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2007年3月の記事

2007年3月30日 (金)

2007年裏千家利休忌 副席

3月28日 裏千家利休忌。 ことしも副席のお手伝いに参りました。水屋で茶筅振りをしておりましたが合間にカメラでパチリ。先ずは茶道研修ビルの稽古場席、床の花から。

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花入れ 六閑斎(りっかんさい)在判 銘 春風 亀波蒔絵 箱不見斎 「泰叟二重」

花 花梨(カリン) 五色散り椿

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掛け物 坐忘斎家元 点茶三昧 忘名利。

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   香合 堆黒(唐物)

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水指  仁清

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花の相談

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寄付 床 近藤悠三陶板

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拝見の説明

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茶道会館へ 点心席がございます

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2007年3月25日 (日)

パリ・オペラ座の「勧進帳」 市川團十郎・海老蔵親子

ハイビジョン特集「パリ・オペラ座の弁慶」
今夜午後七時からNHKBSで放映されましたね。ご覧になった方は多いことでしょう。

パリ・オペラ座で行われる史上初の歌舞伎公演。
市川團十郎・海老蔵親子が演じるのは歌舞伎十八番の「勧進帳」。

これは、3月23日の初日の模様だそうですが、いやぁ~、もう感激いたしました。

團十郎の弁慶。海老蔵の富樫。亀治郎の義経という配役。最初に役者の口上があり、なんとフランス語ではっきりとイチカワ、、、とテンポよく行われたのです。観客席は拍手喝采。

舞台の作りも本格的で、長唄の演奏がこれまた素晴らしく三味線・鼓の囃子方のかもし出す品格ある民族音楽。退屈させない劇的な流れ、まさに世界に誇れる歌劇としてこの「勧進帳」を見ました。

昔習ったことのあある長唄ですから、次にくることばも自ずと出てきますし、最高レベルの奏者たちです。やはり、伝統はそのままの形がベストだと思いました。西洋風にアレンジしていないのがよかったですね。

富樫は昔からとびきりの美男子の役です。海老蔵は適役でした。
昔みた時は、菊五郎の義経でした。今回はすこし華がなかったようにも(すみません。)

弁慶の主君を思う心を感じ取った富樫の表情。抑えたなかに男の美がありました。
勧進帳と見せかけた巻物を高らかに読み上げる場面は圧巻でしたが、富樫から振舞われた酒を豪快に飲み干し、感謝と喜びを表現する弁慶も素晴らしかったです。

團十郎は、日本文化を誇りを持って伝えたいと語っていました。テーマは日本人の「仁」「情」。

団十郎さんら初日終える パリ・オペラ座歌舞伎
朝日新聞

産経新聞

終了後にフランス人観客は理解できた!音楽がいい、衣装が素晴らしかった!と口々に喜びのコメントをしていました。

私は「不易流行」(ふえきりゅうこう)という言葉を考えていました。
よくいわれることばですが、生活の中に実感はなかなか湧かなかったのです。それが今日の歌舞伎を見てこれだ!と強く理解できたのです。

「不易流行」はどのようにしていわれてきたのでしょうか。それは次のようなことだったのです。

元禄2年(1689年) 芭蕉46歳のとき

12月 京都滞在中、去来に「不易流行」の理念を説いています。

「奥州行脚の前はままあり。この行脚の内に工夫し給ふと見えたり。行脚の内にも、あなむざんやな甲の下のきりぎりす、といふ句あり。後に、あなの二字を捨てらる。是のみにあらず、異体の句どもはぶき捨て給ふ多し。この年の冬、初めて不易流行の教を説き給へり(去来抄)」

「不易」というのは時の流れによっても変わらないということ、そして「流行」というのは時の流れとともに変化してゆくこと。一見相反するようですがこの両方がなければならないと説いているのではないでしょうか。

周囲の変化の中で本質的な『自分』を保ち続ける。自らが変化していく過程と申しますか。「不易」と「流行」とのバランスを常に考え到達したのが芭蕉だったのではないかと思います。

今の世の中は流行が突出していますし、国の教育方針もやれゆとり教育だの変更だのころころ変わりますよね。
日本は、これから伝統の変わらない良さを守っていくことが必要ではないかと思います。

