色紙に書かれた語をよむ
今日の宗家けいこ場で初めて見る色紙が槍の間の床にかかっていた。
「黒風吹不入」坐忘斎家元の落款がある。点前指導は最も人気の高いA業躰。七事式の稽古を五人でさせていただきながら皆は色紙のほうをちらちた見ている。
A先生はその空気を察して言われた。「私はその意味がわからんのです。」
親しい長老のひとりaさんが私に「あんたなら何というのかね?」と問われたので咄嗟に思いついたことを言った。
「黒という色から考えると、季節かもしれません。春は青春の青色、秋は白秋の白色。夏は朱夏の朱色、冬は玄冬の黒色。」
「…ということから黒風は玄冬の意味でしょうか。」
私はその場で感じただけのことで内心は眉唾ものかな?とふっと思った。ところが家に帰ってもう一度この語を思い浮かべてはっとしたのである。
最近、台風災害で各地でたいへんな被害が出ている。そうだった!
黒風とはあの観音経に出て来る語ではなかったかしら…。お経では暴風雨のことが黒風と書かれているのに気がついた。
入於大海假使黒風 吹其船舫
(大海原を航海しているとき、たとえば、暴風が吹き荒れ)
という一節は、観音の名をとなえれば救われるという観音経のサワリであろう。
お家元は今という時節を考えられ、この語を書かれたのではなかろうか?こうしたこともすべからく見る者の主観であって、ほんとうのところは筆者に聞いてみなければわからない。
気のいいその長老から「先生がいるのに余計なことはいわんでもいい。」とたしなめられ、「そういう事をいう者がいるから困る。」と可愛げなく答えた私であった(笑)。
鵬雲斎前家元が制定されたものに、道・学・実の三つの教えがある。点前は実技・実践の実であるが、学の次にあることを茶人はとかく忘れているのではなかろうか。
型破りのひとりかも知れない自分を見返りながら、茶席にかかる書について(師に聞くばかりが能ではないでしょ。間違っていても自分のありのままの感想を述べるのが礼儀では?)などと反芻する私であった。
やっぱり、かわりもんなんでしょうかねえ。
画像は中宮寺での茶会にかけた漱石の書である。杜甫の詩を漱石がすこし変えているので二通りの読みができる。
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