泥縄の歌よみ
茶道宗家の年間行事にご先祖の供養の式がある。その時直門の弟子たちが「七事式」というものを披露するのであるが、正しくはご供養として奉納するといったものである。
今年は夏に、出番がまわってきたようだ。問題なのはお茶を点てるだけでなく、歌を詠んで短冊に書き、朗詠しなければならないのである。目下、家庭内にもそうしたやりとりが交わされるのだが、のれんに腕押しの状態なのは、相手が相手だけにどうにもならない。
以下はいずれも某月某日のこと。
その一
「あの~、ちょっと聞いてほしいの。花を一輪活けて、その花の歌をよむってことをお茶でするんだけど、こういう歌はどうかしら…最初に歌の題名を書くのよ。」
「京鹿の子っていう花があるでしょ?」
「知らんな。」
「ん~もう~。この間まで庭に咲いてたのに。まあそれはいいけど。この花で今日こんな歌を詠んだの。
「京鹿の子 桃割れにゆいし鹿の子のくれないをおもう昔になりにけるかな。 」
「なんだ。泥縄の歌というやつだな。」
「なに?それ。」
「そんなことも知らんのか。つまりだな、泥棒をとらえようとしてそれから縄を綯い始めるってことだろ。歌を知らんものがあわてて歌詠みになるってことだ。」
その二
「今日のお稽古では、乙女ゆりの花があってその歌を詠んだの。こんなのおかしい?
「乙女百合 あくがるる心はいまも変わらざる わが庭うちに咲く乙女ゆり。 」
返答無し。
その三、
「今日は七段花というアジサイに似た花があって、その花を歌ったの。
神戸の六甲山にあっって幻の花といわれたらしいんだけれど、あるきっかけで発見されて今では栽培もされているらしいの。なんでもシーボルトが此花のことを書いてるんですって。」
無言。
「七段花 その蒼(あお)のいろ幽かなり七段花 六甲の山に自生すらしも。 」
聞く耳もたぬ風情。
その代わり、亭主は散歩がてらにスーパーでもなかを買ってきてくれた。私は主人とともにそれでお茶を飲んだ。安物のもなかはけっこう美味しかった。
泥縄の歌詠みは出番の日が近づくにつれ亭主のことばが気になりだした。
そろそろ賞味期限なのかもしれない。
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