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2005年8月25日 (木)

詩人 土井晩翠

詩人    土井晩翠


詩人よ君を譬ふれば
恋に酔ひぬるをとめごか
あらしのうちに楽を聞き
あら野のうちに花を見る。

詩人よ君を譬ふれば
世の罪しらぬをとめごか
口には神の声ひびき
目にはみそらの夢やどる。

詩人よ君を譬ふれば
八重の汐路の海原か
おもてにあるゝあらしあり
底にひそめるまたまり。

詩人よ君を譬ふれば
雲に聳ゆる火の山か
星は額にかがやきて
焔の波ぞ胸に湧く。

詩人よ君を譬ふれば
光すずしき夕月か
身を天上にとめ置きて
影を下界の塵に寄す。



詩人よ君を譬ふれば、のフレーズがとても耳にこころよいのです。
それではこれを書いた頃の晩翠のプロフィールを見てみましょうか。



出典 東北大学図書館「漱石文庫」


処女詩集『天地有情』が世に出たのは、明治32年(1899)
土井晩翠は29歳の青年であったようです。

彼は、これによって『若菜集』(1897)の詩人島崎藤村(1872-1943)と併び称される程、高い評価を受けました。

翌33年には、第二高等学校教授となります。しかし、明治34年6月、二高教授を辞職して、私費で欧州遊学の旅へ。明治34年10月から35年5月までは、ロンドンのユニバーシティ・カレッジで英文学を、36年1月から4月まではパリのソルボンヌ大学で仏文学を、36年10月から37年7月までは、ドイツのライプチッヒ大学で独英文学を研究し、同年11月に帰朝した、となっています。

おもしろいことは、明治34(1901)8月、ロンドンで夏目漱石が土井晩翠をヴィクトリア駅まで迎えたという記録が残っているのですね。4歳年下の晩翠はどんなにか嬉しかったことでしょう。

漱石は晩翠にとっては尊敬の対象であった先輩だと思われます。
のちに漱石は晩翠に宛てた葉書に、自画像を描き、このように話しかけます。


自分の肖像をかいたらこんなものが出来た 何だか影が薄い肺病患者の様だ。君が僕を鼓舞してくれるから今にもつと肥つた所をかいて御目にかける 現在の顔は此位だ

(明治38年2月2日(木) 土井晩翠あて書簡)


「君が僕を鼓舞してくれるから」 の漱石の言葉。
ふたりの信頼関係を物語るのに十分ではないでしょうか。この葉書を書いたとき、漱石は帰国してから3年目、身分は東京帝国大学英文科講師であり、『我輩は猫である』も世に出し喝采を受けた時期でありました。

漱石は漢詩と俳句を書く人でありましたし、晩翠が早くから詩人として心に想う存在であったかもしれません。
晩翠のうたう「詩人」ーーそのひとりは、漱石ではなかったか、とふとそんな風に、私は感じるのでした。

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