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2005年9月の記事

2005年9月26日 (月)

小泉八雲忌の今日

9月 26日  小泉八雲忌の今日 
ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)。ドイツ風にはヘルン。

今日、9月26日は小泉八雲忌の日です。
ヘルンが愛してやまなかった節子夫人の著書『思い出の記』を開いてみましょうか。日本女性の鑑ともいうべき小泉節子。ヘルンはこの貞淑な女性によって文学者としても生かされたのでした。


ヘルンは虫の音を聞く事が好きだったと、節子夫人は書いています。

>この秋、松虫を飼っていました。九月の末の事ですから、松虫が夕方近く切れ切れに、少し声を枯らして鳴いていますのが、いつになく物哀れに感じさせました。私は『あの音を何と聞きますか』と、ヘルンに尋ねますと『あの小さい虫、よき音して、鳴いてくれました。私なんぼ喜びました。しかし、段々寒くなって来ました。知っていますか、知っていませんか、直に死なねばならぬと云う事を。気の毒ですね、可哀相な虫』と淋しそうに申しまして『この頃の温い日に、草むらの中にそっと放してやりましょう』と私共は約束致しました。<

拙サイトの『小泉八雲と夏目漱石』 は、2003年に作成しアップしたものです。ヘルンのお孫さんである小泉時氏から頂戴したお手紙などもご披露させていただきました。少しでもお人柄を感じていただければと。
http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/koizumiyabumoto.html


引き続き、小泉節子夫人の『思い出の記』より

>うわべの一寸美しいものは大嫌い。流行にも無頓着。当世風は大嫌い。表面の親切らしいのが大嫌いでした。<

彼の目は片方が見えなかったようですが、当時目に入れ墨をしてはどうかという勧めを頑として聞き入れなかったのも、こうした気性ゆえなのですね。それに仏教の坊さんに好意をもって、キリスト教には厳しい見方をしたというのも、白人にしては珍しい方でした。

>耶蘇の坊さんには不正直なにせ者が多いと云うので嫌いました。
しかし聖書は三部も持っていまして、長男にこれはよく読まねばならぬ本だとよく申しました。<


彼が生きていたら、今のイラク戦争を見、なんと言って嘆くことでしょうか!
白人によるキリスト教支配、一神論に基ずく優越理論…。日本人がアラブに寄与できるものがあるとしたら、それは、小泉八雲のこころを生かすことではないでしょうか?

しかし、富国強兵を至上命令とした近代日本は、彼を疎外する方向に行ったのでした。そして今、この国は何に向かって走ろうとしているのかと、とまどいながら思う毎日です。

ヘルンの墓はつつましく、漱石の墓とは違っているとよく批評されますが、私はお参りしたことがございませんのでなんとも申し上げられません。

>平常から淋しい寺を好みました。垣の破れた草の生いしげった本堂の小さい寺があったら、それこそへルンの理想でございましたろうが、そんなところも急には見つかりません。
墓も小さくして外から見えぬようにしてくれと、平常申して居りましたが、遂に瘤寺で葬式をして雑司谷の墓地に葬る事になりました。<


最後まで、漱石と共通した文豪・ヘルン…。
私はこれから香炉に伽羅の香を焚き、ささやかなご供養をさせていただきましょう。

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2005年9月13日 (火)

土井八枝、与謝野晶子、夏目鏡子、その時石川啄木は

石川啄木の年譜より

まず第一に、土井八枝(土井晩翠夫人)のこと

>1905年(明治38) 5月20日 結婚のため帰郷の途につく。途中仙台に立ち寄り29日まで滞在。
この時、啄木は19歳。 
自らの結婚式に出席するために帰郷の途中、仙台で下車し詩人土井晩翠を訪ね歓談した。<

