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2008年5月14日 (水)

鴨川をどりで「お菓子の博覧会」 漱石は羊羹

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お菓子の博覧会 初開催から約100年。記念すべき第25回目の菓子博は、ことし2008年兵庫県姫路市で行われています。京都ではいつごろ開催されたか、歴史をたどってみましょうか。第13回目が京都!昭和24年(1954)4月ということです。

今から数えればずいぶん昔、54年前になります。戦後は、終戦の後から9年目の時代だったということですね。苦しい生活の中でもともかくお菓子が食べられる平和な世の中になったこと、人々がこのお菓子博覧会をどんな思いで迎えたか、想像できるのです。

http://www.zenkaren.net/expo/expo13.html

熊 本
平成14年11月
2002
第23回
盛 岡
平成10年4月
1998
第22回
金 沢
平成 6 年4月
1994
第21回
松 江
平成元年4月
1989
第20回
東 京
昭和59年2月
1984
第19回
静 岡
昭和52年2月
1977
第18回
鹿児島
昭和48年2月
1973
第17回
札 幌
昭和43年6月
1968
第16回
秋 田
昭和40年4月
1965
第15回
名古屋
昭和36年4月
1961
第14回
長 崎
昭和32年3月
1957
第13回
京 都
昭和29年4月
1954
第12回
横 浜
昭和27年5月
1952
第11回
大 分
昭和14年4月
1939
第10回
仙 台
昭和10年5月
1935
第 9 回
新 潟
昭和 8 年5月
1933
第 8 回
松 山
昭和 6 年4月
1931
第 7 回
岐 阜
昭和 3 年9月
1928
第 6 回
京 城
大正15年4月
1926
第 5 回
福 岡
大正12年3月
1923
第 4 回
広 島
大正10年4月
1921
第 3 回
大 阪
大正 8 年3月
1919
第 2 回
金 沢
明治45年4月
1912
第 1 回
東 京
明治44年4月
1911
 

たしかにお菓子が自由に手に入る豊かな時代になりました。ただ、お金あればの話。買えなくても買えない場合が実際にあり、その悲哀は現代の闇の中に隠されているように思えます。誰でもが健康にいい美味しいお菓子を楽しめる世の中になってほしいものです。

上の写真は4月の祇園甲部「都をどり」の芸舞妓の茶席に出たお菓子です。串にさした花見団子がトレンドマークでお皿もお持ち帰りできるのが喜ばれているようです。ここで「都をどり」の茶席と、5月の先斗町(ぽんとちょう)の「鴨川をどり」の茶席と、芸舞妓のそれぞれの写真をアップしてみましょう。

祇園甲部歌舞練場の「都をどり」4月

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次は先斗町歌舞練場・鴨川をどりの茶席

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鴨川をどりには、なんと漱石センセがお出にならはったんですえ~~

第171回 鴨川をどり 平成20年5月1日~24日

目次 第二 菓子 可笑(おか)し 五景の内の第四景 羊羹

そもそも羊羹と申すはーーーーーーとはじまって、

「天上界に遊ぶ心地の美味実妙

かの文豪の漱石先生のたまわく

あの肌合いが滑らかに 緻密にして

しかも半透明に光線を受ける具合はどうみても一個の美術品だ」

(あれ~~『草枕』で見たような~~(笑) その上、トドメの文句がいやぁ~~すさまじい。 

「されば 気の利く一碗は 京の巽 宇治の里 

深い緑の 茶の香り ても 結構な お福加減」

漱石先生は江戸っ子でっせ。それにこのお気に入りの羊羹は、東京の「藤むら」の羊羹なのでっせ。でも、お茶は京のお味で、結構なおふく加減とくるのですからそこんとこを考えますとべつに著作権侵害にはならへん…のやと。ちょっと苦しい言い訳になりました~~。

友人にタダ券をもらいまして観劇したのですが、この地方さんの艶な声とイキなことばに、とうとうカタログを買いました。皆さまにおすそわけです。

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2008年1月26日 (土)

公共の言論機関における誤記 広辞苑の他にも

 最近、権威ある大手出版社で誤記があることが発覚し、マスメディアで取り上げられている。50年もの間、誤記が問題になることもなくまかり通っていた訳である。それを各新聞者が同じ論調で報道しているが、もとはといえば、この誤記に気付いた人物にスポットを当てるべきではなかろうか?

 大手メディアはいずれも後追い記事である。しかも最初に報じた新聞社の名を上げていない。これを客観的に論じているのは、インターネット新聞社JANJANであった。



 「岩波書店は、誤りを【外部から指摘された】(毎日)と説明している。この問題をはじめに報じたのは全国紙ではなく、20日付の『神戸新聞』のようだ。内容も緻密で一読の価値がある。」

参照:
「広辞苑」誤記見落とし半世紀 芦屋の解説、実は須磨(神戸新聞WEB)

 地方新聞といえども、都市新聞各社が後追い記事を出したのとでは全く値打が違うと思うのである。



 読者は権威ある広辞苑に間違いは無いと思い込んで利用して来たのだと思う。しかし、出版社の校正の仕事としてしてはチェックが甘い。外部からの声があったとしても取り上げることはしなかったのだろう。

 人間のすることである以上、すべて不完全である。ただ、その事実を謙虚に認め、いかに対処するかで展望もひらけてくるだろう。しかし残念ながら現実は、あらゆる誤記が公共の言論の場で訂正されることなく、まかり通っているのである。

 昔から「話半分」といわれているが、それは物事には懐疑的な目も必要だという知恵を教えているのである。自分で体験したことには絶対的な信頼をおいて差し支えないが、他からの伝聞には一応用心したほうがいい、ということなのだろう。



 私がかつて編集した記事のなかに、同一の問題を提起された著名人の方があった。鈴木大拙の厚い信頼を受けておられた北鎌倉、東慶寺の井上禅定師である。かの鈴木大拙でさえ、記憶違いから後世に残る誤記を、訂正の機会も無いままに残されたという内容である。

 夏目漱石が釈宗演老師の原稿の英文に朱を入れたことがあったという一事は事実ではなかったと、検証をもとに明らかにされた。

 しかし、もう後の祭りなのであった。鈴木大拙の言として『夏目漱石と帰源院』( 鎌倉漱石の会発行 )にも取り入れられ、漱石研究家の江藤淳までそれを事実として『漱石とその時代』第一部に執筆した。

さらに、その誤記の部分が世間一般に流布し既成事実となってしまっているのだ。

参照:
歴史の町-鎌倉と川越円覚寺6
金子務公式ページ

 禅定師は、「大拙居士の私宛の書簡に、『歴史の「事実」なるものは、、、大率あてにならぬと見ておくべきでせう』とあるのが実際である」と書かれている。まことにそれは真実であると思う。