オペラといえば西洋のものだと、思わないことでしょうね。
こんな見事な歌劇わが国にはあるのですから。

歌舞伎! 「勧進帳」。

白血病を克服された市川團十郎さんに、感動するばかりでした。



團十郎さんのこと。

歌舞伎の市川団十郎さんは抗がん剤の副作用とかで丸坊主であった。痛々しいという感じはなく、「病気は完治したと思っている。5月から舞台に立つ。」と力強く朗らかに言明。場内から拍手が沸いた。

 団十郎さんは、歌舞伎の中には世の理不尽なものをリアルに描くことで時代を超えて訴える力がある。また、先人から受け継いだ誇りがある。日本の伝統文化は年配者にやさしい文化だ。高齢であっても力があれば正当に評価される、と続けた。

 これらの発言は会場の視聴者に多くの感動を与えたようであった。団十郎さんはことし59歳。昨年襲名披露をした坂田籐三郎さんは昭和6年12月生まれと聞くから74歳で歌舞伎界のトップスターである。まさに世界に誇っていい日本の「やさしい文化」である。

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2007年3月21日 (水)

お彼岸の中日 おしょうじん  大魚と猫

ロイヤルコペンハーゲン 北欧の名門陶器として日本人にたいへん人気があります。もとは中国の染付けを学んで製作したものですが、王国の伝統と気品をもって独自の美を創り出しました。









タカシマヤで釘付けになったのは、大魚の作品です。色彩も形も見ていて飽きません。
折りしもお彼岸の中日です。

彼の岸まで力強く泳ぎきるかのような、北欧の大魚。
係りの方に撮影の許可を申し入れましたら、すぐ上司の方に聞きにいかれました。

笑顔で、「どうぞ、どうぞ。とっても嬉しいです。男性の方からお褒めの言葉をいただきましたが、女性の方は初めてですから。」とのこと。ありがとうございます!

猫はいない…、とつぶやきましたら、こちらにいますと、フランスのコーナーに案内してくださいました。タカシマヤのスタッフは本当に感じがいいですね。

ラリック作



猫に場所を移動してもらいました。

コペンハーゲンには魚はいても猫がいない。こんな大きい魚なら猫のほうが逃げていくでしょうね。でも、この魚はまことに由緒正しく、日本の皇室にも贈呈され大切に保管されているのでした。


宮内庁三の丸尚蔵館 ( 宮内庁ホームページより)
第36回展
展示作品リスト

平成17年1月8日(土)~2月27日(日)
January 8(sat.)-February 27(sun.), 2005

21
ジャンヌ・グリュー(原型)、
ロイヤル・コペンハーゲン磁器製作所
ブルー・フィッシュ (原題:Blue Fish-Coelacanth) 
1971年頃 
陶磁
昭和46年(1971)昭和天皇 香淳皇后ロイヤル・コペンハーゲン磁器製作所を ご訪問の折、同所より

Blue Fish
Royal Copenhagen Porcelain Manufactory,
original design by Jeanne Grut   ca.1971; porcelain
1971, gift of Royal Copenhagen Porcelain Manufactory on visit there by Emperor Showa and Empress Kojun



ロイヤルコペンハーゲン社の解説によれば次のようになります。 

『おおよそ3億5000万年前より生息していたと言われる「シーラカンス」は、化石の上のものとして、数千年前に恐竜と共に死滅したとされていました。しかし、1938年12月に南アフリカ東海岸でグーセン船長の魚網にかかった1尾がシーラカンスそのものでした。このシーラカンスは、学名を「ラティメリア・チャルムナイ・スミス」とつけられました。その名は、グーセン船長からラティマー女史、さらにスミス博士へと幻の魚を現実のものにしていった人達と捕獲場所チャルムナ河口沖に因んでいます。東アフリカ沖のコモロ諸島の人々の間では、古くからこれを「ゴンベッサ(幸運)」と呼び、幸福をもたらす縁起の良い魚だとの言い伝えがあります。彫塑家ジャンヌ・グリューは、このシーラカンスから強烈な印象を受け、青の釉(うわぐすり)を用いた陶器でこれを表現し、「ブルーフィッシュ」として発表しました。この作品は、素晴らしい未知のものに対するロマンを呼び起こします。1972年(昭和47)秋、昭和天皇・皇后陛下が訪欧された際、ロイヤル・コペンハーゲン社を見学され、記念としてこの「ブルーフィッシュ」と同じものが陛下に献上されました』。




タカシマヤ・美術コーナーには、ガラスの猫がいました。れっきとしたフランス猫!

