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2003年1月の記事

2003年1月28日 (火)

掛川の温泉宿


掛川の温泉宿に家族と旅をしてきた。掛川は静岡県にある小さい城下町である。静岡市は先の大戦で中心地は殆ど焼失したが、掛川は全く戦災に遭っていない。私はなんの知識も無いままに、ただ静かな温泉宿でゆったりと心身の湯浴みをしたいという思いで宿に電話をしたのだった。

丁度シーズンオフだし雨も上がるから早く来たほうがいい、といわれすぐ予約した。新幹線はひかり号からこだまに乗り換え掛川駅で下車。気になる天候は曇りだ。温泉宿は市中とはいえ奥深くの山村にありバスは数本しかない。一時間待ちになるので掛川城周辺を見物する。ところが行く先々見るものすべてが面白いのだ。

城に行く途中に銀行があったが両替所と書かれ昔の雰囲気をかもし出す和風の建物だ。壁には城主の山之内一豊の像が浮かび上がっている。通り自体そんな建物がずらりと並んでいる。行政がよくここまで住民を引っ張ったものだと内心私は感嘆する。掛川城は新しく再建された木造のよい城であった。

その他の見物を終えバスが延々と続く田園の中の道を走った。終点に目指す温泉宿があった。紅梅の古木が畑にあり米搗き水車があり大根が点々と植わっている。山々はかなたにかすんでいる。どこまでもひなびた景色であるのがうれしかった。しかし宿は実に行き届いたもてなしで食事もよく女将の方言はやさしく親しく響いた。

不況のせいで客は私どもとあと一家族だけ、広い浴場は朝6時から夜11時まで使用でき、常に温泉がこんこんと湧いている。

「いいところですねえ。聞けばアメリカのユージン市と姉妹都市なんですって?」
「そうだよ。姉妹都市になった時、夏目漱石の孫の有名な先生を市長が招いて講演してもらっただよ。」
「ええーっ、マックレイン陽子さんが!」
私は思わず大きい声を上げてしまった。なんという不思議なめぐり合わせだろうか。

その夜は雨が静かに降り、窓を開けると寒気が入ってきた。
私は漱石が書いたあの良寛を思わせる書を思い浮かべていた。
彼の書の中でももっとも私が好きな書風である。最晩年の作であろうか。
夜静庭寒ーーー清らかな四字である。

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2003年1月19日 (日)

和菓子の店 東西考


文人墨客と呼ばれる人々は和菓子とは縁の深いものである。漱石の場合は藤むらの羊羹であった。私も藤むらの羊羹はその色といい甘さを控えた味といい好きな羊羹であった。京都から出た虎屋の羊羹は今では東京風の濃い味になっているが、その点東京の藤むらはむしろ京都の味といっていいような味の深い羊羹であった。しかし現在休業中とか、淋しい限りである。

昨日、京都文化博物館別館で「ロアレル賞連続ワークショップ2003 京都」「空間の色ーアートの可能性とその根源」と銘うった催しがあった。色をめぐる科学者と芸術家の対話と実演を特色とする内容で、東京から今回は舞台を京都に移しての講演会&対話集会であった。京菓子の「老松」主人の大田氏が熱弁をふるわれた話もよかった。質疑応答の時、私はふっと思いつくままこんな発言をした。

「京菓子の場合は地元の人々が何よりもそれを支えています。夏目漱石は藤むらの羊羹を愛しましたがその店は今では絶えてしまってますね。あの羊羹の色・味ともに消えたことは残念でなりません。東京では支える人々がいないとは。」

私は、漱石のためにももう一度あの由緒ある店の復活を願うのである。


「いやー珍客だね。僕のような狎客(こうかく)になると苦沙弥(くしゃみ)はとかく粗略にしたがっていかん。何でも苦沙弥のうちへは十年に一遍くらいくるに限る。この菓子はいつもより上等じゃないか」と藤村(ふじむら)の羊羹(ようかん)を無雑作(むぞうさ)に頬張(ほおば)る。 『吾輩は猫である』 四


宝暦年間(1751-63)に本郷4丁目に店を出した和菓子の老舗。黄味時雨や羊羹、田舎饅頭で名高い。夏目漱石が愛好した他、森鴎外も雁』の中でお常にここの田舎饅頭を買いに行かせている。本郷3丁目脇(文京区本郷3-34-6)で営業していたが、現在休業中。

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2003年1月14日 (火)

学究の立場


漱石研究においても優れた業績を残していらっしゃる伊豆利彦氏、私は氏に多くのものを学ばせて頂いているが、先日、主人の著書について次のようなメールを下さった。

ご主人様のご著書ありがとうございました。
仏教は世界でもっともすぐれた宗教だと思っています。
その仏教学の学者としてすぐれた研究をなさっていらっしゃる方の、宮沢賢治論を、一部ですが興味を持って読ませていただきました。
<現象としての自己>についてのご指摘は、私があてずっぽうに考えていたことを、学問的な裏づけをもって書いてくださっているのをうれしく思いました。
ゆっくり読ませていただきたいと思います。