関連リンク:
鈴木大拙と夏目漱石のこと(井上禅定、拙サイトへの特別寄稿)

拙稿は、インターネット新聞JANJANの連載コラムとして、掲載されています。http://www.news.janjan.jp/column/0801/0801259532/1.php

もし、応援してやろうという奇特な方があれば、掲載記事の下にある例の箇所をクリックしていただければ嬉しいです。

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2007年3月25日 (日)

パリ・オペラ座の「勧進帳」 市川團十郎・海老蔵親子

ハイビジョン特集「パリ・オペラ座の弁慶」
今夜午後七時からNHKBSで放映されましたね。ご覧になった方は多いことでしょう。

パリ・オペラ座で行われる史上初の歌舞伎公演。
市川團十郎・海老蔵親子が演じるのは歌舞伎十八番の「勧進帳」。

これは、3月23日の初日の模様だそうですが、いやぁ~、もう感激いたしました。

團十郎の弁慶。海老蔵の富樫。亀治郎の義経という配役。最初に役者の口上があり、なんとフランス語ではっきりとイチカワ、、、とテンポよく行われたのです。観客席は拍手喝采。

舞台の作りも本格的で、長唄の演奏がこれまた素晴らしく三味線・鼓の囃子方のかもし出す品格ある民族音楽。退屈させない劇的な流れ、まさに世界に誇れる歌劇としてこの「勧進帳」を見ました。

昔習ったことのあある長唄ですから、次にくることばも自ずと出てきますし、最高レベルの奏者たちです。やはり、伝統はそのままの形がベストだと思いました。西洋風にアレンジしていないのがよかったですね。

富樫は昔からとびきりの美男子の役です。海老蔵は適役でした。
昔みた時は、菊五郎の義経でした。今回はすこし華がなかったようにも(すみません。)

弁慶の主君を思う心を感じ取った富樫の表情。抑えたなかに男の美がありました。
勧進帳と見せかけた巻物を高らかに読み上げる場面は圧巻でしたが、富樫から振舞われた酒を豪快に飲み干し、感謝と喜びを表現する弁慶も素晴らしかったです。

團十郎は、日本文化を誇りを持って伝えたいと語っていました。テーマは日本人の「仁」「情」。

団十郎さんら初日終える パリ・オペラ座歌舞伎
朝日新聞

産経新聞

終了後にフランス人観客は理解できた!音楽がいい、衣装が素晴らしかった!と口々に喜びのコメントをしていました。

私は「不易流行」(ふえきりゅうこう)という言葉を考えていました。
よくいわれることばですが、生活の中に実感はなかなか湧かなかったのです。それが今日の歌舞伎を見てこれだ!と強く理解できたのです。

「不易流行」はどのようにしていわれてきたのでしょうか。それは次のようなことだったのです。

元禄2年(1689年) 芭蕉46歳のとき

12月 京都滞在中、去来に「不易流行」の理念を説いています。

「奥州行脚の前はままあり。この行脚の内に工夫し給ふと見えたり。行脚の内にも、あなむざんやな甲の下のきりぎりす、といふ句あり。後に、あなの二字を捨てらる。是のみにあらず、異体の句どもはぶき捨て給ふ多し。この年の冬、初めて不易流行の教を説き給へり(去来抄)」

「不易」というのは時の流れによっても変わらないということ、そして「流行」というのは時の流れとともに変化してゆくこと。一見相反するようですがこの両方がなければならないと説いているのではないでしょうか。

周囲の変化の中で本質的な『自分』を保ち続ける。自らが変化していく過程と申しますか。「不易」と「流行」とのバランスを常に考え到達したのが芭蕉だったのではないかと思います。

今の世の中は流行が突出していますし、国の教育方針もやれゆとり教育だの変更だのころころ変わりますよね。
日本は、これから伝統の変わらない良さを守っていくことが必要ではないかと思います。

オペラといえば西洋のものだと、思わないことでしょうね。
こんな見事な歌劇わが国にはあるのですから。

歌舞伎! 「勧進帳」。

白血病を克服された市川團十郎さんに、感動するばかりでした。



團十郎さんのこと。

歌舞伎の市川団十郎さんは抗がん剤の副作用とかで丸坊主であった。痛々しいという感じはなく、「病気は完治したと思っている。5月から舞台に立つ。」と力強く朗らかに言明。場内から拍手が沸いた。

 団十郎さんは、歌舞伎の中には世の理不尽なものをリアルに描くことで時代を超えて訴える力がある。また、先人から受け継いだ誇りがある。日本の伝統文化は年配者にやさしい文化だ。高齢であっても力があれば正当に評価される、と続けた。

 これらの発言は会場の視聴者に多くの感動を与えたようであった。団十郎さんはことし59歳。昨年襲名披露をした坂田籐三郎さんは昭和6年12月生まれと聞くから74歳で歌舞伎界のトップスターである。まさに世界に誇っていい日本の「やさしい文化」である。

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2007年2月17日 (土)

無実ってなんのこと? 或る中国人女性の場合

日本の大新聞は、庶民感覚ではちょっと腑に落ちない記事がよく見受けられます。私の読みが浅いからなんでしょうか?まあ、次のタイトルをご覧になってください。

大阪地検、無実の中国人女性を起訴…戸籍規定見落とす

http://megalodon.jp/?url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070216i117.htm%3ffrom%3dmain1&date=20070217141426

● 大阪地検が、「女性が離婚後300日以内に出産した場合、子供は戸籍上、離婚前の夫の子供になる」と定めた民法772条の規定を見落とし、本来、罪に問えない中国人女性(28)を公正証書原本不実記載・同行使罪で起訴していたことがわかった。

● 同地検などによると、女性は1998年に来日し飲食店などで勤務。2000年7月、日本人男性と結婚したが、3か月後に別居し別の日本人男性と交際を始めた。前夫とは01年5月31日に協議離婚が成立した。

● 女性は同年10月17日、新たな交際相手との間にもうけた男児を出産。前夫に「(戸籍上の)父親になってほしい」と頼んだが断られたため、無断で大阪市内の区役所に出生届を出した。

● これを知った前夫が昨年1月、大阪府警に告発。書類送検を受け、同地検は同10月、女性が「前夫の子でないことは認識していた」と述べ、無断で前夫名義を使ったことを認めたことなどから「うその出生届を出した」と判断、在宅起訴したが、12月の初公判で弁護人からミスを指摘された。

 
●清水治・大阪地検次席検事の話「民法の規定に照らして虚偽申告といえるのかどうかに気付くべきだった。女性には申し訳なく思っている」

(2007年2月17日2時24分 読売新聞)

中国人女性は日本男性と結婚した後、3ヶ月で他の男性と親密な交際をしていました。夫と離婚した後で今の夫の子供を産みました。

「前夫に「(戸籍上の)父親になってほしい」と頼んだが断られたため、無断で大阪市内の区役所に出生届を出した。」

ここで問題が起きたのです。

これを知った前夫が昨年1月、大阪府警に告発しました。。書類送検を受け、同地検は同10月、女性から「前夫の子でないことは認識していた」という言質をとります。

そこで、女性が無断で前夫名義を使ったことを認めたことなどから「うその出生届を出した」と判断、在宅起訴したわけです。ここまでは誰が見ても前夫に同情するのではないでしょうか?

