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2004年3月の記事

2004年3月26日 (金)

教え子の花さん!


 私がまだ三十代にならない頃だったろうか。十八歳の花さんが拙宅へ茶の稽古にきていた。大学進学の準備中に母親が急死、心ならずも自活の道を選び、仕事が終わってから近所の私のところに来て、茶の稽古にいそしむのであった。

 東京に住み、大手電気メーカーの管理職をしている兄がいて、彼女はその兄のことを誇らしく話していたように思う。しかし株投機の失敗をしたらしい兄の為に仕送りをするという彼女の話には、仰天したのを覚えている。年老いた父親は実直な庭職人であった。

 花さんの仕事は、母親から受け継いだ店で野菜と魚の小売をすることだった。勿論仕入れから小型トラックの運搬まで一人でこなした。今のようにスーパーがない時代だったから、新鮮な食材が安く手に入るこの店はけっこう繁盛したのである。

 夏になれば店を仕舞ってから彼女は浴衣に着替え、お茶の稽古にやってきた。他のお嬢さんがたの中で、ひとり花さんのひたむきな学習態度に、私はふかく感じるものがあった。着物すがたもなかなかきれいな娘であった。

 京生まれ京育ちの現代っ子・花さんは茶道のよい面をどんどん吸収していった。着物の着方から毛筆でしたためる礼状の書き方や懐石料理の作り方も私は教えた。

 後年、彼女は結婚しよい家庭を持った。時折里帰りしては毎年のように拙宅に立ち寄ってくれるが、ある時話のなかでポツンと花さんはこう言った。

「母がいない家で先生の教えがどんなに役にたったか、結婚して親になった今、はじめて分かりました。」

 教え子とは、なんと有り難い存在であろうか!彼女は働いて得たお金で茶の稽古の月謝を払い、若々しいエネルギーを私に与えてくれていた。そして現在は子育てが一段落し、公認のカラーアナリストとして社会で活躍している花さんがいる。

 茶室は色彩と道具の調和をかもし出す場所でもある。私のささやかな稽古場から、日本の伝統文化からこうした結果が生まれたことを、どのように感謝したらいいだろうかと思う。

 中宮寺・山吹茶会の券を求めに、つい先日他府県から私を訪ねてきてくれたわが教え子の話を、今日は書かせていただいた。




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2004年3月11日 (木)

蘇我馬子邸の正殿見つかる


 飛鳥時代の大豪族・蘇我馬子邸の正殿見つかる。奈良・明日香の島庄遺跡。馬子の実態などを探るうえで第一級の発見。(3.11

 今日、このニュースがNHKテレビで報じられた時、アナウンサーが「聖徳太子の養父である蘇我馬子の邸宅跡が」といっているのにオヤと思った。

 厩戸皇子と呼ばれていた聖徳太子は、両親とも蘇我稲目の血をひき、馬子は大伯父にあたる。もっとも馬子のむすめを妃にしているので義父という関係なのだろうと思う。
 しかし、太子が佛教を信奉し十七条憲法を制定したのは、馬子の存在なしには考えられず、それで養父という表現になったのかもしれない。

 女帝であった推古天皇が蘇我馬子にあてたうるわしい歌がある。

 真蘇我(まそが)よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向(ひむか)の駒 太刀ならば 呉(くれ)の真刀(まさひ) 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき(紀)

 (大蘇我の人よ! 蘇我のあなたら、馬で言えば、日向産の名馬ですわ。太刀で言えば、呉(くれ)産の名刀ですわ。ほんとうに…)

 これは、推古二十年(612)正月、天皇は小治田宮で大宴会を催し、この時蘇我馬子は宮殿を誉め讃える歌を献上した。これに和した天皇の歌であるという。「やまとうた」の水垣久さんに私はそれを教えられた。

 今日の馬子の邸宅跡が発見されたという朗報に、聖徳太子とその母に思いをはせる。太子の母は穴穂部間人皇女(欽明天皇と蘇我小姉君の子)なのである。

 そして、中宮寺の寺伝によれば、本尊の如意輪観世音菩薩半跏像は、聖徳太子がおん母をしのんで造られた像であるという。私は日野西光尊門跡からそのようにお聞きした。

 今日の画像は何よりも、中宮寺・半跏思惟の像を載せさせていただきたいと思う。




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