日記・コラム・つぶやき

2009年8月25日 (火)

吉備路への旅 倉敷・大原美術館と心ゆかしい方々の思い出

スライドショーををアップしました。http://homepage1.nifty.com/xkyou/2009kurashiki.html

吉備路への旅を思い立ち、倉敷・大原美術館をたずね、この町でゆかしく親切な方々に出会いました。恥ずかしながらその思い出を。

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午前9時すぎ、あこがれの倉敷・大原美術館へ。
じつは、http://www.kibiji.or.jp/吉備路文学館で、「特別展 夏目漱石の2人の愛弟子 湯浅廉孫と内田百閒」のオープニングが午後1時からありますので、その前に参じたのでした。関東地方からお友達のYさんがごいっしょにいらしていろいろお世話になりました。

大原家のあるじの方々は日本人の誇りというべき立派な人格の持ち主でいらっしゃいます。私はお会いしたこともなく、ただ、ひそかに尊敬するフアンに過ぎませんけれど。
もうはるか昔、文芸春秋で大原氏夫人のお写真を一目見て、魅了されたことを思い出します。藍色の紬の和服をお召しになった夫人は、原節子をほうふつとするような美しい女性でした。

昔は孤児院から、良質な病院、世界一流の美術館を備えた大紡績会社。企業が社会貢献をこれほど見事に堅実な経営で成功されているのは稀なことでありましょう。中国銀行も大原さんが創始されたものであり、吉備路文学館の母体としてこの銀行が存在することも知りました。

「あの~、シャッターを押していただけません?」とお願いしたのがきっかけで、松田さんという親切な青年がぐいぐいと街並みを案内していかれました。でも、おみ足が速く、ついて行くのがしんどかったです~。

ほんとうに溜息が出るような趣のある町のたたずまいですね。
おかげで、二人もなんとか通行人のサマになったようで、松田さん写す我がカメラの記録をここにアップすることにしました。倉敷の余慶をいただきましたことを、感謝しつつ。

美術館のまえにロダン作聖ヨハネの彫像があり、今ひとつはカレーの市民でしたか。皆さんのほうがよ~くご存じでしょう?
美術館を出ると、大原家があり、倉敷川が流れ、石橋がかかっています。町を行くと白壁と日本家屋と小路があり、「ここはヒラメの寝床ってボクは名づけているんですよ」の名解説を聞きました。

京都では「ウナギの寝床」っていいますけどね。。。はい、ウナギもヒラメも大好物でございます。呉服屋さんの小路の奥には、蔵屋敷の喫茶店がありました。入口の前で、「そこに腰かけて」、といわれパチリ。喫茶店のママさんは呉服屋さんのよう、やはりご親切な方でタクシーを呼んで下さいました。

あ、その前にもう一か所、喫茶店エルグレコ。大原美術館の至宝・「受胎告知」のモノクロ写真が壁面に掲げられ、いつしかその雰囲気に酔ってしまった私でした。
エルグレコという画家の名のこの喫茶店も大原家の方が経営なさっているとか。お店の前に七夕の笹がおかれ、短冊に願いを書くようにとすすめられました。私たちも夫々したためて笹につるしたのです。



午後は漱石展で、味わい深い講演があり、100人の出席者が熱心に聴講されていました。
夏目漱石及び内田百閒の研究家として高名な内田道雄先生(東京学芸大学名誉教授)のお話は、いずれ京都漱石の會の会報『虞美人草』に掲載の予定になっております。

展覧会の要旨は吉備路文学館のHPにチラシが出ておりますのでどうぞご覧くださいませ。10月4日迄。

http://www.kibiji.or.jp/php/kibiji_display_event.htm

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2009年7月 7日 (火)

 2009年精中忌 ほたるが飛んできました

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 スライドショー 2009年精中忌 ほたるが飛んできました

7月5日の精中忌の写真を今回は早々とUPしました。道具当番にあたり、半東の役も何度かつとめました。道具に関してはあまり無理をしないことをモットーにしている私ですが、こうした公開の場ではそんなことも云っておれません。他のお道具もちの会員の方々にお願いして、僅かに二碗目の「蛍」の金海茶碗を出してみました。それでついこんなタイトルをつけてしまいました。花を持参する人、活ける人、灰型を作る人、お運びに、それぞれ力を寄せて出来上がります。

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最後に、奈良で撮影したササユリの一枚も。茶席に入れるゆりといえばこのササユリかヒメユリくらいでしょうか。匂いもきつくないのと楚々とした風情が好まれるようです。でも一本でなく集合体となるとどうしても美しさという点では減点となるようです。。。人の世と同じかもしれません。

