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2003年8月の記事

2003年8月25日 (月)

鴎外が訳した 「椿姫」 の名


 椿の原産地は日本であり、そのため学名はカメリアジャポニカという。日本では一重咲きの藪椿や雪椿が基本的な椿とされているが、ヨーロッパなどではどちらかといえば八重咲きの椿が愛されてきた。

 「椿の花をもつ女」、デュマが書いた小説の原題を森鴎外が「椿姫」という名に訳したというが、見事な翻訳である。けれども小説よりもヴェルデイ作曲のオペラで多くの日本人に親しまれてきた。

 椿の花には香りがない。椿姫がいつも胸にさしている椿の花は、香りがないゆえに胸を病む彼女が好んだのだという。百合のように香気がつよければ胸苦しくなるからであろう。

 その椿姫にはモデルが存在したという。マリ・デュプレシという美女がヴィオレッタ(マルグリット)の実際のモデルとされている。今日の画像はコメデイーフランセ-ズ所蔵と伝えられるマリの肖像である。

 聞くところによると聖職者との私生児として生まれ、不幸な環境に育ったマリ。その彼女は類まれな美貌と芸術的センスによって瞬くうちに多くの貴族達の憧れの的となった。ただし、身分はいわゆる高級娼婦、クルテイザンヌとして…。

 先に私は吉野太夫と比較して椿姫には多分に失礼なことを書いた。思えば文豪・デユマの心をとらえ、大音楽家ヴェルデイを虜にした心あるマリ!私はその魅力についてとやかくいうものではない。ただ贅沢を欲したあまりに悲劇を身をもって演じた西洋の「姫」は、吉野とは余りにも違いすぎると思ったのであった。

 吉野はつつましさを体得した女性であった。身請けされた後に灰屋紹益に嫁した彼女は貧しかったせいか常にみすぼらしい身なりをし、夫と家に尽くしたと伝えられる。吉野が好んだ吉野窓はよく知られているが、それは完全な円形ではない。底辺が切り取られており、それは不完全な欠けたものを尊ぶ気持からなのであった。
 
 
 今夜は、高級娼婦というまことに哀しい名を一時はつけられた二人の美女を想い、その時代を想い、椿の花に寄せて、ささやかなしのび草とした。




 

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2003年8月18日 (月)

京都五山 大文字送り火


 16日の8時過ぎに家を出て大通りまで歩いた。大文字送り火は自宅の2階の物干し台に出ると、彼方の山に燃えるのがくっきりと見えるのであった。ほぼ2、30年前にもなろうか。

 そうして家族とともに、逝きし人を送るために合掌するのが習いであった。他の都市ほど高層建築がニョキニョキと建つことなく、京都は住宅地域の規制が厳しかった頃のことである。けれども望景という点において今はすっかり変わってしまった。

 ネットのお付き合いでいえば知人ということになるが、一人娘を亡くされた東京の方があり、せめてその方に大文字の送り火を写真に撮ってお届けしたいという想いもあった。
 
 夜の往来は見物人のラッシュだった。手に手にカメラ、中にはケイタイをかざして写真を撮っているのが見える。交通整理のおまわりが「立ち止まらないで!」と声をからして叫ぶ。観光客が多いようだ。

 大文字の送り火の歴史は古い。京都の送り火は松明を投げて虚空をいく霊を見送る風習から出たものである。また病気平癒、悪霊退散のご利益があるというも人気を呼ぶのだろう。

 京都にならってか日本各地で大文字焼きという盆の行事がかなりあるのを知った。「三島夏まつり大文字焼き」は日本一の大きさを誇るもので、「甲斐いちのみや大文字焼き」も有名だそうだ。

 もっとも古い説は平安中期、弘法大師空海が始めたものだという。
 山麓にあった浄土寺が火災に遭った際、本尊の阿弥陀仏が光を放ちながら山上に飛び、火を免れた。 そこを弘法大師空海が耳にし、人の体を表す「大」を描いた。(都名所図会)
 
 今日の画像は、大文字送り火の夜景で偶然撮った一枚である。デフォルメされているようなのが可笑しい。



 

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2003年8月10日 (日)

