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2006年11月の記事

2006年11月26日 (日)

今の世で評価されなくなった 陰徳(いんとく)


ノロウィルスでこの四日間は胃腸をからっぽにしました。

イスラムでは断食が聖なる行いとされていると聞きますが、腹ふくれるだけでは不自然なのかもしれません。

茶友のSさんは私より先にこのウィルスにやられその一部始終を電話してきました。彼女は医者には行かず正露丸を一日に3錠飲んで3日で治したそうです。

正露丸、、、そうでした。日露戦争の時に兵士達が常備した丸薬で、もとは征露丸。露西亜(ロシア)をやっつけるという意味で征の字が使われたのでした。クレオソート丸が最初の名前だったようです。

Sさんは年齢的に私よりかなり年長ですから旧い事柄をよくご存知です。それに両親の面倒をよく見られ、そのためもあってず~っと独身を通してきました。

彼女は胃腸病が治ったあと、すぐに宗家の宗旦忌の七事式に出演しましたが、本人は内心不安で途中で倒れなければいいがと思っていたと、後で話していました。

Sさんは茶道の正教授で組織の大役をしていますが、その長に就任するまでには表面には出ない軋轢があったのです。彼女を長にしたくないボス的人物がこう宣言したそうです。

いまから6年前のことです。

「第一、あんたには、肩書きが無いからね。」
そう言った方には茶道だけでなく大学名誉教授という重々しい肩書きがあるのです。

Sさんはその時、ことばを失ってただ泣いたそうです。
組織とは無関係な私ですが、私はSさんを蔭から応援していました。私は彼女に電話で申しました。

「あなたはご両親のお世話をされて見送られ、ご弟妹の面倒も見られ立派に家を守ってこられたひとですよ。
陰徳を積んでこられたことは知るひとぞ知るです。
世俗的な肩書きなどより高い次元で立派な行いをされたじゃありませんか!」

圧力をかけた人物は自分の弟子を長にすえる考えがあったからでしたが、結局選挙で決着をつけることになりました。肩書きではなく人物のSさんが選挙の結果選ばれたのは、もちろんでした。

今ではそうしたことがあったのかも忘却のかなたですけれども。

しかし、茶道の世界はもう昔とは違っています。ご存知のように、政治家は集金能力のある者を重用します。

組織ということになると、世間の厳しい命題がかかってくるのでしょうか。

禅の師家(しけ)は弟子を打ち出すのを「一個半個」と言ったと伝えられます。
ひとり或いは半分であっても真の人物を養成することを目標にしたのですね。

禅も茶も個の間はいいのですが、いったん組織となりますと…、難しいものと思います。

教育の問題が現代日本の最大の不安材料になっています。

私はつくづく思うのですが、先生という立場にある方々が謙虚であってほしい。そして母親の立場にある方々が昔の日本の母親のような素朴なひとであってほしいと。

陰徳、目にはみえない蔭のよい行いを、昔の母親は子どもに教えていました。

学校の先生のいうことをよく聞きなさい。弱い者をいじめたり、強い者にへつらったりしてはいけません。読み書きそろばん、その三つを大事にと、、、、、。

現代に生きる若い女性は、明日の日本を作る母体なのです。
人の肩書きに惑わされること無く、本質的なものを追求していってほしいと思います。
無力な自分を棚に上げてごめんなさい。


拙稿 小川一真アルバムから 女性美を見る

明治の古写真 茶摘みと茶道

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2006年11月20日 (月)

2006年今日庵宗旦忌 時雨のなかに

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ことしも宗家宗旦忌にご奉仕させていただきました。

雨模様の中を全国から宗旦さまにお参りくださった方々、700個のお菓子が足らないほどでした。

毎年無事にこの行事をつとめさせていただけることは本当に仕合せです。

午前7時過ぎに茶道研修ビルに行き、帰宅したのは午後5時過ぎでした。

今回の茶会記、はずかしながらわびすけの自筆です。なんやふぞろいですな。

                                                          床の間の花。沙羅の照り葉、椿は初嵐。花入、又玅斎自作。在判、銘 雪月花。
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川島製 インド古代模様

