吉野太夫と放映ドラマ
歴史上の人物を取り上げるドラマは視聴率がよいので、なんのかんのと創作をしては人気ドラマを作り上げ放映するようだ。そのことで今お膝元の京都島原ともめている。
ことの起こりは、NHKの大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」で4月6日に放映された、江戸時代初期の名妓(めいぎ)、吉野太夫(1606―43)の半裸シーンについて、太夫ゆかりの京都・島原の文化財保護団体「角屋(すみや)保存会」と地元自治会が「一流の文化人だった太夫への偏見を招く」と、NHKに抗議していたことが公になった。
問題になったのは、背中をあらわにした太夫が武蔵に「抱いて下さい」と言う場面らしい。島原側が今年2月と3月、NHKに「裸のシーンや性的な文言の削除」を求めたが、制作担当者らは「必要な個所」として譲らなかったそうだ。
製作側としては、遊女だから当然という考えだろうし、そうした性的シーンが人気を呼ぶ風潮を熟知してのことかもしれない。けれども、吉野の地元にいる者としてはやはり心穏やかではない。
私は、吉野太夫とは世界でもあまりみられないような魅力的な女性だと思っている。椿姫が西洋では有名であるが、到底この二人ではくらぶべくもない。吉野には教養と情けとさらに日蓮へのふかい信仰があった。常照寺の赤い山門は「吉野門」とも呼ばれているが、吉野太夫の寄進によって建てられたのであった。
当時、彼女に思いを寄せて通い続ける二人の男性があったのはよく知られている。関白・近衛信尋と佐野重孝(灰屋紹益)。本阿弥家の生まれである佐野家。近衛と共に京の町を代表する文化人であった。紹益は彼女を身請けする。紹益二十二歳、吉野は二十六歳の時であったという。
佐野は親の許しが得られず駆け落ちしたのであるが、後に吉野の人柄に感じ入った養父に認められ幸福な家庭を営んだと伝えられる。灰屋というのも茶につながり吉野は吉野窓という窓を考案し遺している。
今日の画像は、吉野の夫・灰屋紹益が彼女の没後、生前を偲んで、御所の絵師・土佐光興に描かせたものである。
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