花の下に逝かれたわが心の師 通夜に参りました
四月といえば桜。
東京ははや満開とか、各地の花便りがきかれます。

この原稿を非公開で書きはじめめてから、思うところあって停止していました。藤枝駅の画像は先月末に、大叔父のお通夜に行ったときのスナップです。
主人と私にとって、心から深く尊敬するお方でしたから、本当は喪に服さなければならない日々なのです。日本全国、桜の花が咲きう、美しい国というキャッチフレーズが、花に限ってなら実感をもって肯けるのです。でも、私たちはそうした思いには遠く、3月末に京都を発ち大叔父の在所にまいりました。
藤枝駅といえば、東海道藤枝宿の宿場町でした。藤枝宿(ふじえだじゅく)とは、東海道五十三次のうち江戸から数えて二十二番目の宿場となっています。1601年 東海道の宿場町として藤枝宿が置かれます。最盛期には旅籠が37軒あり、商業地としても栄えたようです。
この土地はひなびた感じが今も残る土地柄ですが、当時の住民の考えがはっきりとしていました。住民は、明治に入り東海道本線が建設される際、蒸気機関車の煙や火の粉を心配して、線路の建設を拒んだといいます。そのため藤枝駅は町から3キロほども離れて設けられ発展できなかったという見方があります。
住民の声が届いた行政ということ。今では日本の夢物語のように思われますね。
◆
私的には大叔父さまですが、本来の出家には血縁関係はない筈です。
私は老師さまとお呼びしておりました。
けれども、主人と私の結婚に際して結納の席にもわざわざ京都までお出ましいただきました。
ほんとうにご恩になったお方でした。
曹洞宗の禅堂の指導者として、真摯な佛弟子を打ち出されました。
永平寺の西堂にいったん就任されながら、自ら辞任なさいました。
一生涯独身、肉食をされず精進潔斎を貫かれました。
老師のそのお姿に、私はどれほど多くの教えをいただいたことでしょう!
かつて老師のご染筆を2枚裏千家ご宗家にお送りいたしましたところ、鵬雲斎大宗匠から私にお声がかかりました。
「あの書を表装させてもらいますが、ご老師に箱書きをおねがいできますか?」と。
それから、「いや、私が箱書きをすることにしますから。」とおっしゃいました。
そのことをなつかしく思い出すのです。もう5、6年前のことでした。
私は時々ふっと、あの一行物と横物の墨蹟をご宗家で一度拝見できたらなぁ、と心の中で思います。
今は黙ってご冥福をお祈りするばかりです。

今年に入って、ご老師は遺偈(ゆいげ)をお書きになっていました。
四行のそのなかの一句は、 「九十五年」。
95歳の堂々たるご生涯でありました。
4月4日UP
◆
大叔父 白山老師のこと。
http://tsubakiwabisuke.cocolog-nifty.com/rendezvous/2002/12/post_b120.html
東京ははや満開とか、各地の花便りがきかれます。

この原稿を非公開で書きはじめめてから、思うところあって停止していました。藤枝駅の画像は先月末に、大叔父のお通夜に行ったときのスナップです。
主人と私にとって、心から深く尊敬するお方でしたから、本当は喪に服さなければならない日々なのです。日本全国、桜の花が咲きう、美しい国というキャッチフレーズが、花に限ってなら実感をもって肯けるのです。でも、私たちはそうした思いには遠く、3月末に京都を発ち大叔父の在所にまいりました。
藤枝駅といえば、東海道藤枝宿の宿場町でした。藤枝宿(ふじえだじゅく)とは、東海道五十三次のうち江戸から数えて二十二番目の宿場となっています。1601年 東海道の宿場町として藤枝宿が置かれます。最盛期には旅籠が37軒あり、商業地としても栄えたようです。
この土地はひなびた感じが今も残る土地柄ですが、当時の住民の考えがはっきりとしていました。住民は、明治に入り東海道本線が建設される際、蒸気機関車の煙や火の粉を心配して、線路の建設を拒んだといいます。そのため藤枝駅は町から3キロほども離れて設けられ発展できなかったという見方があります。
住民の声が届いた行政ということ。今では日本の夢物語のように思われますね。
◆
私的には大叔父さまですが、本来の出家には血縁関係はない筈です。
私は老師さまとお呼びしておりました。
けれども、主人と私の結婚に際して結納の席にもわざわざ京都までお出ましいただきました。
ほんとうにご恩になったお方でした。
曹洞宗の禅堂の指導者として、真摯な佛弟子を打ち出されました。
永平寺の西堂にいったん就任されながら、自ら辞任なさいました。
一生涯独身、肉食をされず精進潔斎を貫かれました。
老師のそのお姿に、私はどれほど多くの教えをいただいたことでしょう!
かつて老師のご染筆を2枚裏千家ご宗家にお送りいたしましたところ、鵬雲斎大宗匠から私にお声がかかりました。
「あの書を表装させてもらいますが、ご老師に箱書きをおねがいできますか?」と。
それから、「いや、私が箱書きをすることにしますから。」とおっしゃいました。
そのことをなつかしく思い出すのです。もう5、6年前のことでした。
私は時々ふっと、あの一行物と横物の墨蹟をご宗家で一度拝見できたらなぁ、と心の中で思います。
今は黙ってご冥福をお祈りするばかりです。

今年に入って、ご老師は遺偈(ゆいげ)をお書きになっていました。
四行のそのなかの一句は、 「九十五年」。
95歳の堂々たるご生涯でありました。
4月4日UP
◆
大叔父 白山老師のこと。
http://tsubakiwabisuke.cocolog-nifty.com/rendezvous/2002/12/post_b120.html
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