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2006年8月の記事

2006年8月29日 (火)

裏千家今日庵当番 大徳寺利休忌 2006年8月28日

スライドショー 2006年8月28日 厳しかった夏の終りに 大徳寺利休忌

L1000807nodaketo1_1 ノダケ、ムクゲ、ホトトギスほか。  花入は 唐物籠。

昨日28日は、早朝から大徳寺へ。


裏千家今日庵が当番にあたる利休忌の法要と追善のお釜がかかりますので、そのお手伝いです。私たち直門の淡敬会が副席としてお釜を懸けさせていただきました。
先輩の方々の知恵をあつめた取り合わせ、お道具の持ち寄りです。

その時の差し支えないものだけをカメラに収めました。不充分なものですが昨夜スライドショーにまとめてみました。

いかがでしょうか?
茶席の写真撮影はほんとうに久しぶりのことなんです。
ご感想をいただけましたら、どんなにか励まされるでしょう!!!


このスライドショーの記事部分の最後にリンクしているものを、ここでも再掲することにいたします。


以下は、これまでの 覚書など。 拙サイトより Link


2001年 5月28日 大徳寺 利休居士 月忌茶会


2002年 8月28日 大徳寺 利休忌(月命日)担当 裏千家今日庵


2003年 5月28日 初夏の大徳寺利休忌 道 愛 ひと そして 茶


2003年 8月28日 blogサロンランデエヴウ 初秋の茶会 大徳寺利休忌


2004年 8月28日 大徳寺利休忌 今日庵担当 副席 淡敬会 於三玄院


2006年 2月28日 JanJanコラム古都つれづれ 大徳寺・利休居士の毎歳忌


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2006年8月26日 (土)

大ベストセラー えんぴつで奥の細道

『えんぴつで 奥の細道』という本が売れに売れています。

31654534_2 大迫閑歩/書 伊藤洋/監修 、ポプラ社 、2006年1月発行 1 ,470円(税込)

キャッチフレーズ

ひと文字、ひと文字、少しずつ。
芭蕉のことばを書き写してみませんか。
出会いと別れ、名句の数々。
なぞればあなたの旅が始まります。

江戸から大垣までを全五〇章に再構成(『奥の細道』全文収録)。
全文書き下ろし、ひと文字アドバイス付。


元禄二年(一六八九)の早春に出立、
日光、平泉を巡って日本海に出、
金沢を経て大垣にいたるまでの
一六〇日の大行脚。

芭蕉がもっとも強く心血を注いだ散文
『奥の細道』を深く味わう、
まったく新しいテキストブック。


はい。次の写真は、監修者の伊藤洋先生の署名なんです。ありがたいメル友のお一人と申し上げては失礼でしょうか。たったいま本の扉に書かれているサインを撮影したばかりです。
L1000806syomei2_3
みなさま、お読みになれました?

じつは私はこの中の一字がどうもわからなくて、伊藤洋さんに問い合わせました。

「わかりにくい字ですが、探れ、と読んでいいのでしょうか?」

すると今日、メールが来ました。なんていい気のいい方でしょう。

「不明個所は「探れ」です.芭蕉から頂いたものですので種明かしを致しますと・・・

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/tanbai.htm

というわけです.

早筆のまま

 伊藤 洋(Hiroshi ITOH)」


そのご本尊の芭蕉の俳句は、伊藤さんの解説で教えて頂くことができます。

打ち寄りて花入探れ梅椿

 句や和歌を詠むために、山野に出て早春の梅や椿やわびすけの香を探す風流を探梅という。ここは室内ゆえ、花入れに梅や椿が生けてある。皆が探梅をして、花入れに鼻を差し入れてこれを探すというのは如何なものであろうか?というのだが、もとよりふざけた話。


*~*~*~*~


ああ、そういうことでございましたか。
ぶしつけにお尋ねいたましたが、私としては種あかしをしていただきましたこと。思いがけず心があたたかくなってうれしかったです。

この本はなんといっても企画された出版社の女性役員さんでしたか、その方の発想が秀逸だったというべきでしょう。
そして書道家の人選も、監修者の人選も最高だったのではないでしょうか。

定価が安く抑えられているのも、芭蕉が著作権というものの縛りがないこと。死後50年を過ぎたら著作権は消滅しますから、まあ、いろんな意味で好条件が重なったのでしょうね。

これから私もえんぴつで、この本を頼りにひととき旅に出ようと思います。
芭蕉の句の名解説は、工学博士で芭蕉研究家でもあり、インターネットを駆使される好漢!
とまあ、一応こんなことを書いてお祝いとさせていただきましょう。

こんなすてきな楽しみがあるこの国…、またこころがときめくのです。

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2006年8月25日 (金)

