生を創っていこうとしている。某新興宗教の企画による国際結婚でなく、それこそ漱石が言う「自己本位」の結婚であるならば、私はすばらしいことだと思う。

昨日、アメリカから大型封筒の手紙が届いた。プロ写真家のジョージさんかと思ったら差出人はマックレイン松岡陽子さん!。ご両親と一緒に写られた幼児期の写真や、国際結婚でアメリカに住み、オレゴン大学から表彰を受けられた記念パーテイ。名誉教授としてのいくつかの写真等々、ほんとうに若々しいお手紙である。ご子息の風貌はやはり東洋人の血が入っていらっしゃる。

いずれ来年、拙サイトでご紹介させていただこうと思っている。

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2002年12月23日 (月)

最終・・・講義


明治前後に生まれた人なら人生50年といってもおかしくないが、今では日本は男女とも世界の長寿国だ。老夫婦には違いない自分たちであるが、私はきのう今日、ジーンとこたえた日であった。昨日の朝、主人が「学校に行ってくる」と言った。授業のある日ではないのにと思いながら黙って見送った。夕方帰宅した主人は大きな花束を抱えている。「学生たちがくれた。今日が最終講義だったんだ。」

あまりにも淡々としている主人、私は自分が恥ずかしかった。現代のというよりどちらかといえば漱石の生きた時代の雰囲気をもっている男である。自分の仕事について妻には立ち入らせないし職場の話は殆どしない。定年退職するまでに一度だけでも主人の大学研究室に行ってみたいと頼んだこともあったが、笑って拒絶されてしまった。しかし今日が最終講義の日だったとは、それも知らず、ああこの一日、自分は何をしていたのか。

世間では不倫ということが往々にして取り沙汰される。男性が生涯にわたって一人の妻を裏切らずに生きて来たということはさほど多いことではないだろう。文学において女と酒はつき物であったが、漱石先生は違っていた。「第一義」を「誠」においた人であった。そしてこうした言葉を口にするのはおこがましいことと思うが、私の主人もそのような男である。悪妻からすれば来世も共にという想いがあるが、これは又やんわりと笑って拒絶されることだろう。

主人の研究は退職後も継続される。常に心変わることなく地道に2000年前の文献を探求し構築してゆく・・・。学生たちの祝福のカードを読ませてもらいつつ私は幸せにひたっていた。

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2002年12月22日 (日)

閑談賓主なし

先に「閑座無賓主」と記入したのは間違いで、「閑談無賓主」と訂正させていただきます。失礼いたしました。また、画像掲示板に極という漢字を挿入できずこちらもミスでした。

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兜門(かぶともん)をマックレインさんがくぐる


 ことし4月9日、前日にあたかじめ打ち合わせていた通り、マックレイン陽子さんを裏千家今日庵にご案内した。午後3時まえ宗家から少し離れた処でタクシーを降り二人で歩いていった。陽子さんは少し緊張なさっている。以前いただいた何通かのメールに夫々こう書かれてあったのを私は思い出した。

「私は戦前、戦時、戦後の、日本が経済的、文化的に最も貧しかったただ中を日本で過し、御茶、御花の御稽古ごと一つしたこともない無粋な女で、裏千家の御宗家など、とてもお恥ずかしくて伺わせて頂ける人間ではありません。」

「裏千家を訪問させていただくとき、スラックスを履いていてもよろしゅうございますか。それともきちんとした洋服を着たほうがよろしいでしょうか。ただでさえ御茶の御作法を知らない人間で、これ以上失礼に当たることはしたくないと思っておりますので、何でも正直におっしゃってくださいませ。」

大丈夫です、と私は申し上げた。
・・・厳粛な面持ちで兜門をくぐられる遠来の客。露地という名の茶庭の踏み石をしめやかに歩かれる。それでいてあどけない童女のような笑顔。

 私たちが招き入れられた又新(ゆうしん)という立礼席の茶室で、お茶をいただいていると暫くして若宗匠のお出ましになった。文学者としては日本ペンクラブ会員でもある若宗匠。漱石の孫・マックレイン松岡陽子さんとそれは又なんという和やかで楽しい会話であったことか!

 その忘れられない語らいはそっとしておこう。後日オレゴンに帰国された陽子さんのメールには次のような一節があった。
「若宗匠との御写真とてもよく写っていて嬉しいです。本当に楽しい日でした。彼はご自分の分野だけに優れていらっしゃるだけでなく、プロの写真家ですっかり感心してしまいました?本当のあーテイストでいらっしゃるのですね。」

 若宗匠は今日、第十六世今日庵家元の継承宣誓式を宗家利休堂において行われる。もう若の名は無い。その思い出にと私は拙サイトの表紙に、記念の筆跡をUPした。ことし3月、私が筆者となった七事式の会記である。「閑談無賓主」の語と花押が若宗匠の筆になるものである。



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2002年12月17日 (火)

雑司が谷へ 二度目の墓参


昨年の秋にはじめて漱石の墓所のある雑司が谷へ行った。その時は一人タクシーを拾い、運転手に行先を告げると「霊園ですな。」と彼は地図を広げながらともかく目的地に着いたのだった。しかし、今回はミモザさんが一切の世話をやいてくださった。鎌倉漱石の会がある12月8日、その前夜から私は東京巣鴨のミモザさんのお宅に逗留していた。翌朝9時に彼女と雑司が谷へ墓参のため、都電に乗ったのだ。都心でない空間があってほっとする。
漱石の墓は既成の墓の形態ではなく安楽椅子をかたちどった設計である。これまで多くの方からこの墓については不評悪評を聞いていたけれども、昨年はじめて私はこのお墓に接し遺族の方々の想いがここに結実したように感じたのだった。この世で心身の病に苦しみ煩悶した漱石先生。あの世ではせめてご夫婦で安楽椅子にやすらいで頂く・・・。

私は昨年、松岡陽子マックレインさんからメールでご教示いただいていたことをここで皆さまへお分かちしたいと思う。

2002/11/11 メール
伊津子様

以下亡父、松岡譲の『夏目漱石』の最終ページからの引用(河出書房、市民文庫、昭和二十八年版):

 {十二月}二十八日に雑司が谷の墓地に愛子ひな子の遺骨にとなりして埋葬された。一周期の時新しく広い墓地にかへ、墓を建てて改葬された。墓は未亡人の妹婿鈴木禎次の設計になり、新様式の石塔である。字は漱石の親友菅虎雄の筆になった。この墓地も落合火葬場とともに彼の作品の中に描かれた有縁の地であるのである。墓地は『こころ』に、火葬場は『彼岸過迄』に)
・・・・・・・・・・
 鈴木禎次は名古屋の松坂屋を設計した建築家、大震災ですべての建物が壊れたとき、松坂屋だけが残り、優秀な建築家として名をなしたと母が言っていたのを覚えています。祖母のすぐ下の妹の主人。

マックレイン陽子

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