インドの象が見えますやろ。

と、私が先輩のうえださんに言いましたら、

そうかなあ、わたしには、馬と鹿がいるように見えますけどな。

と、いうお返事でした。

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まあ、そうかもL1010213soutankini1_2 しれませんな。なんでも、持

ち主に似るとは、昔からそういわはりますけど。

帯の垂れところを、よう、ご覧やっしゃ。L1010214kaikimae_2 

自分の至らなさをいつも感じますが、今日はひとしお…。

点前する時も迷いがありましたし、

半東のお役も何度かさせていただきましたが、失礼なことがあったのではなかったかと…。

反省すること多い一日でした。

辻利園のご当主がこの1枚を撮ってくださいました。

◇◇◇

過去の宗旦忌を、ここに挙げてみましょうか。

2000年 宗旦銀杏のもとに

2001年・2002年 宗旦忌

2003年宗旦忌 そうたん狐がきたような

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2006年11月17日 (金)

松阪大輔選手のポスティング移籍金は置屋と同じでは?

Yosinotayuu
アメリカのやることはでっかすぎますわ。
メジャーリーグが競争で松阪選手を獲得するため、60億という金額でボストンの名門球団が交渉権を得たそうです。

ニュースによると前々から西武ライオンズは松坂選手の入札額を球団の赤字に補填しようとしていたとか、真偽のほどは明らかではありませんが、庶民の感触としてまあそんなところでしうか。
これって、太夫や芸者、舞子をかかえている置屋さんに似てませんかしら?


お茶屋っていえば、京都の花街(かがい)、厳密に申しますと六つあるのです。

祇園甲部、祇園東、上七軒、先斗町、宮川町、嶋原もその一つなんですね。

今では人身売買のような暗いイメージで語られるようですが、置屋の制度がいわば男性にとってのスターを養成していたこと。大枚の金子を稼ぐにはそれなりの投資を行なってもいたでしょうし、文化に寄与していた面もあった事実は認めなければならないでしょう。

太夫に恋焦がれて見請けする旦那衆もありました。
旧くは吉野太夫。新しいところでは祗園のモルガンお雪。

いずれも美しく教養豊かな女性であったことはよく知られていますね。

吉野太夫とテレビドラマ


身請けのための大金は客から置屋に支払われるのはもちろんです。指定された名妓に渡る事はないのです。管理している店のオーナーは、名妓を失うことによる一時的な減収のかわりに見請けの大金を得ますが、これまで養成してやったという名目があるわけです。


ところで今、プロ野球の球団がやっていることは、置屋のやってきたことと別に変わりはないのでは?
ははははは、、、。


これから何年間は西武に優勝する芽はなくなったかもしれませんが。しかし、、、
オーナーにはたっぷり60億のお金を手にすることになったのですから。

孝行息子に手を合わせて感謝してもいいんじゃぁないでしょうか(笑)。


京都東山にある財団法人女紅場学園 、ここ一帯は置屋も軒を並べている花街です。公共の伝統文化・技芸学校がある場所ですが、京都の旧き時代を味わうことのできる町並みでもあります。

明治5年、日本で最初に設立された女学校。裁縫・料理・読み書きなどを教えました。
その後、新英女紅場もでき、科目には英語が加わりました。

新島襄の妻となる八重さんが養蚕を教えたそうです。同志社女子大学も元は「同志社分校女紅場」といっていたのです。

今や世界からの観光客によろこばれている町になっています。
私が何が言いたいのかもう、お解かりでしょう?

球団も収益金があれば日本のためになるような、公共に寄与する町並みを作ってもらいたいと思うのですよ。
IT新聞掲載記事  京都 東山区 祗園町 南側
:********* ******** ******** ******* *********
http://jpbpa.net/topics/04.htm
■ポスティング制度

オリックスブルーウェーブのイチロー選手がメジャーリーグ球団への移籍のためにポスティング制度を利用して注目を集めて以来、何人かの選手がこの制度を利用してメジャーリーグに移籍しています。

このポスティング制度は、日米間の選手の移籍について定める日米選手協定において規定されているもので、1998年12月15日、日米選手協定が新たに締結し直され、選手の新しい海外移籍方法として誕生した制度です。
ポスティングシステムとは、FA権を取得していない選手の海外移籍を可能とする制度で、その概要は以下の通りとなっています。