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2009年6月29日 (月)

日本最古のやんごとない恋物語 奈良の率川神社「ささゆり祭り」

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ささゆり祭り」は日本最古の女性尊重の物語。神武天皇の恋歌と神花となった「笹ゆり」

ひさしく更新をしていませんでしたが、六月の思い出にアップいたしました。

http://homepage1.nifty.com/xkyou/sasayurimatsuri.html

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2008年6月 5日 (木)

漱石が一夏をすごした鎌倉の家から早稲田まで

明治三十年の夏、と文献上ではなっていますが、漱石が鏡子夫人の流産の後を心配して鎌倉で静養をした頃のことです。夫人の静養する家と漱石の居た家は別にあり、私はマックレインさんとご一緒にその場所を訪ねました。

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◇ ◇ ◇

漱石を敬仰してやまないある出版社のオーナーが漱石の令孫・マックレイン陽子先生をご招待され、私も同伴の光栄にあずかりました。漱石が通っていた朝日新聞社に程近い場所に 老舗の料亭があり、外国からの客にここで振舞って喜ばれているというお話でした。出版業界は厳しい冬の時期ですがこのように心からお招き下さるきっぷのいい社長さんにはただ 感謝あるのみ。京都漱石の會の式典にもご参加いただいた会員のお方なのです。

早稲田大学の原田教授の教室でマックレイン陽子先生の講演を学生さんに交じって聴講し、その後教員用学食で会食をいたしました。記念写真は女子学性のお一人がパチリ…、う~ん、ちょっとピンボケなのかアラがみえなくて結構でした。

講演はアメリカで「老」の言葉は社会が使わないようにして高齢者を大切に守っている、それに比べ日本では先ず年齢を尋ねマスメデアも年令を明記する。人間は「年齢(とし)だ、年齢(とし)だと言われ続けられれば、自分はもう老人なんだからとすべてを諦めてしまう。老人病、老人ホーム、老眼、など英語には全くありません」

私は日本では「敬老」の精神は建前でありながら、実際には老を差別し軽んじている風潮を見ないわけにはいかないように思います。陽子さんを間近に接してみますと「老」の片燐もなく年輪から来る知恵を感じます。この講演は漱石がテーマに日米の相違点を率直に語られたところ、印象深く楽しいお話でした。

それから、たまにはリッチなホテルで過ごすのも、わるかぁ~ありませぬ。庶民の束の間の楽しみといえましょうか(これって私の場合ですが)。早稲田大学と大隈公園を眼下にみはるかすとてもいい眺めで した。ワセダ熊ちゃんも可愛いキャラクターでした。

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2008年5月 6日 (火)

漱石の『火鉢』で和敬点ての点前

広間での茶箱点前は、野点形式になります。瓶掛けはこの場合、火鉢を使用しています。漱石の随筆に『火鉢』という小品があるのをご存知の方もいらっしゃいましょう。(画像はクリックすると大きくなります)。
http://wabisuke.la.coocan.jp/soseki.hibati.html
漱石が書いた『火鉢』は永日小品という作品の中の随筆なのですが、私がその一篇だけ抜粋してページを作成しました。是非クリックしてこの『火鉢』を味わって頂きますよう!当日の茶席のしつらい、点前座の道具組に、なぜ瓶懸けでなく火鉢を使用したかがお分かりになると思います。
 
京都漱石の會第一回例会は、日本家屋の会場で行いました。
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漱石が西川一草亭に与えた直筆の掛け軸が約束の時間に未だ到来せず。床には一草亭好みの尺八花入。黒田正玄の作で銘は若葉と彫られています。
けまん草は別名鯛つり草ともいいますが、掛け物に変わりてもの申す。。。1時間あとに待ち人来る。一草亭のお孫さんが軸をかかえて。けれど漱石の書の写真は撮れませんでした。
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ほんとうは、「我輩」という茶杓が欲しかったのですが、手持ちがございません。本物のわが猫はもう姿が見えなくなりましたしそれでやむなく、だれかの名前のものを出したというわけです。拝領した品をやむなくというのはまことに失礼ですけれども。
お点前は、オレゴンから来られたまるめさんに、半東はハレのははさんでしたか?

