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2003年5月14日 (水)

円覚寺と 『千羽鶴』のこと


 川端康成の『千羽鶴』を読んだのは娘時代であった。最初、円覚寺が舞台になっており茶の師匠や茶室にまつわる話に興味をそそられた。その内映画も見た記憶がある。私はまだ円覚寺の佛日庵がどういうところなのかを知らなかったが、千羽鶴の風呂敷包みをかかえた令嬢や志野茶碗の描写などは品の良い絵画を見るように思った。

 けれども私は今もってこの作品に出て来る登場人物はどうも好きでない。菊冶という主人公は漱石がいうところの高等遊民であるが、亡父の複数の愛人、その母子ともいとも簡単に深い仲になる。そうした行為を繰り返してもなんら苦しむことがない。

 また女性たちも男を虜にするさがには恵まれているようだけれど、精神的なかがやきを感じさせるであろうか。愛人でいることを職業にしていることの後ろめたさ、その陰影が昇華されたものとなっているだろうか?

 茶の世界で手練手管で成功をおさめた胸に黒あざのある女性。それに対して成功とは無縁のところで生きているはかなくも美しい女性。

 川端が「名品」とした志野茶碗、そして名品にたとえた愛人。
しかし、その茶碗を投げ打つ場面がひとつの見どころであろう。世俗的な茶道界の現実を作者はこの場面で表現し、自らのメッセージとしたのであった。茶人の執念ともいう醜の部分を描き、再生への想いを彼はこの1点に凝縮した。

 この点を、あまり批評家が触れていないのではないかと私は思う。たしかに突飛で無駄と思われる行為であろう。

 ただ、この世には無駄なものがあっていいことがある。その行為がなんの意味もないと思われることでもあっていい。大岡昇平の後、伊豆利彦氏と政府の顕彰をあえて受けない人もある。漱石、百閒の気質はもとよりのことである。

 主人の叔父である僧堂師家のH老師は90歳であるが軍人恩給を一切受けていない。自ら拒否したのだという。自分らと共に最前線で戦って死んだ兵隊達を思うとそんな金は受け取れないという。
貰わなかったら役人が使うだけではありませんかと私は申し上げた。

 うむ、それでもいいのだ…と、静かに叔父はこたえた。
そういえば、叔父の年祝いも主人の年祝いもうちではしないまま通り過ぎてきた。



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