日記・コラム・つぶやき

2009年8月25日 (火)

吉備路への旅 倉敷・大原美術館と心ゆかしい方々の思い出

スライドショーををアップしました。http://homepage1.nifty.com/xkyou/2009kurashiki.html

吉備路への旅を思い立ち、倉敷・大原美術館をたずね、この町でゆかしく親切な方々に出会いました。恥ずかしながらその思い出を。

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午前9時すぎ、あこがれの倉敷・大原美術館へ。
じつは、http://www.kibiji.or.jp/吉備路文学館で、「特別展 夏目漱石の2人の愛弟子 湯浅廉孫と内田百閒」のオープニングが午後1時からありますので、その前に参じたのでした。関東地方からお友達のYさんがごいっしょにいらしていろいろお世話になりました。

大原家のあるじの方々は日本人の誇りというべき立派な人格の持ち主でいらっしゃいます。私はお会いしたこともなく、ただ、ひそかに尊敬するフアンに過ぎませんけれど。
もうはるか昔、文芸春秋で大原氏夫人のお写真を一目見て、魅了されたことを思い出します。藍色の紬の和服をお召しになった夫人は、原節子をほうふつとするような美しい女性でした。

昔は孤児院から、良質な病院、世界一流の美術館を備えた大紡績会社。企業が社会貢献をこれほど見事に堅実な経営で成功されているのは稀なことでありましょう。中国銀行も大原さんが創始されたものであり、吉備路文学館の母体としてこの銀行が存在することも知りました。

「あの~、シャッターを押していただけません?」とお願いしたのがきっかけで、松田さんという親切な青年がぐいぐいと街並みを案内していかれました。でも、おみ足が速く、ついて行くのがしんどかったです~。

ほんとうに溜息が出るような趣のある町のたたずまいですね。
おかげで、二人もなんとか通行人のサマになったようで、松田さん写す我がカメラの記録をここにアップすることにしました。倉敷の余慶をいただきましたことを、感謝しつつ。

美術館のまえにロダン作聖ヨハネの彫像があり、今ひとつはカレーの市民でしたか。皆さんのほうがよ~くご存じでしょう?
美術館を出ると、大原家があり、倉敷川が流れ、石橋がかかっています。町を行くと白壁と日本家屋と小路があり、「ここはヒラメの寝床ってボクは名づけているんですよ」の名解説を聞きました。

京都では「ウナギの寝床」っていいますけどね。。。はい、ウナギもヒラメも大好物でございます。呉服屋さんの小路の奥には、蔵屋敷の喫茶店がありました。入口の前で、「そこに腰かけて」、といわれパチリ。喫茶店のママさんは呉服屋さんのよう、やはりご親切な方でタクシーを呼んで下さいました。

あ、その前にもう一か所、喫茶店エルグレコ。大原美術館の至宝・「受胎告知」のモノクロ写真が壁面に掲げられ、いつしかその雰囲気に酔ってしまった私でした。
エルグレコという画家の名のこの喫茶店も大原家の方が経営なさっているとか。お店の前に七夕の笹がおかれ、短冊に願いを書くようにとすすめられました。私たちも夫々したためて笹につるしたのです。



午後は漱石展で、味わい深い講演があり、100人の出席者が熱心に聴講されていました。
夏目漱石及び内田百閒の研究家として高名な内田道雄先生(東京学芸大学名誉教授)のお話は、いずれ京都漱石の會の会報『虞美人草』に掲載の予定になっております。

展覧会の要旨は吉備路文学館のHPにチラシが出ておりますのでどうぞご覧くださいませ。10月4日迄。

http://www.kibiji.or.jp/php/kibiji_display_event.htm

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2009年7月 7日 (火)

 2009年精中忌 ほたるが飛んできました

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 スライドショー 2009年精中忌 ほたるが飛んできました

7月5日の精中忌の写真を今回は早々とUPしました。道具当番にあたり、半東の役も何度かつとめました。道具に関してはあまり無理をしないことをモットーにしている私ですが、こうした公開の場ではそんなことも云っておれません。他のお道具もちの会員の方々にお願いして、僅かに二碗目の「蛍」の金海茶碗を出してみました。それでついこんなタイトルをつけてしまいました。花を持参する人、活ける人、灰型を作る人、お運びに、それぞれ力を寄せて出来上がります。

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最後に、奈良で撮影したササユリの一枚も。茶席に入れるゆりといえばこのササユリかヒメユリくらいでしょうか。匂いもきつくないのと楚々とした風情が好まれるようです。でも一本でなく集合体となるとどうしても美しさという点では減点となるようです。。。人の世と同じかもしれません。

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2009年6月29日 (月)

日本最古のやんごとない恋物語 奈良の率川神社「ささゆり祭り」

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ささゆり祭り」は日本最古の女性尊重の物語。神武天皇の恋歌と神花となった「笹ゆり」

ひさしく更新をしていませんでしたが、六月の思い出にアップいたしました。

http://homepage1.nifty.com/xkyou/sasayurimatsuri.html

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2008年6月 5日 (木)

漱石が一夏をすごした鎌倉の家から早稲田まで

明治三十年の夏、と文献上ではなっていますが、漱石が鏡子夫人の流産の後を心配して鎌倉で静養をした頃のことです。夫人の静養する家と漱石の居た家は別にあり、私はマックレインさんとご一緒にその場所を訪ねました。

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◇ ◇ ◇

漱石を敬仰してやまないある出版社のオーナーが漱石の令孫・マックレイン陽子先生をご招待され、私も同伴の光栄にあずかりました。漱石が通っていた朝日新聞社に程近い場所に 老舗の料亭があり、外国からの客にここで振舞って喜ばれているというお話でした。出版業界は厳しい冬の時期ですがこのように心からお招き下さるきっぷのいい社長さんにはただ 感謝あるのみ。京都漱石の會の式典にもご参加いただいた会員のお方なのです。

早稲田大学の原田教授の教室でマックレイン陽子先生の講演を学生さんに交じって聴講し、その後教員用学食で会食をいたしました。記念写真は女子学性のお一人がパチリ…、う~ん、ちょっとピンボケなのかアラがみえなくて結構でした。

講演はアメリカで「老」の言葉は社会が使わないようにして高齢者を大切に守っている、それに比べ日本では先ず年齢を尋ねマスメデアも年令を明記する。人間は「年齢(とし)だ、年齢(とし)だと言われ続けられれば、自分はもう老人なんだからとすべてを諦めてしまう。老人病、老人ホーム、老眼、など英語には全くありません」

私は日本では「敬老」の精神は建前でありながら、実際には老を差別し軽んじている風潮を見ないわけにはいかないように思います。陽子さんを間近に接してみますと「老」の片燐もなく年輪から来る知恵を感じます。この講演は漱石がテーマに日米の相違点を率直に語られたところ、印象深く楽しいお話でした。

それから、たまにはリッチなホテルで過ごすのも、わるかぁ~ありませぬ。庶民の束の間の楽しみといえましょうか(これって私の場合ですが)。早稲田大学と大隈公園を眼下にみはるかすとてもいい眺めで した。ワセダ熊ちゃんも可愛いキャラクターでした。

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2008年5月 6日 (火)

漱石の『火鉢』で和敬点ての点前

広間での茶箱点前は、野点形式になります。瓶掛けはこの場合、火鉢を使用しています。漱石の随筆に『火鉢』という小品があるのをご存知の方もいらっしゃいましょう。(画像はクリックすると大きくなります)。
http://wabisuke.la.coocan.jp/soseki.hibati.html
漱石が書いた『火鉢』は永日小品という作品の中の随筆なのですが、私がその一篇だけ抜粋してページを作成しました。是非クリックしてこの『火鉢』を味わって頂きますよう!当日の茶席のしつらい、点前座の道具組に、なぜ瓶懸けでなく火鉢を使用したかがお分かりになると思います。
 
京都漱石の會第一回例会は、日本家屋の会場で行いました。
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漱石が西川一草亭に与えた直筆の掛け軸が約束の時間に未だ到来せず。床には一草亭好みの尺八花入。黒田正玄の作で銘は若葉と彫られています。
けまん草は別名鯛つり草ともいいますが、掛け物に変わりてもの申す。。。1時間あとに待ち人来る。一草亭のお孫さんが軸をかかえて。けれど漱石の書の写真は撮れませんでした。
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ほんとうは、「我輩」という茶杓が欲しかったのですが、手持ちがございません。本物のわが猫はもう姿が見えなくなりましたしそれでやむなく、だれかの名前のものを出したというわけです。拝領した品をやむなくというのはまことに失礼ですけれども。
お点前は、オレゴンから来られたまるめさんに、半東はハレのははさんでしたか?

私はお茶のほうは皆さまにおまかせで、他の雑事をねじり鉢巻でしておりました。50名の皆さまにお茶も飲んでいただき、ほっとしたことです。和敬点ての点前の順序は、のちほどハレのははさんが誰にもわかるように書いてくださるでしょう。


ハレのはは 述

和敬点は、もともと淡々斎さまが戦中に海軍のために考案なさったというだけあって、質実剛健、無駄のないとても合理的なお茶箱のお点前のように思えます。
(成り立ちの詳しいことは以前わびすけさまがお教えくださっておられますね)

お道具類が袋に入っていることもなく、お茶を出すのに古帛紗を使うこともなくいっぺんに2つのお茶碗を運び出せ、おまけに拝見もありません。
一碗と二碗、どちらのお茶碗でおしまいをするかで、少し手順が違うところがありますが、大まかな手順は「卯の花点」とおなじです。

(一碗目でおしまいをするときは、お茶碗を拭き、茶筅茶巾を筒に納めてから、二碗めは拭きません。二碗目でおしまいするときは、後で返ってくる一碗目を拭くまでは茶箱に戻せませんね。一碗目は濡れたままにできませんから。二碗とも拭きます。


茶箱の中手前には、二つ重ねた茶碗、その中に古帛紗を敷いて棗を入れます。
向こう側に茶筅筒、茶巾筒、振出を入れ、茶杓を茶碗に伏せ、その上に帛紗を捌いて箱の蓋をし、蓋の上に薄板を載せて持ち出します。

建水も持ち出し、勝手付に箱をよせ、膝前に薄板、瓶掛右がわに横にした蓋、帛紗を捌いて蓋を清めたら、茶杓を蓋の右寄りに出し、振出しを客付に出します。
ここで「総礼」。(正客は振り出しを取りに行きます)

この後、重ねたままの茶碗を薄板の上に、棗を蓋の上に出し、古帛紗を薄板と箱の間に置いたら、その上に重ねたままの茶碗を置きなおし、上の茶碗だけを薄板の上に出し、茶箱、建水と奥に進めます。

後は棗、茶筅と清めていき、茶筅を茶碗に入れてお湯を入れてから、茶筅通しの前に茶巾をたたみ直して、蓋の上右上に置きます。この辺からは他の茶箱点前と変わりませんね。

書いてみるとずいぶん手数があるので、席中では、点前座にすべて広げておいて、お棗を清める所から始めました。振り出しで、お客様にお菓子を召し上がっていただきたかったのですが、順に並んで座っておられなかったこともあり、雰囲気だけ感じ取ってもらうことに。

一見簡単なかわりに一寸愛想がないかも・・と思われるお点前が、今回のお席では珍しい瓢型の茶箱のお道具達で、とても優雅に変身。グリーンのビードロの振り出しも素敵でした。

けれど、如何せん多くのお客様にいっぺんにお茶を差し上げなければならず、ゆっくりお点前やお道具を楽しんでいただけたかどうか・・はなはだ心もとなく、半東どころか、お運びすら怪しげに勤めさせていただいておりました。




お道具もお手伝いも皆さまのおかげでございます。これもお茶のご縁。。。ありがたく心から感謝申し上げます。わびすけ

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2008年4月30日 (水)

