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2005年8月の記事

2005年8月29日 (月)

土井晩翠の詩 「希望」

『天地有情』より  土井晩翠


希望

沖の汐風吹きあれて
白波いたくほゆるとき、
夕月波にしづむとき、
黒暗(くらやみ)よもを襲うとき、
空のあなたにわが舟を
導く星の光あり。

ながき我世の夢さめて
むくろの土に返るとき、
心のなやみ終るとき、
罪のほだしの解くるとき、
墓のあなたに我が魂(たま)を
導く神の御声あり。

嘆き、わずらひ、くるしみの
海にいのちの舟うけて、
夢にも泣くか塵の子よ、
浮世の波の仇騒ぎ
雨風いかにあらぶとも、
忍べ、とこよの花にほふー

港入江の春告げて
流るゝ川に言葉(ことば)あり、
燃ゆる焔に思想(おもひ)あり、
空行く雲に啓示(さとし)あり、
夜半の嵐に諌誡(いさめ)あり、
人の心に希望(のぞみ)あり。



宮城沖地震に被災された住民の方々は、この晩翠の詩をどのようにご覧になるでしょうか。
明治・大正の人々に与えた感動と士気はもとよりのこと、このわたくしでさえも、元気をいただくような気がいたします。

平凡社刊『世界名詩集大成10 日本1』土井晩翠 『天地有情」から抜粋いたしました。


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2005年8月25日 (木)

詩人 土井晩翠

詩人    土井晩翠


詩人よ君を譬ふれば
恋に酔ひぬるをとめごか
あらしのうちに楽を聞き
あら野のうちに花を見る。

詩人よ君を譬ふれば
世の罪しらぬをとめごか
口には神の声ひびき
目にはみそらの夢やどる。

詩人よ君を譬ふれば
八重の汐路の海原か
おもてにあるゝあらしあり
底にひそめるまたまり。

詩人よ君を譬ふれば
雲に聳ゆる火の山か
星は額にかがやきて
焔の波ぞ胸に湧く。

詩人よ君を譬ふれば
光すずしき夕月か
身を天上にとめ置きて
影を下界の塵に寄す。



詩人よ君を譬ふれば、のフレーズがとても耳にこころよいのです。
それではこれを書いた頃の晩翠のプロフィールを見てみましょうか。



出典 東北大学図書館「漱石文庫」


処女詩集『天地有情』が世に出たのは、明治32年(1899)
土井晩翠は29歳の青年であったようです。

彼は、これによって『若菜集』(1897)の詩人島崎藤村(1872-1943)と併び称される程、高い評価を受けました。

翌33年には、第二高等学校教授となります。しかし、明治34年6月、二高教授を辞職して、私費で欧州遊学の旅へ。明治34年10月から35年5月までは、ロンドンのユニバーシティ・カレッジで英文学を、36年1月から4月まではパリのソルボンヌ大学で仏文学を、36年10月から37年7月までは、ドイツのライプチッヒ大学で独英文学を研究し、同年11月に帰朝した、となっています。

おもしろいことは、明治34(1901)8月、ロンドンで夏目漱石が土井晩翠をヴィクトリア駅まで迎えたという記録が残っているのですね。4歳年下の晩翠はどんなにか嬉しかったことでしょう。

漱石は晩翠にとっては尊敬の対象であった先輩だと思われます。
のちに漱石は晩翠に宛てた葉書に、自画像を描き、このように話しかけます。


自分の肖像をかいたらこんなものが出来た 何だか影が薄い肺病患者の様だ。君が僕を鼓舞してくれるから今にもつと肥つた所をかいて御目にかける 現在の顔は此位だ

(明治38年2月2日(木) 土井晩翠あて書簡)


「君が僕を鼓舞してくれるから」 の漱石の言葉。
ふたりの信頼関係を物語るのに十分ではないでしょうか。この葉書を書いたとき、漱石は帰国してから3年目、身分は東京帝国大学英文科講師であり、『我輩は猫である』も世に出し喝采を受けた時期でありました。

漱石は漢詩と俳句を書く人でありましたし、晩翠が早くから詩人として心に想う存在であったかもしれません。
晩翠のうたう「詩人」ーーそのひとりは、漱石ではなかったか、とふとそんな風に、私は感じるのでした。

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2005年8月23日 (火)

