« 2003年5月 | トップページ | 2003年7月 »

2003年6月の記事

2003年6月28日 (土)

両方に ひげのあるなり 猫の恋


 漱石が結婚したのは新夫30歳、新婦の鏡子夫人は20歳の時である。今の女性で20歳で結婚するのは珍しいほどの早婚ということになるだろうが、当時としてはごく普通かむしろ遅いくらいであった。

 夢多き新妻に漱石は一つの宣告を下したという。
「俺は学者で勉強しなければならないのだからお前なんかにかまっては居られない。それは承知していてもらいたい。」

 鏡子夫人は『漱石の思い出』でこう語っているが、明治の女なればこそこうした夫の意向にも甘んじて耐えられたのであろう。お嬢さん育ちの花嫁には厳しい新婚生活であったようだ。

 機嫌のよい時には、俳句をやってみないかと漱石は妻に話しかけた。ある時漱石は俳句の本を読みながら転げかけて笑っている。何が可笑しいのかと夫人が訊ねるとこの句が可笑しいと言って一句を示した。

「 両方にひげのあるなり猫の恋 」

 鏡子夫人も「こちらも一つけちをつけるつもりで」、どうせ相手が猫なんですもの、両方にひげのあるのは当たり前じゃありませんかと応酬する。結局は、だからお前には俳句がわからないんだって愛想をつかされてしまいました。となった。

 いかにも表面では邪険にみえるようだけれども、そのじつ新婚家庭の和やかさとユーモアが伝わってくるヒトコマではないだろうか。思えば、当時女性が男性と同じような格好をしていること自体、なんとも不思議でおかしなものだったのだろう。

 現代なら事情は確実に変わっている。猫の場合はひげがあっても自然のままだから問題にはならないけれども、こと人間になると一口には言えない複雑な内容になるのかもしれない。

 新婚時代の漱石夫妻のこうしたエピソードに、私は明治という時代のおおらかさとあたたかさを感じてしまう。

 

 

| | コメント (0)

2003年6月24日 (火)

泥縄の歌よみ


 茶道宗家の年間行事にご先祖の供養の式がある。その時直門の弟子たちが「七事式」というものを披露するのであるが、正しくはご供養として奉納するといったものである。

 今年は夏に、出番がまわってきたようだ。問題なのはお茶を点てるだけでなく、歌を詠んで短冊に書き、朗詠しなければならないのである。目下、家庭内にもそうしたやりとりが交わされるのだが、のれんに腕押しの状態なのは、相手が相手だけにどうにもならない。

以下はいずれも某月某日のこと。

その一
「あの~、ちょっと聞いてほしいの。花を一輪活けて、その花の歌をよむってことをお茶でするんだけど、こういう歌はどうかしら…最初に歌の題名を書くのよ。」

「京鹿の子っていう花があるでしょ?」
「知らんな。」
「ん~もう~。この間まで庭に咲いてたのに。まあそれはいいけど。この花で今日こんな歌を詠んだの。

「京鹿の子   桃割れにゆいし鹿の子のくれないをおもう昔になりにけるかな。 」 

「なんだ。泥縄の歌というやつだな。」
「なに?それ。」
「そんなことも知らんのか。つまりだな、泥棒をとらえようとしてそれから縄を綯い始めるってことだろ。歌を知らんものがあわてて歌詠みになるってことだ。」


その二

「今日のお稽古では、乙女ゆりの花があってその歌を詠んだの。こんなのおかしい?
「乙女百合   あくがるる心はいまも変わらざる わが庭うちに咲く乙女ゆり。 」

返答無し。


その三、

「今日は七段花というアジサイに似た花があって、その花を歌ったの。
神戸の六甲山にあっって幻の花といわれたらしいんだけれど、あるきっかけで発見されて今では栽培もされているらしいの。なんでもシーボルトが此花のことを書いてるんですって。」

無言。

「七段花   その蒼(あお)のいろ幽かなり七段花 六甲の山に自生すらしも。 」

聞く耳もたぬ風情。


その代わり、亭主は散歩がてらにスーパーでもなかを買ってきてくれた。私は主人とともにそれでお茶を飲んだ。安物のもなかはけっこう美味しかった。
泥縄の歌詠みは出番の日が近づくにつれ亭主のことばが気になりだした。
 そろそろ賞味期限なのかもしれない。




| | コメント (0)

