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2007年5月の記事

2007年5月30日 (水)

大徳寺利休忌 今日庵当番 淡敬会席

ことし5月28日、大徳寺聚光院(じゅこういん)にて、利休居士の月命日法要。そして追善の釜が裏千家の当番。今日庵席に添えて直門の淡敬会がお釜を懸けさせていただきました。


三玄院北門のまだ開かれていない門扉に、「在釜」の小旗。7時台でもすでに遠隔地からおまいりの方々が佇んでおられました。


無量寿塔。同門の物故者すべての方々の 供養のために。


大徳寺 玉舟筆 南山雲起北山雨下

くずやき 鶴屋吉信製


玄々斎 しぼ竹 尺八 銘鳳篝(ほうしょう)。 花 山法師。

山法師の花がぼけてしまいました。すみません。竹の質感なりとご覧いただけますでしょうか。

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長板二つ置き 水指 染付 花鳥
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認得斎在判 黒雪吹  茶杓 円能斎作 銘 昔語(むかしがたり)


関連ページ 

2003・5・28 道 愛 ひと そして 茶 初夏の大徳寺利休忌


2001・5・28 大徳寺利休居士月忌茶会

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2007年5月24日 (木)

炭点前から 竹の蓋置(ふたおき) 略書院かざり

Urasenke_yarinomakara 寸松庵 燈篭 

今月は一日にご宗家に参上したきり、欠席を重ねていました。朝行くつもりでいても持病の不整脈が出るともう駄目なのです。そういうことで点前の稽古がなおざりになってしまいます。内心こうした自分を恥じる気持ちがあり、これが嵩じると鬱になりますからまあいい加減なところで身心が談合するわけです。

楽しんでお茶をせないかんよ、、、とよく仰ってくださるのは、米寿になられた寺西業躰先生。点前のミスをいちいち気にしていては客に美味しいお茶を点てることも出来なくなりますから。とても有りがたい指導をしてくださいます。

今日は、槍の間で初炭をいたしました。炭をつぎ終わって中掃きをして灰器をとり灰さじにて月形に掬う。この席はこの客だけにという意思表示の伝承なのです。その後、後掃きをして香合をとり白檀を二片くべる。熱灰のところに置くのは火の上で燃えないようにとの配慮なのですね。

釜の蓋は切らずに灰器をもち茶道口へ。炭取りも下げる。席中、香合がかえれば主は釜前に坐り、袱紗をさばき土風炉の右から左と胴拭きをし二つに折って前を拭く。袱紗をさばき直し二つに折ったまま釜の蓋を清め、蓋を切ります。

茶事の形式による初炭点前です。ここから客前に坐って、香合の拝見の挨拶になりました。

なお、羽箒は右羽。地摺りの羽でない上の羽を使用するのは、土風炉は炉のような荒さがなく今でいうソフトなものだからでしょう。

次は八畳の間を小間据えにして風炉を置きなおしての点前になりました。水屋の若い見習いの男性が手早く風炉釜、敷板を移動します。青竹の結界を持ち出したところ先生から注意がありました。

「それはあかんで。青竹の結界は本来は野点のもんや。蕨縄(わらびなわ)で結んでいるのより蔦で組んでほうが未だましなんだが。」

そこで北山杉で作られた結界に取り替えられて、座が整いました。明け放たれた障子のすぐ向こうは、坪庭で寸松庵の趣のある燈篭が見えます。客は点前をされる亭主の背景にそれを眺めつつ、ゆったりとしたひと時を頂くのです。なんと贅沢な稽古であることか…。

台天目。その次は盆点(ぼんだて)。後炭の点前。

最後に私が薄茶の点前をさせていただきました。小間据えで客は三人。

干菓子は伊織製 ツバメの焼印が清々しい麩せんべい。水色の流水もよう有平糖。

竹の蓋置を扱いながら先生に問いかけました。

「宗旦の花押がある竹蓋置を拝見したことがございますが、もとは使い切りの消耗品だったとは考えられませんけれど。」

「いや、最初は青竹を切って作ったのだが、それを欲しがる者が出たので油抜きをしたんだ。日数を経て油がなくなった竹だから花押が書けた。だから昔の竹蓋置きは貧相なもんだ。」

