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2003年2月の記事

2003年2月27日 (木)

白雲自去来


 昭和五十年九月二十五日発行の『別冊太陽』は、日本のこころ32として夏目漱石を特集している。この頃は出版社の誇りが感じられる入魂の紙面造りで特別付録がまたふるっていた。

 漱石自筆書画は三枚とも和紙で印刷もよい。漱石自筆原稿「ケーベル先生の告別(複製)」もしっかりした和紙を使用している。台紙原稿用紙とも漱石山房の写しであるのがうれしい。紅野敏郎氏の解説が小さくついているが、その中の一節に心惹かれた。

 漱石は、二度までケーベルについて、小宮豊隆の言葉に従えば、「円味と気品としをりとさび」とから組み立てられた文章を書いた。この生原稿を見ていると、「さようなら御機嫌よう」という言葉が、なんと落ちついた、生きた日本語として使われていることか。別れても、地球上の何処にいても、心はつながっている、という感が深い。「天然自然」という言葉も加筆されているが、この生原稿の加筆自体、漱石らしい味が出ている。ケーベルの生活の古典的な静謐、それは晩年の漱石の実生活における願望の一つといい得るものだ。

 解説も名文である。こうした雑誌の定価が当時2千円だった。とすると今は代価に値する雑誌がどれくらいあるのだろう?

 今日の画像は「雲去来」の三字である。この語は禅語の「青山元不動 白雲自去来」から採られたものと思われる。私自身この語にはどんなに励まされたかわからない。

 二十代のころ病弱だった私は大手術を受けたことがあった。禅の恩師はその時この語を短冊に書いて贈って下さった。青山元不動白雲自去来 (青山もと動ぜず 白雲おのずから去来す)

 その時の私は、この語の上に日本の古歌をひとり重ねていた。

 晴れてよし曇りてもよし 富士の山 もとのすがたは 変わらざりけり

 

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2003年2月23日 (日)

二宮金次郎の石像


 内村鑑三が著書『代表的日本人』のなかで、19世紀末欧米諸国に対し「日本人の中にも、これほどの素晴らしい人物がいる」と苦難の時代を救った偉人として書いているのが、二宮金次郎だ。

日本の公立小学校では殆ど二宮金次郎の石像が建てられていた。私は子ども心に「働きながら勉強したエライ人」ということ位にしか知らなかったが、学校の校庭にあるその像には畏れ多い気持ちは抱いていた。けれども昭和も後半から平成へと移り、学校はあれよあれよという間に変わってしまった。

昨日は雨だった。午後から室町蛸薬師にある京都市芸術センターに行った。ここはもと京都市立明倫小学校。呉服商の建ち並ぶ町で明治はじめ頃竣工したという歴史ある小学校であった。けれども児童数の減少で先年閉校の憂き目に会った。それが市民に役立つようにと芸術センターとして改装、現在大いに活用されている。

私は内心、日本の小学校でこれほど贅沢で立派な木造建築を造った処はなかっただろうと思った。さすが豪商の多かった室町だ。地域の多大の寄付があったに違いない。庭にある石すら選び抜かれた銘石だし、子供向きではないにしても情操教育にはまことにすばらしい。本物をみる目が養われるだろう。

最初門を入って暫く行くとなつかしいものに出会った。薪を背負った二宮金次郎が手には本を広げている。今も変わらずにあるのだなあ、と私はしばし立ち止まっていた。写真を撮ろうと近づいてみると本の上になんと十円銅貨がたくさん置かれているではないか!神社仏閣のお賽銭のつもりだろうか・・・。それを置いた人は善意かも知れないがやはりここは学校ではないと思った。

いや、ひょっとすると、今の日本の学校、児童生徒学生、家庭環境、教育に関する社会ぜんたいの、すがたなのかも?

「毎晩独学で勉強していた金次郎。夜間読書をするために必要な明かりの原料を得るため、荒地に自分で菜種を植え、たった一握りの菜種から7~8升の菜種油を得た」ことから「積少為大:せきしょういだい」を説き、農民と地域住民へ献身した金次郎!

もう一度ここから出直す、それは昔物語に過ぎないのだろうか。しかし日本の将来をみて今一度自分の事として考えてみるのは、いかがであろうか。


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2003年2月16日 (日)

アメリカの人種差別


 昨夜NHKテレビでたしか開局五十年記念番組と書いてあったと思うが、『アフリカの蹄』という長時間ドラマを前編・後編と引き込まれるように見た。
 帚木蓬生原作。これまで関心をもちながら読んだことのない作家だったが現役の精神科医で山本周五郎賞を受けている経歴から、正義感のある作風だろうとは感じていた。

 見るとこのドラマはたいへん迫力がありアメリカの人種差別の根強さをうまく描いていた。若き日本人医師が大学の組織から出て黒人居住地で天然痘と極右の謀略と戦う。ストーリーは主人公の役柄と男優にも恵まれ、久しぶりにさわやかな後味であった。

 アメリカの人種差別は根が深い。黒人に限らず原子爆弾をドイツには落とさず黄色人種の日本へ落とした厳しい事実もある。ただ、このドラマも最後にはアメリカの良識が悪をやっつけることになっているので、救いがある。その為「このドラマは事実ではなくフィクションです。」などと断り書きを入れずとも済んだのだろう。今イラク問題が危機的状況でありなんらかのメッセージなのかも知れない。

 松岡陽子マックレインさんから昨秋、私はカードを頂いた。アメリカ在住50年の記念パーテイをされたこと。オレゴン大学から表彰を受けられたこと。その写真などをスキャンして特別ページを作成しなければと思っているものの、なかなか時間が取れないでいる。

 ユージンと大きく書かれているカード。オレゴン州ユージン市に在住されてからの50年記念、漱石先生のお孫さんはこの地で立派に種をまく人となられたのである。

 陽子さんの一粒種、ハンサムなご子息は医師だと伺っている。どこかお祖父様の漱石に似ていらっしゃる。
 私は陽子さんを通して、アメリカの良き一面を見る思いだ。

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2003年2月10日 (月)

「禅堂風景図」


井上禅定さまの特別寄稿『鈴木大拙と夏目漱石のこと』を自分の手で編集させて頂きながら、漱石が書いた禅堂の絵のことが気になって仕方がなかった。

あの絵を原稿のなかに挿入したほうがいいか、考えては行きつ戻りつした。結局この場に掲載することであちらのページは原稿を生かす意味で背景画像の睡蓮を使用することにしたのだった。

作者の死後五十年経てば著作権は消滅するという。この点は公共性ということで社会に還元されるのだろう。私などにもたいへんな恩恵を受けている。

絵というのは、「禅堂風景図」と題した彩色画で大正二年ころの作品である。禅定さまが本文でお書きになっているように、漱石が鎌倉へ行き円覚寺山内帰源院に投宿し釈宗演老師に参禅したのは、明治二十七年暮れから正月七日までであった。

この時の参禅の体験がなければこうした絵は描けなかったであろうと思われる。中国の禅堂でキョクロクに坐った老師は払子(ホッス)を手にしているがその目は厳しい。若い修行僧は真剣なまなざしであるがどこかたじろいでいる風だ。

敷き瓦の堂内といい、中国様式の雰囲気がなかなかよく描かれていると思う。大正五年の正月『点頭録』に「趙州の初発心」を祈りにも似た想いで書き綴っている漱石は、二十年近い昔の体験を常にあたためていたのではなかろうか。



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