« 2003年3月 | トップページ | 2003年5月 »

2003年4月の記事

2003年4月17日 (木)

津田青楓の兄 西川一草亭


 『侘助椿 』という薄田泣菫の随筆がある。このなかに漱石とは深いつながりのある津田青楓、その人の兄にあたる一草亭のことが出てくるのがおもしろい。泣菫の筆は淡々として且つ陰影がある。


「侘助(わびすけ)。侘助椿だ。―友人西川一草亭(いっさうてい)氏が、私が長い間身体の加減が悪く、この二、三年門外へは一歩も踏(ふ)み出したことのない境涯を憐れんで、病間のなぐさめにもと、わざわざ届けてくれた花なのだ。」

 泣菫は、元来この花を朝鮮から持ち帰ったのは加藤清正だとする当時の風評をまともには受け取らない。世人の軽はずみな噂だろうくらいに見ている。けれども信ずべき説として次のように書いている。

「この椿が侘助といふ名で呼ばれるやうになつたのについては、一草亭氏の言ふところが最も当を得てゐる。それによると、利休と同じ時代に泉州堺に笠原七郎兵衛、法名吸松斎宗全といふ茶人があつて、後に還俗(げんぞく)侘助といつたが、この茶人がひどくこの花を愛玩したところから、いつとなく侘助といふ名で呼ばれるやうになつたといふのだ。」

  
 一草亭は茶道の専門家であると共に華道人であった。昭和6年に『瓶史』という挿花の季刊誌を創刊。花に限定せず、西田直二郎、和辻哲郎、志賀直哉、谷川徹三などのメンバーが集う文化サロンを運営していた。彼は自ら茶人でありながら茶人の高慢を厳しく批判した。

 「兎に角人間が、お互いに自分の地位の高い低いとか、貧乏とか金持ちとか、そういう優劣、勝敗の念を離れて、只一個の人間としてーーー茶を飲んで、ああ愉快だと思えば、それで茶の目的は終わるだろうと思います。」

 漱石は西川一草亭と津田青楓兄弟の上に正直で真摯な性格を見、それを愛したのであろう。
    
  牡丹切って一草亭を待つ日かな  漱石

 
 今日の画像は津田青楓が描いた晩年の漱石の肖像である。昭和29年発行『文芸』の表紙をスキャンしたもの。これほど年輪を感じさせる画像は他にないのではあるまいか。



| | コメント (0)

2003年4月15日 (火)

人の心は昔のままでした


 北朝鮮による拉致被害者の曽我ひとみさんが14日記者会見で読み上げた文は、聞く者の心をゆさぶらずにはおかないものであった。政治的には対立状態の両国であり、解決に向けて今後どうなっていくのか不安
だが、ひとみさんの一言が救いを感じさせて嬉しかった。

「月日は長く長くすぎていたけれど、人の心は昔のままでした。本当に帰ってこられてよかった。」

 日本人は古来変わらぬ心を尊ぶような民族ではなかろうか。自分の思想や言動をを百八十度転換して恥じることのない人物を、あれは「変節の士」だと言って断をくだす。若い世代にはこうした思いはもうないかも知れないが、今の世にもあってほしい良識だと私は思う。

 イラク戦争でフセイン大統領の銅像がひきずり下ろされた時寄ってたかって足蹴にしたイラク民衆の映像がテレビで流された。プロパガンダの怖ろしさと共に人心の怖ろしさ哀れを感じさせた。

 日本の敗戦時には全く見られなかった光景であろう。敗戦の民は苦難に耐えてなお自他への敬愛の心を持ち続けたのではなかっただろうか。日本人は12歳の少年だとマッカーサーは傲慢に言ったが自らは左遷され日本を去った。

 政治はまさに食うか食われるか弱肉強食の世界のようだ。ペルーのフジモリ大統領の場合を考えると複雑な思いがする。天文学的数字であったペルーのかつての財政赤字を奇跡的に救ったフジモリ氏。氏あるが故に経済援助を惜しまなかった日本政府。ところが政敵によって失脚するや一転して犯罪者の汚名。

 人心の移ろいやすさ、過激で酷薄な国民性という感を植えつけてしまったペルー。こうした余りにも露骨な変心を思うとき、この世を「火宅」と説いた仏典のことばが身にしむ。
 
 しかし、日本人の美意識である「もののあわれ」はどうなのだろう。今もなおこの国と人々の誇り得る貴重な財産のように、私には思えてならない。

 今日の画像は京都市の花に指定されているしだれ桜、木のてっぺんのほんの一部をカットしてお茶を濁した。



| | コメント (0)

2003年4月 4日 (金)

月をみる 月を指す 指


 中国古典によく出てくる「寒山拾得」の画題、漱石はそれを「無題」として1913年(大正2)に描いている。この絵は漱石も気に入っていたようで漱石山房の壁にかかっていたという。

 拾得はさる名僧に拾われた乞食であった。寺では常に箒をもって作務をし、その拾得から残飯をもらう寒山は巻紙に筆をもつ詩人となった。この絵は寒山が月を指し示し月の光のもとに歓喜するふたりの姿が素朴な筆致で描かれている。

 「画でも書でも自分の部屋にかけるものは自分でかいたものが一番いい。」と漱石はいったと伝えられる。巧拙の問題でなく端的にこころが滲み出ているものがいいのだ。寒山拾得の求めたものはただ月である。しかし俗世間ではそれを指し示す人の指が重要視される。

 漱石の学位返上問題は当時さまざまな批判を受けた。漱石自身は学位によって学問の世界に世俗の価値判断が起きることを憂慮したのであろう。自分はただの夏目なにがしでありたいと彼は望んだ。

 漱石のような偉大な学者では決してないけれども、私は主人の性格もこうしたところにあるような気がしている。定年退職に際して勤務した大学の哲学会から記念の会報を出して頂いた。そして私はそれを見たとき心外でならなかった。主人の経歴に京都大学から授与された論文博士の事実も、大学院文学研究科長を歴任した記録もまったく記載されていない。主人に尋ねると、「わしは学生をちゃんと教えることだけが大事だ。」と言う。

 お付き合いのある教授の方ににメールで問い合わせたところ、「先生からご提出いただいた履歴書・研究業績書に基づいて、略年譜を作成され」「幹事の先生(新米の方でした)にすべて委託されたのは今回、先生が初めてでありました。」「しかしご指摘のあった点は、ごもっともなことで」とお詫びの文言。

 こうした割り切れない思いをもつ愚妻に主人はむしろ怒りを覚えるかもしれない。けれども世事の名誉には無頓着でただ月に向かって歓喜する寒山拾得の境涯を私はひそかに主人と重ね合わせてしまう。先に頂いたメールにはさらに次のことが書かれていた。

「先生の歓送会を計画・準備をされた幹事の方は、先生のご欠席ということでがっかりして肩を落として予約をキャンセルされ、本当にお気の毒でした。」

 いっこく者という言葉は現代でも死語になってはいないようだ。

| | コメント (2)

« 2003年3月 | トップページ | 2003年5月 »