この中国人女性のした行為は、戦前の日本の法律なら「姦通罪」に当たるものです。女性のみを一方的に断罪する悪法ではありましたが。今は日本人女性の貞操観念がなくなり、こうした罪に該当する数は膨大なものになるでしょう。情け無いことと思います。

しかし、大新聞では「大阪地検、無実の中国人女性を起訴」としています。
「無実」なんですね。

えっ、無実ってなんのこと?

じゃあ、妻に裏切られた前の夫はどうなるのでしょうか?妻の不貞の結果、産まれた違う男性の子を、自分の子として戸籍に入れなければならないのです。

その上、大新聞には「無実の中国人女性」と書き立てられる。

いったいどうなっているのですかね???前夫の立場と気持ちを記者は考えたことがあるのでしょうか? 浮気での過ちであったなら、男性側より女性に責任が被せられる…それはいつの時代にもある不平等ですが。

しかし、記事自体に問題はありません。それは民法の不備によるものだからです。
この旧い法律に、おかしな規定が残っていたからです。

民法の「父子認定」を改正を 超党派国会議員が勉強会 - 共同通信(18時28分)

民法離婚後規定:裁判で認められても戸籍に「前夫の名」

 「離婚後300日以内に生まれた子は前夫の子」とする民法772条の規定をめぐり、裁判の末にようやく今の夫の子とした場合でも、子供の戸籍に前夫の名前が記される。戸籍法が記載を義務づけているからだが、親たちは「なぜ、子供には無関係の前夫の名が付いて回るのか」と見直しを求めている。【工藤哲】


世界の中でどの国がこんなヘンテコリンな法律を作っているのでしょうか?

こちらはじつにお気の毒な女性のケースです。離婚後281日目の出産といいますが、今の夫を父親とする出生届は役所に受理されなかったのです。


「 東京都目黒区の会社員の女性(38)は02年3月13日に前夫と離婚。この年の9月30日に再婚し、12月19日に双子の女児を出産した。半月ほどの早産だったこともあり、離婚後281日目の出産で、今の夫を父親とする出生届は役所に受理されなかった。

 女性は前夫に「嫡出子否認」の手続きを取ってもらう承諾を得て、前夫と子供に親子関係がないことを証明するDNA鑑定を実施。家庭裁判所の調停を経て、約3カ月後に今の夫の子として戸籍登録した。」

ところが、戸籍は別のものになっていたのです。民法が勝手に日本国民の人権を左右していたのでした。

「 裁判結果が戸籍に記載されていると気づくのは、04年夏。海外旅行のため、1歳半になった娘2人の旅券を申請しようと取り寄せた戸籍謄本に嫡出子否認の裁判の確定とその日付、前夫の名前が記されていた。

 戸籍法の施行規則は、民法772条の規定を裁判(嫡出子否認や親子関係不存在確認)で覆した場合、その手続きと前夫の名前を記すとしている。法務省によると、本籍地を移したり、役所の電算化などで新しい戸籍になれば記載は消えるが、削除されたわけではないので戸籍をたどれば確認される。」


 一方、法務省は前夫の名前を明記するのは「前夫の子ではないことを明確に示すため」としている。

毎日新聞 2007年2月3日 15時00分


どうもわかった様なわからないようなお役所の答弁ですね。

でも、大新聞の記事にも、同じことを感じてしまうのです。。。。。

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2007年2月16日 (金)

離見(りけん)の見 隣国の記者の目

世阿弥は「花鏡」に、客観ということを説いています。

L1010136_sh01nou1 西洋哲学よりも早く、こうした思想が日本にあった事実を知っておく必要がございましょう。

「見所(観客)より見る所の風姿は、我が離見なり。 ……離見の見にて見る所は、すなはち見所同心の見なり。 その時は、我が姿を見得するなり。」

「離見の見にて、見所同見となりて、不及目(ふぎょうもく)(肉眼の届かない)の身所まで見智して、五体相応の幽姿をなすべし。」(不及目(ふぎょうもく)とは、肉眼の届かないという意味)


古文はかた苦しいので苦手だと仰らないでくださいませ。簡単にいえば、能を舞うときに観客の目が自分を見ている、その客席の「見」をもって自分の姿を感得することが大切ということでしょうか。

ここにお隣の韓国で中堅の記者が、日本の能から『離見の見』というテーマで日韓の政局を記事にしています。この記者さんはいわゆる反日の記事とは違う、きわめてクールなものの見方をする方です。これまでも私は二度ほど記事を紹介しています。



韓国 朝鮮日報/

【コラム】「離見」の目に映る韓国の姿(上)

「離見の見」とは、日本の伝統芸能、「能」における演技の極みを指す。これは「心の目」によって、自身の姿を客席から眺めることを意味する言葉だ。他人の立場で他人を理解する「易地思之」よりもさらに一歩進んだ境地と言える。そこでこの「離見」の姿勢を借り、さまざまな想像をしてみれば、韓国人の自画像を描くのに大いに役に立つのではないかというのが、今回の趣旨だ。


【コラム】「離見」の目に映る韓国の姿(下)


日本では今でも4万人余りの韓国人が不法滞在を犯している。そして毎年8000人余りが収容所を経て韓国に強制送還されている。日本で、韓国は不法滞在者数の第1位(2位は中国)、強制送還処分の数でも第2位(1位は中国)だ。金を稼ぐことを目的に来日する技術者の数でも、中国、ネパール、インドに続いて第4位につけている。相変わらず多くの韓国人が日本で日本人の足をマッサージし、日本人の体を洗っている。


もし韓国人が中国人労働者を扱うような態度で、日本人が韓国人労働者を扱ったとしたら、われわれはどれほど悲しみ、怒りを覚えるだろうか。


われわれには決して、他人を見くびるような資格はない。他人を軽視すれば、それがいつどこで自分にはね返ってくるか分からない。それなのに韓国人は自分自身についてあまりにも知らなすぎる。われわれが行う言動がどんな恨みを買い、どんな結果をもたらすのか、無関心過ぎる。遠い客席から見れば、われわれの言動など大根役者の大仰な演技に過ぎないかもしれないという省察が決定的に欠けているのだ。