そうなのですか。興味深いお話が聞きだせてよかったと思います。

今では長板二つ置きは花押のある竹蓋置に決まっていますよね。時代の推移ということでしょうか。では、なぜ、竹以外のものは使用しないという不文律があるのでしょう?茶の道具に大よそ、真・行・草の決まりがあることも関わりがあるのはいうまでもありません。竹は草であることに思いをいたせば、点前がおのずと見えてまいりましょう。

私は長板二つ置の点前は運び点前と考えておりました。長板は棚であるとされるのは、台子の天板を外し柱を取った地板が成り立ちだからですね。けれども点前そのものは運びであり、建水を飾り残すこともなく退くのです。運び点前であるからには、竹蓋置が約束なのです。

長板という格によって、柄杓を飾ることがなくても湯返しをする。これは長板総飾りに準じる作法です。また、こうした格があることで竹蓋置も青竹ではなく花押ある竹のものを使用しなければなりません。

寺西先生のご指導のなかに、自分の思いを確認することができましたのは本当に有り難い事でございました。

「今日庵の奥伝である十段にはなぁ、台子の地板に竹蓋置と柄杓を置く点前があるんだよ。それから出ているのだから矛盾は何もない。」

薄茶を三人の客に点てたあと、仕舞いの段階で竹の蓋置を左手で風炉の左、釜のカンツキに置くようにご指導があり、ついで同じく左手で柄杓をその上に置きました。

「ああ、先生。これが略書院飾りですね。茶碗が二碗って持ち帰れない場合の所作ですね。」

「台目畳なら替え茶碗を茶道口へ下げればいいんだが、一畳丸畳だから遠すぎるだろう。そういう場合にはこうすればいい。」

略書院かざりは、書院がある寒雲亭で使用されていたということ。もちろん広間でも小間でも出来る点前として、知っておくといいと思います。淡交会などでは全国的な統一を考えられますからこうした伝承の点前を習うことはありません。

しかし、温故知新(古きをたずね新しきを知る)の心は、茶道を学ぶ者一人ひとりが謙虚に学んでいいのではないでしょうか。

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2007年5月22日 (火)

台湾の大学での漱石研究

内田道雄氏(学芸大学名誉教授)をマックレイン陽子さんにご紹介させていただいたのは、陽子さんのお父上である松岡譲氏と内田さんのお父上様が長岡でご懇意でいらしたということもございました。

先月の末に、漱石ゆかりの東大構内、三四郎池や地下の学生用の食堂メトロにもご案内いただき、3人で親しくお話したなかに、台湾の大学で講演をされたということをお聴きいたしました。

漱石ファンがかの地で健在であるということにほっとして懐かしい気持ちになったものです。近隣諸国の反日キャンペーンをマスメデアが報じて心を痛めていたのでした。

最近、このような明るいニュースもございました。

http://megalodon.jp/?url=http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070508ij21.htm&date=20070509131753

第1回後藤新平賞に李登輝前台湾総統
 日本の近代化に尽くした政治家後藤新平(1857~1929年)にちなみ、国家や地域の発展に寄与した人に贈られる「第1回後藤新平賞」に、前台湾総統の李登輝氏(84)が決まり、8日、発表された。

 李氏は1923年生まれ。旧台湾総督府の民政局長を務めた後藤とかかわりの深い台湾で、台北市長や台湾総統として近代化に貢献した点が評価された。授賞式は6月1日午前10時、東京・六本木の国際文化会館岩崎小弥太記念ホールで行われる。同賞は、満鉄総裁、外相、東京市長などを歴任、スケールの大きな政策を構想した後藤の生誕150周年を記念して「後藤新平の会」が創設した。

(2007年5月8日22時51分 読売新聞)

近隣諸国との友好をねがう意味でも、かの地で漱石の研究も健在であることを素直に喜びました。以前、このブログで私は後藤新平について触れておりますので、ひとしお感銘を覚えたのです。

内田氏に是非、台湾でのご講演の概要なりとお知らせいただきたいと申しましたら、ご丁寧なワードを送ってくださいました。講演の内容は、春樹の小説を100冊読んで書いたとおっしゃっておりました。

皆さま、どうぞお楽しみになっていただきますよう!