2003年6月19日 (木)

西部劇 と 桃太郎


 子どもの頃、桃太郎の話に親しんだ。桃太郎の勇気と強さは日本の子ども達の憧れであった。鬼が島へ三匹の家来を連れて鬼退治に行く。私の子ども時代には「成敗(せいばい)」という言葉がよく使われていた。

 けれども、その頃はなんの疑問も感じなかった。「悪者はせいばいされるもの」という考え方が学校教育であり家庭にも浸透していたように思う。桃太郎が鬼が島で鬼を成敗し金銀財宝を山のように持ち帰るところに拍手喝さいをしたものだった。

 その後、西部劇の映画に熱中したのも同じ線上にあった。野蛮な人種だからとインデアン達を白人達が侵攻し、文明の利器を使用して殺しまくった。その時も正義の御旗のような考え方に染まっていて、単純に映画を楽しんだのであった。

 後年、自分でものを考える年齢になって、なんという愚かな自分であっただろうと自己嫌悪に陥ることがしばしばであった。いったい、桃太郎とは何様なのか?それまで鬼の集団があって自分達で造りあげともかく生活していた鬼が島であろう。そこへ知恵と武力をもって侵攻し彼らが造りあげた宝を奪い取る。鬼に金棒というが、桃太郎は鬼を亡き者にし金棒を奪い取って来たのではないか。

 桃太郎は鬼が自分と同じ人種でないことに目をつけたのかもしれない。かつて日本は西洋から文化を輸入しともかく列強の仲間入りをするまでになった。ところが彼らの植民地政策をも真似ようとして大やけどをし敗れた。この場合黄色人種であることの認識が失われていたのではなかっただろうか?

 弱者の立場と強者の立場。戦争となればその差は歴然としてある。国益は大切なことである。ただ人間として恥じないものであってほしい。 
 今世界で戦争のための武器を生産することなく一切の武器使用を禁じているのは日本だけであろう。文化的には先進国家であっても殺戮兵器を公然と売買して潤っている国が殆どではないか。

 この点に関しては私は人間の良心に誠実なこの日本という国を誇りに思う。





| | コメント (0)

2003年6月11日 (水)

乙卯, 大正四年 西暦1915,


 漱石が落款に書いた乙卯とは、大正四年 西暦1915 のことであった。易のほうを調べるとじつは今日が同じ干支になるという。年であれば、1975,乙卯,昭和五十年ということになる。ただ、日というものにも干支があるそうでこれには驚いた。 

 大正四年春、それは3月末から四月にかけての京都旅行である。私はこのnoteブックランデエヴウにも水仙の画像と共にそのことを書いた。

 しかし、落款のことから干支を調べるきっかけになったのが思わぬ偶然につながったのである。今日の干支も同じく乙卯(きのと う)だ。乙は木の弟になる「きのと」。卯「う」は木性の陰になる兎だという。

 今日という日は旧暦では5月12日にあたるらしい。腐草為蛍と書かれているのは今日から蛍が出るということなのだろうか?そして入梅。私はとりたたて易を信じるわけではないが、日本の伝統を考える上でここを通り過ぎることは出来ないと思う。

 4月に鎌倉漱石の会へ行き、帰りは北鎌倉から横浜まで同道した方があって、方向オンチの私を助けてくださった。その方はこんなことを話された。

「経済学のほうでは、見えざる神の手といいますが覚えておいてください。。」
「そうなんですか。今日も見えざる神の手が…。ああ、おかげさまで。」
「ははははは」
「でも、日本経済のこの不況を神はご覧になってるのでしょうか?」
「神の手が働いていないんでしょうな。」

 頂いた名刺を見ると某大学経済学部教授とあった。たのしかったひと時の会話を今日ふっと思い出した。

 今日の画像は漱石先生のデスマスクである。
 哲学者を思わせる深い思索的は表情には慈愛が感じられ、こころに強く迫るものがる。(東北大学附属図書館)




| | コメント (0)

署名 落款(らっかん)