 「離見」の目に映る韓国の姿に、記者は次第に恐ろしさすら感じてしまった。


鮮于鉦(ソンウ・ジョン)=東京特派員

朝鮮日報/朝鮮日報JNS




日本人が見ても、この記事は説得力があるとお思いになりませんか。

私は昨今の日本のマスメデアにはもひとつといった醒めた気持ちをもっています。視聴率のみを重視し、世の中の啓蒙といった使命をどこかに置き忘れているのではないだろうか、と思うことがしばしばです。

隣国との関係は国家がからむと、私達の市民感情とは別の硬直した展開になります。
しかし、こうした良質の記事を読みますと、まだまだ未来があり、希望があるように思えてきますね。

画像を探しましたが適当なのがありませんので、旧年のスナップを一枚挿入しておきますね。





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2007年1月22日 (月)

著作権を放棄したメアリーの詩 「千の風になって」

或るクラッシックの歌曲がいま国民的なヒット曲になっています。

ご存知、「千の風になって」という歌曲、秋川雅史さんが歌っています。

http://www.youtube.com/watch?v=gDMtEIse1eI&mode=related&search=

昨年暮、紅白歌合戦をたまたま見ていましたら、ありましたありました!
う~~ん、よかったですねえ。聞き惚れましたよ。
秋川さんの風姿も、すばらしい歌声とあいまってとても爽やかです。

この曲はNHKの番組では作者不詳となっていましたが、それは事実ではありませんでした。

東京新聞の放送芸能 のカテゴリに、やはり作者不詳という記事が掲載されています。

英語原詩で作者不詳『千の風になって』 喪失の悲しみ癒やす

記者の山田晴子さんは記事を次のような言葉で結んでいます。

「原詩も、世界中で読み継がれてきた。米中枢同時テロで亡くなった十一歳の少女の一周忌で朗読され、IRA(アイルランド共和軍)のテロで命を落とした二十四歳の青年が「私が死んだときに開封してください」と両親に託した手紙の中にも、この詩が入っていた。

 昨年十一月にはNHKの衛星ハイビジョンで、詩が広く知れ渡った軌跡などをたどる「千の風になって」の特集が放送された(12月にNHK総合でも放送)。番組では、女優の木村多江をナビゲーターに、世界中の人々が「千の風になって」を通じて、身近な人の死をどう受け止めてきたのかを、詩の朗読や曲を合間に流しながら紹介。電話などで寄せられた感想が千件を超える反響だったという。NHKは二十五日、衛星ハイビジョンで午前十時から再放送する。

 番組担当の山本展也チーフプロデューサーは「死をどうやって受け止めたらいいのか、この歌は、その方向性を示してくれる存在。この歌を求めている人たちがまだまだたくさんいると思う」とブームのさらなる広がりを予測している。」

しかし、ネットからは更に貴重な情報を得ることができました。

「千の風になって」の詩の原作者について執筆:オーママミア Quinn

http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/prof/1000winds.html

この詩を書いたのは、メアリー・フライというアメリカ人の女性だったのです。
メアリーの地元ラジオ局でのインタビューより

「メアリー・フライは家庭的で、常識があり快活な94歳のようだ。

これはメアリーが自身の言葉で語った親友マーガレット・シュワルツコフ(Margaret Schwarzkopf)の事である。

時は1932年に遡る──

「そうね、マーガレット(ドイツ系ユダヤ人)はドイツから来たの。ちょうどヒットラーが政権を取ってね、お母様も国外に出たかったんだけど、老齢の上、具合も悪くて来れなかったのよ。彼女はそれこそ何時もお母様の事を心配していたわ。何しろ全然手紙が来ないのよ、だから日ごとに心配を募らせていたわ。

私たち大使館を通してできる限りのことをしたわ。わかるでしょ? その手の事って。ようやく事が判明したんだけど、お母様は亡くなってたの。それで、マーガレットは実際に神経衰弱を患ってただ泣くばかり。毎日、毎日泣き暮らしていたわ。

ある日一緒に買い物に出たの、茶色の紙袋に買ったものを入れて、家のキッチンテーブルで仕分けをしていたのよ。そしたらね、何だか分からないけど、私の買ったものを見てマーガレットが泣き出したの。「それ、私の母が好きだったの。」ってね。

「マーガレット、お願いだから泣かないで。」っていったの。そうしたらマーガレットがね、「何が一番悲しいかって、私は母の墓標の前に立ってさよならを告げる事も出来ないのよ( I never had the chance to stand at my mother's grave and say goodbye.)。」涙に目をぬらしたまま、2階の自室にひきこもったわ。

(注;ドイツの情勢が反ユダヤ人に向かっており、帰れる状況ではなかった。)

その時メアリーの手には、買物を点検するためのペンが握られていた。メアリーは、引きちぎった茶色の買物袋に、一息に込み上げる詩を書き付けた。

しばらくして、落ち着きを取り戻したマーガレットが階下に下りてきたとき、メアリーはマーガレットに紙切れを差し出した。「これ、私が書いた詩なの。私の思う〝人の生と死のあり方〟なの。あなたのためになるかどうか分からないけど。」

マーガレットは詩を一読し、メアリーを抱きしめて言った。「私この詩を一生大切にするわ。」そして、もう泣く事は無かった。」

インタビューのテープの中で、何故メアリーの詩がここまで愛されるに至ったか、彼女が本当に困惑している様子が伺えます。

そして、明らかになった事実は、この詩になんら著作権が設定されていない事です。この詩が人々の共有財産であるため、彼女は一銭の報酬も受けていないのです。

この件についてメアリーは、次のように話しています。

「この詩は私だけのものじゃないの、皆のものよ。今でもそう思うの。これは、愛や安らぎについて書いたのよ、もし私がお金を受け取ったりしたら、意味が無くなるわ・・・。多分、いかれてるんでしょうね。」

ドイツからこの詩の原文を見たお友だちの方がこう述べています。

歌を聴いた時に少し感じた違和感も1932年にメアリーが書いたオリジナルバージョンを読むと、スッと気持ちの中に入ってきました。

Do not stand at my greave and weep
        Words by Mary Frye

Do not stand at my grave and weep
I am not there, I do not sleep
I am in a thousand winds that blow
I am the softly falling snow
I am the gentle showers of rain
I am the fields of ripening grain
I am in the morning hush
I am in the graceful rush
Of beautiful birds in circling flight
I am the starshine of the night
I am in the flowers that bloom
I am in a quiet room
I am in the birds that sing
I am in the each lovely thing
Do not stand at my grave and cry
I am not there I do not die

千の風になって
オーママミア訳詞

私の墓標の前で泣かないで
私はそこにいないのだから 私は眠ってなんかいない
私は千の風になって渡ってゆく
私はやわらかく 舞い降りる雪
私は優しく降り注ぐ雨
私は野に実る穂
私は朝の静寂の中に
私は水辺にたなびく灯心草
空を旋回する美しい鳥たちとともに