漱石生誕100年記念になる年月日

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木屋町御池東に建つ漱石句碑の前で、京都漱石の會主催になる漱石供養の式典が去る4月12日午前10時過ぎより行われました。漱石が朝日新聞社に入社して第一作の小説となった『虞美人草』に登場する天龍寺。その天龍寺派大本山の新管長となられた佐々木容道老師が道師として漱石追善の法要を執り行われたのは、この上なくありがたいことでありました。その香語と回向文は大切に保存しております。

上の写真は、句碑の裏面にあたるところです。2月9日とはどういうわけかと申しますと漱石の誕生日が新暦の2月9日だからです。旧暦では1月5日になるのですが。

夏目漱石は1867年2月9日に出生しました。したがって漱石生誕から100年目の記念となれば、1967年2月9日であることは明白です。建立するに当たって、記念日に間に合うように前年の11月9日にしたのも、漱石忌である12月9日の前に立てておきたいという当事者のお考えがあったようです。建立時にはわずか3人のみ立ち会われたと記録されています。

当時のもようは、京都新聞が記事にされていました。昭和41年11月9日京都新聞夕刊だったと思いますが、そのコピーを京都漱石の會第一回例会に参加された皆様へ会報に添えて配布いたしました。

そこで、昭和42年2月9日の生誕百年記念日に除幕式をされるべきところ、寒中であることを勘案され春4月9日に晴れて除幕式を挙行されました。

漱石句碑の裏面には、次の文言がしるされています。

「漱石生誕百年記念 昭和四十二年二月九日 漱石会」

漱石会の最後の会の一字は土の中に隠れて見えませんが、この字は当時の『漱石会」が書家の森田子龍氏に依頼して揮毫されたものです。

私が京都漱石の會をたちあげたのは昭和四十二年(1967)除幕式から数えて40年目の昨年10月のことでした。したがってことしは41年目になる次第です。

本来なら生誕百年記念として昭和42年(1967)2月9日に建立となるところ、便宜上前年の11月に前もって準備したと考えるのが適当かもしれません。いずれの記載も真実であることに変わりはありません。

漱石追善供養のもようは京都市の観光課のお役の方々に詳細な写真を撮影していただき感謝に堪えません。いずれその中の何点かアップさせていただこうと思います。

漱石が望んだ「閑適」のこころ。。。病苦に苦しみながら健全な精神をもって偉大な業績を遺した漱石に、私どもも学び、「閑適」のこころを身につけてゆきたいものと思います

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すみれほどな 小さき人に 生まれたし 漱石

http://mytown.asahi.com/kyoto/news.php?k_id=27000140804150002

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漱石に関心ある方々に こうした有名人もいらっしゃいます。

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懇親会参加者は、すべて年齢不詳、性別明確、頭脳春日のごとく、意味不明、、失礼。

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春の川、、、 漱石が詠んだ鴨川は道路が高くてみえませんが、かなたに東山連峰がみえました。めでたし、、、ああ、私のあたまもめでたしの状態でございます。

参考
京都の風流を愛した漱石 祇園の多佳女の看病に癒された日々 2007/06/19

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2008年4月29日 (火)

NHKで漱石 「知るを楽しむアンコール」

夏目漱石の番組は数ありますが、今回は隣国コリアの出身で漱石が大好きだという研究家のお話です。お時間のある方はどうぞご覧になってくださいませ。

知るを楽しむアンコール 私のこだわり人物伝
夏目漱石 悩む力

語り手・姜 尚中


バックナンバーページで内容を確認する


4月28日(月)午後10:25~10:50(教育テレビ)
〈再〉5月5日(月)午前5:05~5:30(教育テレビ)
第1回 現代を見抜いていた人

4月29日(火)午後10:25~10:50(教育テレビ)
〈再〉5月6日(火)午前5:05~5:30(教育テレビ)
第2回 東京の女(ひと)―『三四郎』より

4月30日(水)午後10:25~10:50(教育テレビ)
〈再〉5月7日(水)午前5:05~5:30(教育テレビ)
第3回 愛でもなく、金でもなく―『それから』より

5月1日(木)午後10:25~10:50(教育テレビ)
〈再〉5月8日(木)午前5:05~5:30(教育テレビ)
第4回 あなたは真面目ですか?―『心』より

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2008年4月15日 (火)

漱石句碑の駒札が建ちました

四月十二日、京都市中京区木屋町御池東入る、、、今なら御池大橋西詰め南側というほうが分かりやすいでしょう。えっ、なんのこと?ですかぁ~~。まあ、これをごろうじろ。

漱石の句碑前で追善供養      
中京で文化人ら50人
  

(京都新聞夕刊 4月12日)

翌13日朝刊には、読売、朝日、毎日、産経の四紙が、ちがった角度から書かれた記事を掲載していました。

読売

http://osaka.yomiuri.co.jp/kyoto/news/20080413kn04.htm

写真をクリックすると拡大します。読者からこの写真は評価が高いようです。遠く山のすがたも風情がありますね。

毎日

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080413-00000266-mailo-l26

朝日と産経の記事はウェブにアップされておりません。新聞紙上地域版のみとなります。

★追加

産経新聞 朝刊
平成20年(2008年)4月13日 日曜日

画像は表示されません。

漱石の句碑の横に立てられた駒札の前で供養に臨
む   伊津子代表(右) =京都市中京区
:.……..… ……………………………▼,・………・・………
漱石句碑前に新駒札
フアンの会発足、除幕、
夏目漱石の愛好者らでつくる「京都漱石の會」の第一回例会が12日、京都市中京区の御池大橋西詰にある漱石の句碑前で開催され、漱石と京都の深いかかわりについて記した新しい駒札が除幕された。
同会は、昭和42年4月に漱石の句碑を建立した漱石ファンの会が活動を終えたため、新たな活動の場を設けようと茶道家が中心となって発足させた。
例会には丹治さんのほか、門川大作・京都市長ら約50人が出席、供養の法要も営まれた。
駒札には、漱石が「虞美人草」執筆などのため生前4度にわたって京都を訪れたことや、漱石の旬にまつわるエピソードなどが記されている。
丹治代表は「句碑が建てられた後、忘れられたように横たわっていたのを何とか知ってほしいという一念が会の発足につながった。
漱石先生、私たちはいつもあなたとともにありたい」とあいさつした。

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スライドショー こま札が建つまで 京都漱石の會

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2008年4月 6日 (日)

利休忌2008年稽古場席&豊国廟のさくら

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ながらくサイト更新をしていませんでしたが、思い立って画像をまとめてみました。三月二十八日から急に四月二日に飛んでいるのが、不自然に思われるかもしれません。その間、雑事にとりまぎれといえば聞こえがいいのですが、実はさっぱり身体が動いてくれませんでした。けれども漸く、漱石先生の行事にも目途がつきました。京都漱石の會の基礎がかたまり、会報の発刊も着実に進んでいるようです。と他人事のように云ってみる(笑)。

画像のデーター量が重くなり、ダウンロードに時間がかかると思います。待ちきれずに短気をお出しになって他所に行ってしまう方もおありでしょうか?どうぞいっときの辛抱ですよって、かんにんしてくださいませ。

スライドショー 利休忌2008年稽古場席 & 豊国廟を訪ねる

茶会記はなくても道具に関しては、凡その見当はおつきになるのではないかと。これはなんだろう?という自問自答も時にはいいのではないでしょうか。どうぞよろしく。

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2008年3月16日 (日)

旧西園寺公別邸 清風荘にて

京都市左京区田中関田町、百万遍のあたりは京都大学の施設が多いところです。この清風荘も京都大学の所有になる登録文化財の建物です。もとは、藤原北家につながる公家・徳大寺家の別荘を、1910年に同家二男で元首相の西園寺公望(さいおんじ きんもち)の別邸として改築。44年に京都大に寄贈されたと伝えられます。

14日(金)に西宮の友人と11時の時間をうちあわせ、清風荘へ参りました。宗家の稽古場でお世話になっています先輩の授賞祝賀茶会のお招きでした。朝から雨模様で傘があちこち開いて清風荘の門を入って行きました。

http://www.kyoto-u.ac.jp/uni_int/01_photo/seihuso.htm

ここは現在、京都大学の迎賓館として使用されている非公開の場所でした。縁あってこうして門をくぐることが出来、広大な庭園を拝見しつつ数奇屋の玄関に入りました。ご亭主のおかげと思います。

待合で濃茶のお菓子をいただき、狭い階段をあがって二階の広間席へ。ここでお濃茶を。

床、お家元筆 高臥聴松濤(こうがしてしょうとうをきく)。

春牡丹が古銅の花入れによく入っていました。香合に菊御紋菓子 餡を出して上皮と下皮を二枚乾燥させ、裏に金を貼るといった工程を眼に浮かべました。中宮寺のご門跡が私の傍らで、「宮中にまいりますとお土産にいただきますのよ」とひと言。

濃茶、薄茶と2席、すべて社中の方々が協力して担当され、師匠冥利につきるといった印象を受けました。点心は辻留で椀物のアイナメが結構なお味でした。

このお部屋は西園寺さんが特にお好きでよく坐ってお庭を見られていたそうですよ、とご亭主のお話とお酌で美酒をいただきました。春雨にけむる庭園はなだらかなうす緑の線をもち悠然たる姿をあらわしています。西園寺公望が文部大臣の頃、京都帝国大学創立に尽力したといわれています。

私は以前から清風荘に関心をもっていたのです。それというのも漱石に関することで津田青楓と彼の兄、西川一草亭が、入洛した漱石について書いている中に、この清風荘がありました。

大正4年3月、当時の地名は田中村といっていた頃です。

「その頃西園寺公が田中村の清風荘に滞在して居られて、私は時々花をいけに行った。先生も一度西園寺さんに逢ったらどうですといったら、「逢ってどうするのかね、逢ったって仕様がないじゃないか。飲食相通ずる位なもんだろう」と皮肉を云って笑ってをられた。」
また、二三日して、一草亭は清風荘で公爵から小つばめといふ公の愛鳥を貰って帰りました。
画を描くために小鳥を必要とする彼に、西園寺公は自分の愛鳥にエサをやってからその鳥を手放します。その行為を奥ゆかしいと感じた一草亭は小鳥を大事に貰って帰りました。
帰り道にその鳥かごを提げて漱石先生の滞在している旅館北の大嘉に立ち寄ったのです。漱石との会話はここでは書きません。
しかし、夏目漱石と西園寺公といえば、より大きい話題になった時期があります。ご存知の方は多いことでしょう。漱石が西園寺公の招待を断り、そのために、ハガキに一句をしたため招待主に送った事実を。
ほととぎす 厠半ばに出かねたり
(かわや)といえば、おトイレなんですね。時の総理大臣である西園寺公爵への返事がこの俳句だったのです。
西園寺さんも大人物だったでしょうし、別に立腹したという話も残っていないのは何よりでした。

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2008年3月 1日 (土)

二月二十八日 大徳寺利休忌 淡敬会席 梅と椿と

史実からみれば利休忌は二月二十八日になるのですね。毎年のように今日庵の担当となりますのでことしも、今日庵席、直門淡敬会席、淡交会京都連合会席、と三つのお釜が懸かりました。私の所属している淡敬会は大徳寺山内の三玄院で終日参詣の方々をおもてなし致しました。

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淡敬会のトップ。大正末期?昭和初期? 大先輩の元気じるしのお姉さま方。みんなの目標みたいです。時には美味しいもん、おごってくれはります~~。こんごもよろしゅうに。

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床の間の掛け物は、一燈さんの「有梅添月色」(梅あり 月の色を添う)。

夜の中に香る白梅の古木があります、、、梅の花が彼方の月の光に静かに照らされるさま、、、眼の前にに浮かんでくるようですね。

花入 竹二重切 銘 清波 一燈在判 箱

こちらも同じ一燈の作。清々しい気韻があたりに満ちているような花入れでした。カメラが手ブレしてしまい、お恥ずかしい画像ですみません。

香合 蕗の薹 了全造

会記をどうぞ。そうそう、菓子はよもぎ餅。老松製。お茶は辻利園。長久の白。

皆さま、この茶杓には驚かれたのではないでしょうか?

