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2003年3月の記事

2003年3月27日 (木)

猫の舞踏


 カメリアジャポニカとは椿の学名である。原産地は日本ということになっているが諸説があって確かなことはわからない。一昨日テレビのチャンネルを回したら、ヨーロッパの国々で昔日本からやってきた椿が大木になり、公共の場でそれは大事にされている様子が放映されていた。なかでも紅の藪椿がうつくしかった。

「カメリアジャポニカは私たちに光を与えてくれます。」と語った実直そうな一市民の男性がうつった。それに引き換え日本の女性タレントは古木の椿のことを「いいな、おばあちゃんは」などと口にした。外国では自分の祖母にしかこうした言い方はしないのではないか。聞いていてもいかにも蓮っ葉な感じがした。

 スペインのホセ・ガルシアさんはカメリアジャポニカの研究家で自宅に長年椿の木々を栽培されている。ネットのお付き合いで相互リンクをお願いすることになった。その時ホセさんは「あなたのバナーは私が作るから」といわれそのバナーが送られてきた。

 スペインの有名な陶器人形リヤドロの作品のようだ。カップルの猫がエレガントにダンスをしている。彼はあなのイメージで作ったがこれでいいだろうか?と私に問い合わせてきた。私はワンダフル!と答えた。

 拙サイトの英語版の表紙はわが家の飼い猫の写真を掲載しているが、これは漱石『我輩は猫である』の黒猫とは似ても似つかない軟弱な風貌だ。その為かどうやらホセさんには猫が私のイメージになってしまったらしい。

 スペインの舞踏は情熱的だが、こちらの猫はなんとなくもクラシックな感じだから今度は私が彼に問い合わせてみた。
「これらの猫が踊っているのはワルツでしょうか?ポルカでしょうか?」。それに対してホセさんはまことに誠実に返答された。
「私は猫が踊っているのがワルツだあるか、ポルカであるか、詳しく承知していないことをお知らせする。」

 画像はそのバナーであるがこれだけ大きいバナーを彼は自分のサイトへ貼ってくださっているのだ。原寸大のままでUPする。



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2003年3月19日 (水)

生誕記念菓子 漱石ごのみ


 掲示板「夏目漱石が好きなかたへ」の中でご披露させていただいた松岡陽子マックレインさまのメールには、源吉兆庵という菓子屋についての記述があった。ここに再掲する。


 一月に私は東京の若い友人夫婦から大変面白いお菓子を頂きました。彼等は偶然それを銀座で見つけて送って下さったそうです。お店の名前は源吉兆庵(みなもときっちょうあん)、本店は鎌倉とか、 店主がよほど文学好きなのでしょう、生誕記念菓子というのを毎月作るそうです。
 
 一月は漱石で、ともかく、「夏目漱石ごのみ」という一月のお菓子の包装が大変凝っていているのです。箱自身が漱石の本になっていて、中身は彼が好きだった羊羹とお団子、それも凝った箱に入っています。お団子は「吾輩は猫である」の初版本の箱、羊羹は漱石の原稿がコピーされた箱という調子です。

 そのお店にサイトもあるそうですから、ご覧になったら面白いかもしれません。こんな凝ったことは日本以外では考えられません。


 陽子さまのお勧めに従い私は店のサイトを検索で探し、早速注文したのだった。ただ月代わりの3月は樋口一葉であり、注文できたのはその菓子になったが、漱石の箱だけはサービスに同封されて送られてきた。

 なるほどこれはおもしろい!箱の表紙には漱石がイギリス留学時代に描いた絵葉書で、中に入っているのは『我輩は猫である』の初版本、中村不折が描いたあのユーモラスな挿し絵。もう一つは鏡子夫人へ宛てた留学中の漱石の手紙である。

 菓子の味はさておき、このような趣向はファンにとってはたまらないものだ。私は今回漱石ならぬ一葉ごのみの菓子、栗饅頭と変わりカステラで漱石が好きだったお煎茶を飲んだ。値段が高いのも致し方ないと思いながらそのいっときを楽しんだ。

菓子箱を撮ってみたがいかがであろうか?


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2003年3月10日 (月)

『道草』の装丁


 『こころ』の装丁には漱石の美意識が十二分に発揮されている。その審美眼は「気品」があってしかもやさしい雰囲気がただよっている。鏡子夫人からシナ趣味ときめつけられた漱石だけれど、たしかに漱石は漢学・絵画等中国の古典を学びそれを自分のものにしている。

 岩波から初版復刻版が出た折購入していたこの『道草』、その装丁をデジカメで写してみた。京都の津田青楓が描いたもので春をおもわせるはんなりとした表紙である。花々のなかにいる青い鳥もうつくしい。

 漱石は『こころ』では、荀子の文を引用してみずから装丁を手がけ内容を表現しているが、孔子ではなく荀子であるところが注目される。これは性悪説を採っているからだ、と私は叔父の老師から教えられた。

 表紙の装丁にはいずれもそうした心配りが出ていると思う。そして、絵の上では師匠であった青楓も当然漱石の意図を知らなかったとは思えない。道草の装丁のなんとやわらかく安らかであることか。青い鳥が身辺にいる描写もほっとするものがある。

 漱石の二男でいらした夏目伸六氏は、父君の幼年時代母千枝の出生を書いた記述は鏡子夫人のも松岡さんのにも間違いがあると『父、夏目漱石』のなかで述べている。
親戚のことを直接聞いたのちに新たに公表された伸六氏の誠実さを私は感じた。