私は夜空の星の光
私は咲き誇る花たちとともに
私は静かな部屋の中に
私は歌う鳥たちとともに
私は全ての素晴らしいものとともにあるの
だから、私の墓標の前でなかないで
私はそこにいないの 私は死んではいないのだから

オーママミア Quinn 様。
JanJanの記者をなさっていた木走(きばしり)様。
ドイツのがんばるHiromba。様。

参考にさせていただきました。ありがとうございます。

◇◇◇

反響 この記事を読んで

ミクシイで私が管理しているコミュがあります。いつの間にか6千300人近い会員数になり会員同士のコメントも活発に行われています。その一部をここでご披露いたしましょう。

■がんばるHiromba。  2007年01月21日

わびすけさん
こちらではご無沙汰しています<m(__)m> ドイツ在住のがんばるHiromba。です。

素晴らしい歌のご紹介ありがとうございました。

国内では分らないと思いますが、ご紹介戴いたアドレス・・・「お客様がお使いのIPアドレスは、国内のIPアドレスではございませんので、ご利用いただけません。」という表示が出てしまいますので(^_^;) 下記、ご紹介。

http://www.youtube.com/watch?v=gDMtEIse1eI&mode=related&search=

こちらは海外からでも視聴できます。

番組では作者不詳となっていますが、わびすけさんの紹介されたサイトも素晴らしいですね。

歌を聴いた時に少し感じた違和感も1932年にメアリーが書いたオリジナルバージョンを読むと、スッと気持ちの中に入ってきました。

■ハレのはは  2007年01月22日

私もこの曲を聴いたとき少し違和感を感じました。
それは、歌手の映像と一緒にTVの画面に流れる「墓」とか「死」など目に飛び込んでくる「漢字」のせいだと今思います。

翻訳の曲を作る時、日本語の歌詞はどうしても短くそぎ落とさなければならなくなるので、しょうがないですね。
オリジナルの詩と翻訳は本当に素敵ですね。
特に英語の詩は美しく韻を踏んでいて、口に出して読むと曲がついていなくても充分美しいですね。

原文を教えていただきありがとうございました。

けれども、日本語の歌も、それはそれでメロディーも歌詞も、シンプルで美しく私は好きです。

この歌に携わった全ての方達の暖かい思いが詰まっているように思えます。

■わびすけ 2007年01月22日

ルソンさんはお出かけのようですね。
皆さま、コメントうれしく拝見しております。

ただ今、拙ブログを更新したところです。
はい、ここでの話し合いのもようも一部入れてますけれど、著作権を厳しくいう方々ではないので安心してま~~す。

2007年1月22日 (月)
著作権を放棄したメアリーの詩 「千の風になって」
http://tsubakiwabisuke.cocolog-nifty.com/rendezvous/

http://rendezvou.exblog.jp/

いかがでしょう?

■ルソン  2007年01月22日

○がんばるHiromba。様へ
ドイツでこの問題は,現在もタブーになっていると思われます。が,意外と旧東ヨーロッパの人たちではユダヤ人への迫害が残ったままだったように記憶しています(1994年時点)。

大陸国家にとって民族同志の戦いは,常に大きな悲劇を生むでしょうから,いつまでたっても解決できない問題なのだと想像しています。その意味では昨今のEUの東方への拡大によって90年代の旧ユーゴスラビアの悲劇を避けることが可能になれば良いと日本から希望を持ってみています。

それにしても,故郷を追われて数千年たつユダヤ民族達がいまだに故郷を見つけられないというのは,悲劇としか言いようがありません。

○ハレのはは様へ
言葉の訳は,本当に難しいと思います。そもそも発想が違ったりするからです。その上,同じ英語でも英国の英語と米国の英語では違った使い方をし,そのまま読むと間違った解釈をしてしまったりします。これは,その国の文化や成り立ち,社会背景の違いなどが影響するからです。でもそうした文化の違いを理解してわかると新たな世界を知ることが出来るので楽しいですね。

○わびすけ様へ
だいぶ最初の問題提起からそれてしまってすみません。わびすけ様の指摘された「人の情けであり大自然の美しさ」は,どこの国に行っても私にとって大切なものです。ほとんどの場合,「再会することがまずない」という条件での交流になります。まさに,「一期一会」です。

そのことは,帰国して茶道を知ることによってより実感しました。具体的には,これまで海外で感じた「一期一会」を茶室で知ることによって,「人の情けであり大自然の美しさ」をさらに深く感じることができました。特に,昨年夏に訪れたフィリピンの調査先の皆様に"Don’t' forget me!"(私のことを忘れないで)と言われたことが懐かしいです。

とはいえ,世の中便利になり,インターネットでやりとりをしている友人達の交流も長い友人で10年以上になりました。国は違えど,同じ時代を一緒に成長するので楽しいです。

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2007年1月17日 (水)

敬礼!! 阪神大震災のあの日を忘れない

知り合いに心のまっすぐな美少女がいて、そのお兄さん的存在がサルさんというニックネームの青年です。私は偶々彼の日記を見ることになりました。

彼によればこのエピソードは伝聞だといいます。でも、私は作り話ではない真実味を感じました。ここに 阪神大震災のあの日を忘れない人々のことを、あらためて再録しておきたいと思います。


サルの日記

2年前旅行先での駐屯地祭で例によって変な団体が来て私はやーな気分。

 その集団に向かって一人の女子高生とおぼしき少女が向かっていく。

少女「あんたら地元の人間か?」

団体「私達は全国から集まった市民団体で・・・云々」

少女「で、何しにきたんや?」

団体「憲法違反である自衛隊賛美につながる・・・云々」

少女「私は神戸の人間や。はるばる電車のって何しにここまで来たかわかるか?」

団体「・・・・?」

少女「地震で埋もれた家族を助けてくれたのはここの部隊の人や。寒い中ご飯作ってくれて、風呂も沸かしてくれて夜は夜で槍持ってパトロールしてくれたのもここの部隊の人や。私は、その人たちにお礼を言いに来たんや。あんたらにわかるか?消防車が来ても通り過ぎるだけの絶望感が。でもここの人らは歩いて来てくれはったんや・・・・」

最初、怒鳴り散らすように話し始めた少女は次第に涙声に変わっていった。

あまりにも印象的だったのではっきり覚えている。

団体は撤退。

彼女は門をくぐった時に守衛さんが彼女に社交辞令の軽い敬礼ではなく直立不動のまま敬礼していた。




わびすけはこの文章を読んでさまざまな思いが去来しました。

敬礼っていう言葉を、今の世では使わなくなっていますね。本来はとても尊い言葉ですのに。
なんだか過去の戦争に結び付けて怖い印象操作がされてはいなかったかと思うのです。
ここに掲載されたのは守衛さんの敬礼でした。素直なこころで読めば、なんと美しい礼でしょうか。


