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2003年6月19日 (木)

西部劇 と 桃太郎


 子どもの頃、桃太郎の話に親しんだ。桃太郎の勇気と強さは日本の子ども達の憧れであった。鬼が島へ三匹の家来を連れて鬼退治に行く。私の子ども時代には「成敗(せいばい)」という言葉がよく使われていた。

 けれども、その頃はなんの疑問も感じなかった。「悪者はせいばいされるもの」という考え方が学校教育であり家庭にも浸透していたように思う。桃太郎が鬼が島で鬼を成敗し金銀財宝を山のように持ち帰るところに拍手喝さいをしたものだった。

 その後、西部劇の映画に熱中したのも同じ線上にあった。野蛮な人種だからとインデアン達を白人達が侵攻し、文明の利器を使用して殺しまくった。その時も正義の御旗のような考え方に染まっていて、単純に映画を楽しんだのであった。

 後年、自分でものを考える年齢になって、なんという愚かな自分であっただろうと自己嫌悪に陥ることがしばしばであった。いったい、桃太郎とは何様なのか?それまで鬼の集団があって自分達で造りあげともかく生活していた鬼が島であろう。そこへ知恵と武力をもって侵攻し彼らが造りあげた宝を奪い取る。鬼に金棒というが、桃太郎は鬼を亡き者にし金棒を奪い取って来たのではないか。

 桃太郎は鬼が自分と同じ人種でないことに目をつけたのかもしれない。かつて日本は西洋から文化を輸入しともかく列強の仲間入りをするまでになった。ところが彼らの植民地政策をも真似ようとして大やけどをし敗れた。この場合黄色人種であることの認識が失われていたのではなかっただろうか?

 弱者の立場と強者の立場。戦争となればその差は歴然としてある。国益は大切なことである。ただ人間として恥じないものであってほしい。 
 今世界で戦争のための武器を生産することなく一切の武器使用を禁じているのは日本だけであろう。文化的には先進国家であっても殺戮兵器を公然と売買して潤っている国が殆どではないか。

 この点に関しては私は人間の良心に誠実なこの日本という国を誇りに思う。





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