日記の功罪
漱石はよく日記を書いた。樋口一葉も日記で評価を高めた。永井荷風の日記も時代を超えて愛読されている。読者というのは私小説的な読み方をしていて作家の素顔をそこに見るようだ。けれども、漱石は日記を残したことで「はた迷惑」をかけた側面は否定できない。
鏡子夫人の『漱石の思い出』に、次のような一節がある。明治三六年、37歳の頃と思われる。
「二一 離縁の手紙
この頃こういふあたまでつけた日記があったのですが、今見当たりません。一体よく日記を書いては後で破って捨てる人でしたから、これも大方捨てたものでしょう。(後略)」
その日記は夫人の死後、公開されたという。これを見た人たちはこぞって漱石夫婦の不仲説を信じ、悪妻呼ばわりをしたのであった。
しかしご長男の夏目純一氏は、「親父の弟子たちは、こんな親父の気違いじみたことは一切認めようとはせず、悪いことは、すべて母のせいにし悪妻にしてしまった。しかし、後年、母の口ぶりから察するに、母は心の底から親父を尊敬し信頼していたようだ。母の口から親父にたいして愚痴らしい言葉を聞いたことは、絶えてなかった。」と語っている。
私は女性として、鏡子夫人はその並々ならぬ覚悟といい見上げた女傑のような方だと思う。他人がなんと言おうと夫に連れ添い遂げた強い信念と深い愛情!明治のあの時代に漱石を私人ではなく公人として考え、死後の解剖を決意されたこと一つをとっても、並の人物ではない。まことに漱石は伴侶に恵まれた方ではなかっただろうか。
昨日が漱石の誕生日であったことから、今日の画像は、夏目漱石筆「人物図自画賛」「 居眠るや 黄雀(クワウジャク)堂に入る小春 」
この句は明治29年12月の「正岡子規へ送りたる句稿 その二十一」
にある。雛僧ともよびたい人物が無邪気に寝入っているところである。
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