月給取り漱石
月給取りといえばサラリーマン。
裁判官も代議士もお役人もみな月給取りなのだが世間ではそうは言わない。
明治40年4月(1907)漱石は大学教授を辞め朝日新聞社に入社した。5月に「入社の辞」として書いている文に次のようなくだりがある。
新聞屋が商売ならば、大学屋も商売である。商売でなければ、教授や博士になりたがる必要はなかろう。月俸を上げてもらう必要はなかろう。勅任官になる必要はなかろう。新聞が商売である如(ごと)く大学も商売である。新聞が下卑(げび)た商売であれば大学も下卑た商売である。只(ただ)個人として営業しているのと、御上(おかみ)で御営業になるのとの差丈(だ)けである。
森鴎外や夏目漱石は、西洋に留学してはじめて印税というものを知った。印税をとったのは日本では漱石からだという。
漱石の文名があがるとジャーナリズムも放ってはおかなかった。読売からの入社勧誘は断ったが40年朝日から招きがあり漱石は主筆池辺三山の人柄に感じて入社を決意する。
月給200円。賞与年2回。その他9か条にわたる契約をした。大学の年俸は800円であったから、朝日は約4倍に近い年収を約束したことになるのである。
こうしたことは合理主義とでもいうべきだろうか。漱石は「理に合った」契約というものを取り交わした先進的な日本人であった。
ところがその月給を弟子筋の野上豊一郎(臼川)に受け取りに入ってくれと頼んだ手紙があるのも面白い。
明治41年8月、漱石は野上豊一郎宛てに書簡で月給の受け取りを依頼した。
社から月給をもらいたいに付ては御ひまな時封入りの名刺を以って京橋区滝山町四の社の会社へ行ってお受け取り願度と存じ候。二十五日の午後が渡す日なれど今月末迄のうちにていつにてもよろしく候。用のあるところ時だけ済まぬ事と存じ候。
のんびりした師弟関係がほほえましい。
当時の貨幣価値がもひとつ分からないが、後に漱石が令嬢に買ってあげたピアノの代金が400円だったというから、大体の物価水準は想像できよう。
今日の画像は初期に描かれた漱石画、「書架の図」である。 ”Oct,1902 K.N.”のサインと共に「君と我、かたわらに人無し」と英語で記されている。
君とは愛蔵の書物を指しているのだろうか。
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