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2007年7月14日 (土)

公式サイト掲載記事へ 諸先輩からご感想をいただいて

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多佳女ゆかりの歌碑のある祇園新橋通りクリックすれば拡大します

昨日、IT新聞のtsubakiコラムが更新され、拙記事が掲載されました。

夏目漱石の縁(えにし)祇園と多佳女

私には尊敬する大先輩ともいうべき漱石研究家の方々と、もう長らくお付き合いをいただいております。みなさま碩学でいらしってこの方面の大家でいらっしゃいます。いつも過分のお励ましをいただく身には、勿体ないと恐縮することが多いいのです。

その中から差しさわりのないものをご披露させていただきましょう。
そのいくつかは、掲示板の書き込みになるコメントもございます。
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2007/07/15 06:56  内田道雄様 (学芸大学名誉教授・漱石研究家)
 椿様。
 早々のお知らせにもかかわらずご返信遅くなりました。全集読み直す必要を感じまして時間が掛かった次第です。この標題での椿様のご見解は誠に穏当・妥当と感じました。やはり京都にお住まいでいらっしゃってその土地柄や人柄を知悉していらっしゃる事から自ずと滲み出る説得力があって読者を魅了します。病身で神経質・気位ばかりは一人前という漱石を、その作品への傾倒ゆえに大らかに受け止めて何と!「大友」での看病をも喜んで引き受ける36歳の多佳女。西川一草亭・津田清楓兄弟や鏡子夫人らの依頼があったにせよ、、これは稀有の美談でもあります。ここを椿さんは「終始同じ人間として」の「親しみ」という平易なことばで捉えています。
 これは後の漱石の二通の手紙でも訴えられている「切望」でもありました。(私はこの二通の多佳さん宛漱石書簡には歳若の弟めいた「甘え」を感じてしまいます。)
 椿さんの独壇場は漱石の「春の川」の句の解釈です。旧来の二方向の解釈をいずれも包容しながら「多佳さんに、感謝のきもち」を込めて書いた、と、これは正確なご指摘でもあります。句の成立を追って作品のふくらみを明かすここの一段はご文章につやがあって素晴らしい、と思いました。
 吉井勇の歌碑と対応させて美麗な写真を並べて下さっておられます。京都の町々(今日は嵐ですが・・・)を思い描きながら、鴨川の向こう側を思いやるように漱石句碑の呟きを私なりに心中で辿ってみようと思います。
 唐突のようですが「男と女のあいだには深い川がある」(野坂昭如)のあの歌も連想されますね!
内田拝

名前:namazu 2007年07月12日(木) 00:01 なまず様 (元新聞記者)

「夏目漱石の縁 祇園と多佳女」わびすけさんならではの話題ですね。わかりやすく、おもしろく読ませていただきました。漱石のとまどい顔が透けてみえます。ほんとうのところ漱石は京都が好きだったんですね。




by 鯰 at 2007-07-11 23:30

 飾り気なくしんが強くてしなやか。多佳女さんの話 興味深く読ませていただきました。読んでいくうちに「京女」とはこんな女性のことを言うのだろう、と変に納得しました。
 東男の漱石が魅せられたのもむべなるかな、とも思いました。 京歩きでの楽しみがまた ひとつ増えました。 ありがとうございました。




2007/7.14 03:50 松岡陽子マックレイン様 (オレゴン大学名誉教授)

伊津子様

 『漱石の縁、祇園と多佳女」お送り下さり有り難うございました。丁度今自宅の庭で紫陽花が咲き始めたので、多佳さんを偲び、面白く読ませて頂きました。京都の友人が、かなり前ですが、自宅に来られた時、アメリカは何でも巨大だけれども、紫陽花だけは日本のものの方が、ずっと大きくて立派だと言ったことが記憶に残っていますが、本当にこちらの紫陽花は日本のほど立派ではありません。多佳女が愛したのは、その大きくて立派な紫陽花ですね。いくら肥料をやっても自宅の紫陽花は大きくなりません。きっとこの花は多佳さんと同じように、しとしと降る雨、湿気を好むのでしょう。この辺りでは紫陽花は六月から七月にかけて咲きますが、空気が乾燥しているため、大きくならないのかもしれません。紫陽花で詩を詠むということもあまり聞きません。

 また数年前に京都に伺い、祇園祭りを見せていただいたことも懐かしく思い出しました。「京都漱石の会」が発足、京都と漱石について、ぜひもっとお書き下さい。「坊ちゃん」から漱石を江戸っ子としか考えない読者が多いと思いますが、彼が京都の静かな町を愛したことが、この伊津子様の文でもよく分ります。

陽子



2007/07/06 05:59
伊津子様

 精中忌での、美しい紫のお召し物でのお手前のお写真有り難く拝見させて頂きました。お家元の前で次席として堂々となさっているところ、いつものことながら本当に感心してしまいます。また歌もお詠みになるのですね。まったく伊津子様には、いつも感嘆させられることばかりです。

 私は自分が無調法者で、雅やかというのでしょうか、風流というのでしょうか、ともかく、そういうことに、まったく疎いので、そのようなことの他にも、最も近代的なコンピューターの知識も深い、つまり古今の業(わざ)に通じていらっしゃる伊津子様を尊敬申し上げるのです。

陽子


2007/06/21 01:25

伊津子様
 京都の風流を愛した漱石
 早速読ませて頂きました。とても素晴らしいです。それですぐ「この記事が気に入ったら…」というところを押しました。私も漱石は京都を愛したのだと思います。京都と漱石について書けとおっしゃいましたが、伊津子様がもうすべてお書きになりました。ですから、書く時が来たら何か他のことを書かせて下さいませ。

 参考になさった小林孚俊樣には私もお会いしました。とても良い方で、1985年でしたか86年だったかよく覚えていませんが、私がこちらの学生を連れて早稲田大学に二年ほど行っていた時、四月二十九日の「鎌倉漱石の会」に連れて行って下さいました。講師は女流作家でした。その頃もうかなりのお年だったので、蔵書を古本屋に二束三文で売りたくないとおっしゃり、ご親切に皆私に下さったのです。それで私は丸通を雇い、幾つかの大きな箱に入れてアメリカに送り、大変有り難く長年重宝させて頂きました。

 そうそう、アメリカに住むので、私はいつも滿で数えて,漱石は四十九歳で他界したと言います。荒正人氏の年表は数え年なので、いつも滿に直します。日本はまだ数え年を使いますでしょうか。

 あっ、今、庭の掃除をしてくれる若い人が来ましたので、ここで失礼致しします。それではまた。

陽子




伊豆利彦様 (横浜市立大学名誉教授・漱石研究家)

2007/07/13 10:43
椿 わびすけ様

 エッセイ拝見しました。漱石と多佳女ん対する愛情がこもった文章だと思います。
 私は漱石の手紙で知っているだけでどんな女性かと思っていました。
 あなたのエッセイで二人の関係がわかり、あの手紙の意味もいろいろ考える手がかりをあたえられました。ありがとうございます。

 京都漱石の会発足の由、活発なご活動には深い敬意を表します。
 ご成功を祈ります。
 ただ、このごろは、脳力極度に衰え、文章がかけるかどうかわかりません。
 
 ホームページも多彩なものになり、ご努力に感銘しています。
 今後のご発展をお祈りします。

      伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu/


◇◇◇

ブログのコメント欄にご投稿くださっております皆さまにも、心より御礼申し上げます。
いつもありがとうございます。

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