障子貼り
内田魯庵 『温情の裕かな夏目さん』のなかに、漱石が障子を貼っていたという話が出ていて興味ふかい。
たまたま昨年の暮れに、といってもつい二三日前のことだけれども、私の寝室にしている三畳の和室の障子の破れ穴から風が吹きこむので、慌てて目貼りをしたのだった。
さっぱりと張り替えればいいものを応急処置みたいなことで間に合わせた。後で主人から「まるで子どもが貼ったようだな。」とひやかされたくらい拙い出来上がりだった。
しかし、あの亭主関白の漱石が障子貼りをしていたとは!しかも明治時代、こうした仕事をするのが主婦ではなく一家の主であったということが面白い。
魯庵は、「私が夏目さんに会ったのは、『猫』が出てから間もない頃であった。」と書いているところからこの家は、森鴎外が住み、そして漱石も住んだことのある「千駄木の家」である。
「初めて会った時だってわざわざ訪ねて行ったのではなかったが、何かの用で千駄木に行ったが、」とあり、年譜からも夏目漱石が住んだのは明治36年3月~明治39年12月ということが判明するのだ。
「丁度夏目さんの家の前を通ったから立寄ることにした。一体私自身は性質として初めて会った人に対しては余り打ち解け得ない、初めての人には二、三十分以上はとても話していられない性分である。ところが、どうした事か、夏目さんとは百年の知己の如しであった。」
漱石はたいへん機嫌がよかった。
「丁度その時夏目さんは障子を張り代えておられたが、私が這入(はい)って行くと、こう言われた。」
「どうも私は障子を半分張りかけて置くのは嫌いだから、失礼ですが、張ってしまうまで話しながら待っていて下さい。」
そんな風で二人は全く打ち解けて話し込んだ。私は大変長座をした。」
今明治村に保存されているこの家を、私は訪ねてみたいと思いながら未だに果たせないでいる。漱石が「我輩は猫である」を執筆した書斎は「我猫庵」と呼ばれていたようだが、ちらっと障子のようすを見たかったのである。
漱石先生はちゃんとした貼り方をされたのだろうなあ、とそんな子どもじみた想いにしばらく浸っていた。
今日の画像は鉄道旅さんが明治村に行って撮影された、漱石が『我輩は猫である』を執筆した家。苦沙弥先生と猫の昼寝の場所だった縁側には白い障子が続いている。
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