津田青楓の兄 西川一草亭
『侘助椿 』という薄田泣菫の随筆がある。このなかに漱石とは深いつながりのある津田青楓、その人の兄にあたる一草亭のことが出てくるのがおもしろい。泣菫の筆は淡々として且つ陰影がある。
「侘助(わびすけ)。侘助椿だ。―友人西川一草亭(いっさうてい)氏が、私が長い間身体の加減が悪く、この二、三年門外へは一歩も踏(ふ)み出したことのない境涯を憐れんで、病間のなぐさめにもと、わざわざ届けてくれた花なのだ。」
泣菫は、元来この花を朝鮮から持ち帰ったのは加藤清正だとする当時の風評をまともには受け取らない。世人の軽はずみな噂だろうくらいに見ている。けれども信ずべき説として次のように書いている。
「この椿が侘助といふ名で呼ばれるやうになつたのについては、一草亭氏の言ふところが最も当を得てゐる。それによると、利休と同じ時代に泉州堺に笠原七郎兵衛、法名吸松斎宗全といふ茶人があつて、後に還俗(げんぞく)侘助といつたが、この茶人がひどくこの花を愛玩したところから、いつとなく侘助といふ名で呼ばれるやうになつたといふのだ。」
一草亭は茶道の専門家であると共に華道人であった。昭和6年に『瓶史』という挿花の季刊誌を創刊。花に限定せず、西田直二郎、和辻哲郎、志賀直哉、谷川徹三などのメンバーが集う文化サロンを運営していた。彼は自ら茶人でありながら茶人の高慢を厳しく批判した。
「兎に角人間が、お互いに自分の地位の高い低いとか、貧乏とか金持ちとか、そういう優劣、勝敗の念を離れて、只一個の人間としてーーー茶を飲んで、ああ愉快だと思えば、それで茶の目的は終わるだろうと思います。」
漱石は西川一草亭と津田青楓兄弟の上に正直で真摯な性格を見、それを愛したのであろう。
牡丹切って一草亭を待つ日かな 漱石
今日の画像は津田青楓が描いた晩年の漱石の肖像である。昭和29年発行『文芸』の表紙をスキャンしたもの。これほど年輪を感じさせる画像は他にないのではあるまいか。
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