1. 海外への移籍を希望する、FA資格を持たない選手の意志を日本球団が認めた場合、球団は日本プロ野球のコミッショナーを通じて、メジャーリーグ・コミッショナーに対して、その選手が契約可能選手である旨を通達する。

2. メジャーリーグ・コミッショナーは、メジャーリーグ各球団に対して上記通達の旨を告知(ポスティング)する。

3. メジャーリーグ・コミッショナーより通達があった日から40業務日以内に、ポスティグされた選手に興味のあるメジャーリーグ球団は、メジャーリーグ・コミッショナーに対して金銭のみからなる入札を提出しなければならない。

4. 興味を示した球団が複数ある場合は、最も高額の入札額を提示した球団が日本球団との交渉権を得る。

5. 交渉権を獲得したメジャーリーグ球団との交渉を、日本球団は選手の意志に関わらず一方的に拒否することができる。

6. メジャーリーグ球団が日本選手と契約に達した場合、入札金額は、この選手の保有権を放棄する日本球団に、その対価として全額支払われる。




松坂選手はプレッシャーに負けないでね。

きっとやってくれるでしょう!

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2006年11月12日 (日)

開炉の茶会 京都美術倶楽部11月例会 

京都美術倶楽部主催 松庵茶会 11月例会 1月9日 
担当 平松栄祥堂

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待合 床  景文筆  黄葉小禽画

宙宝和尚筆 横一行  開門多落葉

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花 トリトマラズ 椿   花入 姥ヶ餅焼 耳付置 

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本席 床脇 葛屋香炉     即全作

香合 赤織部  波ノ画

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釜 雪佳筆 鹿ノ絵 撫肩丸 十三ノ内 惺斎箱

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鹿の地紋が見事でした。神坂雪佳 ( かみさか せっか)は京の生まれ。光琳風を能くし、宮中に揮毫。また図案家として京洛の染色界に大いに貢献しました。勧業博覧会審査員・京美工教諭。昭和17年(1942)歿。

席主の平松さんはたいへん気のいい方で、道具だけでなく私も撮ってください、と冗談をおっしゃるのです。私はすっかり嬉しくなって平松さんのいい男ぶりを撮影しました。

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炉縁 眞塗高台寺蒔絵 即中斎箱   元斎宗哲作

風炉先 光雪筆 光悦垣画 腰     

光悦寺の先代住職が光雪という名でお描きになったもの。風情がございました。

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棚 青漆爪紅 糸巻 在判        一閑作

水指 瀬戸耳付 

茶器 桐蒔絵 折タメ棗 碌々斎好箱  一閑作 

茶碗  一入作黒  銘 夕暮れ     了々斎箱

替   伊羅保

〃   乾山  楓画

茶杓 大綱和尚作  歌銘 時雨
 時雨する 雲に心はなかりけり 晴れるも婦るも風のまにまに

建水 高取焼 エフゴ形

蓋置 竹

菓子 綾錦 鶴屋吉信製

器 雲錦食籠  庭園楓景漆ヲ以ッテ 五ツノ内  愈好斎箱 漆仙作

干菓子 下もみじ 松笠    亀屋伊織製

器   紅葉蒔絵 足付縁高

たばこ盆 紅葉の木手付   利斎作

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火入 染付 吹寄画 八角 妙全作

煙管 唐草彫  十代浄益作

たばこ入 紙  吉兵衛作

茶  珠の白  柳桜園詰

また、床の間下座の脇床に、松毬の置物がありました。

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今回も正客をせざるを得なくなりました。皆さん遠慮されて時間が経つばかり、困りますね。

とりあえず、会記だけ書いておきましょうか。主客の会話はまた、後ほどに…。

L1010178senryoneko わが家の ドラとセンリョウの実

市バスに乗って自宅に戻りましたら、玄関先にドラがこちらを向いて、さも興味ないよ~といわんばかり。いつもこの子はそうなんですよ。

このあと、庭の椿の木の根元ちかくで、小のおつとめを真剣にやっておりました。尿毒症だと言われたこともありましたが、ちゃんとたっぷり時間をかけて無事おつとめができていたので、ほっとしたことでした。

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2006年11月 7日 (火)