IT新聞JanJanへの掲載記事は今日で51回目に

JanJanに今日の掲載記事として拙稿が出ておりますのでお知らせいたします。

松山中学の勇気ある生徒たちと漱石作詩の「童謡」

今のところ、8月の掲載記事はこの程度です。
「首塚」と隣り合わせる茶席東陽坊

紫式部には家庭がありました 慮山寺(ろさんじ)源氏庭の桔梗

じつは、私が日本インターネット新聞に記事を投稿するようになったのが昨年の10月。掲載された記事を数えますと、51回目になります。

先日の「首塚」と隣り合わせる茶席東陽坊」が丁度50回目のものでした。
親しい方には数人お知らせいたしましたが、そのなかから少しご披露させていただきますね。



わびすけ さま

50本 書き上げられたとか おめでとうございます。
10ヶ月で50本、週1本はプロなみのペースです。

タイトルを改めて拝見して やはり心に落ちるのは古都
の趣をテーマにした一文でした。おおかたは生き生きと
書かれていたからです。これが わびすけさんならではの
「個性」だったのだと気づかされました。

つぎは100本です。書き続けてください。    鯰



50本掲載おめでとうございます。
タイトルを見ても、わびすけ様の博学ぶりがよくわかります。
これからもますますご精進なさって、ぜひ出版記念パーティーに
お呼びくださいませ。  
                             ぞうべ



おめでとうございます。聞きかじったり誰かが言ってたことをさも自分の意見のように表す人はたくさんいますがわびすけ先生のようにご自分の言葉であいまいでなくご自分の意見をおっしゃることはうらやましくもあり、また素晴らしいことと思います。
猫のかじられた足の指のことから私ほとんどタイムリーに読ませていただいておりましたわ(笑)。

50本が100本に200本に・・・どんどんお書きになりますよう、楽しみにいたしております。
明日から出張と少しの休暇のため出かけます。母が元気でいてくれますお陰です。
残暑厳しい毎日。ご自愛なさいますよう。そしてますますのご活躍を。  匿名希望
                                           


先生のHPがつまらないなんて、とんでもない!!
むしろ、トピックスがより幅広く、より濃い中身に進化を遂げているとおもっております。
ただ余りの先生のエネルギーあふれる書き込み量に、私などは読ませていただき、ついていくのに精一杯!!
無反応な読者をお許しください。
これからは、少しでも書き込めるよう精進いたします。    匿名希望



ちなみに最初に記事を書き、掲載されたのが以下の拙稿でした。この時の読者の応援クリックは予期しない数で驚いたものです。

2005・10・13 猫にかじられて足の指を失った記事について

椿わびすけの最新情報 2005・10・19

  朝から今日庵へお稽古に行き昼近く帰宅した。食事もそこそこにPCを
開くと「メデア インターネット新聞 JANJAN」10/19号に、私の書いた記事
が掲載されていた。
報道はどのように変わったか(椿伊津子) これは18日付けで私のブログ
には下書きのつもりでアップしたものをほぼ同じ内容で投稿したものであ
る。そのことをあらかじめ編集部にご相談したところ「ぜひ掲載させて頂
きたい。」とのことで早々と今日の新聞掲載になった。

先の第一作目の猫にかじられて足の指を失った記事については、今日の
記事ランキング TOP5になっているのを発見、驚いた。その上「オスス
メです!」の欄にも入っているので恐縮してしまった。

*********************************

先週(2005/10/11~10/18)のTOP5
1 猫にかじられて足の指を失った記事について 215point
2 「のまネコ問題」から見るマスコミのイメージ操作 144point
3 エイベックス・のまネコ問題に見る、既存メディアのインターネットへの偏見 62point
4 「日本のアジア政策を考える」シンポジウムで加藤、岡田氏ら参加 57point
5 「ID理論」擁護 にせ科学で道徳を補強する産経新聞 52point
あれから約10ヶ月 を経過したのでしょうか。最近はポイント数が激減しております。魅力がないってことだろうと反省しきりです。JanJanには先輩記者のあとに続こうという気持ちでこれまできましたが、最近は新人の方々の活躍が頼もしいことです。

ともあれ、皆さまからあたたかいお励ましをいただきました。
ロムされている方々を含めて、忙しいお時間をさいて拙稿をお読みいただいていますことを、心より御礼申し上げます。

JanJan編集部の方々のご配慮にもあらためて感謝!

