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2003年10月の記事

2003年10月19日 (日)

星野さん と 中坊さん


 今日、阪神タイガースは日本シリーズ第一戦を行いダイエーに敗れた。
 テレビの一場面をチラっと見た限りでは映っていたのは星野監督が笑っている顔だった。勝敗が決していない時でトラ側が失敗した時だが、目下、日本人の人気度ナンバーワンと思われる星野さんだ。その表情もなかなかよかった。

 タイガースが優勝した頃、すでに星野さんの母堂は逝去されていたが、彼はその葬儀に行かず野球場にいて監督の責任をまっとうされた。 ひとり監督のその胸中はいかばかりであったろう。

 優勝した明くる日にはスポーツ新聞数紙に阪神優勝御礼の全面広告を出した。ファンの皆さまへと数千万を出してその気持ちを表した。

 男仙一、とファンやメデアがはやしていたあの言葉は、今はみられなくなった日本男子の理想像だったのだろう。
 オーナーに対して強い発言力をもち、チームを変えた名監督。しかし、最後には亡き母上のためにファンのために、純粋に彼は布施をされたのだと私は思った。

 そうこうする内に今度は辞任表明だ。なんというすっぱりとした去り際であろうか。原監督を解任した巨人のオーナーをみればこれがこの世界の現実であると彼は達観されたのだろう。

 まさに、三界は火宅なり。

 漱石が第一義という言葉をもってあらわした倫理観、世の正義感、そうしたものを今の世に見ることは少なくなったが、私の心から尊敬してやまない中坊弁護士のことがこのところしきりと思われる。
 
 中坊さんは誰も成し得ない火中のクリを拾われたが為にとんだことになってしまった。以下がニュースで知った事柄である。

 中坊公平弁護士は、整理回収機構の社長だった97年から98年にかけて、旧住専に負債があった大阪、不動産会社の債権回収で土地を売却した際に、ほかの債権者に実際より低い金額を伝えたとして、不動産会社側から詐欺容疑で刑事告発されていた。
 
 10日午前、会見した中坊弁護士によると、「私のほか、部下が東京地検の取り調べを受けるに至った。厳しい回収姿勢を求めた私の責任だ」として、46年にわたった弁護士資格を返上することを決意したという。

 ああ、中坊さん!
 私はここでも、ひとり中坊さんの胸中を思わずにはいられない。
 三界は火宅なり。
 法華経の比喩品にある仏のことばを反芻するばかりである。
 

 

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2003年10月13日 (月)

京都五花街の芸妓


 友人で、長年お茶屋に茶の指導に出かけている方があって、よく舞台の券を頂戴する。京都五花街についてくわしい方でいろいろ教えてもらえるのが有り難い。

 祇園甲部が都おどり、先斗(ぽんと)町が鴨川おどり、上七軒が北野おどり、あと、祇園乙部、宮川町と五つある、京都五花街はお茶屋が母体である。

 先日も北野上七軒の寿会にお誘いを受け歌舞練場に行き、ひとときを楽しませてもらった。お茶屋のなかではスターともいえる売れっ子芸妓がいてその人の出る舞台はひときわ観客をとりこにする。

 私はストロボなしで舞台から最も離れた壁際に立ってカメラを構えた。同性の自分でもうっとりとなる美しいひとの舞であった。なんとなくあの文章が浮かんできた。

 漱石は『我輩は猫である』のなかで、美しい三毛子にあこがれる男の想いを語らせている。新道の二絃琴の御師匠さんの所の三毛子(みけこ)についての一文だ。


 三毛子はこの近辺で有名な美貌家である。吾輩は猫には相違ないが物の情けは一通り心得ている。うちで主人の苦い顔を見たり、御三の険突を食って気分が勝れん時は必ずこの異性の朋友の許を訪問していろいろな話をする。すると、いつの間にか心が晴々して今までの心配も苦労も何もかも忘れて、生れ変ったような心持になる。女性の影響というものは実に莫大なものだ。

杉垣の隙から、いるかなと思って見渡すと、三毛子は正月だから首輪の新しいのをして行儀よく椽側に坐っている。その背中の丸さ加減が言うに言われんほど美しい。曲線の美を尽している。尻尾(しっぽ)の曲がり加減、足の折り具合、物憂げに耳をちょいちょい振る景色なども到底形容が出来ん。ことによく日の当る所に暖かそうに、品よく控えているものだから、身体は静粛端正の態度を有するにも関らず、天鵞毛を欺くほどの滑らかな満身の毛は春の光りを反射して風なきにむらむらと微動するごとくに思われる。吾輩はしばらく恍惚として眺めていたが、やがて我に帰ると同時に、低い声で「三毛子さん三毛子さん」といいながら前足で招いた。

 漱石先生は祇園に来てお茶屋で舞妓とざこねをした経験もあったが、色っぽいものでなく幼い舞妓に同情したのだった。それを書いた新聞記者の記事も残っている。




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2003年10月 2日 (木)

蓮池 と 蓮茶


 天龍寺の蓮池には石橋がかかっている。昨日その場所を歩いていて『虞美人草』のなかの甲野さんと宗近さんとの会話を思い出した。
 大燈国師や夢窓国師の名も出てくるところがやはり漱石の好みなのだろう。

「どうでも、好いさ。――まあ、ちっと休もうか」と甲野さんは蓮池に渡した石橋の欄干に尻をかける。欄干の腰には大きな三階松が三寸の厚さを透かして水に臨んでいる。石には苔の斑が薄青く吹き出して、灰を交えた紫の質に深く食い込む下に、枯蓮の黄な軸がすいすいと、去年の霜を弥生の中に突き出している。

 私は和服であったけれど、愛機のライカデジルックス1をバックから取り出し首にかけた。そしてすぐさまシャッターを押した。漱石が朝日新聞にこの小説を著した当時は、天龍寺の蓮池もかなり広いものだったのではないか…などと想いながら。

 季節は違うものの、枯れ蓮といい石の橋といい、現在もあることが何よりである。石には苔の斑の代わりにススキの穂がなびいている。

 寺の境内であればこそこうした景観が守られたのであろう。神社仏閣は庶民の間ではどうも親近感が薄れているようだが、自然破壊の世相を押しとどめる役割を果たしてきたことは大きいし認めなければならないと思う。

 蓮について今日はいい話を聞くことができた。裏千家今日庵に於いては毎月一日は直門が家元の道話を拝聴する。家元のお話の後、前家元の千玄室大宗匠が先日ベトナムに行かれた折の土産話をされた。

 「共産主義国家のベトナムの国家元首の歓迎を受けましてね。ホーチミンの遺骸も見ました。ホーチミンというひとは偉い方で…。」
 「そこで蓮茶というのを飲みましたが、蓮の葉を煎じたもので蓮の実も入っているようでした。」

 ベトナム。過去のベトナム戦争を知る年代の私たちにとって、それはほっとする和やかなひとときであった。
 私もいつの日かその蓮茶を飲んでみたいと思う。





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