三十三間堂の妙法院 鵬雲斎大宗匠による最初の献茶式

○天台三門跡 京都でこのようにいわれているお寺に妙法院があります。

妙法院、青蓮院、三千院です。でも妙法院という名よりは三十三間堂のほうが世間にはよく知られているようです。その蓮華王院本堂(三十三間堂)は妙法院の仏堂なのです。

11月5日は鵬運斎大宗匠の献茶式が妙法院で行われ、ご招待をいただきましたのでお知り合いのTさんをお誘いして参列させていただきました。


Tさんは京都大学の指導的研究者。28歳の独身男性でご専門は情報、ITには非凡な見識をお持ちです。私のカメラのシャッターを押してもらい、お互いを撮影したのが以下の写真です。茶道関連のものはご遠慮して妙法院内の背景でもわかればいいと思いまして。献茶が終わったあとの一ときです。














お献茶は宸殿で厳かに行われました。ここは幕末の七卿落ちがあった処と伝えられます。
そして小堀遠州作と伝える庭園もうつくしいものでした。何よりも公開寺院でないことから世俗的でない品格があり、祭壇横に整列された8人の寺僧さんがたの清清しい雰囲気がすばらしかったです。

読経も密教だからでしょうか。鷹揚な調べの、私にはあのモンゴルのホーミーにも似たような響きを感じました。皆さん感動されておりました。
これは天台声明(しょうみょう)と申しますか。梵唄(ぼんばい)と申しますか、もとはインドから伝わったものでしょうね。

今日庵席 大書院

東福門院の旧殿を移築したものとお聞きしていますが、その座敷で濃茶が振舞われました。

床 九条卿  お名前は覚えていませんが、懐紙に詠草がかかれた掛け物。

花、照葉 ドウダンツツジ 椿 が、仙叟作 竹 旅枕 に入っていました。

長板 二つ置き

道安風炉に 尾垂釜。 水指は 呉須 香炉形 でした。 

茶入 古瀬戸 たしか翁手だったでしょうか。 茶杓は、ああ、それで、とわかりました。

この間、10月29日の宗家開炉の日、例年出てくるはずの茶杓 一燈の「口切」が今年は無く別の茶杓だったのです。この妙法院献茶式の今日庵席、ここで使用されるためのものだったのですね。

なにしろ、妙法院でこれまでお献茶があったことはなく、この度、ご住職のご要望により初めて後白河上皇880年記念の献茶が鵬雲斎大宗匠によって実現したのでした。

まさに、「口切り」という銘の一燈のお茶杓は、この日にふさわしいものであったと思います。
茶碗は今日庵伝来、大徳寺呉器、気宇の大きい名碗でした。

点前は渡辺業躰。半東は金沢宗達さん。兄の金沢宗維業躰とご兄弟で亡き父君の名跡を立派に継がれている若手のホープでいらっしゃいます。若手ながら謙虚でしっかりした応対は宗達さんならではですね。

濃茶をいただいたあと、茶道口から大宗匠がおでましになり、点前座の後方に坐られ談笑されました。私は連れのTさんとご一緒にご挨拶に参りました。大宗匠はそのことを喜んでくださいました。

若い男性、それも今どきの若者らしからぬ武士然とした風貌の大学研究者に、これから裏千家茶道を理解し、興隆につとめてほしいとの期待がおありだったのでしょうか。
初心者へのあたたかいお励ましのお言葉でした。

Tさん 2006年11月08日 taro's blog 裏千家のお茶会

リンク
妙法院住職 すがわらしんかい さん




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2006年11月 5日 (日)

京の尾形光琳が 熱海のMOA茶苑へなぜ?

開炉といいますと先ず茶壷(ちゃつぼ)が浮かびますね。

かの名だたたる国宝茶壷は、色絵藤花文茶壷 野々村仁清作。それは熱海のMOA美術館にあります。

そのMOA美術館の茶苑で行われた大徳寺塔頭(たっちゅう)徳禅寺・護持会25周年記念茶会。

濃茶 光琳屋敷。MOA茶苑内の案内図と光琳屋敷の画像

なぜ、京都人である光琳の屋敷がここにあるのでしょうか?光琳との接点はなにか?