『ノルウェイの森』談義――村上春樹と夏目漱石――      内田道雄
2007.3.31於高雄空中大学

1.前置き(個人的な・・・・)「蛍」のこと 
               全共闘世代・新人類世代・オウム世代 
小浜逸郎「オウムと全共闘」 
               アイルランドに居る喩智官さん!

2.「手記」という「枠組」  終末から冒頭までの「空白」
               
3.ストオリイとプロット   空間(郷里から東京へ)・時間(個人と時代)
               『三四郎』との対応
               セラピー小説か、Bildungs-romanか
               歴史的事実との対応

4.おいキズキ、ここはひどい世界だよ、と僕は思った。こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ。(第四章)

5.直子と緑         「緑の父親」のエピソード(第七章)

6.ハツミさんで始まる物語 「反実仮想」の物語
それは充たされることのなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであったのだ。僕はそのような焼けつかんばかりの無垢な憧れをずっと昔、どこかに置き忘れてきてしまって、そんなものがかつて自分の中に存在したことすら長いあいだ思いださずにいたのだ。ハツミさんが揺り動かしたのは僕の中に長いあいだ眠っていた〈僕自身の一部〉であったのだ。(第八章)

7.村上春樹と夏目漱石   『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』
ぼくが『ねじまき鳥クロニクル』を書くときにふとイメージがあったのは、やはり漱石の『門』の夫婦ですね。ぼくが書いたのとはまったく違うタイプの夫婦ですが、イメージとしては頭の隅にあった。

8.世界における「村上春樹現象」とは?

9.「ノルウェイの森」Norwegian Wood(This bird has flown.)
「3.ストオリイとプロット」の1節

神戸という郷里からの上京と、学生寮での共同生活という選択は漱石の『三四郎』と同様に「自己形成」を目指す、また目指さざるを得ない青年の普遍的なありようでもあります。『三四郎』が備えたBildungs-romanの構造をこの作品も示しているのは確かです。漱石がこの作品連載の直前に発表した「予告」にあるように、色々な人との出会いの中で主人公は変化し屈折し成長を遂げるのであります。Bildungs-romanの語の代表的な訳語は「教養小説」ですが、それよりもふさわしい訳語はここでも「自己形成小説」でしょう。そして両作品に共通の浮動的な結び(いずれもが、自問自答で終わる。)について言うと、「遍歴小説」という呼び名が最も相応しいかも知れません。「遍歴」と言えば2作とも「女性遍歴」がメインのプロットです。本作の神戸の女性~直子~緑~ハツミさん~レイコさんとの交渉は(後述の「ハツミさん」を除き)セックスの関係で結ばれていますが、漱石の主人公の場合はその要素は殆ど表に出ておらず手が触れ合うくらいです(*4)。しかし九州の「お光さん」~美禰子~よし子、と役割が書き分けられているのは興味深い対照です。直子の病的な内閉性と美禰子の謎めいた挙措(露悪と偽善の二面性)、これに対して緑の天真爛漫ながら現実的智慧に裏打ちされた堅実さとよし子の母性的な雰囲気、それぞれのレベルでの対応関係が主人公の世界の必須の構成要素とされています。

『三四郎』が、日露戦争後の世情不安をバックに据えて車中の女や轢死する女を点描している点は村上春樹の作品の方で「大学紛争」を設定として持つこととの対応が直ぐに発見できるのですが、『三四郎』はさて置いて、本作の場合歴史的事実としての「大学紛争」が、それに関わる個々のモティヴェーションの差異によって、多様な後遺症を齎していることを見ておかなければなりませんね。