ご存じと思いますが、玄々斎に千代松という一人の子息があり、一如斎とよばれました。
養子の玄々斎は最初、まち子という認得斎の長女と結婚、まち子さんが不運にも急逝されましたので、前妻の妹であるてる子さんを娶ったと伝えられます。

照女と書かれた染筆をご覧になったことはございませんか。てる子さんは書も巧みな才媛で、晩年の父と夫君を援けて箱書きをされているのを時として見ることが出来ます。

そのてる子さんと玄々斎の間に出来た一如斎は、惜しくも弱冠十七歳で夭折。少年とは思えない芸術の香りがふくいくと漂うのを感じるのです。天性の秀でた宗匠の魂に触れる想いでした。

茶杓の銘、玉椿

梅と椿と、しめやかに流れる時の流れ、人々の和の交わり、炉のあかき炭火にたぎる釜の煮え。会の末席を汚す自分自身を顧みて、今日一日無事に水屋の手伝いができましたことを感謝するのでした。

点前も一度いたしましたし、やはり元気のもとがお茶であることを再認識して帰路につきました。

中宮寺さま、タクシーで送っていただきありがとうございました。

大徳寺・千利休居士の毎歳忌 2006/02/28

ああ、時の流れの早いこと、、、。

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2008年2月11日 (月)

新宿区立漱石公園がリニューアル完成式典

先月末から体調が最低といった状態でした。茶道の方面でもみな不義理を重ねておりましたが、八日には思い切って東上してまいりました。

じつは、新宿区の区長さんから「新宿区立漱石公園がリニューアル完成式典」のお招きを頂いていて、光栄なことと身の程も考えずに新幹線に乗って早稲田のホテルに一泊。大変寒い日でございました。翌日には十時前に漱石公園に到着。お馴染みの新宿区役所の方々がにこやかに迎えてくださり、友人の写真家の関健一さんんもいらしておりほっと致しました。

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さっそく当日のもようをIT新聞に送信しました。本日の日付で掲載されておりますのでURLを下記に。

http://www.news.janjan.jp/photo-msg/0802/0802100506/1.php

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漱石が江戸牛込に生まれ、後年、東京都新宿区となってからの居住の記録を見ると興味深いものがございます。生家で過ごした期間。養子に出されて養家先で暮した期間。それぞれ住所が異なるのです。

養家から生家へ戻った期間も、塩原家と離縁し養子縁組を解消し、晴れて夏目金之助となった時期もはっきりと記録されているようです。

生年月日: 慶応3年1月5日       没年月日: 大正5年12月9日

新宿区在住期間
牛込馬場下横町 ※同地にて出生 ※区指定史跡  慶応3年1月~明治元年11月

内藤新宿北町裏16       明治元年11月~2年3月
内藤新宿仲町             明治4年6・7月頃~6年3月

牛込馬場下町           明治9年~19年9月頃
矢来町3中ノ丸          明治36年1月~同年3月

早稲田南町7 ※同地にて死去 ※区指定史跡     明治40年9月~大正5年12月
新宿区の記録に学ばせていただきました。

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2008年2月 8日 (金)

歌川国芳の浮世絵に猫が主人公になる

ねこは鼠を捕ることから日本では重宝され、招き猫にみられるように人々の暮らしに必要な生き物とされてきました。浮世絵に猫がさまざまに描かれているのをみても、日本人の「その心とまなざし」が感じられます。あれ?どこからか借りてきたキャッチフレーズですよね。。。

歌川国芳の浮世絵 「猫飼好[みようかいこう]五十三疋[びき]」は傑作といっていいでしょう。猫に対する愛情はかぎりなく深いものがあります。

それでは、浮世に出てくるねこの姿をお楽しみくださいませ。

★1.猫飼好五十三疋 [みようかいこう]五十三疋[びき]」 上

http://www.cat-city.com/museum/ukiyoe/exbit/kuniyoshi01.html

なかでも「猫の妙術」は面白いです。にんげんに猫が教えるの図なんです。武芸の達人とは言いがたい殺気だった人間に対して、鼠捕りの名人(?)である猫のこのゆとりある表情! 

なんといいますか、悟ったような平らかな武芸の極意を無言に語っているように見えるではありませんか。

http://www.cat-city.com/museum/ukiyoe/giga11.html

★2. 猫飼好五十三疋 中

 

★3. 猫飼好五十三疋 下

作者:一勇斎国芳  出版年:弘化4年~嘉永5年(1852) 

大ネズミを退治した猫が武芸者に芸の奥義を説いている図

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2008年1月11日 (金)

新宿区歴史博物館で広報の方から

思いがけなく広報課のご配慮で、当日の写真をお送りいただきました。

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漱石山房の模型も、新宿区に生まれた文学者の展示も 非常に魅力的なもので、興味は尽きませんでした。

区長さんと 課長さん、若い学芸員の方、広報の寺田さん、ご親切な対応に感謝申し上げます。

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2008年1月 9日 (水)

漱石の親友 天然居士・米山保三郎

学生時代の夏目金之助に作家になることを勧め漱石が彼の言葉に痛く動かされた人物・米山保三郎のことはよく知られています。ただ、これまで研究者の中で誤解があり、漱石の語句の解釈に問題があるまま流布されたきたのが現状です。

「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食い、鼻汁を垂らす人である」

焼き芋と鼻汁を垂らす、これは禅の歴史に実在した中国の禅僧・懶さん(王ヘンに賛)和尚の故事から来る引用なのでした。漱石は畏敬する親友の米山保三郎へ深い愛情と禅に生きる彼を讃える意味で書いたものでしょう。しかし、世間一般ではなかなか通用しない事も充分知っていました。そうであるからこそ、『猫』のなかで次のように書いているのです。

「天然居士は空間を研究し、論語を読み、焼芋を食い、鼻汁を垂らす人である」

苦沙弥先生、一気呵成にこう書き流し、声を出してこれを読み、「ハハハ面白い」と笑うが、「うん。鼻汁を垂らすはさすがに酷だ、焼き芋も蛇足だ」と線を引き。結局「天然居士は空間を研究し論語を読む人である」だけにしたころで、これではあまりに簡単すぎると全部ボツにして、原稿用紙の裏に「空間に生れ、空間を究め、空間に死す。空たり間たり天然居士、噫」

実際、漱石はこの米山の兄、熊次郎から実弟の写真へ揮毫を懇望されて、漱石は俳句を書いています。その俳句とは、

空に消ゆる鐸のひびきや春の塔 という追悼の一句です。親友の死を悼む漱石の心情があふるるばかり、見事な名句と思います。写真は400X300mm、単身像の右側にこの句があり、左にこう記されています。

空間を研究する天然居士の肖像に題す 己酉 四月 漱石

,己酉,となれば、1909年、明治四十二年です。漱石が朝日新聞社に入社して2年目の四月に詠んだものと明確に判るのが嬉しいところです。また、米山が鼻水を垂らすの表現がとかく世俗的に解釈され、漱石がいかにしてこの語句を入れたかということは研究者の間でないがしろにされて来ました。しかし、漱石がただ、ユーモラスにこんな語句を入れるはずはないのです。洟を垂らそうが自分は三昧になっているのだという仏道の修行による逸話なのです。

出典もありますから、その引用もしておきましょう。『碧巖録』第三十四則より

「懶瓚和尚。隱居衡山石室中。唐德宗聞其名。遣使召之。使者至其室宣言。天子有詔。尊者當起謝恩。瓚方撥牛糞火。尋煨芋而食。寒涕垂頤未甞答。使者笑曰。且勸尊者拭涕。瓚曰。我豈有工夫為俗人拭涕耶。竟不起。使回奏。德宗甚欽嘆之。」

(懶瓚和尚、衡山石室の中に隱居す。唐の德、宗其の名を聞いて、使を遣して之を召す。使者、其の室に至つて宣言す。天子詔有り、尊者まさに起つて恩を謝すべし。瓚、まさに牛糞の火を撥つて、煨芋を尋ねて食す。寒涕、頤に垂れて未だ甞て答えず。使者笑つて曰く、且らく勸む、尊者、涕を拭え。瓚曰く、我れ豈に工夫の俗人の為に涕を拭くこと有らん耶といつて、竟に起たず。使、回つて奏す。德宗、甚だ之を欽嘆す。)

私は嘗て東慶寺の井上禅定和尚様から分かりやすいお話を聞いておりました。

昔、中国の偉い坊さんがあって皇帝が先生になってくれって勅使を迎えに遣るんだ。当時の中国では牛の糞の乾いたのを焚き付けにしてその牛糞の火の中へ芋をいれて焼いている処へ勅使が来た。らいさん和尚は牛糞の中から芋を掘り出して勅使に食えって云うんだ。勅使が見るとこの和尚、鼻水を垂らして下顎まで延びている。それを勅使は「まあ、洟を拭きなさいと云ったんだ。

なんだ、お前はそんな事で来たのか、勅使としておれを迎えに来たのではねえのか。おれが洟を垂らしていようがそんな事どうでもいい事だ、おれは三昧になっているんだ。っていう面白い問答があるんだよ。それを元にして漱石は「焼き芋を食らい、鼻汁を垂らす」てな、昔の懶瓚和尚がやったという事を思い出して書いているんだけれど、猫に笑われるから消しちゃうんだ。」(鎌倉漱石の会会報所載)

やはり禅定様の仰ることは納得のゆくものですね。

念のために付記しますと、漱石の友人で円覚寺・釈宗演の師である今北洪川について参禅をし、居士号を与えられた逸材が二人いました。無為という居士号は菅虎雄、天然の居士号は米山保三郎でした。米山は不運にも若くして病死したのでしたが、彼の伝記を漱石が書くという計画もあったと狩野亨吉は書いています。漱石がもう少し生きていたらなば実現したかも知れないのですが…。

風邪の季節ですから、どうか皆さまもお気をつけられますように。

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2007年10月18日 (木)

漱石の悪妻説をくつがえす!新しい女性の目線で考え直す

日本経済新聞のすぐれた掲載記事をここで紹介させていただきたいと思います。

http://waga.nikkei.co.jp/hobby/study.aspx?i=20071015i1000i1

漱石の私物・メモ集めた大回顧展  (引用)

「文豪・夏目漱石(1867~1916)が生誕140年、プロ作家になって100年という節目の年に、漱石を深く知るのは興が深い。東京・両国の江戸東京博物館では東北大学所蔵の手紙、蔵書などを中心に約800点を集めた特別展「文豪・夏目漱石 そのこころとまなざし」が開かれている。漱石の直筆原稿の廉価版や、孫娘が書いた夫婦論も出て、「生」の漱石に触れる機会が広がっている。

<中略)

『漱石夫妻 愛のかたち』(朝日新聞社刊)では、孫娘に当たる比較文学研究者の松岡陽子マックレインさんが祖母や母からの聞き伝えをたどって、家庭人・漱石のイメージをつづった。孫娘しか知り得ない人物像をもとに、漱石一家の家族イメージをとらえ直している。著者の父は漱石門下の作家・松岡譲で、母は漱石の長女・筆子だ。

 鏡子には過去、「悪妻」説がつきまとってきたが、近年の研究や、家族の文章からは、こうしたそしりにはあまり根拠がないという指摘が出ている。『漱石夫妻 愛のかたち』でも著者が知る祖母の実像が紹介され、漱石作品に描かれた妻像も参考に、漱石夫婦の間柄の読み解きを試みている。」


