雑司が谷へ 二度目の墓参
昨年の秋にはじめて漱石の墓所のある雑司が谷へ行った。その時は一人タクシーを拾い、運転手に行先を告げると「霊園ですな。」と彼は地図を広げながらともかく目的地に着いたのだった。しかし、今回はミモザさんが一切の世話をやいてくださった。鎌倉漱石の会がある12月8日、その前夜から私は東京巣鴨のミモザさんのお宅に逗留していた。翌朝9時に彼女と雑司が谷へ墓参のため、都電に乗ったのだ。都心でない空間があってほっとする。
漱石の墓は既成の墓の形態ではなく安楽椅子をかたちどった設計である。これまで多くの方からこの墓については不評悪評を聞いていたけれども、昨年はじめて私はこのお墓に接し遺族の方々の想いがここに結実したように感じたのだった。この世で心身の病に苦しみ煩悶した漱石先生。あの世ではせめてご夫婦で安楽椅子にやすらいで頂く・・・。
私は昨年、松岡陽子マックレインさんからメールでご教示いただいていたことをここで皆さまへお分かちしたいと思う。
2002/11/11 メール
伊津子様
以下亡父、松岡譲の『夏目漱石』の最終ページからの引用(河出書房、市民文庫、昭和二十八年版):
{十二月}二十八日に雑司が谷の墓地に愛子ひな子の遺骨にとなりして埋葬された。一周期の時新しく広い墓地にかへ、墓を建てて改葬された。墓は未亡人の妹婿鈴木禎次の設計になり、新様式の石塔である。字は漱石の親友菅虎雄の筆になった。この墓地も落合火葬場とともに彼の作品の中に描かれた有縁の地であるのである。墓地は『こころ』に、火葬場は『彼岸過迄』に)
・・・・・・・・・・
鈴木禎次は名古屋の松坂屋を設計した建築家、大震災ですべての建物が壊れたとき、松坂屋だけが残り、優秀な建築家として名をなしたと母が言っていたのを覚えています。祖母のすぐ下の妹の主人。
マックレイン陽子
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント