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2006年8月20日 (日)

中国と日本、孫文が日本へ期待したこと そしてイギリス

1122 この画像は20年前、ケンブリッジ・カレッジの庭でのスナップ、私です。
先日、他界された鶴見和子さんの父上は、後藤新平の婿養子である鶴見祐輔。鶴見俊輔さんは和子さんの弟にあたります。

鶴見祐輔は、政府の要人であると共に作家でもありました。保守の政治家の家系から左派の言論人姉弟が出たというのも、自由な家であったからでしょう。

私は若い時に、鶴見祐輔の小説『母』を読んだ記憶があります。上流社会の母子を描いたものでした。最近、鶴見祐輔が中国の孫文にインタービューした「会見記」をネットで見ることになり、感銘を受けました。

とにかく、これは歴史的にもまことに貴重な、中日両国の驚くべき記録です!
1923年【大正12年2月21日】、第三次広東政府の大総統に就任した直後の会談。

ぜひ、ご覧くださいませ。

http://ore.daa.jp/Records/Record2/Sonbun2.htm

孫文のことば

「それは日露戦争の勝利です。あの戦争のときの東洋民族全体の狂喜歓喜を、あなたは知っていますか。私は船で紅海をぬけてポートサイドに着きました。そのときロシアの負傷兵が船で通りかかりました。それを見てエジプト人、トルコ人、ペルシャ人たちがどんなに狂喜したことか」

「そして日本人に似ている私をつかまえて感極まって泣かんばかりでした。 “日本はロシアを打ち負かした。東洋人が西洋人を破った”。そう叫んで彼らは喜んだのです。日本の勝利はアジアの誇りだったのです。日本は一躍にして精神的にアジアの盟主となったのです。彼らは日本を覇王として東洋民族の復興ができると思ったのです」

「ところが、その後の日本の態度はどうだったのでしょう。あれほど慕った東洋民族の力になったでしょうか。いや、われわれ東洋人の相手になってくれたでしょうか。日本は、やれ日英同盟だ、日米協商だと、西洋の強国とだけ交わりを結んで、ついぞ東洋人の力になってくれなかったじゃないですか…」


孫文のことばから、日露戦争がいかにアジアの民衆に勇気と希望を与えたか、日本人である私たちは知らなければなりません。

孫文は続けて、次のように語ります。

「しかし、私たちはまだ日本に望みを絶ってはいない。ロシアと同盟することよりも、日本を盟主として東洋民族の復興を図ることが私たちの望みなのです。日本よ、西洋の友達にかぶれてはいけない。東洋の古い友達のほうに帰って来てください。北京政府援助の政策を捨てなさい。西洋かぶれの侵略主義を捨てなさい。そして満州から撤退し、虚心坦懐な心で東洋人の保護者になってください」

「東洋民族の保護者として、自分たちは日本を必要としている。そして今、自分たち同志が計画しているように“東亜総連盟”は日本を盟主として完成するのです。それには日本が従来の謬った侵略政策を、ことに誤った対支那政策を捨てなければなりません。それまでは、いかなる対支那政策も支那人の感謝をかち得ることはできないでしょう。支那人は深い疑いの念をもって日本を眺め続けるでしょう」


ああ、こうしたことばを時の日本の政府と軍部が謙虚に受け容れていたならば、あの無謀な第二次世界大戦は回避できたことでありましょう!

私は、現代の日本のマスメデアは、真実から遠い視点で報道しているように感じることがあります。それより自分の目で見、耳で聞き、実感したことを信じてきたように思いますがこれも危ういものです。

もう20年前になりますが、主人がケンブリッジのカレッジに、客員研究員として滞在していたころ、私もひと夏を過ごしました。そのときのささやかな思い出をまとめたものがございます。

インド哲学とサンスクリットの学究である主人は、インドを長年にわたって植民地化したイギリスを見てみようという気持ちもあって渡英したのでした。

私はといえば、ケンブリッジとロンドンで、なぜか岡倉天心を思っていたことを思い起こすのです。


2001/7/  ケンブリッジで過ごした夏 ( ウェブ雑誌 D社 )
http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/zuihitsu02cambridge..html

一部抜粋
ほんの小さ島国であったイングランド、他の島を侵攻し自国となし、植民地政策をもって世界の大国にのしあがった国。
 紳士の国というけれど、その陰にある、武力によって征服され搾取された罪なき植民地の人々。人間の尊厳をも失った多くの人間の哀しい歴史はどうであったのか?
 そしてこの世界における最高学府の人々は、その権威ある人々は、それに対していかなる声をあげたであろうか?
 私は日本人が明治時代の鹿鳴館に舶来思想をもって英国に追いつけと奮励努力したことを思う。日本という国家は英国を模範としたようであるが、その裏には植民地政策によって大国になった非人道的な要素をも模倣したのではなかったか?アジアの人間回復を求める理想も確かにあった。しかし、西欧列強の植民地政策に倣い、日本はそれを実践して戦争をし、敗れたともいえるのではないだろうか?

 英国は今もって世界の大国であり、高い文化を有する国である。日本の平安朝と同じように貴族の文化は高く美しい。しかし、それは人類の幸福・人間の倫理ということとは別の次元ではないのだろうか?
 私は日本の知識人の中で、毅然として彼ら欧米人に向かってこう呼びかけた岡倉天心を思い浮かべていた。


 *「両大陸がお互いに警句を投げつけ合うのを止めようではないか、両半球の相互の利益によって、たとえもっと賢くはならないとしても、もっとまじめになろうではないか。われわれ両者はそれぞれ違った線に沿うて発展してきた。だが一方が他方と相補わない道理はない。諸君は落ちつかないという代価を払って膨張をかち得た。われわれは侵略に対抗するには弱い一つの調和をつくり出した。諸君は信ずるだろうか?ー東洋は若干の点において西洋にまさるということを!」 
岡 倉 天 心『茶 の 本』 第1章 人間性の茶碗 (浅野 晃 訳)  
                          *(原書は1906(明治39)年 Okakura Kakuzou「THE BOOKOF TEA」NY・FoxDaFeeld社刊・英語版)


以上は、主人の書いた随筆の部屋におさめています。

あるじ の 屑篭
http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/arujinokuzukago.html

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