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2003年7月28日 (月)

百燈会の灯


 掛川市の郊外にくらみ温泉という田園地帯がある。ことし一月に行ったのがきっかけで(noteブックにも一月の下旬にしたためている)、そのご縁があって旅館のおかみさんから案内状が来た。

 その旅館の持ち山である百観音のお山に在る石仏・百観音に、灯明をあげておまつりする「百燈会」が催されるという。とくに今年はここで演奏をしたいと希望する音楽家が来て演奏するとあった。

 私は主人にそのことを話すと「行ってきたらいい。」とぶっきらぼう且つなんとかの一言。とたんに私は子どものように嬉しくなってしまった。私も一つだけお地蔵さんのような観音を寄進させていただいていたので、そのお姿を見たいし会いたかった。

 そしてその日が来た。26日に掛川へ。旅館に一泊、やはりここにも同志といったらいいだろうか、観音を寄進した方々のなかで今回参加された方が三十人位おられ、ご一緒に夕食。その後貸切バスでお山へ。おかみさんが歩きやすい運動靴を貸してくださった。

 山の石段を登る。点在する百観音へ供えられた真新しい行灯。旅館のご主人の手作りだという。私たちは次々に点灯しながら歩いていった。

 夏の宵闇のなかであかあかと百燈の灯明はもえ、ゆらめいた。
 私はいま、灯といえば寺田寅彦の漱石先生追憶の一文を思い起こすのである。この灯は街路であって灯明とはいえないだろうが、恩師をしのぶ灯として私には忘れられないものになっている。


臨終には間に合わず、わざわざ飛んで来てくれたK君の最後のしらせに、人力にゆられて早稲田まで行った。その途中で、車の前面の幌(ほろ)にはまったセルロイドの窓越しに見る街路の灯(ひ)が、妙にぼやけた星形に見え、それが不思議に物狂わしくおどり狂うように思われたのであった。
 先生からはいろいろのものを教えられた。俳句の技巧を教わったというだけではなくて、自然の美しさを自分自身の目で発見することを教わった。同じようにまた、人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛し偽なるものを憎むべき事を教えられた。

寺田寅彦



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