◇ ◇ ◇

税こみ735円の朝日新書です。
ソクラテスの妻が悪妻といわれて有名ですが、日本では漱石夫人がいろいろ噂されてきました。
しかし実際は、漱石が亡くなった時39歳であった鏡子夫人は残された6人の子供を女手ひとりで育てあげた健気な女性でした。
漱石は当時から、愛人の存在が全くない作家 だということも知られていたのですが、妻には厳しい態度をとるときにも漱石は終始妻を裏切ることがなかった男性でした。
臨終の時には、妻と6人の子供。多くの弟子たちに囲まれ見守られながら49歳で逝った文豪の最期は、若すぎて惜しみても余りあるものでしたが、人間としては幸福な最期でありました。
そうした漱石を病める時にも必死で支えた妻は、夫の亡骸(なきがら)を公共の医学研究に資するため解剖を申し出たということを考えましても、いかに女性として強靭な精神の持ち主だったかに驚きを禁じえないのです。

漱石山房のある早稲田町の祖母の旧宅で産まれた松岡陽子マックレインさん。
今では貴重な生き証人であり、祖母の思い出と漱石長女の母・筆子さんから聞いた漱石夫妻の実際のすがたが生き生きと、比較文学の研究者らしい客観的な筆致で描かれています。

悪妻説を流布させたのは多く弟子たちだったようにも聞きますし、評論家の中にはそれを元に無責任に書いた方もあったのはないでしょうか。しかし、反論すべき方は殆ど他界され公正を期すことも難くなっていくのが現状と思います。

今日あらたな目線の漱石論へと発展することも考えられる、注目すべき一冊だと読者のひとりとして感銘したことを申し添えたいと思います。

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2007年10月 6日 (土)

見聞記 江戸博物館で特別展「文豪・夏目漱石そのこころとまなざし」

江戸、隅田川、両国、言問橋(ことといばし)とイメージが続きますと、かの有名な在原業平の和歌が浮かんでまいります。

名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

『古今和歌集』に収められ、『伊勢物語』第八段にもみられます。都鳥はいまでいうユリカモメのようですが、歌の本意は鳥にかけて京の都に残してきた想い人は、いまどうしているのだろうと、恋する男のこころを詠んだものですね。

今回の東上で、この言問橋に立って私は都鳥を見ることはありませんでしたが、関東大震災の復興事業として造られたこの橋梁の欄干と縁石が記念碑として保存されている場所に行ってまいりました。

Img_2821 

江戸東京博物館はこうして京都と繋がっていると思いますのも、夏目漱石特別展を開催されることに喜びを感じるゆえでございましょう。イワシの頭も信心ということとまあ、遠からず、、、でっしゃろか。

さて、IT新聞に10月6日今日の日付で拙稿が掲載されたようです。開会式。内覧会は9月25日でしたから今となってはニュース価値に乏しく、遅ればせながら文化欄の記事になりました。あちこち削られています<笑)

tsubakiコラム 古都つれづれ

 江戸博物館で特別展「文豪・夏目漱石そのこころとまなざし

↑ の記事の下に「この記事が気に入ったらクリック 」という欄がありますので、できればポチっと押してやってくださいませ。

一応、ここにも原稿を出しておきましょう。

                     ◇ ◇ ◇

椿 わびすけの 「見聞記 江戸東京博物館特別展・開会式 内覧会」

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写真はいずれも筆者撮影。

東京の両国にある江戸東京博物館で特別展「文豪・夏目漱石」が開かれていますが、それに先立って開会式・内覧会が9月25日にあり、行ってまいりました。開会式で聞いた主催者側のスピーチは興味深いものでした。この特別展は11月18日〈日)までです。

 開会式というと、ある緊張と期待を呼び起こすものです。それも敬慕する漱石先生の未公開資料を含め、一挙に展示される特別展なのです。ご招待状を受け取った時には、感激に震える思いでした。

 開会式場の壇上には「東北大学100周年記念、朝日新聞入社100年、江戸東京博物館開館15周年記念」とパネルが掲げられ、その下に大きく「文豪・夏目漱石 そのこころとまなざし」と印象的なサブタイトルがぐっと引き立っています。

 主催の江戸東京博物館から竹内誠館長が最初に挨拶。「東北大学は100周年、朝日新聞社入社100年、という後でわが江戸博物館は開館わずか15年ということで、どうも……」と頭をかかれるそぶりでユーモアたっぷりのスピーチでした。

 「漱石の人柄、大きさ、多くの人をひきつける魅力を見ていただきたい。実は、私は漱石については何も分かっておりません。学芸員の2人がすべてやってくれ、ここで私が偉そうにしゃべっているのは彼女たちの受け売りであります」

 そこで2人の学芸員を呼ばれ、壇上であらためて紹介されました。なんと、フレッシュな若い女性の学芸員、橋本由紀子さんと金子未佳さん。私は思わず拍手をしましたが、会場の皆さんも家庭的な空気で拍手をなさっていたようでした。物分かりのいいお父さんが娘自慢をしているような趣があってほほえましかったです。

 2番目に立たれたのは、東北大学副学長・東北大学図書館の野家啓一館長。漱石が朝日新聞入社第1作の『虞美人草』を発表した明治40年6月3日の新聞コピーを説明されました。

 「『虞美人草 一』とある記事の隣に東北帝国大学設立の辞令が掲載されていることからも、漱石と東北大学との深い因縁が……」。漱石の愛蔵した書物3000冊が東北大学にあること、漱石山脈といわれた中の小宮豊隆、阿部次郎が東北大学の教授であったこと、に続けて、漱石研究に貢献のある3人の教授を紹介されました。

 3先生が壇上にお上がりになり、深々と頭を下げられました。皆さま篤実な学究の雰囲気をお持ちでした。ただ、漱石文庫を長年丁寧に管理されてきた図書館の館員の方々にも壇上に上がって頂ければ、もっとよかったのにと思いました。

 しんがりの挨拶は、朝日新聞社の船橋洋一主筆。「生誕や死後を数える例は多いですが、入社100年というのは漱石をおいては他にいない。当時の主筆・池辺三山と漱石は非常に似通った価値観を持っていた。新聞記者となった漱石は社会的なときめきと驚きを日々社会に伝えた。三山と漱石は知的大衆をつくったということです」

簡潔で心のこもった開会式はおひらきになり、あとは特別展の内覧会に移りました。

 「そのこころとまなざし 」。このフレーズが生き生きと感じられるのは、文豪漱石と人間漱石の、ありのままのすがたを見ることができたからでしょう。愛用した着物や家族への書簡のほか、鏡子夫人への結納目録なども貴重でした。他人への情愛ある「父のまなざし」を受けとめることができました。

 英国への航路を図にしたパネルや購入した原書の展示もよかったです。ロンドン時代の蔵書400冊を知るにつけ、満足な食事もとらず勉学に打ち込み、病に苦悩した漱石に涙の出る思いでした。細かい書き込みがあるものは暗い照明のなかで読むのは困難でした。拡大したパネルがあれば有り難かったのにと思いました。とにかく漱石の全容を伝えるのは大事業です。

 公式ガイドの執筆もほとんど学芸員おふたりの手になるものですが、辛口の評者の「オリジナルなものでなくダイジェスト。会場の記述にも間違いがかなりあった」との声もありました。しかし、若い世代が漱石にこのような真摯な取り組みを行ったということに、私は驚きを禁じえませんでした。これだけすばらしい資料をふんだんに見せていただいた展覧会に、心から感謝したいと思います。

 老婆心から申しますと、「江戸東京博物館、東北大学編」となっている以上、もっとお互いに相談をされ、入念にことを運んでほしかったと思います。ガイドブックの「漱石略年譜」は西暦のみで和暦の併用がなく、江戸と銘うっているにしてはキリスト生誕を基にした西暦だけというのはいかがなものか、と思ったのも正直なところです。

                ◇

拙サイト 仙台へ 東北大学『漱石文庫』を訪ねて
http://homepage1.nifty.com/xkyou/sendaihe.html



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2007年9月28日 (金)

江戸博物館創立15年記念 「文豪・夏目漱石そのこころとまなざし

開会式・内覧会のご招待を東北大学から頂戴いたしましたのでこころ踊る思いで、東京両国へ行ってまいりました。ご招待には同伴が許されるとのことで、お知り合いの方お3人にもお声をかけいたしました。各地から駆けつけられたのは漱石先生の魅力でございましょう。この特別展の内容については後日、IT新聞のコラムに書かせて頂くつもりです。


両国、江戸東京博物館 全景が撮影できなくてこれは入り口から


「文豪・夏目漱石 そのこころとまなざし」開会式 午後6時~


内覧会 漱石のお孫さんの半藤末利子さんとご主人の半藤一利さんにお会いして楽しく立ち話をさせていただきました。


言問い橋の記念の立て札。 関東大震災のあと、昭和3年に建設されたものですが、昭和20年東京大空襲の悲惨な記念碑となったものです。この地にこうした歴史があることに胸が痛みました。


江戸博のとなり組といってもいい Dホテルに宿をとりました。そのロビーで。

きもの好きな方のために、白状しましょうか。えり善製のきもの、帯、帯上げ、帯締め、半襟。漱石展にはこの装いをと…。

ご存知と思いますが、漱石が京都へ来た折、わざわざこの店を訪ねて妻の半襟を買ったことが漱石の日記に書かれています。、




松岡陽子マックレイン様にこの展覧会の写真を2枚添付メールで送信いたしました。こうした会場内の写真を公開することはご法度になっておりますから、会場外のもののみここではアップいたしました。

2009/9/28 03:29 松岡陽子マックレイン様

伊津子様

 メールが息子の所にいってしまい、今朝彼が転送してくれました。息子健(けん)も今は大学勤め(大学のヘルスセンターの医者)なので、私と同じメールアドレスを持っています。
〈中略)
御送りいただいたメールは”y”がぬけていたので、息子のところにいってしまったということです。ともかく、すぐ息子が転送してくれよかったです。

 お写真どうも有り難うございました。とても楽しく見させて頂きました。相変わらずお美しい和服姿でいらっしゃいますね。漱石の好んだお店でお買い求めになったのですね。新聞で読んでいましたので、展覧会が私が日本へ行く前に終わってしまい、とても残念だと思っていました。妹の名前は「末利子」という字を書きます。彼女は昨年転んで足を怪我して二ヶ月も入院したと言っていましたから、少し老けたのでしょうか。私が小学校六年の時に生まれたのですから、私より一回り近く若いのです。亡くなった長女の姉と末利子は十六歳も離れていました。半藤は相変わらず大活動していますね。

 ではもう一度御写真お送り下さり有難うございました。

陽子




半藤様ご夫妻のお写真はここでは掲載できませんが、いぜん、鎌倉漱石の会で講師としてお話を伺ったとき、撮影させて頂いたことがございました。現代の論客として正論を世に送っていらっしゃいます。おふたりのお写真は、半藤家が提供された漱石の着用したきものの前で私が撮影、ステキなご夫妻です。内覧会のおかげでした。

2002年5月12日 夏目漱石展から 鎌倉漱石の会へ 

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江戸博物館創立15年記念 「文豪・夏目漱石そのこころとまなざし

開会式・内覧会のご招待を東北大学から頂戴いたしましたのでこころ踊る思いで、東京両国へ行ってまいりました。ご招待には同伴が許されるとのことで、お知り合いの方お3人にもお声をかけいたしました。各地から駆けつけられたのは漱石先生の魅力でございましょう。この特別展の内容については後日、IT新聞のコラムに書かせて頂くつもりです。


両国、江戸東京博物館 全景が撮影できなくてこれは入り口から


「文豪・夏目漱石 そのこころとまなざし」開会式 午後6時~


内覧会 漱石のお孫さんの半藤末利子さんとご主人の半藤一利さんにお会いして楽しく立ち話をさせていただきました。


言問い橋の記念の立て札。 関東大震災のあと、昭和3年に建設されたものですが、昭和20年東京大空襲の悲惨な記念碑となったものです。この地にこうした歴史があることに胸が痛みました。