ほんとうに有難うございました。

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2006年8月22日 (火)

『坊っちゃん』の碑 漱石作詞「源兵衛」の童謡

Bcchanhi

漱石が書いた童謡って、ご存知でしたか。

    源兵衛が 練馬村から    
  大根を  馬の背につけ   
  お歳暮に 持て来てくれた   

  源兵衛が 手拭でもて
  股引の  埃をはたき
  台どこに 腰をおろしてる

  源兵衛が 烟草をふかす   
  遠慮なく 臭いのをふかす  
  すぱすぱと 平気でふかす 

  源兵衛に どうだと聞いたら
  さうでがす 相変らずで
  こん年も  寒いと言った

  源兵衛が 烟草のむまに 
  源兵衛の 馬が垣根の      
  白と赤の 山茶花を食った 

    源兵衛の 烟草あ臭いが
  源兵衛は 好きなぢゝいだ
  源兵衛の 馬は悪馬だ

 

   岩波「漱石全集」より


この詩にはテンポのいい曲がつけられているそうで、松山市の或る銀行の合唱団によって披露されたのです。
松山、道後温泉の側に漱石「坊ちゃんの100年祭」の記念碑ができたのは、ことしの4月。お知り合いのさんごさんからお知らせいただいたのでした。テレビでも新聞でも報道されました。

 「夏目漱石(1867~1916)の小説「坊っちゃん」発表から100年になるのを記念し、 小説の舞台とされる松山市で29日、記念碑の除幕式があった。」 http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060430k0000m040030000c.html

これは漱石研究の団体である、「松山坊っちゃん会」が建立して松山市に寄贈したとのことです。会長をなさっている頼本冨夫様とは私も私信を交わしたことがありますので、蔭ながらよろこんでいました。
「松山坊っちゃん会」坊っちゃんニュース

さんごさんはこのお盆にふるさとの松山へ行かれ、記念碑の写真を撮って送ってくださいました。拙サイトPhotoBBSでその写真を見ることができます。

「これから色々漱石の関連の公園になるという敷地の一角に一番に出来たのがこの記念碑です。まだトイレとこの碑だけでした。」

その写真には、漱石の顔の写真と坊ちゃんの書き出しの文章が書かれたとてもシャレた記念碑があって、これに漱石の詩に曲がつけられた「童謡」のCDがあればなぁ~と、思ったものです。まあ、ふとどき者の欲ではありますが(笑)。

除幕式の日に漱石の童謡が歌われたそうです。
坊ちゃん会の依頼で伊予銀行の合唱団の方が漱石の詩の合唱曲を初披露されたそうですが、じつはさんごさん、この合唱団に昔いらしたことがあったのです。

実は昔(50年くらい前)に私もこの合唱団に居たことがありました、といわれ、それもその筈、さんごさん松山東高校(旧制松山中学)のご出身ですから、そうしたつながりがあるのは頷けますね。

記念碑は高さ1.7メートル×幅0.6メートルの黒御影(みかげ)石製。
道後温泉本館東側に 市が整備中の休憩所内に建てられています。小説冒頭の5行の自筆原稿と漱石の肖像を描き、 碑文は地元出身の作家、早坂暁さんが揮ごうしたということです。

漱石は1895年から1年間、松山市に英語教師として滞在しました。「坊っちゃん」はこの経験を 元に書かれたとされる小説なのですね。

この漱石の詩に今回あらたな曲がつけられた『童謡』について、元松山東高校教諭の頼本冨夫会長は、こう述べられたとのことです。
「読み継がれてきた小説のように、長く親しまれてほしい」

それにしても、漱石のこの詩、なんとも素朴な味がありますねえ。漱石はこの源兵衛という馬子には愛着があったようです。小説のなかの名場面に登場させているくらいですから。

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2006年8月21日 (月)

『坊っちゃん』の碑 漱石作詞「源兵衛」の童謡

2006年 08月 21日
漱石が書いた童謡って、ご存知でしたか。


  源兵衛が 練馬村から    
  大根を  馬の背につけ   
  お歳暮に 持て来てくれた   


  源兵衛が 手拭でもて
  股引の  埃をはたき
  台どこに 腰をおろしてる


  源兵衛が 烟草をふかす   
  遠慮なく 臭いのをふかす  
  すぱすぱと 平気でふかす 


  源兵衛に どうだと聞いたら
  さうでがす 相変らずで
  こん年も  寒いと言った


  源兵衛が 烟草のむまに 
  源兵衛の 馬が垣根の      
  白と赤の 山茶花を食った


  源兵衛の  烟草あ臭いが
  源兵衛は  好きなぢゝいだ
  源兵衛の  馬は悪馬だ


    岩波「漱石全集」より


この詩にはテンポのいい曲がつけられているそうで、松山市の或る銀行の合唱団によって披露されたのです。
松山、道後温泉の側に漱石「坊ちゃんの100年祭」の記念碑ができたのは、ことしの4月。お知り合いのさんごさんからお知らせいただいたのでした。テレビでも新聞でも報道されました。