それは、尾形光琳筆 紅白梅図屏風 の国宝がこの美術館に収蔵されているのです。

さらに、大徳寺開山 大燈国師の墨蹟があることがことが挙げられます。

宗峰妙超墨跡 秋風偈 重文

したがって、伝統仏教である臨済宗大徳寺と、いわば新宗教の世界救世教との関わりがこうした処にあるといえると思います。また、教祖の岡田茂吉氏の年譜には興味深い記述がありました。

1905[23] 東京にて小間物小売商「光琳堂」開業 。
岡田氏の光琳への思い入れが早くから並々ならぬものであったことが伺われますね。

ここで茶会記を簡単に書き写してみましょうか。

濃茶 光琳屋敷。  

主   遠州茶道宗家13世  不伝庵 小堀宗実

寄付

床   狩野探幽筆  瀟湘八景ノ内  瀟湘夜雨

炭道具 
香合  呉須染付 柘榴
他    遠州好
羽箒  玄鶴 一双ノ内・右
釻    遠州好 宣徳 太平    大西 定林作
灰器  遠州切形 伊賀

本席

床  大徳寺開山宗峰妙超墨跡  徹翁  (二字大)
花  白玉椿  照葉
花入 古銅 龍耳

点法席

床 遠州蔵帳の内  大徳寺一五六世 江月宗玩筆
大徳寺宗流      箱書付 小堀遠州筆

釜 天明  霰地紋 尾垂
水指    南蛮 ハンネラ蓋  松 木地半板に乗せて

茶入  瀬戸破風窯 翁手
銘・玉津島  挽家 ・内箱書付 松花堂昭乗筆
ひととはば しれる翁のよがたりを 
        むかしにかへすわかのうら浪

仕服 茶地雲竜文金襴
    紺地宝尽文金襴

茶碗 大井戸 銘・江山 箱書付 大徳寺一九〇世 天室宗竺筆
茶杓 小堀遠州作共筒 内箱書付 権十郎逢雪筆
銘 ・ 本 外箱書付 和翁宗中筆

建水  遠州蔵帳の内 砂張 合子 箱書付 小堀遠州筆 
蓋置 青竹引切

茶銘 一玄乃昔  小山園詰
菓子銘 好 紅白きんとん 源太満永堂製

薄茶席はまた後日に。



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2006年11月 4日 (土)

MOA美術館における大徳寺塔頭・徳禅寺護持会記念茶会

写真は1, 左から 中宮寺ご門跡。 高桐院ご住職。 椿わびすけ。

この門は片桐門と呼ばれるものです。唐門とは別の門でこちらからご覧くださいませ。

[ 片 桐 門 ]

 「賤ケ嶽7本槍の一人、片桐且元が1590年薬師寺の普請奉行を努めた折、その宿舎の正門で唐門と共に大磯町の三井家別邸より移築しました。」

1日の夜、中宮寺の日野西光尊ご門跡からお電話でたってのご依頼が。

先月末にお寺で夜明けころに転倒され、不幸中の幸いで骨折はなかったものの、あちこち打撲があってお辛いご様子でした。

おついたちの裏千家ご宗家には何事もないかのようにお出ましになっていましたので全く思いもしないことでした。ほんとうに気丈なお方でいらっしゃいます。

ご門跡のご依頼とは、大徳寺塔頭の徳禅寺さんが開催される11月4日MIA美術館での記念茶会のご招待を頂いているので是非同道してほしいとのこと。お供の尼僧さんが生憎里帰り(?)しているとのお話でした。

こんな私ではお役に立たないと思いますし、かえって足手まといになりますと申し上げたのですが、すでに申し込みをされていたようですので主人にも相談した結果、お供をさせていただくことにいたしました。

熱海のMOA美術館での「徳禅寺護持会25周年記念茶会」

多くの来客のなかでご縁があった方、お正客の大徳寺・高桐院住職の松永剛山師。ご次客中宮寺日野西門跡。

写真1,4,5,は他のご連客のお方にシャッターを押して頂いたものです。他は私が撮影。


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茶会記はまた後日、お伝えいたしますね。ちょっとつかれています。




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2006年11月 1日 (水)