私はお茶のほうは皆さまにおまかせで、他の雑事をねじり鉢巻でしておりました。50名の皆さまにお茶も飲んでいただき、ほっとしたことです。和敬点ての点前の順序は、のちほどハレのははさんが誰にもわかるように書いてくださるでしょう。


ハレのはは 述

和敬点は、もともと淡々斎さまが戦中に海軍のために考案なさったというだけあって、質実剛健、無駄のないとても合理的なお茶箱のお点前のように思えます。
(成り立ちの詳しいことは以前わびすけさまがお教えくださっておられますね)

お道具類が袋に入っていることもなく、お茶を出すのに古帛紗を使うこともなくいっぺんに2つのお茶碗を運び出せ、おまけに拝見もありません。
一碗と二碗、どちらのお茶碗でおしまいをするかで、少し手順が違うところがありますが、大まかな手順は「卯の花点」とおなじです。

(一碗目でおしまいをするときは、お茶碗を拭き、茶筅茶巾を筒に納めてから、二碗めは拭きません。二碗目でおしまいするときは、後で返ってくる一碗目を拭くまでは茶箱に戻せませんね。一碗目は濡れたままにできませんから。二碗とも拭きます。


茶箱の中手前には、二つ重ねた茶碗、その中に古帛紗を敷いて棗を入れます。
向こう側に茶筅筒、茶巾筒、振出を入れ、茶杓を茶碗に伏せ、その上に帛紗を捌いて箱の蓋をし、蓋の上に薄板を載せて持ち出します。

建水も持ち出し、勝手付に箱をよせ、膝前に薄板、瓶掛右がわに横にした蓋、帛紗を捌いて蓋を清めたら、茶杓を蓋の右寄りに出し、振出しを客付に出します。
ここで「総礼」。(正客は振り出しを取りに行きます)

この後、重ねたままの茶碗を薄板の上に、棗を蓋の上に出し、古帛紗を薄板と箱の間に置いたら、その上に重ねたままの茶碗を置きなおし、上の茶碗だけを薄板の上に出し、茶箱、建水と奥に進めます。

後は棗、茶筅と清めていき、茶筅を茶碗に入れてお湯を入れてから、茶筅通しの前に茶巾をたたみ直して、蓋の上右上に置きます。この辺からは他の茶箱点前と変わりませんね。

書いてみるとずいぶん手数があるので、席中では、点前座にすべて広げておいて、お棗を清める所から始めました。振り出しで、お客様にお菓子を召し上がっていただきたかったのですが、順に並んで座っておられなかったこともあり、雰囲気だけ感じ取ってもらうことに。

一見簡単なかわりに一寸愛想がないかも・・と思われるお点前が、今回のお席では珍しい瓢型の茶箱のお道具達で、とても優雅に変身。グリーンのビードロの振り出しも素敵でした。

けれど、如何せん多くのお客様にいっぺんにお茶を差し上げなければならず、ゆっくりお点前やお道具を楽しんでいただけたかどうか・・はなはだ心もとなく、半東どころか、お運びすら怪しげに勤めさせていただいておりました。




お道具もお手伝いも皆さまのおかげでございます。これもお茶のご縁。。。ありがたく心から感謝申し上げます。わびすけ

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2008年4月30日 (水)

漱石生誕100年記念になる年月日

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木屋町御池東に建つ漱石句碑の前で、京都漱石の會主催になる漱石供養の式典が去る4月12日午前10時過ぎより行われました。漱石が朝日新聞社に入社して第一作の小説となった『虞美人草』に登場する天龍寺。その天龍寺派大本山の新管長となられた佐々木容道老師が道師として漱石追善の法要を執り行われたのは、この上なくありがたいことでありました。その香語と回向文は大切に保存しております。

上の写真は、句碑の裏面にあたるところです。2月9日とはどういうわけかと申しますと漱石の誕生日が新暦の2月9日だからです。旧暦では1月5日になるのですが。

夏目漱石は1867年2月9日に出生しました。したがって漱石生誕から100年目の記念となれば、1967年2月9日であることは明白です。建立するに当たって、記念日に間に合うように前年の11月9日にしたのも、漱石忌である12月9日の前に立てておきたいという当事者のお考えがあったようです。建立時にはわずか3人のみ立ち会われたと記録されています。

当時のもようは、京都新聞が記事にされていました。昭和41年11月9日京都新聞夕刊だったと思いますが、そのコピーを京都漱石の會第一回例会に参加された皆様へ会報に添えて配布いたしました。

そこで、昭和42年2月9日の生誕百年記念日に除幕式をされるべきところ、寒中であることを勘案され春4月9日に晴れて除幕式を挙行されました。

漱石句碑の裏面には、次の文言がしるされています。

「漱石生誕百年記念 昭和四十二年二月九日 漱石会」

漱石会の最後の会の一字は土の中に隠れて見えませんが、この字は当時の『漱石会」が書家の森田子龍氏に依頼して揮毫されたものです。

私が京都漱石の會をたちあげたのは昭和四十二年(1967)除幕式から数えて40年目の昨年10月のことでした。したがってことしは41年目になる次第です。

本来なら生誕百年記念として昭和42年(1967)2月9日に建立となるところ、便宜上前年の11月に前もって準備したと考えるのが適当かもしれません。いずれの記載も真実であることに変わりはありません。

