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2007年8月18日 (土)

きっすいの京都人、津田青楓・西川一草亭きょうだいと 夏目漱石

今日のIT新聞に掲載された拙稿は、以下のようになっています。

2007/08/18 きっすいの京都人、津田青楓・西川一草亭兄弟と 夏目漱石

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江戸っ子は、小説『坊っちゃん』にあらわされるように作家・漱石の風貌でもありましょう。

それに対して世評では、京都人は対極にあると思われているのではないでしょうか?

漱石は京都人とどのような付き合いをしていたか、その一端を検証してみることにいたしました。漱石の弟子であり、漱石の絵のアドバイザーでもあり、人間的に信頼をうけていた津田青楓。かれはきっすいの京都人でした。

青楓の実京である西川一草亭も、青楓を介して漱石と親しく交流をした京都人です。

漱石の日記から彼らとの交流のもようを書いてみました。

もとの原稿はエキサイトの漱石サロンランデエヴウのほうへ昨夜アップしております。

冒頭は、京都帝国大学(当時文科大学)の学長の学友との交友に触れました。

「漱石と京都、学問の繋がりでは松本文三郎、狩野亨吉がいずれも京都帝国大学(旧文科大学)の長であり、漱石へ教師として講座を依頼していました。明治40年4月、漱石は京都の銀閣寺北にあった松本文三郎の山房に招かれその礼状を送っています。

「拝啓 京都滞在中は尊来を辱ふせるのみならず銀閣の仙境に俗塵を振るひ落し候」
市街と離れたこの地を漱石はたいへん気に入り、東京付近ではこんな住居は求められないと賞賛しています。しかし、41年6月、書状で教師就任と講義の件は断っているのです。狩野亨吉とも同じやりとりがあったは史実に遺されている処です。

ただ、これら碩学の友人は当時京都在住ではありましたが、故郷は別にあり後に京都を去った人でした。京都に生まれ育ったきっすいの京都人で、親密な知人といえば、津田青楓と西川一草亭きょうだいを措いてはないと思われます。今回はこのふたりにスポットを当ててみることにいたしましょう。」

長文になりますので、最後のところのみ書かせていただきます。

「漱石は祇園の「一力」で舞妓の運ぶ薄茶を喜んで喫しています。展覧会では茶道具の名品を手帳に書き付けています。そして、漱石は乾山の向付けの一揃いを見つけ、それを津田青楓に贈ってもいます。茶道そのものを嫌っていたのではありません。

 漱石は、東京に帰ってからは「京都の閑雅をひとり懐かしんでいます、また行くつもりです」と書簡に書きながら、大正5年12月9日に、49歳の生涯を終えたのでした。

 ああ、前年に京都旅行をしたあの体験がもし小説になっていたら……。不出世の文豪に時間が与えられなかったことは、惜しみても余りあるのです。」



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参考文献
岩波『漱石全集』。津田青楓著『漱石と十弟子』。西川一草亭著『落花帚記』

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