老いるということ
米大リーグの2003年最優秀監督賞に、ナ・リーグはマーリンズのマケオン監督(72)が、ア・リーグの監督(46)と共に受賞者として選ばれた。
マケオン監督はレッズを率いた1999年以来、2度目の受賞というからベテラン中のベテランだが、72歳という年齢がひときわニュースをもりあげた。
今年のシーズン途中に就任しながら、チームにワールドシリーズ優勝をもたらしたマケオン監督だ。この日の電話会見で、「(球団に)私のような老いぼれを雇う勇気があったなんてねえ」と楽しそうに語ったという。
私はそんな記事を読売ウェブで読みながら、最近政治面でクローズアップされた比例選挙区定年制を思い、日米時を同じゅうして72歳ねえ…とその違いを感じた。
衆院選出馬を拒否された中曽根氏の85歳と比べれば、この老指揮官は高齢の基準が違っている。しかし大リーグの能力主義はいかんなく発揮されたとみていい。
アメリカの能力主義は非情な世界であろう。ただ、日本では浪花節的な体質とよくいわれることだけれど、どうしてその違いが出るのだろうか。捨てる神あれば拾う神ありという自由なよき空気があるのは、どちらの世界だろうか。
老ということは年齢だけのことではないと思う。自然の中の自分を知ること…それもあるのかもしれない。
いっぽう、傷ついたものを補修し、その傷も作品の風格にまで高める、そうした侘びの美を見出したのが日本のすぐれた茶匠たちであったことを、思いあわせる。
先日、桐蔭会11月の例会で今日庵第4世仙叟の竹花入を拝見させていただいた。三筋に割れたあとを漆でつくろい鋲でとめてある。その傷がそのまま景色となっているのである。白玉椿が一輪楚々と入っていた。
ご宗家には宗旦作の老僧というじつに風格ある二重切竹花入があり、時々茶会にお出しになる。美術品というより人生そのものといっていい程の感動を私は覚える。
老僧という銘がまことにふさわしい。
今日の画像は昨年天龍寺献茶式の日、今日庵席で撮影させて頂いたその「老僧」である。ストロボの光で侘びの感じがでなかったのは残念だったが。
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