江戸博のとなり組といってもいい Dホテルに宿をとりました。そのロビーで。

きもの好きな方のために、白状しましょうか。えり善製のきもの、帯、帯上げ、帯締め、半襟。漱石展にはこの装いをと…。

ご存知と思いますが、漱石が京都へ来た折、わざわざこの店を訪ねて妻の半襟を買ったことが漱石の日記に書かれています。、




松岡陽子マックレイン様にこの展覧会の写真を2枚添付メールで送信いたしました。こうした会場内の写真を公開することはご法度になっておりますから、会場外のもののみここではアップいたしました。

2009/9/28 03:29 松岡陽子マックレイン様

伊津子様

 メールが息子の所にいってしまい、今朝彼が転送してくれました。息子健(けん)も今は大学勤め(大学のヘルスセンターの医者)なので、私と同じメールアドレスを持っています。
〈中略)
御送りいただいたメールは”y”がぬけていたので、息子のところにいってしまったということです。ともかく、すぐ息子が転送してくれよかったです。

 お写真どうも有り難うございました。とても楽しく見させて頂きました。相変わらずお美しい和服姿でいらっしゃいますね。漱石の好んだお店でお買い求めになったのですね。新聞で読んでいましたので、展覧会が私が日本へ行く前に終わってしまい、とても残念だと思っていました。妹の名前は「末利子」という字を書きます。彼女は昨年転んで足を怪我して二ヶ月も入院したと言っていましたから、少し老けたのでしょうか。私が小学校六年の時に生まれたのですから、私より一回り近く若いのです。亡くなった長女の姉と末利子は十六歳も離れていました。半藤は相変わらず大活動していますね。

 ではもう一度御写真お送り下さり有難うございました。

陽子




半藤様ご夫妻のお写真はここでは掲載できませんが、いぜん、鎌倉漱石の会で講師としてお話を伺ったとき、撮影させて頂いたことがございました。現代の論客として正論を世に送っていらっしゃいます。おふたりのお写真は、半藤家が提供された漱石の着用したきものの前で私が撮影、ステキなご夫妻です。内覧会のおかげでした。

2002年5月12日 夏目漱石展から 鎌倉漱石の会へ 

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2007年9月14日 (金)

日本インターネット新聞編集委員選賞を受賞しました 「古都つれづれ」

今日、1通の郵便が来てはじめて気がつきました。
私がコラムを書かせていただいています日本インターネット新聞。8月掲載記事の編集委員選賞受賞のお知らせでした。16本の記事が選ばれその中の1本が私だったということ。

編集委員4人の中のお一人、H…広岡守穂さん(中央大学法学部 教授)が拙記事を選んでくださったようです。


椿伊津子記者のコラム「古都つれづれ」は、だれかも書き込んでいたが読んでいるとこころが洗われるというか、ほっとする。このところ数本続けて漱石と京都のかかわりをとりあげている。「きっすいの京都人、津田青風・西川一草亭と漱石」(8月18日)では、津田青風・西川一草亭と夏目漱石の交際をつづっている。西川一草亭といえば、ずいぶん前にいけばなの文人生けについて書いたものを読んだことがあった。そのことをふっと思い出した。(H)

編集便り・編集委員選賞8月の受賞記事

tsubakiコラム「古都つれづれ」はことしになって半年間お休みしてましたが、漱石先生について続けて書いた拙稿でした。読者の方々のあたたかいコメントに励まされ、時間をかけて幾多の文献をひもとき、自分の思いを綴りました。

私の場合はニュース性には遠い書き物ですから編集委員の方にお認めいただけるとは思っていませんでした。
数えますと4回目の受賞にしかなりません。でも本当に嬉しいお知らせでした。

広岡さんもコラムをお書きになっています。とくに「男の言い分、女の言い分」は面白く人気があるようです。


このマスメデアは、元朝日新聞編集委員であり鎌倉市長であった竹内謙さんが社長をなさっています。それから同じ朝日関連の話題をもう一つ、書いてみますね。

松岡陽子マックレインさんの著書の出版のニュースです。
ただ、10月中旬に発売ということですから今から楽しみに心待ちにしているのです。

朝日新書の編集長さんにメールを出しましたら、丁寧にお返事がまいりました。



朝日新書 岩田
メール拝受。
松岡陽子マックレインさんの朝日新書は、
『漱石夫婦 愛のかたち』というタイトルで、10月12日発売の予定です。
よろしくお願いします。



朝日新書は読みやすく、楽しい雰囲気が感じられると友人たちから聞いておりました。
陽子先生とこの冬にまたおめもじする予定ですので、私には二重の喜びになりました。
********************************************
最新コメント
松岡陽子マックレイン様 2007/9/15  01;24
伊津子様

おめでとうございます。本当に伊津子樣は、いつも他の人が知らないことをよく調べてお書きになるので、受賞された理由がよくわかります。何度も申し上げたように、私も随分いろいろ教えて頂いて、感謝しております。

 もう拙著の宣伝までして下さり、これも有り難うございます。

陽子

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日本インターネット新聞編集委員選賞を受賞しました 「古都つれづれ」

今日、1通の郵便が来てはじめて気がつきました。
私がコラムを書かせていただいています日本インターネット新聞。8月掲載記事の編集委員選賞受賞のお知らせでした。16本の記事が選ばれその中の1本が私だったということ。

編集委員4人の中のお一人、H…広岡守穂さん(中央大学法学部 教授)が拙記事を選んでくださったようです。


椿伊津子記者のコラム「古都つれづれ」は、だれかも書き込んでいたが読んでいるとこころが洗われるというか、ほっとする。このところ数本続けて漱石と京都のかかわりをとりあげている。「きっすいの京都人、津田青風・西川一草亭と漱石」(8月18日)では、津田青風・西川一草亭と夏目漱石の交際をつづっている。西川一草亭といえば、ずいぶん前にいけばなの文人生けについて書いたものを読んだことがあった。そのことをふっと思い出した。(H)

編集便り・編集委員選賞8月の受賞記事

tsubakiコラム「古都つれづれ」はことしになって半年間お休みしてましたが、漱石先生について続けて書いた拙稿でした。読者の方々のあたたかいコメントに励まされ、時間をかけて幾多の文献をひもとき、自分の思いを綴りました。

私の場合はニュース性には遠い書き物ですから編集委員の方にお認めいただけるとは思っていませんでした。
数えますと4回目の受賞にしかなりません。でも本当に嬉しいお知らせでした。

広岡さんもコラムをお書きになっています。とくに「男の言い分、女の言い分」は面白く人気があるようです。


このマスメデアは、元朝日新聞編集委員であり鎌倉市長であった竹内謙さんが社長をなさっています。それから同じ朝日関連の話題をもう一つ、書いてみますね。

松岡陽子マックレインさんの著書の出版のニュースです。
ただ、10月中旬に発売ということですから今から楽しみに心待ちにしているのです。

朝日新書の編集長さんにメールを出しましたら、丁寧にお返事がまいりました。



朝日新書 岩田
メール拝受。
松岡陽子マックレインさんの朝日新書は、
『漱石夫婦 愛のかたち』というタイトルで、10月12日発売の予定です。
よろしくお願いします。



朝日新書は読みやすく、楽しい雰囲気が感じられると友人たちから聞いておりました。
陽子先生とこの冬にまたおめもじする予定ですので、私には二重の喜びになりました。
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最新コメント
松岡陽子マックレイン様 2007/9/15  01;24
伊津子様

おめでとうございます。本当に伊津子樣は、いつも他の人が知らないことをよく調べてお書きになるので、受賞された理由がよくわかります。何度も申し上げたように、私も随分いろいろ教えて頂いて、感謝しております。

 もう拙著の宣伝までして下さり、これも有り難うございます。

陽子

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2007年8月29日 (水)

26才の青年横綱・朝青龍 心はどこに?

モンゴルから来た26才の青年の栄枯盛衰をニュースで毎日見ることになろうとは思ってもいませんでした。現代日本の若者には見られぬハングリー精神で、出世街道をひた走り押しも押されぬ横綱になったのは誰しも依存のないところです。

不振の相撲界をひとりで盛り立てて来た強さに、多くの観客は素直に拍手をし声援を送り続けました。日本人は島国根性とよくひきあいに出されますが、モンゴル相撲から日本の国技へ移行し成功した横綱・朝青龍をなんの抵抗もなく受け容れたのです。

驕る平家ではありませんが、朝青龍のおごり高ぶった態度は何度か問題になりました。
けれどもいつもうやむやになり、親方の指導力不足ということで終わったのです。

ところで親方には一体どのような強い権限があるというのでしょうか?
大出世しただけで孝行息子なんです。態度がどうであれ、小部屋の親方には朝青龍は可愛い弟子に違いないのですね。 

親方に責任を押し付けるのではなく、強大な権限を持つ相撲協会のトップが厳しい沙汰をくだすべきだったでしょう。日本の国技であることが大前提であって、心の教育は行われていたか、あらゆることが後手後手に回ったわけです。

心の病を発病したという医師の診断により、治療のためにモンゴルに帰国が決まったといいます。本来なら配偶者が迎えにくるところですが、どうも日本とは様子が違うようです。人間として横綱として余りにも未熟といえましょう。

モンゴルの大草原を流れるあのホーミーのうつくしく哀しい響き…。私は26才の青年朝青龍が故国に帰って心身を癒し、心から悔い改める日が来ることを期待しています。いかに格闘技に強くても心を喪った横綱は、もう見たくはないと思っています。

まだまだ若い人です。いくらでもチャンスはありますから。3年前にも私は彼のことを書いています。他人事でない事柄もございまして。


2004年11月22日 (月) 心技体 すもうと茶人

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2007年8月20日 (月)

お励ましのメールに一層の精進を自分に誓う

なんの因果か、夏目漱石に魅せられたのが運のつき。とまあ、こんな悪態を書くなんざぁ~困ったものでございます。漱石先生、ごめんやっしゃ~。

ことしから漱石について書いたエッセイが、6本ですか。まだまだものの数には入りません。日本インターネット新聞は元朝日新聞社編集委員の方が創立したマスメデアで、私は連載コラムニストの末席を汚しております。簡単な紹介が出ておりますのでこちらもご覧になっていただければ嬉しいです。

きっすいの京都人、津田青楓・西川一草亭兄弟と漱石

漱石は、京都に深いつながりを持っていた。今回は、門下となった京都出身の画家、津田青楓とその兄、西川一草亭との交流にスポットを当てた。(椿伊津子)2007/08/18

漱石の参禅体験 取り入れられた作品の数々

漱石と禅との関わりは鈴木大拙が「羅漢のような居士」として登場する小説『門』や釈宗演から「無字」の公案を与えられた事などが書かれたインタービュー記事など少なくない。(椿伊津子)2007/08/08

京都の取材から書かれた漱石の『虞美人草』と『門』

漱石は旅行をした後、必ずその見聞を作品に取り入れています。明治40(1907)年3月下旬から4月上旬、京都を旅行。漱石はその間、新聞に掲載するための記事を書いています。まさにニュースにふさわしい早業の執筆といえましょう。(椿伊津子)2007/07/30

漱石が京都で買い求めた高価な半襟

夏目漱石先生は、明治42(1909)年10月、2日間だけ大阪から京都に立ち寄った際、わざわざ四条の襟善に一人で買い物に行っているのです。 それも案内なしで当初から予定していたフシがあります。(椿伊津子)2007/07/26

夏目漱石の縁(えにし)祇園と多佳女

多佳女と漱石についてはかなり多くの論評がなされています。「漱石は花街に無理解な人間だ」「漱石という人間は京都にしっくり来ない」「お茶屋・廓と漱石とはイメージが合わない」さあ、真実はどうなのでしょうか。(椿伊津子)2007/07/13