 アメリカの前大統領クリントンの夫人が本を出版してサイン会を催したという。ウェブのニュースでは次のように報じている。

「米上院議員のヒラリー・クリントンさんが夫のクリントン前米大統領との半生をつづった回想録「リビング・ヒストリー」が9日、全米で発売された。初版だけで100万部という「冒険」だが、発売記念のニューヨークでのサイン会には前夜から並んだ人も含め数百人が列を作り、ヒラリー人気を裏付けた。」

 その本の内容もクリントンの不倫問題が赤裸々に書かれているそうだし、何もかも度肝を抜くような話。
「初版の印税などとして、800万ドル(約9億4千万円)を受け取る契約を出版社と交わしているという」ところまで、もう日本とはケタが違っている。

 こちらはチマチマした実話になるけれども、私は作家の出版記念のサイン会に並んでサインをしてもらったことが2、3度 あった。歴史小説の女流作家は某ホテルで。余りにも有名な尼僧の作家はデパート7階の催し会場だった。後者は買い物の時たまたま出くわしたのだ。

 ハードカバーの扉のページに毛筆ペンで署名する手つきは手馴れたものだった。歴史小説のほうは出版社の部長さんが落款の印を押す役目であった。売り上げに貢献するこうした読者サービスも現代はますます盛んになってきた。

 漱石の署名は風格があることで定評がある。印の篆刻(てんこく)まで吟味し、署名の筆跡にはたいへん気を遣った。彼が京都の宿に滞在し、京都という字を入れた落款を、今日の画像とさせていただきたい。
日付からこれがいつ頃のものか専門家には分かっていると思う。





| | コメント (0)

2003年6月 4日 (水)

修学旅行の生徒からもらったお土産


「こんにちは!どちらから?」
 修学旅行の生徒たちが先日大徳寺の境内を歩いていたので、すれ違いざまに声をかけた。女子中学生の3人連れだった。
 「私たち、静岡からです。」
 「静岡?いいところねえ。あたたかくって。」

 彼女たちはくったくなく笑った。少しはにかんだような笑顔が可愛らしかった。一人が手提げ鞄の中から何かを取り出して私に手渡そうとした。
 「あの、これ使ってください。」

 15センチ四方のクリーム色の紙袋だ。見ると「ビタミンいっぱい さがら茶」と書いたシールが貼ってあった。時代劇に出るような「茶々丸くん」というキャラクターが茶とかかれた大きな湯飲みを差し出しているイラストがある。

 「あら、頂いていいの?ありがとう。」
 私はうれしくなって礼を言った。これまで修学旅行の子ども達に出会った時私はいつも話しかけるのが常であった。みんなでお茶を飲みなさいと小遣いを上げたことだってある。「京のぶぶづけ」の噂が有名になりすべての京都人をそう思われてはかなわないという気持ちだった。

 次の日の朝、主人の前で私はきのうもらったばかりのサンプルのお茶を急須に入れた。丁度2回分の煎茶が入っていた。袋の裏には「静岡県相良町茶業振興協議会」の名と電話番号が印刷されていた。その新茶を飲みながら主人は言った。

 「…そうか。親が勤めているのかもしれんな。旅先で世話になった礼にもと親が持たせてやったのかもしれん。まあ親孝行の子どもじゃぁないか。」
 「おいしいお茶だこと!あとで電話して注文してみようかしら。」
 
 もしもし、と私は電話口でいきさつを話した。担当の方(男性)のおっしゃるには、この土地に約900人の中学3年生がいるので、町の宣伝のために1個づつ修学旅行地へ持って行ってもらっている。それでよくお礼の電話も貰っています、と。

 価格は100グラム千円だという。近くの茶店で買うお茶と同じ値段だけれどこちらのほうが美味しいようにと私は思った。静岡の煎茶は宇治と製法が異なり深蒸しだということである。そのうち注文するかもしれない。

 漱石は茶の中では玉露が好きであったことは有名である。抹茶はどうもご縁がなかったようだ。『草枕』にはその一節がある。
 画像はなでしこと紅額(ベニガク)、あの子たちに重ねてみた。




| | コメント (0)

« 2003年5月 | トップページ | 2003年7月 »