☆ ルネ・ラリック

アール・ヌーヴォー、アール・デコの両時代にわたって活躍した作家ですからご存知の方も多いでしょう。

ルネ・ラリック
ルネ・ラリック(René Lalique、 1860年4月6日 - 1945年5月5日)は、19世紀~20世紀のフランスのガラス工芸家、宝飾(ジュエリー)デザイナー。 出典: (Wikipedia)

「前半生はアール・ヌーヴォー様式の宝飾(ジュエリー)デザイナーとして活躍し、その分野で名声を得ていた。宝飾デザイナー時代から、ガラスをパーツに用いていたが、ガラス工場の経営者に転進するのは50歳を過ぎてからである。」

また、ルネ・ラリック と日本との結びつきをみてみましょう。

Link 箱根ラリック美術館


「ルネ・ラリック(1860-1945、フランス)が工芸作家として様々な技術や意匠を吸収していった19世紀後半、「ジャポニスム」と呼ばれる日本美術の影響が、フランスをはじめとするヨーロッパ各国を席巻していました。ラリックもまたジャポニスムから多くを学び取り、日本風のモチーフを使用するだけではなく、構図・視点などにも日本美術の妙を取りいれました。」

東京都庭園美術館(朝香宮[あさかのみや]邸)

この建物は1920年代から1930年代にかけてヨーロッパの装飾美術を席巻したアール・デコ様式を 現在に伝えるものです。フランス人デザイナーが、主要部分を設計、内部装飾もフランスをはじめとする 外国から輸入されたものが多用されています。

ルネ・ラリックは、朝香宮邸においては正面玄関ガラス・レリーフ扉、大客室と大食堂のシャンデリアを制作しています。


1925年のアール・デコの博覧会において、彼は自身のパビリオンをもち、その傍らに記念碑的なガラスの噴水を制作するなど、アール・デコのガラス工芸家としても活躍したのです。

お彼岸の中日、わが家ではおしょうじんの献立です。精進と漢字変換が出るまでに時間がかかりました。
だって、「和尚人」って出たのですもの。たった一日だけで和尚人になれますでしょうか???

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2007年3月16日 (金)

京都市指定 天然記念物 総見院のワビスケ

信長の墓所・総見院に咲きつづけるワビスケは、 京都市指定天然記念物です。(北区紫野大徳寺町) 昭和58.6.1指定。1本 樹高6.4m。「豊公遺愛わびすけ」との伝承があるのです。
椿の品種ワビスケとしては日本で最古の木といわれています。

















大徳寺山内の石畳の道をゆっくりと歩く人々。

しばらく行きますと、若松…が見えました。 土塀にひっそりと添うように佇んでいるひともとの若松に、「がんばってね」と声をかけたくなりました。それから松の巨木の根っこに、しばし足を留めました。何百年か無言でここに生き続けている松ノ木です。

総見院のワビスケの木も、これからもずっと長寿であって ほしいものです。

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2007年3月13日 (火)

千羽鶴って ツバキでっせ 今咲いてます

スライドショー 千羽鶴が咲きました







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ことしの初天神(1月25日)、北野天満宮の植木市で、千羽鶴という銘のツバキの若木に出会いました。

「美智子皇后さまはこのツバキがお好きなんだそうですよ。」

植木屋さんにそういわれると、急に買いたくなりました。いそいそと重くても手に持って家に運びました。

その木に蕾がついていましたが漸く3月になって膨らみ、先日から次々と花が咲いています。

一重でうっすらと紅がさしているような、つつましやかな花です。一輪だけですがカメラに収めました。

うれしいことに、この日は中宮寺ご門跡さまの喜寿記念の或る行事のための会合がございました。

ご門跡さまを囲んで、編集委員のお歴々の方々の末席に加えていただいていますわびすけ。

冷泉さま、出雲路先生、北野天満宮宮司さま、中宮寺お世話役・ドクター辻さま。

皆さまの間で、きびしくも建設的なご意見、たのしい会話が続きました。会合はこれで4回目です。

なにやらデカイ顔に写っているのがお恥かしいです。千羽鶴のようには到底まいりませんです。

9月には晴れてお知らせできることと存じます。

1月25日 今日は初天神

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2007年3月 8日 (木)