今日は1月17日、あの大震災の記憶がよみがえります。京都もマグネチュード5くらいだったと思います。わが家の木像家屋はずいぶん土壁に亀裂が入り、門の瓦は道路上に激しく落ちました。距離的なこともあって軽微な損傷でしたが、テレビで刻々と伝わる大惨事の有様に呆然とするばかりでした。

救援が遅れたこと、マスコミの取材が殺到しその車両が救援活動を阻害したことを、忘れる訳にはいきません。天災であると同時に人災であったのです。もう身の毛がよだつ悲惨さでした。

心から被災された方々のご冥福をお祈り申し上げます。

そして、その大惨事の中からたくましく再起された方々、救援活動に挺身された方々に私も敬礼をさせていただきたいと思います。

最敬礼、それは深くふかくお辞儀する伝統的な「敬礼」であったと思います。


サルさん
いい日記をありがとうございました。



参考

阪神・淡路大震災のデータ記録 せきらら私のメモ帳(雑学系)


コメント欄 (excite http://rendezvou.exblog.jp/4946338/ より転載)
Commented by popyu at 2007-01-18 00:12 x
すばらしいお話をありがとうございます。
震災をテレビで見て悲惨な状況に呆然とした事を思い出します。そしてその年の6月か7月に神戸を訪れる機会が有り、まだまだ震災の跡が残る様子を目の当たりし、愕然としたのと自分の幸せな状況に感謝の思いがしたのを思い出しました。あれから12年、毎年毎年、復興を願いながら悲しみを乗り越えて来られたのでしょうね。私も「敬礼」です。
Commented by ハレのはは at 2007-01-18 00:32 x
神戸は私の青春、私を育ててもらった町。
なのにその時私はそこにいなかった。多くの人と一緒に思いを共有できなかった。遠くでTVを通してしか体験できなかった。
それが未だに、心の痞えとなっております。
多くの思い出が失われてしまいましたが、新たな美しい思いでもできました。
何年たっても、1月17日は特別な日です。
ちょっと私的なコメントでごめんなさい。
Commented by ルソン at 2007-01-18 03:29 x
私も1月17日の大地震のことをよく覚えています。その時,学部4年生でした。神戸大学に英国時代の友人がいたので,慌てて電話をしました。沢山の方が犠牲になり,しかも,その生死の境は不思議なくらいの偶然があったように記憶しています。

同時に,偶然でないこともありました。それは,ここに書かれている自衛隊の救出活動への行政の対応の遅さでした。このことは,県知事だけではなく当時の首相も同じでした。あの時,最初に状況を把握したのが米海軍でした。空母の出動を通じた救援活動を日本国政府は最後まで拒否し,結果的に多くの人が炎の中で命を失いました。

陸上自衛隊の場合,せっかく準備を整えたのにもかかわらず,行政からの許可が下りず,救出活動に出られなかったという「汚点」は,今振り返ってもとても残念です。その後,救出活動への法整備が進み,地域と一体になった活動がしやすくなったことをせめてもの救いとするべきなのかもしれませんが,私は今でもあの時のことを忘れることが出来ません。歴史は振り返ることはできても,代えることが出来ないからです。
Commented by にこらい at 2007-01-18 12:35 x
泣ける話です。

敬礼・・・。私は10年ちょっと前まで地元の消防団にいましたから
在籍している時は敬礼は普通のことでした。
自衛隊に関してはいろいろと書きたいこともありますが、まぁ、地元行政の長が
自衛隊に反対しているから応援を頼まない・・・というのはその当時にTVで知りましたが
あの惨状を目の前にして随分とご立派なことだ、と、呆れましたね。
自衛隊員は普通の人の倍以上の働きができますよ。

それから、文面にある「通り過ぎる消防車」というのがありますが
消防団を引退したばかりの私があの当時TVで見た消防本部長か誰かの
泣きながらのコメントに「消防は水がなければどうにもならんのです、水さえあれば」
というのも、ちょっとは理解してあげてください。水が無いために消火活動が出来ないというのは
無念この上ないことなんです。
Commented by サル at 2007-01-18 13:57 x
私ごときの日記がこちらのブログに掲載され、何だか気恥ずかしい気持ちなのですが、このエピソードがより多くの人に知ってもらえることを嬉しく思います。

当時私は高校生でした。
遠い新潟で眠っていたのですが、何故だか地震に気付いて目を覚ましたのを覚えています。
新潟では大した揺れではなかったので深くは考えずまた眠りなおしたのですが、朝起きてTVのニュースに驚きました。

当時の首相を始めとした多くのお偉方の主義や思想、思惑で自衛隊派遣が遅れたことに今更ながら憤りを感じずにはいられません。

また、当時大阪に住んでいた方は日本橋に向かう途中で見た、消防車を止めて、我先にと写真や映像を撮っているマスコミの社名を決して忘れないと言っていました。

この震災での反省を忘れず、有事の際の各機関の正しいあり方をもう一度確認して欲しいと思います。
Commented by ぞうべ at 2007-01-18 15:28 x
椿わびすけ様、このブログを読んですぐにコメントをいれたのですが、字数がオーバーしているので496?文字を削除して送信してくださいとメッセージがでました。わからずにさわっている内に入力した文章がすべてダメになってしまいました。がっかりです・・・・・。
Commented by mohyo at 2007-01-18 22:24 x
自衛隊 農家の方々は命を守ってくれるお方と何故素直になれない人が居られるのかと思います。マスコミのあり方も反省の材料ですね。
なんともいえない言葉にならない思いで一杯です。このブログを読んで
良かったです。有事の時のあり方は自分はどうしたらよいかをまず考えたいと思いますが各機関のあり方も大切だと思います。
今度は東京という噂もあり地下鉄は最低限の利用とか寝るときはパジャマでなくジャージにしようかとか職場にも最低限の物を置いておけとか
川を3つも越えるから会社を離れるナとか考えると恐ろしいです。
Ⅰ/17には私の誕生日なのですが毎年心重たい日になりました。
地震で亡くなられた皆様のご冥福を祈ります。
Commented by tsubakiwabisuke at 2007-01-19 13:10 x
お書き込みくださった方々の公正な意識、心にひびくご発言に私のほうが感銘しております。このようなよき交流をネットの恩恵と申し上げてもよろしいかと思います。打てば響くとは昔からいわれていますがまさにその感を深くしております。

ココログにはこのコメントがなく淋しく思いますのでいずれ皆様の声を別記事にさせていただきますね。なにとぞご理解いただきますよう!