土井晩翠の詩 星と花

土井晩翠の詩 星と花


同じ「自然」のおん母の
御手にそだちし姉と妹(いも)、
み空の花を星といひ
わが世の星を花といふ。

かれとこれとに隔たれど
にほひは同じ星と花。
笑みと光を宵々に
かはすもやさし花と星。

されば曙(あけぼの)雲白く
御空の花のしぼむとき、
見よ白露のひとしづく
わが世の星に涙あり。

明治三二年四月、土井林吉の第一詩集『天地有情』は、博文館から出版。
この「星と花」はその中の一篇です。
翌三三年には母校の第二高等学校の教授となりますが、三四年にはロンドンに遊学。
駅では夏目漱石の出迎えを受けています。

ところが二人とも英文学者であり、高等学校教授という身分であったことが、不審な事件に
何かと取り沙汰されることになりました。
不審な事件とは、のちに「ナツメ狂セリ」という怪電報を英国から文部省へ何者かが打電した事件のことです。

それを、岡倉天心の弟の由三郎だとする説があり、これには松岡譲が否定しています。
しかし、なんといっても傷ついたのは、漱石本人だった筈です。
漱石の死後、鏡子夫人が或る雑誌に語ったという話に、晩翠が驚き、事実はこうだと綴っている
エッセイがありました。


『漱石さんのロンドンにおけるエピソード 夏目夫人にまゐらす』 土井晩翠
英文学者であるがゆえに嫌疑をかけられた土井晩翠と岡倉由三郎!
ところが晩翠の語ったことによれば、国文学者の芳賀矢一の名が挙がり、これは漱石を貶めるものではなく、別の観点からされたと思われるように書かれています。

故芳賀矢一先生が独乙留学の期が満ちて帰朝の途中ロンドンに来られました、それで二三の同志が落合つた折、自然話は夏目さんの病気に及びました。其頃ベルリン留学生の或る真面目な方が発狂して下宿屋に放火したといふ一珍談があつたので芳賀先生は『……どうも困つたな、夏目もろくに酒も飲まず、あまり真面目に勉強するから鬱屈して、さうなつたんだらう、もう留学も満期になる頃だが、それを早めて帰朝させたい、帰朝となると多少気がはれるだらう、文部省の当局に話さうか……』――正確には記憶しませんが以上の意味の言葉があつたやうです、(姉崎正治教授がその席にお出ででなかつたか、どうか、何しろ二十五六年前のことなので記憶は朦朧たらざるを得ません)
 あとに述べる通りそれから一ヶ月以内に私は全く英国を去つてしまつたので、くはしい其後の消息はわかりませんが、帰朝の期の早まつたことは良好の結果を来した云々とパリで所謂風の便りに聞いたやうです。多分芳賀先生が文部当局と相談なされての上で無かつたでせうか? 当時文部省には芳賀先生の親友上田萬年博士が専門局長であられたと記憶します、今日の学習院長福原さん、先頃まで大阪高等学校の野田義夫さんも同省に在官であられたでせう。ともかく此件に関しては漱石さんは感謝さるべきであると信じます。


晩翠の結婚媒酌人でもある芳賀氏。漱石といっしょにプロイセン号に乗船して留学した芳賀氏。
真相はいぜんとして闇の中ですが、この晩翠の言葉は傾聴に値するのではないでしょうか。

先に私のアップした「漱石と晩翠など」の記事には、松岡陽子マックレインさんは次のように仰っています。

 お送りいただいたものすべて大変面白く読ませて頂きました。土井晩翠のこともいろいろ習いました。晩翠と言えば、アメリカに来て少ししてから一世のお医者様にお会いしましたが、彼が日本にいる時読んだ晩翠の詩が好きで忘れられないとおっしゃったので、私自身も当時食うや食わずの貧乏学生でしたが、アルバイトから稼いだお金で次のクリスマスに日本から全集を取り寄せて差し上げ大変喜んで頂いた事を思いだしました。その先生は若い頃瀬戸内海の小さい島で育ち、家庭が大変貧乏でお父様とアメリカに出稼ぎにいらしたそうですが、働きながら医学部に行かれ医者として成功され、後年は美術館などに寄付され医業の他にもいろいろ尽くされました。私のことも長年助けて下さり昨年ほとんど百歳で亡くなりました。いつも思うのはどんな職業の方でもそうやって自分の専門の職業の他に文学または美術に興味を持つ方はその視野が広くてよろしいですね。

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2005年8月17日 (水)

晩翠通り 晩翠草堂 土井晩翠

最初の画像は、仙台市博物館の庭園。みどりの杜のネーミングにふさわしいところです。








仙台の旅から京都に帰ってからまだ一週間です。
それが今日8月16日、宮城県沖地震のニュースに愕然としてしまいました。

お世話になった阿部かまの会社へ、地震見舞いのメールを出しましたところ即座にお返事がかえってきました。メールは早くてこうした時にはありがたいものです。

「こちら11時56分頃宮城県沖地震が発生、津波注意報も出ましたが、大事に到らず仙台市内、当ビルも数秒おおきくゆれました。当社には一応被害は出ませんので、従業員等も全員無事でご安心下さい。取り急ぎお知らせいたします。」