 「夏目漱石(1867~1916)の小説「坊っちゃん」発表から100年になるのを記念し、 小説の舞台とされる松山市で29日、記念碑の除幕式があった。」
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060430k0000m040030000c.html


これは漱石研究の団体である、「松山坊っちゃん会」が建立して松山市に寄贈したとのことです。
会長の頼本冨夫様とは私も私信を交わしたことがありますので、蔭ながらよろこんでいました。
「松山坊っちゃん会」坊っちゃんニュース

さんごさんはこのお盆にふるさとの松山へ行かれ、記念碑の写真を撮って送ってくださいました。拙サイトPhotoBBSでその写真を見ることができます。

「これから色々漱石の関連の公園になるという敷地の一角に一番に出来たのがこの記念碑です。まだトイレとこの碑だけでした。」

その写真には、漱石の顔の写真と坊ちゃんの書き出しの文章が書かれたとてもシャレた記念碑があって、これに漱石の詩に曲がつけられた「童謡」のCDがあればなぁ~と、思ったものです。
まあ、ふとどき者の欲ではありますが(笑)。

除幕式の日に漱石の童謡が歌われたそうです。
坊ちゃん会の依頼で伊予銀行の合唱団の方が漱石の詩の合唱曲を初披露されたそうですが、じつはさんごさん、この合唱団に昔いらしたことがあったのです。

実は昔(50年くらい前)に私もこの合唱団に居たことがありました、といわれ、それもその筈、さんごさん松山東高校(旧制松山中学)のご出身ですから、そうしたつながりがあるのは頷けますね。

記念碑は高さ1.7メートル×幅0.6メートルの黒御影(みかげ)石製。
道後温泉本館東側に 市が整備中の休憩所内に建てられています。小説冒頭の5行の自筆原稿と漱石の肖像を描き、 碑文は地元出身の作家、早坂暁さんが揮ごうしたということです。

漱石は1895年から1年間、松山市に英語教師として滞在しました。「坊っちゃん」はこの経験を 元に書かれたとされる小説なのですね。

この漱石の詩に今回あらたな曲がつけられた『童謡』について、元松山東高校教諭の頼本冨夫会長は、こう述べられたとのことです。
「読み継がれてきた小説のように、長く親しまれてほしい」


それにしても、漱石のこの詩、なんとも素朴な味がありますねえ。


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2006年8月20日 (日)

中国と日本、孫文が日本へ期待したこと そしてイギリス

1122 この画像は20年前、ケンブリッジ・カレッジの庭でのスナップ、私です。
先日、他界された鶴見和子さんの父上は、後藤新平の婿養子である鶴見祐輔。鶴見俊輔さんは和子さんの弟にあたります。

鶴見祐輔は、政府の要人であると共に作家でもありました。保守の政治家の家系から左派の言論人姉弟が出たというのも、自由な家であったからでしょう。

私は若い時に、鶴見祐輔の小説『母』を読んだ記憶があります。上流社会の母子を描いたものでした。最近、鶴見祐輔が中国の孫文にインタービューした「会見記」をネットで見ることになり、感銘を受けました。

とにかく、これは歴史的にもまことに貴重な、中日両国の驚くべき記録です!
1923年【大正12年2月21日】、第三次広東政府の大総統に就任した直後の会談。

ぜひ、ご覧くださいませ。

http://ore.daa.jp/Records/Record2/Sonbun2.htm

孫文のことば

「それは日露戦争の勝利です。あの戦争のときの東洋民族全体の狂喜歓喜を、あなたは知っていますか。私は船で紅海をぬけてポートサイドに着きました。そのときロシアの負傷兵が船で通りかかりました。それを見てエジプト人、トルコ人、ペルシャ人たちがどんなに狂喜したことか」

「そして日本人に似ている私をつかまえて感極まって泣かんばかりでした。 “日本はロシアを打ち負かした。東洋人が西洋人を破った”。そう叫んで彼らは喜んだのです。日本の勝利はアジアの誇りだったのです。日本は一躍にして精神的にアジアの盟主となったのです。彼らは日本を覇王として東洋民族の復興ができると思ったのです」

「ところが、その後の日本の態度はどうだったのでしょう。あれほど慕った東洋民族の力になったでしょうか。いや、われわれ東洋人の相手になってくれたでしょうか。日本は、やれ日英同盟だ、日米協商だと、西洋の強国とだけ交わりを結んで、ついぞ東洋人の力になってくれなかったじゃないですか…」


孫文のことばから、日露戦争がいかにアジアの民衆に勇気と希望を与えたか、日本人である私たちは知らなければなりません。

孫文は続けて、次のように語ります。

「しかし、私たちはまだ日本に望みを絶ってはいない。ロシアと同盟することよりも、日本を盟主として東洋民族の復興を図ることが私たちの望みなのです。日本よ、西洋の友達にかぶれてはいけない。東洋の古い友達のほうに帰って来てください。北京政府援助の政策を捨てなさい。西洋かぶれの侵略主義を捨てなさい。そして満州から撤退し、虚心坦懐な心で東洋人の保護者になってください」