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2006年12月31日 (日)

南座の顔見世 京から江戸へさがる

大晦日は、ことしの千秋楽にあたります。
今日のJanJan掲載記事のお知らせを。

12・31 JanJanUP 顔見世千秋楽 雨のなかに 中村勘三郎襲名披露
2001minamiza
これは数年前の南座。改築前、東華菜館という中華料理店の屋上から撮影したものです。

今回は演目を具体的に挙げて見どころや役者についても言及しました。
写真は3枚だけで、昨年の顔見世のように舞子さん達の華ある処を撮影できなかったのが残念でした

雨のせいもありましょう。



役者さんの口上は立派ですが、こちらはショボイ口上で~~す。みなさま、この一年間ほんとうに有難うございました。

来年があなたさまにとってどうかよい年となりますように!
はいこちらにもおすそ分けをしていただきま~~す(^。^)

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2006年12月22日 (金)

日本のすぐれた面を報道する 韓国人記者の目

日本国内ではあまり見られない違った角度から、韓国の新聞記者が書いている記事があります。それらを3点、ご紹介いたしましょう。ただ、私がこれらの記事内容を全面的に共感しているということではありません。



【コラム】「土建族の国」    記事入力 : 2006/12/21 
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/12/21/20061221000068.html


「われわれ韓国人にとって、日本の小泉前首相は靖国神社参拝に固執する極右政治家として知られている。しかし、日本では「土建族」を根絶した「改革政治家」として有名だ。

 土建族とは、国会議員、官僚、建設業者を結ぶ「三角コネクション」を指す言葉だ。彼らは「地方均衡発展」という大義名分を掲げて途方もない額の国民の税金を使い、不必要な道路、空港、ダムを大々的に建設した。そのため、国家債務を増やし、長期不況を招いた元凶として、以前から批判の的になっていた。 」


田中角栄元首相と 選挙制度と国民

「しかし、皮肉にも土建族を横行させた基盤は、選挙制度と国民だった。地方住民の立場から見ると、土建族議員は中央から予算を引っ張ってくる地域発展の立役者だ。「土建族の元祖」田中角栄元首相は、1970年代のロッキード事件で逮捕され、裁判を受けている最中に総選挙に出馬し、全国最高の得票率を記録した。これはすべて、地域開発事業を誘致した功績のおかげだった。 」


「このような選挙制度がある限り、永遠に不変かのように思われた土建族だったが、これを没落させる魔術を施した政治家が小泉前首相だった。小泉前首相は昨年の総選挙で、自ら重点公約に掲げていた郵政民営化に反対する議員らを1人残らず党の公認から排除した。血も涙もない冷血漢という非難も受けた。 」


住民はなぜ背を向けたか

「 郵政民営化に反対した議員の多くは、地方への利益誘導を主張する土建族議員だった。だが、彼らにも大義名分はあった。郵便局が民営化されれば、結局需要が少ない地方の郵便局から閉鎖され、地域住民らが不便になるという論理だ。しかし、選挙ではその地方の住民すら彼らに背を向けてしまった。 」

 「なぜ、地方の住民までもが土建族議員を見捨てたのだろうか。それは、長きにわたる経験を通じ、地域住民らも大規模開発事業の弊害を自覚したためだった。地域住民らは、天文学的な予算を投入した道路が「熊とリスだけしか通らない」と言われる程閑散とし、政治家らがバブル期に急造した工業団地とリゾートの多くが、雑草が生い茂る荒れ地に変わっているのを目撃した。 」


小泉前首相の「改革」とは

「 こうした変化を誰よりも早く見抜いた政治家が小泉前首相だった。小泉前首相は2001年に首相に就任して以来、戦後日本の国土政策の金科玉条(最も大切な決まり)だった「首都圏規制」を撤廃した。首都圏の規制は企業の地方移転ではなく、むしろ海外移転を促進し、日本を永遠の二流国家に転落させるという論理で国民を説得した。小泉政策の効果により、海外に脱出して行った日本企業が再び国内に戻り、長期不況に陥っていた経済も復活している。 」


日本で没落した土建族  韓国では勢力を増大


 「ところが、日本で没落した土建族が、韓国では日を追うごとに勢力を増している。盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権は地方発展という大義名分を掲げて開発計画を乱発し、全国の土地価格を急騰させた。さらに、それだけでは飽き足らないのか、来年の初めには再び画期的な地方均衡発展政策を打ち出すと公言している。 」


明の日本 暗の韓国


 「今後、大統領選挙が迫るにつれて、与野党を問わず、票を得ようとさらに奇抜かつ大型の地域開発公約を乱発するだろう。韓国は土建族の国へと突っ走っている。」

車学峯(チャ・ハクボン)記者

朝鮮日報/朝鮮日報JNS






【コラム】東京の1万7900羽のカラス
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/12/12/20061212000062.html

「日本の名だたる優良企業をていると、いずれも経営者が職員の知恵を引き出す能力にたけているという共通点を見出すことができる。 」


 彼が、インタビュー取材で訪れた岐阜県の未来工業で目にしたことは、
「休め、仕事をするな、思った通りに行動しろ」という創業者の語録を見かけた。」

また、「トヨタ自動車の「仲良く戦え」、京セラの「自燃性の(自ら燃える)人」といった著名な経営者たちの発言も、「猛烈に考え、自ら知恵を絞り出せ」ということを逆説的に表現した教訓ともとれる。こうした日本の超優良企業を支えているのは、年間数万件以上にものぼる現場職員からの改善案だ。 」

と社内の空気をよんでいるのです。なかなか面白い記事ではありませんか。


「日本では企業だけでなく、国にも同じような仕組みが機能しているのではないだろうか。国の場合も、指導者がひらめいたアイデアに国民の知恵を結集し、行動してこそ、発展する。」

記者は自国を顧みて、こう突き放すように述べています。

「その一方で、韓国の国民はいつまで言い訳ばかりを繰り返す指導者に耐えていかなければならないのだろうか。 」



鮮于鉦(ソンウ・ジョン)=東京特派員

朝鮮日報/朝鮮日報JNS




つぎは私の地元である京都市の優良企業の紹介です。誇らしい気持ちで私はキーボードを打っているところです。


京都・オムロン本社の信念と 社会貢献


2006/03/14

【社説】世界最高の製品を作る日本オムロン社の障害者たち
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/03/14/20060314000003.html

「日本の大分県別府市に位置するオムロン太陽株式会社は、従業員の47人のうち35人が障害者で、このうちの70%は両足や両腕に重度の障害を持つ。

 オムロン太陽は、精密計測、制御技術分野の世界トップメーカーであるオムロン社が、1972年に設立した子会社だ。日本初の障害者自活工場でもある。会社の玄関に入ると、目に見える6階建てのコンクリート建物は、田舎の学校を連想させる。赤い太陽のなかに小麦が刻まれた会社のシンボルが鮮やかに見える。 」



「小麦は踏めば踏むほど、首をまっすぐに伸ばします。障害を持つ人も、小麦のような強い生命力で団結し、力強く生きていこうという意味です」。自身も下半身麻ひで車椅子に乗っている江藤秀信社長は説明する。江藤社長は、「障害者に必要なのは『チャリティー』(慈善)ではなく、『チャンス』(働く機会)です」と述べた。