「7.村上春樹と夏目漱石」の1節

各所に漱石への言及は見られますが、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』には、漱石読みの河合氏の示唆もあって数多くの発言が見られます。『スプートニクの恋人』には、「夢十夜」の第一夜のイメージの活用(「ミュウの真っ黒な瞳の奥に映っている自分自身の鮮やかな姿を、すみれは目にすることができた。」3)があるその直後の章(4)に「なんだか『三四郎』の冒頭の話みたいだな・・・」という「目くばせ」めいた記述があったりする。「ノルウェイの森」に関しては、その原型をなす「蛍」と「こころ」の対比を試みた渥美秀夫の画期的な論(1992.12『愛媛国文研究』)を嚆矢として、同じく平野芳信の「話型論」からする「最初の夫の死ぬ物語」があり、更に「三四郎」を中心に漱石の時間意識との対応関係を論じた半田淳子の逸論が存在する。『翻訳文学ブックカフェ』で新元良一のインタヴューに答えて、

夏目漱石なんかは好きなんですよ。でも戦後文学みたいなのはだめ。(中略)いわゆる文芸日本語がよめないから。

もっとも大江健三郎の「死とセックス」を初期は回避してきたが、本作では活用してきた、というあたりおのずからシタタカな作家的本性を露呈している。この本で面白いのは、レイモンド・カーバー、フィッツジェラルド、チャンドラー等翻訳の対象作家を論じる中で「ドストエフスキイのカラマアゾフの兄弟はぼくの北極星」と述べている部分である。カラキョウなど言う現代風の略語を親密感込めて使う作者である。村上訳ドストエフスキイ出現の可能性が期待できるのです!


拙ブログ

中国と日本、孫文が日本へ期待したこと そしてイギリス

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2007年5月19日 (土)

裏千家・桐蔭会5月 葵まつりの趣向

2007年(平成19年)5月18日 桐蔭会6月例会 担当 大橋宗乃様

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桐蔭席広間 点心席

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風炉先

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硯箱

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熊谷草  花入 箙(えびら)

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土佐絵。

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席主 自筆の会記。

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大宗匠が突然お出ましに。

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大宗匠は、客へご挨拶を返されます。ブルーのおきものは席主の大橋宗乃さん。

本席を終えた一同、広間の点心席へ移動して食事中のことでございました。うれしいハプニングに皆さま顔が紅潮したようでした。

ちなみに本席のご正客は戸田勝久氏(業躰先生)。のんこうの黒茶碗でいただかれました。私にはとんぼの絵が描かれた小ぶりの天目型茶碗。仁清の作でした。勝虫ってとんぼのことなんですね。もう初夏なんです。

掛け物は後西天皇のお歌。重美の由。お歌は次のように読めました。

うすく濃く垣根ににふほふなでしこの花の色にぞ露もおきける

ご震翰に合わせて時代蒔絵の香合も菊の文様。菓子器も六閑斎好、菊置上、長入造。

菊と葵と、今回の取り合わせは正式には加茂祭り。葵祭りといいならわされていますがこの祭りの由緒がすべての道具組にみられます。待ち合と点心席の床は、土佐派の加茂神社の絵。この表具の一文字が珍しい葵の紋。

そして家元が宗乃さんに贈られた茶杓が、「赤心(せきしん)」。
赤心、赤き心とは偽りのない無垢な心、まごころをいうと辞書にはあります。
生涯茶のこころをもって生きることを願い、大橋茶寮「主貧庵」を守り運営されてきた方へ、お家元からのねぎらいの贈り物なのだと思います。

京都の祭りをこれほどまでに、名品で表現されたものです。お席主は東京のお方であり、名誉師範を昨年の利休忌に拝受されたこの道の功労者でいらっしゃいます。

その方がおっしゃる言葉がふるっていました。

「こちらは田舎者でございますので、、、、。」

あの~、江戸は田舎なのでしょうか???どうも昔、或る京の人間がもの申したという言葉がいまだに尾をひいているのではないかと…。

「ま、東京はできてから100年あまりでっっしゃろ。こちらは2000年、、、。」

と言ったとか言わなかったとか。困りますなあ。京都人はそんなに思い上がっていないと思いますけれども。

今日のおもてなしを心から感謝申し上げます。

拙サイト 2005年3月 いのちをかけた茶人 守貧庵のあるじ 大橋宗乃さん

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2007年5月11日 (金)