参考 盛岡タイムス 2002~2004連載 山下多恵子さん筆。

 >1905年(明治38)5月、啄木は自らの結婚式に出席するために帰郷の途中、仙台で下車し詩人土井晩翠を訪ね歓談した。一週間後、啄木は「田舎の母が重態だが旅費がないため帰れない」という創作の手紙を晩翠宅に持たせる。妻の八枝は27歳、真面目で勤勉な女性で手元にあった15円を持ち、人力車を走らせた。旅館に着いた彼女が見たものは、友人と酒を飲み真っ赤な顔をして談笑している啄木であった。

 厚顔無恥ともいえるふるまいは、父の住職罷免により一家の生活の責任を負ったが、その現実と向き合えずにあがいている啄木の姿だった。<


今の世で20歳といえば、成人になったばかりの青年です。その彼は、世話になった女性たちのことをこう書き綴ってています。


「二十歳の時、私の境遇には非常な変動が起つた。(略)その変動にたいして何の方針も定める事が出来なかった。」


うら若き八枝夫人の行いと夫・土井晩翠の愛情ふかい性格を、うつくしいと思わずにはおれません。


閑話休題
画像は大鯛の蓋ものの器。楽焼系の陶器で、茶懐石に使用するものです。
蓋をあけますと、なかにはみどりの笹につつまれた笹寿司が!
京懐石の有名な店にたまたま行ってまいりました。魚はなんといっても鯛!鯛にたとえられる作家はだれ?中身はなに?
いまふうにいうならば作家のパートナーはどんなひと?夫唱婦随を守ったように見える明治の文豪の妻たち。

貧しくともよい時代だったのではなかったでしょうか?そんなことをおもいながら画像をアップさせていただきます。


第二に、与謝野晶子(与謝野鉄幹夫人)のこと。

明治41年5月  啄木の日記

「与謝野氏外出。晶子夫人と色々な事を語る。
明星は其昔寛氏が社会に向って自己を発表し、且つ社会と戦う唯一の城壁であつた。そして明星は今晶子女史のもので、寛氏は唯余儀なく其編集長に雇はれて居るようなものだ!」


「隣りの生田長江君を庭伝いに訪ねる。
八時頃森田白楊君が来た。二週間前に平塚明子と浮名を流した人。今は夏目氏の宅に隠れて居るとの事。」

当時、啄木と与謝野夫妻、森鴎外、夏目漱石並びに漱石の門人たちとの交流。
与謝野邸を尋ねた日、鉄幹が漱石をどのように語ったかが興味深く書かれています。


明治41年5月 啄木の日記

「小説の話が出た。予は殆んど何事をも語らなかつたが、氏は頻りに漱石を激賞して″先生″と呼んで居た。」

「「晶子さん(略)予はあの人を姉のように思うことがある。」


啄木は中学時代、与謝野晶子の『みだれ髪』を愛読していたのですね。
1902年(明治35)初めて与謝野家を訪門。1908年(明治41)には与謝野家に滞在して、鉄幹が留守中、晶子と二人だけで語る機会も度々あったもようです。

>彼女は子沢山の苦しい生活の中で、夏物を持たない啄木に、単衣を縫って贈ったりしている。<


第三に、夏目鏡子(夏目漱石夫人)のこと。

明治45年1月22日 啄木の日記

「私は全く恐縮した、まだ夏目さんの奥さんにはお目にかかつた事もないのである。」

>1月22日、森田草平が面識のない夏目漱石夫人の見舞金10円と征露丸150粒を持ってくる。この日の日記に“征露丸”は“日露戦争の時兵隊に持たせたもので,クレオソオトと健胃剤が入つてゐるから飲んだらよからうといふのだつた。”<


石川啄木が貧窮のなかで、病苦と闘いながら亡くなった年。
それはこの年(明治45年)の春4月でした。まだ26歳2カ月。青年のまっただ中でありました。

そしてなお、啄木の妻、節子夫人は一年後に他界するのですが、亡くなる間際に、次のような言葉を書き残したということです。

「-------森(鴎外)さん、夏目(漱石)さんによろしくお願いします」と。


いかがでしたでしょうか。
明治の文豪とその配偶者たち…。

今夜は、この心高き女性に思いをはせて、私はひとり文学の美酒を杯にそそぎたいと思います。

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