 また大岡昇平の『小説家夏目漱石』、伊豆利彦氏の『夏目漱石』は共感をもって読み直させていただいた。大岡氏によると『道草』は個人的な伝記としてより小説として捉えておられる。私がいぜんから感じていたことでもあり、私小説を超えた作品であることが素晴らしい。

 そしてその大岡氏はとりわけ伊豆氏の論文を賞賛されているのであった。出来ることなら多くの方々に、伊豆利彦著『夏目漱石』を読んで頂きたいと私は思う。




 

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2003年3月 4日 (火)

ナンテン 弥生の雪 2


 
ところが長兄次兄が亡くなり三兄はぐうたらでものにならない。長兄の「漱石を準養子にする」という遺言があったことも父が漱石の復籍に乗り出した要因でもあった。復籍の条件となったかの有名な「書類」は現存している。

 漱石が夫婦喧嘩の地獄絵巻の中から救い出され、実家に引き取られたのは多分10歳の時であったであろう。と、松岡氏は書いている。
 日本にとって家というものが最も重大であり、人々もその制度を厳守していた明治時代である。

 私は何よりもこの事実から目をそらすべきではないと考える。
 松岡譲といえば、その著書『敦煌』においてもきわめて正確な記述だと高い評価を受けている作家である。作家というよりもむしろ学究といったタイプの方ではなかっただろうか。

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ナンテン 弥生の雪 1


 先日来の暖かさに春の到来とばかり思っていたら今朝は雪。ナンテンに弥生の雪が積もっていた。難を転じるともいう南天、野鳥たちはまもなくこの実をついばみにやってくるだろう。

 難ということは人の世につき物である。昔から「人の不幸は蜜の味」ともいうが、とかく他の幸せよりも他の落ち度を探しそこから尾ひれをつけて話を作りたがる。そうしたことが歴史上どれくらい繰り返されたことか。

 松岡譲の『夏目漱石』(昭和28年初版発行・河出書房)は、漱石の幼年時代から綿密に調べた評伝であるが、客観的でなるほどと納得できる内容だ。

 養父となっていた塩原は若年の頃夏目の父に書生同様に養われているうち、見どころがある青年だといふので、仲人に立って同じく家に奉公していたやすを嫁がせ、そうして新宿の名主の株を買ってやって取りたてたのだという。

 塩原は子のないのを幸ひ、夏目の家ではいわば厄介者の末っ子を引き取って、一つには主家に対する恩返しをし、又自分の家をも引きたてようとしたらしい。明治の新制度が敷かれると共に、夏目直克の肝いりで浅草の戸長(区長)になった。漱石5歳か6歳のはじめころ塩原は漱石を自分の長男として戸籍に登録し、それが後半思わぬ面倒の種となった。

 「養父母」の章に、塩原夫婦の騒動が明らかにされている。とうとう仲人の夏目の父のもとまで夫婦喧嘩が持ち出されて別れ話になり、子供の教育上もよろしくないといふので、結局父が養母と漱石を引き取ることになった。

 少年は浅草の戸田学校で最初の初学教育を受けることになった。塩原は新築した自分の家へ移ったが付属の借家は漱石名義になっていた。
実家に引き取られても少年は依然として塩原姓であり、夏目金之助ではなかった。

 漱石が夏目に復籍したのはそれから10年後彼が22歳の折で大学予備門の学生時代である。漱石は塩原の長男として戸籍に登録された為に、子のない同家から簡単に籍を抜くことは出来なっかった。

 塩原も落ち目になっていたので、先々の欲にかかり、いずれ実家で教育させておいて、後で当然取ってしまへばいいと考え、決して籍を渡そうとはしない。
 
 

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2003年3月 2日 (日)

水仙


 先月、今日庵家元の弟君・伊住宗匠が急逝され大徳寺で本葬が行われた。約6千人の会葬者があったと京都新聞は報じていた。密葬のもようは拙サイト「伊住宗晃宗匠遺影」でお伝えしたが、後日の本葬の際には焼香でなく一同が献花をさせて頂いたことに触れておきたい。

 献花には昔からある水仙が用意されていた。ラッパ咲きの西洋水仙でなく日本のそれはまことに清楚であった。噂によれば京都中の花屋から水仙が集められたのだという。ランでなくこの花が選ばれたことに私は感じ入った。

 毎月ついたちは宗家に参上する日である。今日、坐忘斎家元の切々としたお話を私たちは拝聴した。みな涙し目頭を押さえていた。家元が話された中に思いがけず水仙の花についてのエピソードがあった。

 「弟は健康優良児で私は腺病質のこどもでした。そのまま成長しましたが必ず先に逝くのは私だと信じていました。ある時私は弟に言いました。
「もし自分が死んだ時は後を頼むぞ。葬式には派手なランなんかでなく、水仙にしてくれ!」
じつは、先日の葬式の献花は私の死んだ時の為に私が望んでいた花だったのです。」
 そして家元はしみじみと、「私は今、弟の分まで生きようと思っています。」と結ばれた。
 

 漱石が描いた水仙の花、これも昔ながらの日本水仙である。京都に宿をとった時にこれを描いたという。大正四年六月には俳画展覧会出品の誘いを断り、そのいいぐさに「今は下らない事で朝のうちを過ごしています。」と「道草」執筆中の旨を俳人の青木月斗に告げている。

 茶道ではこうした籠花入れは夏季に使用するがこれは正確には「宗全籠」といって茶人の名をとってつけられた花入れである。

 漱石は京の宿で見たさまを「小さなきれに籠の中に投げ込んだ水仙を描いた」と津田青楓のもとに書き送ったという。


 

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