北海道~パリ 幸福の鐘 コウノトリ 

茶道を通じて若い方々とお付き合いするなかで、心あたたまる実話を聞くことがあります。

yukoの夫 pさん撮影 2006年春

                    幸福の鐘

今はフランスのパリ市に新婚家庭を築いている29歳のyukoさん。
その方から、昨夜メールが舞い込みました。新しいマンションに引っ越した為、インターネット環境が不自由(数ヶ月も不通)で、電話もなかなか取り付けられなかったようです。日本の便利さに慣れている私たちにはちょっとした驚きです。

航空郵便ではすでに、オメデタの知らせは来ていたのですが…。

「先生、ご無沙汰しています。
1月27日、出産しました!
心配を他所にすごく安産で赤ちゃんは3365グラムですごく元気な女の子です。」

うれしいお知らせでした。
でも、赤ちゃんの写真は昨夜、はじめてネットから送信されてきたのです。


お名前はリサちゃん。黒髪と黒いひとみ。おお、!!!

この赤ちゃんは、じつはコウノトリが運んできたと、yukoさんは昨年話してくれました。

北海道に彼と旅した日のこと。船に白い鳥が飛んできてふたりの傍を離れなかったそうです。

「私の父がやっと彼との結婚を許してくれて、彼が日本に挨拶に来た時桜を見せたくて北海道に行きました。」

「この時はただ、「かわいい鳥だねー」とか、「この鳥さん、私たちのこと好きみたいだね」ってはしゃいでいただけなのです。

それがフランスに帰って、 北海道の写真を見てこの鳥のことを思い出したのです。

こうのとりだったんだ!
って。

鳥さんと、重大な決意をしてくれた彼にとっても感謝しています。

彼に出会うまではどちらかというといつも強気な女でした。 
彼と赤ちゃんは私をすごく素直にしてくれました。 」

フランスのIT産業で若きエリートとして活躍するフランス人の夫君と、茶の心をもって生きようとするyukoさん。パリ市役所であたたかい祝福を受けながら結婚式を挙げられたのでした。

その時、夫君のおじい様が車椅子で出席されました。花嫁が身をかがめておじい様に挨拶される写真が私にはとても美しい光景に見えました。

きのうのメール

「先生、こんにちは。
やっとインターネットが開通して、ゆっくり家でミクシィが見れるようになりました。
どうぞこれからも宜しくお願いします。yuko 」



yukoさんのこと

2006年 10月 26日
カミーユクローデルが製作した兄・ポールクローデルの胸像


2006年 10月 30日  天龍寺献茶式に 恒例のご招待

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2007年3月 4日 (日)

オスネコでも ひな祭り



ハマグリのかまぼこ雛はお気に入り。

うちの猫はどうもわけの分からない生き物です。
野良猫たちが庭に侵入してくると、防衛本能から唸り声をあげ、毛を逆立て、なんとも勇ましい格好をするのです。

獣医の先生から以前、こう、諭されたことがありました。

「お前なあ、もう年なんだから、ボスの座はほかのヤツに渡してやれよ。いつまでも強いわけはねえんだからな。」

17才を過ぎたオスネコです。さあ、聞こえたかどうか、ドラは知らんふりをしていたみたいでした。あれから体の不具合が続き、それどころではなくなったのです。でも、けっこう元気にはしているのでどうもわけが分からない気持ちになるのです。

パソコンのそばに来て、なにかや話しかけます。もちろんネコ語です。





癌と腎臓の病気持ちですからなんでも食べるということはできません。
気に入ったものだけ少し口にします。大きい癌のため、腸がお腹の端っこに追いやられているのです。ドラの好きなものがみつかるとこちらのほうが大喜びをしてしまいます.