京都の風流を愛した漱石 祇園の多佳女の看病に癒された日々

京都は漱石にとって縁うすい都のようですが土地との繋がりというより漱石を看病した祇園のお多佳さんの様に人との深い縁があり「風流」を愛した日々のある都ではなかったのでしょうか。(椿伊津子)2007/06/19

**********************

漱石研究に関連して、その後もお励ましのメールが届いております。一層の精進をと自分に誓うのみ…。心からのお励ましに感謝申し上げます。みなさまのご好意に甘え、一部をご披露させていただきましょう。

2007/8/20  02:07 松岡陽子マックレイン様

 
伊津子様

 お返事遅れまして、申し分けございません。避暑地のようなところに住んでいるため、夏は何となくお客様が多いのです。

 「きっすいの京都人。津田青楓・西川一草亭兄弟と漱石」は大変面白く、またまたいろいろ新しい事を習わせて頂きました。津田青楓、一草亭との、尊敬し合いながらの親しい交わりも、漱石らしいと思います。伊津子様ならではの、漱石の一面の貴重な記録です。このエッセイを読んで、漱石が京都で俗塵をふるい落としたと言っているのがよく分るような気がします。私自身も京都とは本当にそういうところだと、訪ねる度に思います。そしてそんな昔の面影をいつまでも留めてほしいと思っています。

 私事ですが、今住んでいる家がもう二年もすると、五十年、あちこち傷んできているので、今大工が入って直しています。そんなことも少々落ち着かない理由ですので、ご無沙汰お許し下さい。そのうち台所修理に移ると、お料理を階下の洗濯場の流しを使い、オーヴンもなく、ホットプレートでお料理をすることになり、今からその不便さを少々恐れています。

 ではまた。
 
陽子


2007/8/09  01:36  松岡陽子マックレイン様     

  
伊津子様
「漱石の参禅体験」

 いつもよく文献をリサーチされて書かれるので、今度のものからも習うことが多く、大変面白く読ませて頂きました。最後の「文学でも人をして感服させるようなものを書こうとするには、まず色気を去らなければならぬ。」というところは、彼の「則天去私」を思わせます。つまり「人を感服させるものを書こうと思って書くとそんなものはできない、ただ無心に書く、つまり彼のいう色気を去ればよいものが書けるということでしょうか。そこに漱石と禅のつながりがあるように私には思えます。

陽子


2007/8/20 08:28  伊豆利彦様

椿さま

いま、漱石を読む会で『虞美人草』を取り上げていて、京都と漱石についてあらためて考えています。
晩年の京都行きが『道草』を生んだと思いますが、この京都行きについて、ていねいにお書きくださりありがとうございました。
なお、孫文の言葉を紹介してくださってありがとうございます。
ただ、次のURLが開けません。
伊豆利彦
2007/8/9 16:13   伊豆利彦様
椿伊津子さま

「漱石の参禅体験」読ませていただきました。
長年の蓄積の上に書かれた論に教えられることがたくさんありました。
ありがとうございました。
今後ともよろしくお願いします。

  伊豆利彦

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2007/08/21   なまず様(ジャーナリスト)

わびすけ さま

お暑うございます。夏椿のひそやかさに涼を感じております。

「古都つれづれ」拝見しました。京都、漱石、茶道 の組み合わせ、 わびすけさん ならではの「論証」とおみうけしました。興味深く おもしろく読ませていただきました。

くすっと笑えそうになったのは 西川家の茶室訪問日記。
「布団の上にあぐらをかき壁による」「茶事をならわず勝手に食ふ」 そして底冷えの寒さに震えるー。等身大の漱石を感じました。

やはり漱石の話になるとわびすけさんの筆の運びがいっそう なめらかになってきましたね。でも このあたりで閑話休題のつもりで漱石を離れた「京のつれづれ」をはさんでいただくのはいかがでしょうか。

読者の立場では 一息いれたいところです。
続く漱石がらみのリポートにもインパクトを与えることになるのではないでしょうか。






このほか、私のお待ちする人はまだいらっしゃいますが、
どうか早くいらしていただきますよう(#^.^#)。
公式サイト掲載記事へ 諸先輩の方々からご感想をいただいて 2007-07-14

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2007年8月18日 (土)

きっすいの京都人、津田青楓・西川一草亭きょうだいと 夏目漱石

今日のIT新聞に掲載された拙稿は、以下のようになっています。

2007/08/18 きっすいの京都人、津田青楓・西川一草亭兄弟と 夏目漱石

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江戸っ子は、小説『坊っちゃん』にあらわされるように作家・漱石の風貌でもありましょう。

それに対して世評では、京都人は対極にあると思われているのではないでしょうか?

漱石は京都人とどのような付き合いをしていたか、その一端を検証してみることにいたしました。漱石の弟子であり、漱石の絵のアドバイザーでもあり、人間的に信頼をうけていた津田青楓。かれはきっすいの京都人でした。

青楓の実京である西川一草亭も、青楓を介して漱石と親しく交流をした京都人です。

漱石の日記から彼らとの交流のもようを書いてみました。

もとの原稿はエキサイトの漱石サロンランデエヴウのほうへ昨夜アップしております。

冒頭は、京都帝国大学(当時文科大学)の学長の学友との交友に触れました。

「漱石と京都、学問の繋がりでは松本文三郎、狩野亨吉がいずれも京都帝国大学(旧文科大学)の長であり、漱石へ教師として講座を依頼していました。明治40年4月、漱石は京都の銀閣寺北にあった松本文三郎の山房に招かれその礼状を送っています。

「拝啓 京都滞在中は尊来を辱ふせるのみならず銀閣の仙境に俗塵を振るひ落し候」
市街と離れたこの地を漱石はたいへん気に入り、東京付近ではこんな住居は求められないと賞賛しています。しかし、41年6月、書状で教師就任と講義の件は断っているのです。狩野亨吉とも同じやりとりがあったは史実に遺されている処です。

ただ、これら碩学の友人は当時京都在住ではありましたが、故郷は別にあり後に京都を去った人でした。京都に生まれ育ったきっすいの京都人で、親密な知人といえば、津田青楓と西川一草亭きょうだいを措いてはないと思われます。今回はこのふたりにスポットを当ててみることにいたしましょう。」

長文になりますので、最後のところのみ書かせていただきます。

「漱石は祇園の「一力」で舞妓の運ぶ薄茶を喜んで喫しています。展覧会では茶道具の名品を手帳に書き付けています。そして、漱石は乾山の向付けの一揃いを見つけ、それを津田青楓に贈ってもいます。茶道そのものを嫌っていたのではありません。

 漱石は、東京に帰ってからは「京都の閑雅をひとり懐かしんでいます、また行くつもりです」と書簡に書きながら、大正5年12月9日に、49歳の生涯を終えたのでした。

 ああ、前年に京都旅行をしたあの体験がもし小説になっていたら……。不出世の文豪に時間が与えられなかったことは、惜しみても余りあるのです。」



 ◇

参考文献
岩波『漱石全集』。津田青楓著『漱石と十弟子』。西川一草亭著『落花帚記』

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2007年8月 8日 (水)

夏目漱石の参禅体験 実意あればこそ惚れられる

漱石の参禅体験 取り入れられた作品の数々 2007/08/08

今日、日本インターネット新聞のコラムに掲載されたものです。

コラム 古都つれづれ

以前からこの案は温めていましたが、資料を集め裏づけをとることなど手間がかかりました。

そもそも、鎌倉円覚寺の専門道場は、はるか昔私が師事したT老師が修行され、古川尭道老師から印可証明を与えられた因縁があるところです。しかも、当時、兄弟弟子ともいえる方が東慶寺の井上禅定師だったのです。そうしたことから禅定さまは私を可愛がってくださいました。

道縁のご恩を感ぜずにはおれません。古川尭道老師こそ、釈宗演老師の法を継いで円覚寺僧堂を護ってこられた大徳でありました。峻厳な禅僧としてご自分を律し他を導かれたと私はさまざまなエピソードを師匠から聞かされておりました。

私の師匠はその後、鎌倉を離れ、京都でも修行され京都五山である或る大本山で管長職を務められました。拙文を書くに当たって、思いは感無量なものがございました。

漱石に焦点をあてて書かせて頂きましたので、失礼なこともあったのではないかと思います。

最後に井上禅定様が私の要請を快くお受けくださいまして、玉稿をお送り頂きました日のことが、懐かしく思い出されてまいります。

椿わびすけの家別館 夏目漱石掲載  

鈴木大拙と夏目漱石 井上禅定執筆

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2007年8月 1日 (水)

専門家・研究家・真摯な学究の知己

専門家といいますとすぐ専門バカだとか、仰る方もございますので、れっきとした学者の先達の方々と申し上げます。私のつたない書きものを丁寧にご覧いただき、ご感想をお寄せくださることを本当に光栄に存じます。

漱石研究家として大家でいらっしゃる方々ですから、お便りにも研究のための示唆を頂戴し、大きい励ましとなります。ありがとうございます。

2007/07/31 07:00   松岡陽子マックレイン様(オレゴン州ユージン市)

伊津子様

 御心配かけて申訳ございませんでした。元気にしておりますが、夏は、この辺りは最善の気候、湿度が低く、昼間はかなり暖かくなりますが、日が沈むとぐっと冷え、熱帯夜というものがほとんどありません。真昼でも室内で窓を閉め切って暖かい空気を入れないようにすると、エアコンがほとんど必要がない所です。日本で言えば避暑地という感じの所なので、いつも他州や日本からのお客様が多く、夏の間はつい忙しくなります。その上ゲラが戻ったりして、何となく落ち着いてお便りをする暇がありませんでした。ご無沙汰お許し下さい。新書が出るのは十月半ばだそうです。

 京都と漱石についていろいろ書かれ、どれも大変面白く読んで、習わせて頂いています。

 ちょうど今度の本の中で、祖母が「お父様はなかなかおしゃれだったんだよ」と言っていたことを思い出して書いたので、伊津子様の半襟の話のところ大変面白く読みました。漱石は自分も良い着物が好きだったし、また子供達が奇麗に着飾るのも好きだったそうです。祖母に半襟の御土産など買おうと思ったことも、彼らしいと思いました。

 『虞美人草』は漱石自身後で厭だと言っていますね。内容は別として、『虞美人草』だけがあんなにごってりしたスタイルで書かれているので、厭だったのでしょう。後期のものは飾りけなく、平坦で単刀直入な文章で書かれています。ですから、いくら漢字が多くても、それさえ字引で引けば、『心』など私の学生が上級になると、あまり苦労せず読めるようになりました。

 私も『門』は好きです。彼の作品のなかで一番暖かいものだと思います。彼が自分で一番好きだと言ったというのがよく分ります。彼の理想の夫婦仲だったのかもしれません。でも漱石の作品は一つ読むといいなと思いますが、また次のを読むと、それもいいと思い始めます。だから、今でも人にどれが一番好きかと言われると、はっきりどれと言えません。芥川は『明暗』をすごく褒めていましたが、あれは少々冷たくて、いくら文学として優れていても、私はあまり好きではありません。やはり個人の好みですね。

 今週もお客様があります。来週は、私が1964年に助手として始めて日本語を教えたときの学生たち(もう孫のいる人もいます)が10人くらい、ある者は他市(日本も入れて)に住んでいますが、皆ここに来て集ることになっています。いわば四十年以上前の学生達のクラス会とでも言うものですから、皆で昔を思い出して楽しむことでしょう。

 ではまた良いものをお書きになったときは、どうぞお知らせ下さい。いつも楽しんで読み、いろいろ新しいことを習わせて頂いています。

陽子

2007/08/01 11:40 内田 道雄様

椿様の達筆・麗筆・速筆に感心しています。折角のご文章なのに、遅くなりました。

『門』は私も、一番大好きだった作品。夫婦愛が共感深く書かれています。「上品な半襟」につきましては「襟善」についての貴重な調査踏まえて「宗助」の愛妻への心情、きめ細かな捉え方で素晴らしいと思います。