「東洋民族の保護者として、自分たちは日本を必要としている。そして今、自分たち同志が計画しているように“東亜総連盟”は日本を盟主として完成するのです。それには日本が従来の謬った侵略政策を、ことに誤った対支那政策を捨てなければなりません。それまでは、いかなる対支那政策も支那人の感謝をかち得ることはできないでしょう。支那人は深い疑いの念をもって日本を眺め続けるでしょう」


ああ、こうしたことばを時の日本の政府と軍部が謙虚に受け容れていたならば、あの無謀な第二次世界大戦は回避できたことでありましょう!

私は、現代の日本のマスメデアは、真実から遠い視点で報道しているように感じることがあります。それより自分の目で見、耳で聞き、実感したことを信じてきたように思いますがこれも危ういものです。

もう20年前になりますが、主人がケンブリッジのカレッジに、客員研究員として滞在していたころ、私もひと夏を過ごしました。そのときのささやかな思い出をまとめたものがございます。

インド哲学とサンスクリットの学究である主人は、インドを長年にわたって植民地化したイギリスを見てみようという気持ちもあって渡英したのでした。

私はといえば、ケンブリッジとロンドンで、なぜか岡倉天心を思っていたことを思い起こすのです。


2001/7/  ケンブリッジで過ごした夏 ( ウェブ雑誌 D社 )
http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/zuihitsu02cambridge..html

一部抜粋
ほんの小さ島国であったイングランド、他の島を侵攻し自国となし、植民地政策をもって世界の大国にのしあがった国。
 紳士の国というけれど、その陰にある、武力によって征服され搾取された罪なき植民地の人々。人間の尊厳をも失った多くの人間の哀しい歴史はどうであったのか?
 そしてこの世界における最高学府の人々は、その権威ある人々は、それに対していかなる声をあげたであろうか?
 私は日本人が明治時代の鹿鳴館に舶来思想をもって英国に追いつけと奮励努力したことを思う。日本という国家は英国を模範としたようであるが、その裏には植民地政策によって大国になった非人道的な要素をも模倣したのではなかったか?アジアの人間回復を求める理想も確かにあった。しかし、西欧列強の植民地政策に倣い、日本はそれを実践して戦争をし、敗れたともいえるのではないだろうか?

 英国は今もって世界の大国であり、高い文化を有する国である。日本の平安朝と同じように貴族の文化は高く美しい。しかし、それは人類の幸福・人間の倫理ということとは別の次元ではないのだろうか?
 私は日本の知識人の中で、毅然として彼ら欧米人に向かってこう呼びかけた岡倉天心を思い浮かべていた。


 *「両大陸がお互いに警句を投げつけ合うのを止めようではないか、両半球の相互の利益によって、たとえもっと賢くはならないとしても、もっとまじめになろうではないか。われわれ両者はそれぞれ違った線に沿うて発展してきた。だが一方が他方と相補わない道理はない。諸君は落ちつかないという代価を払って膨張をかち得た。われわれは侵略に対抗するには弱い一つの調和をつくり出した。諸君は信ずるだろうか?ー東洋は若干の点において西洋にまさるということを!」 
岡 倉 天 心『茶 の 本』 第1章 人間性の茶碗 (浅野 晃 訳)  
                          *(原書は1906(明治39)年 Okakura Kakuzou「THE BOOKOF TEA」NY・FoxDaFeeld社刊・英語版)


以上は、主人の書いた随筆の部屋におさめています。

あるじ の 屑篭
http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/arujinokuzukago.html

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2006年8月19日 (土)

『現場に神宿る』百年後に真の評価を受ける人・中坊公平さん

Photo114878_2
 1929年京都に生まれ、地元の京都大学に学び、弁護士となった中坊公平さん。大阪を拠点に活動し、これまで約400件以上の裁判を担当し事件の殆どを勝ち取ってきたという、驚くべき法曹家なのですね。

 中坊さんの庶民的で飾り気のない風貌、3年前まではテレビや新聞のインタービューにもよく登場されていましたし、そのお人柄も国民的な人気がありました。

 しかし、或る事件により2002年に出版された著書を最後に、中坊さんの名を見ることはなかったのですが、思いがけず今年2006年7月5日発行のこの書物を手にして、私は感慨深いものがありました。

 本の題名は『現場に神宿る』。著者が中坊公平+松和会、とあります。「千日デパートビル火災/被災テナントの闘い」という、そのサブタイトルが表している通り、中小企業とも零細企業ともいわれる商人達(松和会)が、弁護士と心を合わせ団結して闘い勝ちとった18年6ヶ月の間の記録なのです。