吉野太夫と放映ドラマ


 歴史上の人物を取り上げるドラマは視聴率がよいので、なんのかんのと創作をしては人気ドラマを作り上げ放映するようだ。そのことで今お膝元の京都島原ともめている。

 ことの起こりは、NHKの大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」で4月6日に放映された、江戸時代初期の名妓(めいぎ)、吉野太夫(1606―43)の半裸シーンについて、太夫ゆかりの京都・島原の文化財保護団体「角屋(すみや)保存会」と地元自治会が「一流の文化人だった太夫への偏見を招く」と、NHKに抗議していたことが公になった。

 問題になったのは、背中をあらわにした太夫が武蔵に「抱いて下さい」と言う場面らしい。島原側が今年2月と3月、NHKに「裸のシーンや性的な文言の削除」を求めたが、制作担当者らは「必要な個所」として譲らなかったそうだ。

 製作側としては、遊女だから当然という考えだろうし、そうした性的シーンが人気を呼ぶ風潮を熟知してのことかもしれない。けれども、吉野の地元にいる者としてはやはり心穏やかではない。

 私は、吉野太夫とは世界でもあまりみられないような魅力的な女性だと思っている。椿姫が西洋では有名であるが、到底この二人ではくらぶべくもない。吉野には教養と情けとさらに日蓮へのふかい信仰があった。常照寺の赤い山門は「吉野門」とも呼ばれているが、吉野太夫の寄進によって建てられたのであった。

 当時、彼女に思いを寄せて通い続ける二人の男性があったのはよく知られている。関白・近衛信尋と佐野重孝(灰屋紹益)。本阿弥家の生まれである佐野家。近衛と共に京の町を代表する文化人であった。紹益は彼女を身請けする。紹益二十二歳、吉野は二十六歳の時であったという。

 佐野は親の許しが得られず駆け落ちしたのであるが、後に吉野の人柄に感じ入った養父に認められ幸福な家庭を営んだと伝えられる。灰屋というのも茶につながり吉野は吉野窓という窓を考案し遺している。


 今日の画像は、吉野の夫・灰屋紹益が彼女の没後、生前を偲んで、御所の絵師・土佐光興に描かせたものである。



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2003年8月 4日 (月)

黒猫の因縁


 黒猫といえば先ずポーの小説になるだろうが、日本ではなんといっても漱石であることは誰しも異論はないと思われる。

『吾輩ハ猫デアル』の序に、猫に対してじつに細やかな心情を書いているのを見ると、昨今テレビなどで評論家が「飼い主とペットはパートナーの関係でなければならない」と弁じているのが、何を今更と笑ってしまう。

 その「序」にはまさしく人間と猫との因縁が同じ生き物として書かれているのである。

 此書は趣向もなく、搆造もなく、尾頭の心元なき海鼠の樣な文章であるから、たとひ此一卷で消えてなくなつた所で一向差し支へはない。又實際消えてなくなるかも知れん。然し將來忙中に閑を偸んで硯の塵を吹く機會があれは再び稿を續ぐ積である。猫が生きて居る間は――猫が丈夫で居る間は――猫が氣が向くときは――余も亦筆を執らねばならぬ。

 明治三十八年九月  夏目漱石


 じっさい漱石はこの書物で一挙に人気作家として売り出したのだから、因縁は深かったのだ。

 私が好きな文章に、『硝子戸の中』で猫と自分を重ねあわした箇所がある。猫はひどい皮膚病にかかり、漱石は大病で入院する。これはその後の記述である。運よく漱石は退院し家へ帰ることができた。


 私の衰弱がだんだん回復するにつれて、彼の毛もだんだん濃くなって来た。それが平生の通りになると、今度は以前より肥え始めた。
 私は自分の病気の経過と彼の病気の経過とを比較して見て、時々そこに何かの因縁(いんねん)があるような暗示を受ける。そうしてすぐその後から馬鹿らしいと思って微笑する。猫の方ではただにやにや鳴くばかりだから、どんな心持でいるのか私にはまるで解らない。


 漱石が書いた黒猫の絵には、1914年の「あかざと黒猫」がある。
素人の絵にはちがいないがどことなく気品があってしかも猫への愛情がにじみ出ているところ、本職の画家には描けないような気がしてならない。



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