『虞美人草』の「初源性」についても同感。吉本隆明の著述等々よくマメにお読みですねえ。椿様がご指摘のこの作品での社会批判・時代意識は言うまでもなく『門』の後半部への転回にも辿れますね。前半の「夫婦愛の物語」はそれによって大きく揺るがされるのですね。

「京に着ける夕」の原体験については水川さんも良く辿ってくれていましたが、今度の椿様のご指摘で安堵!(狩野亨吉、菅虎雄が、誤植になっていました。)

以上お礼まで。

内田拝

2007/07/31 11:25   内田道雄様
下記のURLで拝読が叶いました。プリントアウトいたしまして外出先で熟読いたします。どうもありがとうございました。内田拝

2007/07/31 09:51   伊豆 利彦様

椿 伊津子さま

漱石と京都というテーマは大事なテーマだと思います。「門」を京都との関連で考えることはしていませんでした。

「門」は私も好きな作品です。これは漱石文学の転換点となったと思います。
今後ともよろしくお願いします。

伊豆 利彦

2007/07/27  08:12 伊豆 利彦様 

椿 伊津子様

興味深く読ませていただきました。
半えりのこはいままで気づきませんでした。このことから、漱石のことがあたらしく見えてくるように思えます。

ところで、「虞美人草」には衣装のことなど細かく書いているようですが、「三四郎」ではそんなことには無頓着な三四郎の眼で書かれているし、これ以後もあまりそうしたことは書かれていないのではないでしょうか。

「明暗」はどうだろうか。お延の衣装のことなど書かれていたような気がしますが、どうでしょうか。

ご活躍をおよろこびします。
今後ともよろしくお願いします。

           伊豆利彦



鯰様 (ジャーナリスト)

わびすけ 様

魚が水を得たというのはこんなことをいうのでしょうか。
漱石と古都と半襟 この取り合わせの妙を明快に
ときほぐすさま これはやはり わびすけさんの独壇場ですね。

おもしろく 読ませていただいております。正直なところ
わたしたちが期待していたのも こんな話だったのです。
こころ 豊かに読ませていただいております。

私はこちらの方々とは何度か実際にお会いして、お人柄は充分存じ上げております。

大正時代の香りが残るお方もいらっしゃいますし、昭和ヒトケタの男性は忍耐強いといわれておりますが、やはり現代の若い男性より男性っぽい印象を受けますがいかがでしょう?

いえいえ、ちゃんと現代に生きて活躍されている方々でいらっしゃいます。

学ばせていただくご縁を心より感謝申し上げます。

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2007年7月14日 (土)

公式サイト掲載記事へ 諸先輩からご感想をいただいて

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多佳女ゆかりの歌碑のある祇園新橋通りクリックすれば拡大します

昨日、IT新聞のtsubakiコラムが更新され、拙記事が掲載されました。

夏目漱石の縁(えにし)祇園と多佳女

私には尊敬する大先輩ともいうべき漱石研究家の方々と、もう長らくお付き合いをいただいております。みなさま碩学でいらしってこの方面の大家でいらっしゃいます。いつも過分のお励ましをいただく身には、勿体ないと恐縮することが多いいのです。

その中から差しさわりのないものをご披露させていただきましょう。
そのいくつかは、掲示板の書き込みになるコメントもございます。
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2007/07/15 06:56  内田道雄様 (学芸大学名誉教授・漱石研究家)
 椿様。
 早々のお知らせにもかかわらずご返信遅くなりました。全集読み直す必要を感じまして時間が掛かった次第です。この標題での椿様のご見解は誠に穏当・妥当と感じました。やはり京都にお住まいでいらっしゃってその土地柄や人柄を知悉していらっしゃる事から自ずと滲み出る説得力があって読者を魅了します。病身で神経質・気位ばかりは一人前という漱石を、その作品への傾倒ゆえに大らかに受け止めて何と!「大友」での看病をも喜んで引き受ける36歳の多佳女。西川一草亭・津田清楓兄弟や鏡子夫人らの依頼があったにせよ、、これは稀有の美談でもあります。ここを椿さんは「終始同じ人間として」の「親しみ」という平易なことばで捉えています。
 これは後の漱石の二通の手紙でも訴えられている「切望」でもありました。(私はこの二通の多佳さん宛漱石書簡には歳若の弟めいた「甘え」を感じてしまいます。)
 椿さんの独壇場は漱石の「春の川」の句の解釈です。旧来の二方向の解釈をいずれも包容しながら「多佳さんに、感謝のきもち」を込めて書いた、と、これは正確なご指摘でもあります。句の成立を追って作品のふくらみを明かすここの一段はご文章につやがあって素晴らしい、と思いました。
 吉井勇の歌碑と対応させて美麗な写真を並べて下さっておられます。京都の町々(今日は嵐ですが・・・)を思い描きながら、鴨川の向こう側を思いやるように漱石句碑の呟きを私なりに心中で辿ってみようと思います。
 唐突のようですが「男と女のあいだには深い川がある」(野坂昭如)のあの歌も連想されますね!
内田拝

名前:namazu 2007年07月12日(木) 00:01 なまず様 (元新聞記者)

「夏目漱石の縁 祇園と多佳女」わびすけさんならではの話題ですね。わかりやすく、おもしろく読ませていただきました。漱石のとまどい顔が透けてみえます。ほんとうのところ漱石は京都が好きだったんですね。




by 鯰 at 2007-07-11 23:30

 飾り気なくしんが強くてしなやか。多佳女さんの話 興味深く読ませていただきました。読んでいくうちに「京女」とはこんな女性のことを言うのだろう、と変に納得しました。
 東男の漱石が魅せられたのもむべなるかな、とも思いました。 京歩きでの楽しみがまた ひとつ増えました。 ありがとうございました。




2007/7.14 03:50 松岡陽子マックレイン様 (オレゴン大学名誉教授)

伊津子様

 『漱石の縁、祇園と多佳女」お送り下さり有り難うございました。丁度今自宅の庭で紫陽花が咲き始めたので、多佳さんを偲び、面白く読ませて頂きました。京都の友人が、かなり前ですが、自宅に来られた時、アメリカは何でも巨大だけれども、紫陽花だけは日本のものの方が、ずっと大きくて立派だと言ったことが記憶に残っていますが、本当にこちらの紫陽花は日本のほど立派ではありません。多佳女が愛したのは、その大きくて立派な紫陽花ですね。いくら肥料をやっても自宅の紫陽花は大きくなりません。きっとこの花は多佳さんと同じように、しとしと降る雨、湿気を好むのでしょう。この辺りでは紫陽花は六月から七月にかけて咲きますが、空気が乾燥しているため、大きくならないのかもしれません。紫陽花で詩を詠むということもあまり聞きません。

 また数年前に京都に伺い、祇園祭りを見せていただいたことも懐かしく思い出しました。「京都漱石の会」が発足、京都と漱石について、ぜひもっとお書き下さい。「坊ちゃん」から漱石を江戸っ子としか考えない読者が多いと思いますが、彼が京都の静かな町を愛したことが、この伊津子様の文でもよく分ります。

陽子



2007/07/06 05:59
伊津子様

 精中忌での、美しい紫のお召し物でのお手前のお写真有り難く拝見させて頂きました。お家元の前で次席として堂々となさっているところ、いつものことながら本当に感心してしまいます。また歌もお詠みになるのですね。まったく伊津子様には、いつも感嘆させられることばかりです。

 私は自分が無調法者で、雅やかというのでしょうか、風流というのでしょうか、ともかく、そういうことに、まったく疎いので、そのようなことの他にも、最も近代的なコンピューターの知識も深い、つまり古今の業(わざ)に通じていらっしゃる伊津子様を尊敬申し上げるのです。

陽子


2007/06/21 01:25

伊津子様
 京都の風流を愛した漱石
 早速読ませて頂きました。とても素晴らしいです。それですぐ「この記事が気に入ったら…」というところを押しました。私も漱石は京都を愛したのだと思います。京都と漱石について書けとおっしゃいましたが、伊津子様がもうすべてお書きになりました。ですから、書く時が来たら何か他のことを書かせて下さいませ。

 参考になさった小林孚俊樣には私もお会いしました。とても良い方で、1985年でしたか86年だったかよく覚えていませんが、私がこちらの学生を連れて早稲田大学に二年ほど行っていた時、四月二十九日の「鎌倉漱石の会」に連れて行って下さいました。講師は女流作家でした。その頃もうかなりのお年だったので、蔵書を古本屋に二束三文で売りたくないとおっしゃり、ご親切に皆私に下さったのです。それで私は丸通を雇い、幾つかの大きな箱に入れてアメリカに送り、大変有り難く長年重宝させて頂きました。

 そうそう、アメリカに住むので、私はいつも滿で数えて,漱石は四十九歳で他界したと言います。荒正人氏の年表は数え年なので、いつも滿に直します。日本はまだ数え年を使いますでしょうか。

 あっ、今、庭の掃除をしてくれる若い人が来ましたので、ここで失礼致しします。それではまた。

陽子




伊豆利彦様 (横浜市立大学名誉教授・漱石研究家)

2007/07/13 10:43
椿 わびすけ様

 エッセイ拝見しました。漱石と多佳女ん対する愛情がこもった文章だと思います。
 私は漱石の手紙で知っているだけでどんな女性かと思っていました。
 あなたのエッセイで二人の関係がわかり、あの手紙の意味もいろいろ考える手がかりをあたえられました。ありがとうございます。

 京都漱石の会発足の由、活発なご活動には深い敬意を表します。
 ご成功を祈ります。
 ただ、このごろは、脳力極度に衰え、文章がかけるかどうかわかりません。
 
 ホームページも多彩なものになり、ご努力に感銘しています。
 今後のご発展をお祈りします。

      伊豆利彦 http://homepage2.nifty.com/tizu/


◇◇◇

ブログのコメント欄にご投稿くださっております皆さまにも、心より御礼申し上げます。
いつもありがとうございます。

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2007年5月24日 (木)

炭点前から 竹の蓋置(ふたおき) 略書院かざり

Urasenke_yarinomakara 寸松庵 燈篭 

今月は一日にご宗家に参上したきり、欠席を重ねていました。朝行くつもりでいても持病の不整脈が出るともう駄目なのです。そういうことで点前の稽古がなおざりになってしまいます。内心こうした自分を恥じる気持ちがあり、これが嵩じると鬱になりますからまあいい加減なところで身心が談合するわけです。

楽しんでお茶をせないかんよ、、、とよく仰ってくださるのは、米寿になられた寺西業躰先生。点前のミスをいちいち気にしていては客に美味しいお茶を点てることも出来なくなりますから。とても有りがたい指導をしてくださいます。

今日は、槍の間で初炭をいたしました。炭をつぎ終わって中掃きをして灰器をとり灰さじにて月形に掬う。この席はこの客だけにという意思表示の伝承なのです。その後、後掃きをして香合をとり白檀を二片くべる。熱灰のところに置くのは火の上で燃えないようにとの配慮なのですね。

釜の蓋は切らずに灰器をもち茶道口へ。炭取りも下げる。席中、香合がかえれば主は釜前に坐り、袱紗をさばき土風炉の右から左と胴拭きをし二つに折って前を拭く。袱紗をさばき直し二つに折ったまま釜の蓋を清め、蓋を切ります。

茶事の形式による初炭点前です。ここから客前に坐って、香合の拝見の挨拶になりました。

なお、羽箒は右羽。地摺りの羽でない上の羽を使用するのは、土風炉は炉のような荒さがなく今でいうソフトなものだからでしょう。

次は八畳の間を小間据えにして風炉を置きなおしての点前になりました。水屋の若い見習いの男性が手早く風炉釜、敷板を移動します。青竹の結界を持ち出したところ先生から注意がありました。