 強きをくじき弱きを助ける、ことをモットーとした弁護士。これまでの活動記録を総括しますと次のようになります。

========================
1 1960年―H鉄工和議申立て事件
2 1962年―「M市場」立ち退き補償事件
3 1967年―貸金返還請求及び暴行事件
4 1970年―タクシー運転手ドライアイス窒息死事件
5 1973年―森永ヒ素ミルク中毒事件
6 1982年―小説のモデル名誉毀損事件
7 1982年―自転車空気入れの欠陥による失明事件
8 1983年―実刑服役者の新聞社に対する謝罪広告請求控訴事件
9 1985年―看護学校生の呉服類購入契約事件
10 1985年―金のペーパー商法・豊田商事事件
11 1987年―ホテルの名称使用差止め事件
12 1992年―グリコ・森永脅迫犯模倣事件
13 1993年―産業廃棄物の不法投棄・豊島事件
14 1996年―不良債権・住専処理事件
========================
(中坊公平『私の事件簿』目次より)

 今回、著者である中坊さんともう一方の著者である、千日デパートビル火災時のテナント業者36人の「松和会」。
 この裁判記録を読むと建研という権威ある公的機関の報告書にもデータのミスがあり、裁判官も弁護士も不完全な対応があったことが解ります。弁護士は現場に行き、商人達から学び共に勉強し前進します。

 「あとがきにかえて」を書いたのは松和会現代表の明地東三さん。まことにふさわしい後書きでよかったと思いました。「はじめに」は中坊さんの訥々(とつとつ)とした語りが、近江商人の「三方よし」という言葉を引き合いに、「売り手よし、買い手よし、世間よし」という伝統的な経営理念とモラルが説かれ、楽しいものになっています。

 この本の中で「中坊公平の回想」が4回出てきますがじつに親しみやすいいい文章です。これからみれば、迫力ある大作『現場に神宿る』の全体から受ける印象は、若手の弁護士さん達の代筆ではないだろうかと失礼な想像をしていました。お許しくださいませ。

 私は、中坊公平という方は100年後に真の評価がなされる人物だと考えます。現代の日本人と社会が失ったかにみえるもの、公正と正義。それを全人格をもって追求し、表現した体現者ではないだろうかと……。同じ京都市民である自分がなにかしら力を与えられるようにも感じられるのです。

 人と人との絆が分断されてきている世の中を厳しく指摘されます。小泉構造改革への批判のあとに、「実は日本人の一人ひとりが『自立』『自律』『連帯』というところからだんだんはなれていってしまったということです。」

 それを救う処方箋は、次のように述べられています。
 「アメリカ型の資本主義ではない、「三方よし」の商い、企業活動を大切にし、その方向に進んでいくことです。」

 210ページに「偲ぶ会」のことが書かれています。「京都市の聖護院の敷地に建つ旅館『御殿荘』」
 「中坊公平が経営するこの旅館は、裁判の時に何度も弁護団会議や合宿の場として提供された場所である。二〇〇五(平成17)年八月二七日、まだまだ残暑厳しい晩夏の日に、その思い出深い一室で松和会の「偲ぶ会」が開かれた。
 ドリームとの裁判中に松和会の会長をつとめていた桑増秀が、ほんの二ヵ月前の六月にガンでこの世を去ったのだ。」

 ご存知でない方のために申し添えますと、中坊さんはお若い時分から弁護士の収入を蓄えてこの由緒ある旅館の古い建物を購入。大改装のあと、今では良心的な有名旅館として全国の顧客に愛されている、旅館経営者なのです。

 修学旅行の生徒達が来るので二流か三流という声もありますが、そこはオーナーの確固たる信念があっての決断でしょう。比較的安くてサービスがいい、そして安心だ、という先生たちの声が圧倒的と私は聞いております。

 つまり、中坊さんは資本主義のなかでの資本家であるということ。従来の伝統を否定し、革命、改革を言うような人権派とは一線をひく方なのですね。京都を愛し、よき伝統を生かし、子どもたちにそれを伝えたい。その信念があって、共存共栄の経営が成功しているのです。ホテル経営が不振で喘いでいる中で、旅館『御殿荘』はいつも盛況、こちらでもたいしたものと思います。

 かつて政府からその行動力を買われ、住宅金融債権管理機構社長となられたのがつまづきの元でした。体制派として弱者を弾圧するという指弾を受けるに至ったからです。しかし、弁護士を廃業しても中坊さんは何も困ることはありません。困るのは誰か……。菊池寛賞等受賞の輝かしい経歴も、本人にはなんのことはなく小さな思い出に過ぎないのではないでしょうか。