 大分県だけで、こうした障害者の自活工場が8か所に及ぶ。「健常者より、よい品質で競争すること」が共通の目標だ。





地元の話題ということで以下検索してみました。
笹原選手オムロン本社へ優勝報告
http://rintera.web.infoseek.co.jp/news/2006.11.28/newpage28.htm
 「11月28日京都市にあるオムロン株式会社(本社)へ10月29日大分国際車椅子マラソンで優勝したことを笹原選手と社長の江藤が報告に行かれました。

 立石会長・作田社長・ECB湯川CP社長・落合専務・下津部長とオムロンの広報関係者出席の中笹原選手略歴紹介を江藤が報告し、、続いて笹原より
「大分国際車いすマラソン大会優勝報告にオムロン本社へ訪問を致しまして、代表取締作田久男社長から表彰を授与して頂き大変嬉しく思っております。今回の大会結果はもちろん、表彰して頂けます事になりましたのも、日ごろからの多くの方々の声援のお力添えがあったからこそだと思っております。貴重な表彰に心から嬉しく思い又、多くの皆様に感謝の気持ちで一杯になりました。今回の表彰を励みにしまして多くの方々の応援を力に変えて、さらに頑張って行こうと思います。」と語られ、第26回大分国際車椅子マラソン大会模様のビデオダイジェスト放映を行った。」



オムロンの社訓


われわれの働きで

われわれの生活を向上し

よりよい社会をつくりましょう



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2006年12月 9日 (土)

中国ではむごい処罰 日本の心美しい遊女と白隠禅師の場合

現代ではとうてい考えられないニュースが飛び込んできました。中国で、売春婦が黄色い囚人服を着せられ、手錠でつながれ出身地と実名を公表されたうえ、市中を引き回されたというのです。写真をみれば一目瞭然です。

その前に売春をせざるを得なかった女性たちの境遇を考えてみましょう。イザ!の記事には次のようになっています。

「中国で風俗産業に従事する女性は推計600万-1200万人とされる。多くが貧しい農村からの出稼ぎ組で故郷の親兄弟に仕送りしている。売春の元締めの黒社会からは稼ぎをピンハネされ、社会からは白い目が注がれる。しかも、本来違法であるはずの風俗産業の経営には公安当局者の後ろ盾があるケースが多い。」

「11月29日、深●(=土ヘンに川)市内で、同市公安局福田分局が売春婦40人を含む性風俗産業従事者や客ら計100人を引き回した。「公開処理大会」と銘打たれていた。女性たちは口元を隠すマスクを与えられたものの、中国では「ポルノ」を意味する黄色い服を着せられ、実名、出身地などが公開された。そのうえ、手錠でつながれ、ヤジを飛ばす沿道の市民の前を連れ回された。この様子は中国中央テレビほか各メディアで報道された。」

売春婦100人「市中引き回し」に庶民反発 中国で同情論

江戸時代であっても、火付けをしない限りはわが国でこのような罪業で辱めは受けなかったのです。寛容な国民性というものをもう一度思い起こしてはいかがでしょうか?

白隠禅師仮名法語にある実話は、感動的なエピソードです。

                        財)禅文化研究所WEB       白隠禅師仮名法語・余談(6)


 寛延3年(1750)、白隠禅師は、提唱を終えた後、京の豪商、岐阜屋こと世継八郎兵衛幸政の館で旅の疲れをいやしていました。

 『年譜』には「帰路平安城を過ぎ世継氏に館す。池大雅来参す。及び大橋女を度す」とあります。池大雅はあの著名な画家のことです。いま取り上げるのは「大橋女」という人のことです。

白隠禅師は4月には本山妙心寺の養源院で碧巌録を講じました。その法席には、宝鏡寺尼門跡、光照院尼門跡をはじめ葉室頼胤、冷泉宗家といった貴顕が連なったのです(『年譜』)。

その後、宝鏡寺、光照院からはいくたびかお召しがあり、禅門寶訓を講じており、駿河に帰ったのは7月3日のこと(『於仁安佐美』巻之下の冒頭)。つまり、白隠禅師はこのとき京都におよそ三ヶ月ほど滞在したわけで、その間、さまざまな人と出合い接化していますが、そのうちの一人が大橋女だったのです。

  大橋女はもとは江戸に住まいする旗本某甲の娘でした。父は千石余を食んでいたが、何らかの事情あって浪々の身となり、京都にやって来ました。収入がないものだから、娘は弟とともに乞食までして家計を助けたましたが、それでも赤貧のありさま。娘は一家を救うため、自分を遊女屋に身売りするよう父母に申し出ましたが、父母は、わが子を売って活きるなど畜生の業、と許すはずもない。

娘はさらに、「これというのも方便、もしお許しにならなければ、一家ともに死ぬだけです。方便は真智には及びませんが、死の難を免れるは道にかなうのですから、これも真智ではありませんか」と説得するので、父母も泣く泣くこれに同意し、遊廓に送ったのでした。

 女は、もとより教養があり、書も和歌もよくしたので、やがて島原の名妓大橋となったのです。しかし折りに触れて思うはわが身の上。もとはといえば侍の家に生まれ、深窓に養われ、女中にかしづかれる身であったのに、今はかかるうき川竹の身、何と情けないことか、と。やがてこの煩悶が積り重なって病となり、医者も手をこまねくほどになりました。

その病が機縁となって、大橋は仏教の信仰を得るのです。


 そのうちに、ある人に身請けされ、その妻となりました。やがてその夫も歿故し、その後、一素居士という者に再嫁しました。居士は大橋に誘われて、いつも白隠禅師に参じたといいます。

大橋は、後に一素居士に乞うて尼となり、慧林と名のりました。居士に先きだって死にましたが。一素居士は白隠禅師の弟子である東嶺に焼香を頼みます。東嶺が一素居士の家に行ったところ、位牌の代わりに、ただ観音像の軸が掛かっているだけです。

東嶺が「位牌はどうしました」と尋ねると、居士は「普門品には応以婦女身得度者、即現婦女身而為説法とあるが、慧林尼こそは観音の応現だ。だから観音像を掛けてあるのだ、何もおかしなことではない」と答えたそうです。東嶺もこれを聞いて黙って香を拈じたのでした。

白隠禅師仮名法語・余談(6) 芳澤 勝弘〔花園大学教授〕

以上が、白隠『年譜』および草稿に出る大橋という遊女の話ですが、いかに立派な日本人がいて、おおらかな求道心をもつていたかがわかるではありませんか!

今、流行のようにいわれる「人権」という言葉、なにかむなしい響きを私は感じてしまうのですが、それは私だけなのでしょうか?

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