水仙
先月、今日庵家元の弟君・伊住宗匠が急逝され大徳寺で本葬が行われた。約6千人の会葬者があったと京都新聞は報じていた。密葬のもようは拙サイト「伊住宗晃宗匠遺影」でお伝えしたが、後日の本葬の際には焼香でなく一同が献花をさせて頂いたことに触れておきたい。
献花には昔からある水仙が用意されていた。ラッパ咲きの西洋水仙でなく日本のそれはまことに清楚であった。噂によれば京都中の花屋から水仙が集められたのだという。ランでなくこの花が選ばれたことに私は感じ入った。
毎月ついたちは宗家に参上する日である。今日、坐忘斎家元の切々としたお話を私たちは拝聴した。みな涙し目頭を押さえていた。家元が話された中に思いがけず水仙の花についてのエピソードがあった。
「弟は健康優良児で私は腺病質のこどもでした。そのまま成長しましたが必ず先に逝くのは私だと信じていました。ある時私は弟に言いました。
「もし自分が死んだ時は後を頼むぞ。葬式には派手なランなんかでなく、水仙にしてくれ!」
じつは、先日の葬式の献花は私の死んだ時の為に私が望んでいた花だったのです。」
そして家元はしみじみと、「私は今、弟の分まで生きようと思っています。」と結ばれた。
漱石が描いた水仙の花、これも昔ながらの日本水仙である。京都に宿をとった時にこれを描いたという。大正四年六月には俳画展覧会出品の誘いを断り、そのいいぐさに「今は下らない事で朝のうちを過ごしています。」と「道草」執筆中の旨を俳人の青木月斗に告げている。
茶道ではこうした籠花入れは夏季に使用するがこれは正確には「宗全籠」といって茶人の名をとってつけられた花入れである。
漱石は京の宿で見たさまを「小さなきれに籠の中に投げ込んだ水仙を描いた」と津田青楓のもとに書き送ったという。
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