主人の書く専門書は私には難解で到底わからない。そのため数年前に私は主人に頼んだのだ。「私にもわかるものをぜひ書いてみて!」。そんな願いを主人は聞いてくれ、宮沢賢治について書いてくれたのだった。それは大手出版社から新書として出たものの2万部を売り切ったところで絶版になってしまった。

私はキリスト教信者の伊豆氏がこのような理解をもって主人の書き物を読んで下さったことに感謝した。そしてさらにご自身の著書『夏目漱石』をご恵贈くださった。ネットとはなんと思いがけないお付き合いが生まれるのだろう。じっくりと繰り返し読んでゆきたい。

主人が昨年の夏、敦煌へ学術調査のため旅した時の画像を同行の方から頂いているので、今日はその一枚を挿入する。砂漠地帯をラクダに乗っている老学究。昔から見栄えしないのが気楽なものである。

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2003年1月 9日 (木)

愛子さま


皇室のニュースでは皇太子ご夫妻のお子様の愛子さまが大人気である。笑顔もしぐさもたまらない位愛らしい。一般に産まれた女児の名前に「愛子」の名が急増しているというのも頷けよう。古くからの「和顔愛語」という四文字は自分でも大切にしてきたものだ

けれど、もう一人、漱石の第四女に愛子さまがいらっしゃる。
随筆『永日小品』の「猫の墓」に出て来る最後の一節は読み返す毎に哀切である。

この方は父漱石にもっとも可愛がられたようだ。道草」の連載がはじまった頃鏡子夫人は次のように書いている。「4番目の愛子というその頃十か十一かだった娘が、或る時夏目に申します。
「お父さんたら、伯父さんのことや人のことばかり書かないで、もう少し頭を働かせなさい。」
夏目は笑いながら、
「この奴、生意気なことをいう。そんなことをいうと、こん度はお前のことを書いてやるよ。」
などとからかっておりましたが、、、、。」

愛子さまは後に、末娘から見た父漱石の素顔と題したエッセイで、父へのかぎりない尊敬をこめて臨終のさまをこう綴ってている。漱石が描いた「達磨渡江図」について。

「暗い夜に、手も足もない達磨がただ一人小舟に乗って、どこから来てどこへ行くのか?流れのままに身を任せて行く、そんな絵であった。自画、自意識を捨て、天意のままに生きているこの達磨の絵、これこそ彼の理想ではなかったか?
 晩年父が達せんとして達し得なかった境地がここにあったのではないか。自然に逆らわず、あるがままの姿で生きて行く。そうした澄み切った心境こそ晩年の父漱石があこがれていた境地ではなかったろうか。父の「泣いてもいいんだよ」と言ってくれた死際の言葉と、この絵とは、なにか相通ずるものがあるように思えてならない。かわいがっていた子供が、自分の死を悲しんで泣いている、漱石はこの末娘が泣くのがつらくていやなのだ。しかし、「なくのはおよし」と言う代わりに、「お前の気がすむならそうおし、お父さまはかまわないのだ」父は臨終の苦しみの内にさえ、己を去り、娘の涙を自然のままに流させてやりたいと願ってくれたのではないだろうか。」


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2003年1月 6日 (月)

日記の功罪


漱石はよく日記を書いた。樋口一葉も日記で評価を高めた。永井荷風の日記も時代を超えて愛読されている。読者というのは私小説的な読み方をしていて作家の素顔をそこに見るようだ。けれども、漱石は日記を残したことで「はた迷惑」をかけた側面は否定できない。

鏡子夫人の『漱石の思い出』に、次のような一節がある。明治三六年、37歳の頃と思われる。
「二一 離縁の手紙
 この頃こういふあたまでつけた日記があったのですが、今見当たりません。一体よく日記を書いては後で破って捨てる人でしたから、これも大方捨てたものでしょう。(後略)」

その日記は夫人の死後、公開されたという。これを見た人たちはこぞって漱石夫婦の不仲説を信じ、悪妻呼ばわりをしたのであった。

しかしご長男の夏目純一氏は、「親父の弟子たちは、こんな親父の気違いじみたことは一切認めようとはせず、悪いことは、すべて母のせいにし悪妻にしてしまった。しかし、後年、母の口ぶりから察するに、母は心の底から親父を尊敬し信頼していたようだ。母の口から親父にたいして愚痴らしい言葉を聞いたことは、絶えてなかった。」と語っている。

私は女性として、鏡子夫人はその並々ならぬ覚悟といい見上げた女傑のような方だと思う。他人がなんと言おうと夫に連れ添い遂げた強い信念と深い愛情!明治のあの時代に漱石を私人ではなく公人として考え、死後の解剖を決意されたこと一つをとっても、並の人物ではない。まことに漱石は伴侶に恵まれた方ではなかっただろうか。

昨日が漱石の誕生日であったことから、今日の画像は、夏目漱石筆「人物図自画賛」「 居眠るや 黄雀(クワウジャク)堂に入る小春 」
この句は明治29年12月の「正岡子規へ送りたる句稿 その二十一」
にある。雛僧ともよびたい人物が無邪気に寝入っているところである。

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