ナンテン 弥生の雪 1
先日来の暖かさに春の到来とばかり思っていたら今朝は雪。ナンテンに弥生の雪が積もっていた。難を転じるともいう南天、野鳥たちはまもなくこの実をついばみにやってくるだろう。
難ということは人の世につき物である。昔から「人の不幸は蜜の味」ともいうが、とかく他の幸せよりも他の落ち度を探しそこから尾ひれをつけて話を作りたがる。そうしたことが歴史上どれくらい繰り返されたことか。
松岡譲の『夏目漱石』(昭和28年初版発行・河出書房)は、漱石の幼年時代から綿密に調べた評伝であるが、客観的でなるほどと納得できる内容だ。
養父となっていた塩原は若年の頃夏目の父に書生同様に養われているうち、見どころがある青年だといふので、仲人に立って同じく家に奉公していたやすを嫁がせ、そうして新宿の名主の株を買ってやって取りたてたのだという。
塩原は子のないのを幸ひ、夏目の家ではいわば厄介者の末っ子を引き取って、一つには主家に対する恩返しをし、又自分の家をも引きたてようとしたらしい。明治の新制度が敷かれると共に、夏目直克の肝いりで浅草の戸長(区長)になった。漱石5歳か6歳のはじめころ塩原は漱石を自分の長男として戸籍に登録し、それが後半思わぬ面倒の種となった。
「養父母」の章に、塩原夫婦の騒動が明らかにされている。とうとう仲人の夏目の父のもとまで夫婦喧嘩が持ち出されて別れ話になり、子供の教育上もよろしくないといふので、結局父が養母と漱石を引き取ることになった。
少年は浅草の戸田学校で最初の初学教育を受けることになった。塩原は新築した自分の家へ移ったが付属の借家は漱石名義になっていた。
実家に引き取られても少年は依然として塩原姓であり、夏目金之助ではなかった。
漱石が夏目に復籍したのはそれから10年後彼が22歳の折で大学予備門の学生時代である。漱石は塩原の長男として戸籍に登録された為に、子のない同家から簡単に籍を抜くことは出来なっかった。
塩原も落ち目になっていたので、先々の欲にかかり、いずれ実家で教育させておいて、後で当然取ってしまへばいいと考え、決して籍を渡そうとはしない。
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