 中坊さんには、弱くても心正しき人の友が数限りなく存在します。そのことを私はこの本からしみじみと感じたのでした。

 裁判のあり方、闘うための真剣な学び、人々との和。専門的な知識がわかりやすく書かれているこの良書を、1人でも多くの方々に読んでいただきたいと思います。

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2006年8月16日 (水)

旧同盟国・ドイツで勉学中の若い友人から

ドイツで勉学中の若い友人、写真でおわかりのように魅力的な日本女性なんです。
Noriko1_4
或る会員制の掲示板に、私はささやかなトピックを建てています。

七事式  書き込みも少ない閑散とした場所ですが、きのうその友人の書き込みがあったのを見つけました。

11: フジヤ

8月15日終戦記念日と独立記念日こちらについては私自身多くの人種・宗教・文化に囲まれる中、日本人としての自分を改めて考えさせて頂きました。 」


じつはですね。
彼女は、裏千家というコミュの管理人をしていて、その個人的なキャラクターでたいへん人気がある女性なんです。非常にしっかりとした個性の持ち主で、芸術的な感性は抜群。人生の苦労も経験している子持ちのお母さんでもあるのです。

この続きは後ほど書くことにして、


遅くなりましたが、つづけます。

フジヤさんが、「日本人としての自分を改めて考えさせて頂きました。」とお書きになったことは、果たしてどういう内容だったのでしょうね?

なんとなく私が推測しますのに、若い世代の方々は第二次大戦争を西欧人の目で見ている傾向がありはしないかと。マスメデアの論調がそうなっていますし、日本人の立場でいえばとかくナショナリズムに傾いているといったように受け取り方をされる。

悪いほうでは、右翼だと烙印を押されかねないわけです。
私もこの15日の記事は、自分のブログにだけ書きました。


もし、公共のマスメデアのどこかにでも、投稿するとなると、おそらく採用されないでしょう。なぜなら、現今の日本ではなにごとも戦争をしかけた日本の責任だ、美化することは許されないという見解を殆ど、大手の新聞社がとっているからです。


公式見解っていうんでしょうか。記者クラブの組織も権威あるものとして決められた路線があるみたいですね。
自分で考えて書く新人記者がいても、すぐさま没にされ、デスクから叱責を受ける。育てる為かもしれませんが、そんな風に聞いたことがありました。

そうかといってあまりにも保守的なところは、こちらが敬遠しますし、むつかしいものです。
でも、海外にいらしてこうした私のつぶやきの声に耳を傾けてくださったこと、無駄にならなかったとしみじみ思いました。


岡倉天心の『茶の本』のなかにも、日本への熱い思いが書かれています。
『東洋の理想』はもっと過激です。
それゆえ天心は戦後、保守反動として糾弾されtたのでした。


西欧の植民地と化していたアジアを直視した天心。
東洋の虐げられた人々を救おうとしたのが、天心の思想ではなかったでしょうか?
そうした高い理想が、結果として軍部によっておぞましく悪用されたのでした。


しかし、その理想が当時の若者たちの心の琴線に触れたことは全く無かったと、断言できましょうか?
特攻隊に志願して逝った若い方々の心には…、

もうこれ以上私は、書くことはできません。


合掌

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2006年8月15日 (火)

8月15日 終戦記念日と独立記念日

終戦記念日、敗戦記念日の今日は、テレビで放映される戦没者慰霊の式典に、ただ、合掌する私でした。

敗戦とは、具体的にはこうしたことになります。

1945(昭和20)年8月14日、政府はポツダム宣言を受諾し、翌15日の正午、昭和天皇による玉音放送によって日本が無条件降伏したことが国民に伝えられた。これにより第二次世界大戦が終結した。

内務省の発表によれば、戦死者は約212万人、空襲による死者は約24万人だった。

1982年4月の閣議決定により「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」となった。

Wikipedia - 終戦記念日
満洲事変記念日 9月18日
対米英開戦(太平洋戦争開戦)記念日 12月8日


しかし、日本の敗戦日は、同時に他国の独立記念日でもあったのですね。

朝鮮日報は次のように述べています。

「8月15日は1945年に日帝から解放された日であると同時に、1948年に大韓民国が成立した日だ。」


独立記念日が8月15日となった国は一つだけではありません。

光復節 (韓国)
韓国の4つの国慶日(国家の慶事を記念する日)の一つ。
1945(昭和20)年、日本の敗戦により、朝鮮が日本の統治から解放された。

解放記念日 (北朝鮮)