漱石追善供養のもようは京都市の観光課のお役の方々に詳細な写真を撮影していただき感謝に堪えません。いずれその中の何点かアップさせていただこうと思います。

漱石が望んだ「閑適」のこころ。。。病苦に苦しみながら健全な精神をもって偉大な業績を遺した漱石に、私どもも学び、「閑適」のこころを身につけてゆきたいものと思います

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すみれほどな 小さき人に 生まれたし 漱石

http://mytown.asahi.com/kyoto/news.php?k_id=27000140804150002

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漱石に関心ある方々に こうした有名人もいらっしゃいます。

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懇親会参加者は、すべて年齢不詳、性別明確、頭脳春日のごとく、意味不明、、失礼。

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春の川、、、 漱石が詠んだ鴨川は道路が高くてみえませんが、かなたに東山連峰がみえました。めでたし、、、ああ、私のあたまもめでたしの状態でございます。

参考
京都の風流を愛した漱石 祇園の多佳女の看病に癒された日々 2007/06/19

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2008年4月29日 (火)

NHKで漱石 「知るを楽しむアンコール」

夏目漱石の番組は数ありますが、今回は隣国コリアの出身で漱石が大好きだという研究家のお話です。お時間のある方はどうぞご覧になってくださいませ。

知るを楽しむアンコール 私のこだわり人物伝
夏目漱石 悩む力

語り手・姜 尚中


バックナンバーページで内容を確認する


4月28日(月)午後10:25~10:50(教育テレビ)
〈再〉5月5日(月)午前5:05~5:30(教育テレビ)
第1回 現代を見抜いていた人

4月29日(火)午後10:25~10:50(教育テレビ)
〈再〉5月6日(火)午前5:05~5:30(教育テレビ)
第2回 東京の女(ひと)―『三四郎』より

4月30日(水)午後10:25~10:50(教育テレビ)
〈再〉5月7日(水)午前5:05~5:30(教育テレビ)
第3回 愛でもなく、金でもなく―『それから』より

5月1日(木)午後10:25~10:50(教育テレビ)
〈再〉5月8日(木)午前5:05~5:30(教育テレビ)
第4回 あなたは真面目ですか?―『心』より

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2008年4月15日 (火)

漱石句碑の駒札が建ちました

四月十二日、京都市中京区木屋町御池東入る、、、今なら御池大橋西詰め南側というほうが分かりやすいでしょう。えっ、なんのこと?ですかぁ~~。まあ、これをごろうじろ。

漱石の句碑前で追善供養      
中京で文化人ら50人
  

(京都新聞夕刊 4月12日)

翌13日朝刊には、読売、朝日、毎日、産経の四紙が、ちがった角度から書かれた記事を掲載していました。

読売

http://osaka.yomiuri.co.jp/kyoto/news/20080413kn04.htm

写真をクリックすると拡大します。読者からこの写真は評価が高いようです。遠く山のすがたも風情がありますね。

毎日

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080413-00000266-mailo-l26

朝日と産経の記事はウェブにアップされておりません。新聞紙上地域版のみとなります。

★追加

産経新聞 朝刊
平成20年(2008年)4月13日 日曜日

画像は表示されません。

漱石の句碑の横に立てられた駒札の前で供養に臨
む   伊津子代表(右) =京都市中京区
:.……..… ……………………………▼,・………・・………
漱石句碑前に新駒札
フアンの会発足、除幕、
夏目漱石の愛好者らでつくる「京都漱石の會」の第一回例会が12日、京都市中京区の御池大橋西詰にある漱石の句碑前で開催され、漱石と京都の深いかかわりについて記した新しい駒札が除幕された。
同会は、昭和42年4月に漱石の句碑を建立した漱石ファンの会が活動を終えたため、新たな活動の場を設けようと茶道家が中心となって発足させた。
例会には丹治さんのほか、門川大作・京都市長ら約50人が出席、供養の法要も営まれた。
駒札には、漱石が「虞美人草」執筆などのため生前4度にわたって京都を訪れたことや、漱石の旬にまつわるエピソードなどが記されている。
丹治代表は「句碑が建てられた後、忘れられたように横たわっていたのを何とか知ってほしいという一念が会の発足につながった。
漱石先生、私たちはいつもあなたとともにありたい」とあいさつした。

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スライドショー こま札が建つまで 京都漱石の會

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2008年4月 6日 (日)