伊勢神宮献茶式 神主さんの祝詞(のりと) を聞く

尾長鶏が散歩している内宮

神殿の静寂のなかで繰り広げられる献茶式。

神主さんの祝詞(のりと)は、関心のあるところだけ、はっきりと聞き取れました。

京に誉れ高き 裏千家 千 宗室第16世家元、。千 玄室大宗匠。 
淡交会三重支部。愛知第一支部、、、、。

かしこみかしこみもうさく、、、。


檜造りの神殿の前に、榊の大きい木が左右に二本。中央に丸三宝が数個置かれ、お米と塩、海の幸、山の幸、でしょうか。それぞれお供えされているように拝しました。

最前列に、別の台が置かれ、二つの丸三宝。ここに坐忘斎家元による献茶の濃茶、薄茶二碗が点てられて、しずしずと運ばれ、置かれるのでした。

最初から最後まで、前列2列目に坐っていた私はつぶさに拝見させていただきました。
お家元の心こもる点前は流れるように、清浄な時間に溶け込んでいました。それをじっと見守られいる奥様のおすがたも印象的でございました。


伊勢神宮の内宮をあるき、友人とともに私は今日庵席に参りました。

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五十鈴川をつたう路もあります。

今日庵席。
大広間の床には、又玄斎一燈(ゆうげんさいいっとう)の一行。
山呼万歳声

伊勢神宮の5月のさわやかな山並み、遷宮のための御木曳の行事にあたり、歓喜の声がひびき渡るこの時を、茶席はしっとりとした道具組で親しみやすく表現されておりました。

花入 玄々斎 竹一重切。銘 やなくい。

胡くい(やなくい)
箱型の矢を納める武具。長さ60センチほどのもので、矢を4本入れて背に入れて背負う。実戦と違って、矢尻を上にして納めている。これは平和を表しているからだというようです。

花 姫大山蓮 ふくらんだ純白の蕾一輪、清楚でした。

点前はSはせ業躰。 半東、I藤業躰。

若手のこれから益々伸びてゆかれる方々ですね。
お家元のご名代としてここに出ておられる訳ですから、大変なお役と思います

うるさい客がいると思われるでしょうが、学校でも生徒との双方向性というわれる時代に入っているのですね。
家元席はなんといっても特別な席です。遠隔地から伊勢へ参るのを楽しみにしている者の学びの気持ちを、申し上げてみました。

ともかく、和気あいあいとしたおもてなし、有難うございました。





一昨年アップしたお伊勢参りはこちらです。

伊勢神宮 おかげ通り

伊勢まいり 五十鈴川



近鉄特急に乗って帰る車中で、組織の内情について聞くことがありました。友人は選挙で選ばれた幹事長であったことから情報公開を志し実践したようでした。組織の難しさを聞かされた思いです。

お家元の誠実なお心を汲み、同門の人々の指導者として恥じない会計管理をしてほしいと願うばかりでございます。

関連ページ  

2006年 11月 26日 今の世で評価されなくなった 陰徳(いんとく)

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2007年5月 9日 (水)

ちいさな動画 三四郎池

4月27日、漱石研究家の内田道雄さんのご案内で、三四郎池を歩きました。

松岡陽子さんとごいっしょに東大赤門から入り、三四郎池に参りました。

「200704271609.3gp」をダウンロード

「200704271610.3gp」をダウンロード

「200704271612.3gp」をダウンロード

最近使い始めたケータイで動画を撮るなんて、若い人の真似をしているようで気が引けました。おふたりの後ろから探偵のようにつけていき、心字池のぐるりを撮りましたが、いやはやお粗末そのもの。

以前アップしたページのほうが数段マシでしたわ~~。

拙サイトにアップしたのは、もう6年前になりました。 

2001年11月20日 三 四 郎 池

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