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2004年1月の記事

2004年1月23日 (金)

電子メールの日


 今日1月23日は電子メールの日だという。そのこころは、「1(いい)23(ふみ)」(いい文・E文)の語呂合せだ。

 猫の日があるというのを知った時はなんで、と不思議だったけれども、2月22日がにゃんにゃんにゃん、だからですと聞いて感心したことがあった。よくまあこうした愉快なことを考え出す人がいるものだ。

 尤も語呂合わせは日本語であることが条件である。Eメールもいい文となってゆかしい響きがあるのがいい。

 ことし宮中での歌会始めは、お題「幸」を古式にのっとり詠み上げるようすがテレビ中継で放映された。天皇・皇后両陛下の品格あるお歌も印象的であったが、召人の大岡さんの歌はEメールということばを入れたフレッシュな歌であった。

 いとけなき日のマドンナの幸っちゃんも 孫三たりとぞEメールくる

    大岡 信

 電子メールがどんなに便利なものか、ひとたびそれを知ったらコンピューターを離せなくなるから不思議だ。大学はもとより高・中・小まで習得するという世相を考えると、今度は、文字を書くことがおろそかになりはしないかと心配になる。これを老婆心配というらしい。

 読み書きソロバンが基本であった頃の教育を受けた者としては、この利便性の恩恵を感じることがしばしばである。
 最近、漱石を訪ねるカメラさんぽの新ページをアップしたが、カナダから一瞬にして原稿が送られてくるのだ。こちらも編集者として色々文句をつけるし、両者の推敲が一瞬にしてカナダと京都間を飛び交う。航空便ならゆうに一週間かかるところである。

 私は素直に今日の日がEメールの日であるのをよろこぶのである。いい時代に生まれ合わせたことを感謝したい。そして、よき友人たちに恵まれるえにしと共に平和な時が続いていってほしいと願う。

 なにか適当な画像はないかと探したものの見つからない。結局自分のパソコンの画像を出すことにした。じっさいは整理整頓ができていない乱雑な部屋なのにここではさもきれいに見えるのが可笑しい。






 

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2004年1月14日 (水)

月給取り漱石


 月給取りといえばサラリーマン。
裁判官も代議士もお役人もみな月給取りなのだが世間ではそうは言わない。

 明治40年4月(1907)漱石は大学教授を辞め朝日新聞社に入社した。5月に「入社の辞」として書いている文に次のようなくだりがある。


 新聞屋が商売ならば、大学屋も商売である。商売でなければ、教授や博士になりたがる必要はなかろう。月俸を上げてもらう必要はなかろう。勅任官になる必要はなかろう。新聞が商売である如(ごと)く大学も商売である。新聞が下卑(げび)た商売であれば大学も下卑た商売である。只(ただ)個人として営業しているのと、御上(おかみ)で御営業になるのとの差丈(だ)けである。


 森鴎外や夏目漱石は、西洋に留学してはじめて印税というものを知った。印税をとったのは日本では漱石からだという。

 漱石の文名があがるとジャーナリズムも放ってはおかなかった。読売からの入社勧誘は断ったが40年朝日から招きがあり漱石は主筆池辺三山の人柄に感じて入社を決意する。

 月給200円。賞与年2回。その他9か条にわたる契約をした。大学の年俸は800円であったから、朝日は約4倍に近い年収を約束したことになるのである。

 こうしたことは合理主義とでもいうべきだろうか。漱石は「理に合った」契約というものを取り交わした先進的な日本人であった。
 ところがその月給を弟子筋の野上豊一郎(臼川)に受け取りに入ってくれと頼んだ手紙があるのも面白い。

 明治41年8月、漱石は野上豊一郎宛てに書簡で月給の受け取りを依頼した。

 社から月給をもらいたいに付ては御ひまな時封入りの名刺を以って京橋区滝山町四の社の会社へ行ってお受け取り願度と存じ候。二十五日の午後が渡す日なれど今月末迄のうちにていつにてもよろしく候。用のあるところ時だけ済まぬ事と存じ候。

 のんびりした師弟関係がほほえましい。
 当時の貨幣価値がもひとつ分からないが、後に漱石が令嬢に買ってあげたピアノの代金が400円だったというから、大体の物価水準は想像できよう。


今日の画像は初期に描かれた漱石画、「書架の図」である。 ”Oct,1902 K.N.”のサインと共に「君と我、かたわらに人無し」と英語で記されている。
 君とは愛蔵の書物を指しているのだろうか。






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2004年1月 1日 (木)

障子貼り


 内田魯庵 『温情の裕かな夏目さん』のなかに、漱石が障子を貼っていたという話が出ていて興味ふかい。

 たまたま昨年の暮れに、といってもつい二三日前のことだけれども、私の寝室にしている三畳の和室の障子の破れ穴から風が吹きこむので、慌てて目貼りをしたのだった。

 さっぱりと張り替えればいいものを応急処置みたいなことで間に合わせた。後で主人から「まるで子どもが貼ったようだな。」とひやかされたくらい拙い出来上がりだった。

 しかし、あの亭主関白の漱石が障子貼りをしていたとは!しかも明治時代、こうした仕事をするのが主婦ではなく一家の主であったということが面白い。

 魯庵は、「私が夏目さんに会ったのは、『猫』が出てから間もない頃であった。」と書いているところからこの家は、森鴎外が住み、そして漱石も住んだことのある「千駄木の家」である。

 「初めて会った時だってわざわざ訪ねて行ったのではなかったが、何かの用で千駄木に行ったが、」とあり、年譜からも夏目漱石が住んだのは明治36年3月~明治39年12月ということが判明するのだ。

「丁度夏目さんの家の前を通ったから立寄ることにした。一体私自身は性質として初めて会った人に対しては余り打ち解け得ない、初めての人には二、三十分以上はとても話していられない性分である。ところが、どうした事か、夏目さんとは百年の知己の如しであった。」

 漱石はたいへん機嫌がよかった。
「丁度その時夏目さんは障子を張り代えておられたが、私が這入(はい)って行くと、こう言われた。」

「どうも私は障子を半分張りかけて置くのは嫌いだから、失礼ですが、張ってしまうまで話しながら待っていて下さい。」
 そんな風で二人は全く打ち解けて話し込んだ。私は大変長座をした。」

 今明治村に保存されているこの家を、私は訪ねてみたいと思いながら未だに果たせないでいる。漱石が「我輩は猫である」を執筆した書斎は「我猫庵」と呼ばれていたようだが、ちらっと障子のようすを見たかったのである。

 漱石先生はちゃんとした貼り方をされたのだろうなあ、とそんな子どもじみた想いにしばらく浸っていた。

 今日の画像は鉄道旅さんが明治村に行って撮影された、漱石が『我輩は猫である』を執筆した家。苦沙弥先生と猫の昼寝の場所だった縁側には白い障子が続いている。





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