ハッカクという北海道の珍魚が生協に出ていたので買ってきました。これがたいそう気に入って食べてくれました。こちらも少し食べると美味でしたよ(笑)。





にんげん用に、ちらし寿司を作りました。ニンジン、ゴボウ、レンコン、シイタケ、タケノコ、キヌサヤ、ササゲ、玉子焼き。切り方が雑ですが、味は中々いいという家人の話。(ほんまかいな)


うれしいことに、初天神で買いましたツバキの「千羽鶴」のつぼみが開いたのです。
それからもう一つ、たのしい出会いがありました。タカシマヤの喫茶室でカガヤク中年ふたり組。同志社前の「わびすけ」には、学生時代よく行きましたと談笑。。。

明るく良識ある京都女性、ここにあり~~~♪。。。




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2007年3月 2日 (金)

西川一草亭 去風流挿花 漱石との交流

西川一草亭(一八七八~一九三八)
去風流七代目家元。昭和13年(1938)一草亭歿、61才。


女性としてはよき家庭を築いた良妻賢母。知識人としても美術評論が抜きん出ていた白洲正子さん。彼女は生け花を習ったことはないそうですが、花について次のように言及されています。

[私はいけ花を習ったことはない。
しいて先生があるとすれば、好きで集めた器の類と。
西川一草亭の編纂による「瓶史」とよぶ冊子かもしれない。

「瓶史」から学んだのは、
いけ花は一種の総合芸術であるということだった。
花は花だけで孤立するものではなく、
周囲の環境と生活の中にとけこんで
はじめて生きるという意味である。

もうひとつの先生は器である(中略)
花は器にしたがって生けていれば自然と形になるということを自得した。」




西川一草亭の令孫、華道去風流九代家元・西川一橙氏。
わびすけの所蔵する竹花入れ、一草亭好みの尺八に挿花をお願いいたしました。




夏目漱石が一草亭のために書いた画賛。

  牡丹剪って一草亭を待つ日かな  漱石

●2003/04/17 Thu 21:53 津田青楓の兄 西川一草亭

この拙文を書いたとき、いつか「去風洞」家元を訪問したいものと考えておりました。4年経って漸く実現したというのは、なにごともスローモーな私めでございます。

漱石の画賛の軸の箱書きは、いうまでもなく一草亭ご本人です。すばらしい筆跡をカメラに収めることができました。

椿のデザインは一草亭のオリジナル。来客の時だけこのテーブルセンターをお出しになるとか。光栄です。





漱石が京都に来て、西川一草亭の自宅を訪ねた記録が残されています。

「去風洞といふ門札をくゞる。奥まりたる小路の行き当り、左に玄関。沓脱。水打ちて庭樹幽遠、寒き事移し、床に方視の六歌仙の下絵らしきもの。花屏風。壁に去風洞の記をかく。黙雷の華蔵世界。一草亭中人。…… 料理 鯉の名物松清。鯉こく、鯉のあめ煮。鯛の刺身、鯛のうま煮。海老の汁。茶事をならはず勝手に食く。箸の置き方、それを膳の中に落す音を聞いて主人が膳を引きにくるのだといふ話を聞く。最初に飯一膳、それから酒といふ順序。…」。

茶事の様式で漱石は出された懐石を口にします。はじめての体験でひどく窮屈だったようです。このあと、漱石はずいぶん失礼なことを一草亭に言うのですが、それでも二人の間には妙に惹き合うものがありました。



私は一草亭のお孫さんである一橙氏とは初対面でしたが、「去風洞」家元のた佇まい、九代家元のお人柄に触れ感深く存じました。この家風は自然のすがたの花木を大切にされ、いわゆるアート的なものとは一味違うのです。

ウグイスカグラの花が小さく咲いた枝。それと本阿弥椿を一輪、お入れになりました。
それぞれが生き生きとうつくしく添い、竹花入れに調和しておりました。椿の葉のなんと見事に映えていたことか。

茶花ですと、つもって生ける。よく「つもり花」と申しますね。雰囲気は共通するものがございます。しかし、こちらは茶室に限定された部屋ではなく、書院風な感じがあり生活に自然をより美しく取り入れるといった風趣です。

風流一生涯、とは一草亭が死に際して書いた絶筆だったとお聞きいたしました。挿花を教えて月謝をいただくことすらこころよしとしなかった清貧の家風が続いていたようです。決して裕福ではなかった一草亭ですが、漱石との交流、弟である津田青楓が漱石の日本画に影響を与えたことを思うのです。

超俗のなにかがそこに生きていた、今も去風洞にはそうした伝統があるように、私は感じるのでした。

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