ああ、よかった。人々の無事が何よりです。でも、また心配なのは、晩翠通りと名づけられた大通りに建っている、あの土井晩翠の旧宅・晩翠草堂のことです。

晩翠の弟子達が戦後、恩師のために建てた木造平屋住宅で、地震の影響がなければいいがと…。

この度は東北大学付属図書館『漱石文庫』を閲覧するのが目的だったのですが、なんと、阿部かまの本社とちょうど後ろ合わせに建っているのが、晩翠草堂だったのです。

『仙台・東北大学をたずねて 漱石と土井晩翠のことなど』

先にアップした、このふたりの文豪についてのエピソードは、漱石夫人と晩翠の発言が残されたことで今後、例の「怪電報」がなんであったか解き明かされることでありましょう。




晩翠の履いていた下駄も保存されておりました。家屋敷が仙台市に譲渡され、今は市の管理になって無料で拝見することができました。



『オヂュッセーア』1万2千余行の韻文訳の出版、晩翠のライフワークは翻訳でもありました。80歳の昭和25年、第8回文化勲章を受章。詩人として文化勲章を受章したのは晩翠が最初であったそうです。

オヂュッセーアは浅野晃訳の詩集を持っていますが、晩翠の訳は存じないままでした。いずれ是非読みたいと思います。


河北新報によれば、この地震の影響は次のようになっています。
宮城南部震度6弱 けが59人 新幹線116本運休
--------------------------------------------------------------------------------
 宮城県沖を震源に16日発生した「8.16宮城地震」は、宮城県川崎町で震度6弱を観測したのをはじめ、仙台市宮城野区と泉区などで震度5強を記録した。揺れは北海道から近畿地方までの広い範囲に及び、震源地に近かった東北地方を中心に被害が広がった。政府が首相官邸に設置した官邸対策室などによると、地震によるけが人は宮城県を中心に5都県で計59人に上った。仙台市泉区では複合健康施設で屋内プールの天井パネルが落下し、26人が軽傷を負った。福島市、北上市、気仙沼市などでもけが人が出た。住宅の全壊や一部損壊も各地で相次いだ。東北新幹線は架線の断線で約10時間、運転が完全にストップし、全面復旧は17日未明となった。JR東日本は上下116本が運休し、影響は約10万3000人に及んだと発表した。一時運行を見合わせた仙台市地下鉄は約3時間後に復旧したが、高速道路など交通機関の混乱は夜まで続いた。気象庁によると、地震は16日午前11時46分ごろ、牡鹿半島の東南東80キロ付近を震源に発生。震源の深さは約42キロで、地震の規模はマグニチュード(M)7.2と推定される。気象庁は「今後、最大震度5強程度の余震の可能性がある」と警戒を呼び掛けている。(8/17 01:25)>>>詳細

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2005年8月12日 (金)

みちのくの七夕まつり

みちのくの旅は雨にたたられました。
仙台の東北大学をたずねてみたいと、いう思いは漱石ファンなら誰しも心あたりがあるのではないでしょううか。

漱石の直筆原稿や蔵書など、『漱石文庫』は宝庫なのです。仙台も空襲で多くが消失したそうですけれども、この文庫はよくも生き残ったと思います。

空路での仙台行きは、2度にわたって変更を余儀なくされました。なにしろ台風が直撃するコースだったからです。

7月が8月になり、それもご親切な仙台の友人のアドバイスで、七夕まつりのころに、ということになりました。

図書館のほうは、先ほどサイトのほうへ記事をUPいたしました。ここでは、七夕のことだけ触れてみましょう。

じつは、最終日の8日に市中は大雨となったのです。目抜きの商店街アーケードなら歩きながら見ることも出来たのですが、体力も根気もない私はすぐ諦めました。

翌日、仙台市博物館へ。それから土井晩翠旧居のまうしろに位置する、「あべかま」本店。そこでも七夕飾りにはからずも逢うことができました。

仙台の七夕まつりは戦後に復興したものとか。京都の笹に短冊の、あの飾りとはだんぶん印象が異なります。ただ、子どものきものを形どった紙細工が添えられていたのは、とても可愛らしかったですね。

昔は布で手作りをしたものだと、そう「あべかま」の奥様は仰っておりました。

画像は上から博物館エントランスホール。笹かまぼこの「あべかま」本店の庭。食事どころも料理に七夕かざり。
最後は、もりの都・仙台にふさわしい、東北大学付属図書館の前庭です。
 

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