独立記念日 (インド)
1947(昭和22)年、前日のパキスタンに続いてインドがイギリスから独立した。


以上
私は主人からある思い出話を聞いておりました。主人が京都大学から同大学院ドクターコースを経てインド政府のスカラシップでインドへ留学していた頃のことです。

8月15日を迎えたその日、或るインド人から日本への感謝のまなざしにも似た好意を受けたことがあったそうです。

日本は戦いに敗れはしたが、独立できたアジアの国々があったという事実。厳粛な気持ちでそれをはじめて知らされたと、貧乏な一書生は内心感動したそうです。

悲惨な戦争を起こしたことは大罪です。この大戦を美化することは許されないのですが、事実の一面は、知らなければならないと私は思うのです。


きのうの日記に読者から興味深い書き込みがありました。
ぞうべさんは、近畿の或る市役所の管理職をしていらっしゃる男性です。


ぞうべさんの書き込み

「スライドショー建仁寺開山堂からを拝見、この猛暑のさなかに居ながらにして東陽坊をはじめ、祇園の花街まで見せていただき有難いことです。

その中に対馬行列輿というのがありました。私は解説を読んで雨森芳州のことを思いました。
近江雨森村の医者の家に生まれ、12歳で京都で医学を学び、18歳頃江戸の朱子学者木下順庵の門下となります。同門に新井白石がいたそうです。

その後、対馬藩宗家の対朝鮮方佐役となり、徳川将軍職の就任を祝う朝鮮通信使の往来に手腕を発揮しました。

朝鮮語や中国語に堪能で語学入門書「交隣須知」は明治まで使われたそうです。もし芳洲がいきていれば今の日韓関係や竹島(独島)問題をどう思うでしょうか。」


そこで、対馬について調べてみました。
朝鮮から侵略を受けて、対馬の住民がずいぶんひどい目に逢っているのですね。


応永の外寇
出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2006/08/04 06:43)


応永の外寇(おうえいのがいこう、朝鮮では己亥東征と称す)とは、日本史の時代区分では室町時代の1419年(応永26年)におきた、李氏朝鮮軍による対馬国襲撃をさす。対馬の糠岳(ぬかだけ)で戦闘が行われた事から糠岳戦争とも。


元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代に、当時中国大陸を支配していた元によって二度にわたり行われた日本侵攻(遠征)の、日本側の呼称である。一度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、二度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。


高麗の関与

『高麗史』によると1272年に、高麗の王世子の椹(後の忠烈王)が、元国のクビライ皇帝に「惟んみるに、日本は未だに聖化を蒙らず。故に詔を発し、軍容を継耀せしめんとせば、戦艦兵糧まさに、須いる所あらん、もし此事を以って臣に委ねなば、王師を小助せん」[4]と具申したとある。

また「元史」によると、元寇の発端は、高麗王の忠烈王が「元の皇帝に執拗に、東征して日本を属国にするよう勧めた」との記述がある。

これに対して忠烈王の発言の所以を高麗の国内事情に求める向きもある。
高麗はモンゴルの侵攻前は武臣が王を傀儡化して政権を執っており、王はモンゴルの兵力を借りることによって王権を奪い返した。

それ以後、高麗王はほとんどモンゴルと一体化し、モンゴル名を貰い、モンゴルの娘を王妃にしていた。これに反対する勢力は反乱を起こし、モンゴルにより鎮圧されるが、一部はなお激しい抵抗を続けていた。

これが三別抄である。忠烈王の発言は王権を保つためにクビライの意を迎えようとしたとする見解がある。上述の三策の内、高麗ルートを選ばせたのもモンゴル兵力が高麗から離れてしまうことを恐れたためとも考えられる。

http://www.pref.nagasaki.jp/sima/island/tsushima/history.html


ペンの部屋 評論 NHK

「対馬・壱岐の島民に対する元・高麗軍の残虐行為は史上あまりにも有名だ。男は皆殺し。女は虜として手の平に穴を穿って紐を通し、素裸で舷側に結びつけ、好むままに船上おいて凌辱強姦を恣にしつつ博多へ侵寇したのだ。この残虐は史料にも記され、博多の元寇資料館所蔵、矢田一嘯画『対馬の暴虐』の生々しく画くところにもある。」


まあ、戦争は、殺戮をするのが目的でもありますから、どの国も大体悪いことをやるわけです。
日本軍はむごいことをしました。ただ、日本人だけがやったということでもなさそうです。

そうしたことも含めて、謝罪をしなければならないことは謝罪をし、近隣諸国と折り合いをつける必要がありましょう。

モンゴルから相撲留学がさかんになり、日本の国技としてモンゴルの力士が受け容れられていることも、平和外交の成果ではないでしょうか。日本人はおおらかな心を持っています。


建仁寺に保管され展示されていた対馬行列輿から、思いがひろがって今日の日記になりました。人間の業がすこしでもよきほうに向かっていけばいいがと、そんな風に思いを馳せるのです。

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