利休忌2008年稽古場席&豊国廟のさくら

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ながらくサイト更新をしていませんでしたが、思い立って画像をまとめてみました。三月二十八日から急に四月二日に飛んでいるのが、不自然に思われるかもしれません。その間、雑事にとりまぎれといえば聞こえがいいのですが、実はさっぱり身体が動いてくれませんでした。けれども漸く、漱石先生の行事にも目途がつきました。京都漱石の會の基礎がかたまり、会報の発刊も着実に進んでいるようです。と他人事のように云ってみる(笑)。

画像のデーター量が重くなり、ダウンロードに時間がかかると思います。待ちきれずに短気をお出しになって他所に行ってしまう方もおありでしょうか?どうぞいっときの辛抱ですよって、かんにんしてくださいませ。

スライドショー 利休忌2008年稽古場席 & 豊国廟を訪ねる

茶会記はなくても道具に関しては、凡その見当はおつきになるのではないかと。これはなんだろう?という自問自答も時にはいいのではないでしょうか。どうぞよろしく。

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2008年3月16日 (日)

旧西園寺公別邸 清風荘にて

京都市左京区田中関田町、百万遍のあたりは京都大学の施設が多いところです。この清風荘も京都大学の所有になる登録文化財の建物です。もとは、藤原北家につながる公家・徳大寺家の別荘を、1910年に同家二男で元首相の西園寺公望(さいおんじ きんもち)の別邸として改築。44年に京都大に寄贈されたと伝えられます。

14日(金)に西宮の友人と11時の時間をうちあわせ、清風荘へ参りました。宗家の稽古場でお世話になっています先輩の授賞祝賀茶会のお招きでした。朝から雨模様で傘があちこち開いて清風荘の門を入って行きました。

http://www.kyoto-u.ac.jp/uni_int/01_photo/seihuso.htm

ここは現在、京都大学の迎賓館として使用されている非公開の場所でした。縁あってこうして門をくぐることが出来、広大な庭園を拝見しつつ数奇屋の玄関に入りました。ご亭主のおかげと思います。

待合で濃茶のお菓子をいただき、狭い階段をあがって二階の広間席へ。ここでお濃茶を。

床、お家元筆 高臥聴松濤(こうがしてしょうとうをきく)。

春牡丹が古銅の花入れによく入っていました。香合に菊御紋菓子 餡を出して上皮と下皮を二枚乾燥させ、裏に金を貼るといった工程を眼に浮かべました。中宮寺のご門跡が私の傍らで、「宮中にまいりますとお土産にいただきますのよ」とひと言。

濃茶、薄茶と2席、すべて社中の方々が協力して担当され、師匠冥利につきるといった印象を受けました。点心は辻留で椀物のアイナメが結構なお味でした。

このお部屋は西園寺さんが特にお好きでよく坐ってお庭を見られていたそうですよ、とご亭主のお話とお酌で美酒をいただきました。春雨にけむる庭園はなだらかなうす緑の線をもち悠然たる姿をあらわしています。西園寺公望が文部大臣の頃、京都帝国大学創立に尽力したといわれています。

私は以前から清風荘に関心をもっていたのです。それというのも漱石に関することで津田青楓と彼の兄、西川一草亭が、入洛した漱石について書いている中に、この清風荘がありました。

大正4年3月、当時の地名は田中村といっていた頃です。

「その頃西園寺公が田中村の清風荘に滞在して居られて、私は時々花をいけに行った。先生も一度西園寺さんに逢ったらどうですといったら、「逢ってどうするのかね、逢ったって仕様がないじゃないか。飲食相通ずる位なもんだろう」と皮肉を云って笑ってをられた。」
また、二三日して、一草亭は清風荘で公爵から小つばめといふ公の愛鳥を貰って帰りました。
画を描くために小鳥を必要とする彼に、西園寺公は自分の愛鳥にエサをやってからその鳥を手放します。その行為を奥ゆかしいと感じた一草亭は小鳥を大事に貰って帰りました。
帰り道にその鳥かごを提げて漱石先生の滞在している旅館北の大嘉に立ち寄ったのです。漱石との会話はここでは書きません。
しかし、夏目漱石と西園寺公といえば、より大きい話題になった時期があります。ご存知の方は多いことでしょう。漱石が西園寺公の招待を断り、そのために、ハガキに一句をしたため招待主に送った事実を。
ほととぎす 厠半ばに出かねたり
(かわや)といえば、おトイレなんですね。時の総理大臣である西園寺公爵への返事がこの俳句だったのです。
西園寺さんも大人物だったでしょうし、別に立腹したという話も残っていないのは何よりでした。

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