鵬雲斎大宗匠が語られた 利休頭巾

開炉のよろこびに、今日の裏千家宗家は早朝から大勢の同門社中が参集しました。

咄々斎(とつとつさい)で家元の道話、ついで大宗匠の道話、それぞれ茶道宗家ならではの風格ある内容でした。

つい先日このブログで取り上げたばかりの「利休頭巾」について、鵬雲斎大宗匠は次の話をされたのです。

私は速記したわけではありませんからニュアンスが多少違っているかもしれませんが、大意はこの通りだと思っています。

「私と家元と孫の明史と食事の時に話し合ったのが、「利休頭巾」のことです。

利休居士は有髪でした。そのころの被られた利休頭巾の絵などを見ますと有髪のようすがわかります。
しかしその後、天正十年に剃髪をされています。利休頭巾もそれにあわせて作り変えられたんですね。
書物で伝えられることより、わが家は連綿と利休居士の茶の道を受け継いできたし今後もそうだということを話し合ったのです。」

これまでは家元ご一家と別居されていた大宗匠。

今日のお話で、この度新築されたお屋敷で3世代の大家族の和やかなお食事のひとときが伺え、拝聴する私共も嬉しく仕合せを感じました。

稽古に移りまして、指導の阿部業躰にいつものように何気なく問いかけました。

「淡々斎が利休頭巾を与えれたのは、東京の鈴木宗保業躰と寺西宗楽業躰のお二人だったようにお聞きしていますが。」

「うーん、伊藤宗典さんも貰ってたんじゃなかったかな。」

そこで、わたしの隣に坐っていた伊藤家のヨメである宗福さんに、「お宅に利休頭巾は今あるの?」と聞いたところ、

「あったかも知れんけど阪神大震災でなくなったわ。私は見てないから知らんわ。」とのこと。

でも利休頭巾をかぶったお祖父さんの写真が残っている、という話でした。

時代が変わったというのでしょうか。

今の時代に古風な頭巾をかぶって町を歩く人は、ちょっと考えられませんしね。

「阿部先生はいずれ貰われるのじゃないですか?」と余計なひとことの私。

「いやぁ。そんなことはないよ。」

結局、鵬雲斎大宗匠の代には利休頭巾を与えられた方は一人もありませんでした。

今後、坐忘斎家元が年を重ねられた時、この伝統をどのようになさるのか、こちらも謎ですね。

床にはハシバミの一枝と白椿が入っていました。

「ハシバミを炉開きに使うというのが約束のようになっていますが、どのような謂れが?」

「ああ、これは、照葉という意味ではない。黄葉して落ちる秋の最後のすがたではないんです。葉が落ちてからハシバミは花をつけているのです。それにはこれから始まるという意味がある。開炉に際して、始まりの時ということで用いるのでしょうな。」

いつもながら、阿部業躰の分かりやすいお話には感銘を受けるのです。

床の花をまじまじと見ます。枝にぶらさがったのがその花なのでしょうか。
いつか、こう言って教えてくれた人がいたのを思い出しました。

「長い房が垂れ下がっているようなハシバミの雄花ですよ。」

雌花は春に咲きのちにドングリの実をつけます。阿部先生の言はハシバミの雄花のことですね。この垂れ下がった雄花は来年の春まで枝についているわけです。まあ、受け取り方によれば、まさに男社会だということにもなりましょう(^。^)。

それからまた、一茶の俳句もありますね。はんというのが榛の音読みです。ハンノキ(榛の木)と探せば解説がでてまいります。

はんの木のそれでも花のつもり哉     一茶

子規の短歌にもみられます。

はんの木に鴉 芽を噛む頃なれや 雲山を出でて人畑をうつ
                                      正岡子規


そういえばはしばみ色という色が日本にはあるのも、面白いです。

若い方々が面白いことを囁いていて、皆でそれをサカナにして笑ってしまいました。

「ハジカミは知ってるけど。ハジトミはよく分かりません。」

先生も、「ハシバミ、ハジカミ、ハジトミ、かあ。似てるからなあ。」とにこにこ。

寿司の話、露地の話、などをほうふつとして楽しい会話でした。

稽古は、台子で「真の炭」、「真の行」、「大円真」、が行われ、こちらも丁寧なご指導を頂いたのです。


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