おあしが 無い
夏目漱石の千円札は、1984年に肖像が採用され、そして2004年11月1日をもって消えた。
とはいってもまだ当分は流通しているので、新券の野口英世がいかにも「パーマをかけた夏目漱石」に見えるのである。
漱石を千円札にすると政府が決めた時、漱石の遺族は喜ばなかったと聞いている。漱石の人となり、名利を求めない信念を考えるならば、おのずとそういう気持ちになるだろうと私も思う。
金銭にまつわる幼少からの体験、その苦しみが小説の背後には常に描かれている。
古いことばで言えば、おあしであろう。新券5千円札の樋口一葉は、次のような名高い歌を詠んでいる。
我こそは だるま大師に成りにけれ とぶらはんにもあしなしにして
一葉の26年4月19日の日記。
「だるま大師には足がないのは誰でも知っている。知リ合いが死んだので弔いに行きたいけれども、私は貧乏て、あしのない達磨さんみたいなものだから、香典のおあし、お金がつつめないのです。」
一葉のペンネームもここから出ているという説もあるが、ユーモアとペーソスがにじみ出ている歌である。
24歳の若さで亡くなったこの美しい女性文学者には、あまりにもかなしい貧窮の生活であった。
この歌から、葦の葉に乗った達磨像はみられるだろうかと、私は探してみた。古典の達磨像にはさまざまな形があり、その中に葦の葉の上に乗って海を渡る「葦葉達磨図(ろようだるまず)」があった。
達磨大師は面壁九年。座禅のすがたから足がないことになっているが、この絵ではちゃんとしっかりした足が描かれていて、ほっとした。
今日の画像は、白河市歴史民俗資料館から昨年、転載許諾のメールをいただいていた「葦葉達磨図」である。
阿部正武筆。この方は江戸幕府の老中職を務めた大名だという。おあしには何不自由しなかった筆者であろう。
ここに出典をしるし、謝意を表したい。
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