「それはあかんで。青竹の結界は本来は野点のもんや。蕨縄(わらびなわ)で結んでいるのより蔦で組んでほうが未だましなんだが。」

そこで北山杉で作られた結界に取り替えられて、座が整いました。明け放たれた障子のすぐ向こうは、坪庭で寸松庵の趣のある燈篭が見えます。客は点前をされる亭主の背景にそれを眺めつつ、ゆったりとしたひと時を頂くのです。なんと贅沢な稽古であることか…。

台天目。その次は盆点(ぼんだて)。後炭の点前。

最後に私が薄茶の点前をさせていただきました。小間据えで客は三人。

干菓子は伊織製 ツバメの焼印が清々しい麩せんべい。水色の流水もよう有平糖。

竹の蓋置を扱いながら先生に問いかけました。

「宗旦の花押がある竹蓋置を拝見したことがございますが、もとは使い切りの消耗品だったとは考えられませんけれど。」

「いや、最初は青竹を切って作ったのだが、それを欲しがる者が出たので油抜きをしたんだ。日数を経て油がなくなった竹だから花押が書けた。だから昔の竹蓋置きは貧相なもんだ。」

そうなのですか。興味深いお話が聞きだせてよかったと思います。

今では長板二つ置きは花押のある竹蓋置に決まっていますよね。時代の推移ということでしょうか。では、なぜ、竹以外のものは使用しないという不文律があるのでしょう?茶の道具に大よそ、真・行・草の決まりがあることも関わりがあるのはいうまでもありません。竹は草であることに思いをいたせば、点前がおのずと見えてまいりましょう。

私は長板二つ置の点前は運び点前と考えておりました。長板は棚であるとされるのは、台子の天板を外し柱を取った地板が成り立ちだからですね。けれども点前そのものは運びであり、建水を飾り残すこともなく退くのです。運び点前であるからには、竹蓋置が約束なのです。

長板という格によって、柄杓を飾ることがなくても湯返しをする。これは長板総飾りに準じる作法です。また、こうした格があることで竹蓋置も青竹ではなく花押ある竹のものを使用しなければなりません。

寺西先生のご指導のなかに、自分の思いを確認することができましたのは本当に有り難い事でございました。

「今日庵の奥伝である十段にはなぁ、台子の地板に竹蓋置と柄杓を置く点前があるんだよ。それから出ているのだから矛盾は何もない。」

薄茶を三人の客に点てたあと、仕舞いの段階で竹の蓋置を左手で風炉の左、釜のカンツキに置くようにご指導があり、ついで同じく左手で柄杓をその上に置きました。

「ああ、先生。これが略書院飾りですね。茶碗が二碗って持ち帰れない場合の所作ですね。」

「台目畳なら替え茶碗を茶道口へ下げればいいんだが、一畳丸畳だから遠すぎるだろう。そういう場合にはこうすればいい。」

略書院かざりは、書院がある寒雲亭で使用されていたということ。もちろん広間でも小間でも出来る点前として、知っておくといいと思います。淡交会などでは全国的な統一を考えられますからこうした伝承の点前を習うことはありません。

しかし、温故知新(古きをたずね新しきを知る)の心は、茶道を学ぶ者一人ひとりが謙虚に学んでいいのではないでしょうか。

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2007年5月22日 (火)

台湾の大学での漱石研究

内田道雄氏(学芸大学名誉教授)をマックレイン陽子さんにご紹介させていただいたのは、陽子さんのお父上である松岡譲氏と内田さんのお父上様が長岡でご懇意でいらしたということもございました。

先月の末に、漱石ゆかりの東大構内、三四郎池や地下の学生用の食堂メトロにもご案内いただき、3人で親しくお話したなかに、台湾の大学で講演をされたということをお聴きいたしました。

漱石ファンがかの地で健在であるということにほっとして懐かしい気持ちになったものです。近隣諸国の反日キャンペーンをマスメデアが報じて心を痛めていたのでした。

最近、このような明るいニュースもございました。

http://megalodon.jp/?url=http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20070508ij21.htm&date=20070509131753

第1回後藤新平賞に李登輝前台湾総統
 日本の近代化に尽くした政治家後藤新平(1857~1929年)にちなみ、国家や地域の発展に寄与した人に贈られる「第1回後藤新平賞」に、前台湾総統の李登輝氏(84)が決まり、8日、発表された。

 李氏は1923年生まれ。旧台湾総督府の民政局長を務めた後藤とかかわりの深い台湾で、台北市長や台湾総統として近代化に貢献した点が評価された。授賞式は6月1日午前10時、東京・六本木の国際文化会館岩崎小弥太記念ホールで行われる。同賞は、満鉄総裁、外相、東京市長などを歴任、スケールの大きな政策を構想した後藤の生誕150周年を記念して「後藤新平の会」が創設した。

(2007年5月8日22時51分 読売新聞)

近隣諸国との友好をねがう意味でも、かの地で漱石の研究も健在であることを素直に喜びました。以前、このブログで私は後藤新平について触れておりますので、ひとしお感銘を覚えたのです。

内田氏に是非、台湾でのご講演の概要なりとお知らせいただきたいと申しましたら、ご丁寧なワードを送ってくださいました。講演の内容は、春樹の小説を100冊読んで書いたとおっしゃっておりました。

皆さま、どうぞお楽しみになっていただきますよう!

『ノルウェイの森』談義――村上春樹と夏目漱石――      内田道雄
2007.3.31於高雄空中大学

1.前置き(個人的な・・・・)「蛍」のこと 
               全共闘世代・新人類世代・オウム世代 
小浜逸郎「オウムと全共闘」 
               アイルランドに居る喩智官さん!

2.「手記」という「枠組」  終末から冒頭までの「空白」
               
3.ストオリイとプロット   空間(郷里から東京へ)・時間(個人と時代)
               『三四郎』との対応
               セラピー小説か、Bildungs-romanか
               歴史的事実との対応

4.おいキズキ、ここはひどい世界だよ、と僕は思った。こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出て、せっせと下劣な社会を作るんだ。(第四章)

5.直子と緑         「緑の父親」のエピソード(第七章)

6.ハツミさんで始まる物語 「反実仮想」の物語
それは充たされることのなかった、そしてこれからも永遠に充たされることのないであろう少年期の憧憬のようなものであったのだ。僕はそのような焼けつかんばかりの無垢な憧れをずっと昔、どこかに置き忘れてきてしまって、そんなものがかつて自分の中に存在したことすら長いあいだ思いださずにいたのだ。ハツミさんが揺り動かしたのは僕の中に長いあいだ眠っていた〈僕自身の一部〉であったのだ。(第八章)

7.村上春樹と夏目漱石   『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』
ぼくが『ねじまき鳥クロニクル』を書くときにふとイメージがあったのは、やはり漱石の『門』の夫婦ですね。ぼくが書いたのとはまったく違うタイプの夫婦ですが、イメージとしては頭の隅にあった。

8.世界における「村上春樹現象」とは?

9.「ノルウェイの森」Norwegian Wood(This bird has flown.)
「3.ストオリイとプロット」の1節

神戸という郷里からの上京と、学生寮での共同生活という選択は漱石の『三四郎』と同様に「自己形成」を目指す、また目指さざるを得ない青年の普遍的なありようでもあります。『三四郎』が備えたBildungs-romanの構造をこの作品も示しているのは確かです。漱石がこの作品連載の直前に発表した「予告」にあるように、色々な人との出会いの中で主人公は変化し屈折し成長を遂げるのであります。Bildungs-romanの語の代表的な訳語は「教養小説」ですが、それよりもふさわしい訳語はここでも「自己形成小説」でしょう。そして両作品に共通の浮動的な結び(いずれもが、自問自答で終わる。)について言うと、「遍歴小説」という呼び名が最も相応しいかも知れません。「遍歴」と言えば2作とも「女性遍歴」がメインのプロットです。本作の神戸の女性~直子~緑~ハツミさん~レイコさんとの交渉は(後述の「ハツミさん」を除き)セックスの関係で結ばれていますが、漱石の主人公の場合はその要素は殆ど表に出ておらず手が触れ合うくらいです(*4)。しかし九州の「お光さん」~美禰子~よし子、と役割が書き分けられているのは興味深い対照です。直子の病的な内閉性と美禰子の謎めいた挙措(露悪と偽善の二面性)、これに対して緑の天真爛漫ながら現実的智慧に裏打ちされた堅実さとよし子の母性的な雰囲気、それぞれのレベルでの対応関係が主人公の世界の必須の構成要素とされています。

『三四郎』が、日露戦争後の世情不安をバックに据えて車中の女や轢死する女を点描している点は村上春樹の作品の方で「大学紛争」を設定として持つこととの対応が直ぐに発見できるのですが、『三四郎』はさて置いて、本作の場合歴史的事実としての「大学紛争」が、それに関わる個々のモティヴェーションの差異によって、多様な後遺症を齎していることを見ておかなければなりませんね。

「7.村上春樹と夏目漱石」の1節

各所に漱石への言及は見られますが、『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』には、漱石読みの河合氏の示唆もあって数多くの発言が見られます。『スプートニクの恋人』には、「夢十夜」の第一夜のイメージの活用(「ミュウの真っ黒な瞳の奥に映っている自分自身の鮮やかな姿を、すみれは目にすることができた。」3)があるその直後の章(4)に「なんだか『三四郎』の冒頭の話みたいだな・・・」という「目くばせ」めいた記述があったりする。「ノルウェイの森」に関しては、その原型をなす「蛍」と「こころ」の対比を試みた渥美秀夫の画期的な論(1992.12『愛媛国文研究』)を嚆矢として、同じく平野芳信の「話型論」からする「最初の夫の死ぬ物語」があり、更に「三四郎」を中心に漱石の時間意識との対応関係を論じた半田淳子の逸論が存在する。『翻訳文学ブックカフェ』で新元良一のインタヴューに答えて、

夏目漱石なんかは好きなんですよ。でも戦後文学みたいなのはだめ。(中略)いわゆる文芸日本語がよめないから。

もっとも大江健三郎の「死とセックス」を初期は回避してきたが、本作では活用してきた、というあたりおのずからシタタカな作家的本性を露呈している。この本で面白いのは、レイモンド・カーバー、フィッツジェラルド、チャンドラー等翻訳の対象作家を論じる中で「ドストエフスキイのカラマアゾフの兄弟はぼくの北極星」と述べている部分である。カラキョウなど言う現代風の略語を親密感込めて使う作者である。村上訳ドストエフスキイ出現の可能性が期待できるのです!


拙ブログ

中国と日本、孫文が日本へ期待したこと そしてイギリス

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2007年5月11日 (金)

伊勢神宮献茶式 神主さんの祝詞(のりと) を聞く

尾長鶏が散歩している内宮

神殿の静寂のなかで繰り広げられる献茶式。

神主さんの祝詞(のりと)は、関心のあるところだけ、はっきりと聞き取れました。

京に誉れ高き 裏千家 千 宗室第16世家元、。千 玄室大宗匠。 
淡交会三重支部。愛知第一支部、、、、。

かしこみかしこみもうさく、、、。


檜造りの神殿の前に、榊の大きい木が左右に二本。中央に丸三宝が数個置かれ、お米と塩、海の幸、山の幸、でしょうか。それぞれお供えされているように拝しました。

最前列に、別の台が置かれ、二つの丸三宝。ここに坐忘斎家元による献茶の濃茶、薄茶二碗が点てられて、しずしずと運ばれ、置かれるのでした。

最初から最後まで、前列2列目に坐っていた私はつぶさに拝見させていただきました。
お家元の心こもる点前は流れるように、清浄な時間に溶け込んでいました。それをじっと見守られいる奥様のおすがたも印象的でございました。


伊勢神宮の内宮をあるき、友人とともに私は今日庵席に参りました。

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五十鈴川をつたう路もあります。

今日庵席。
大広間の床には、又玄斎一燈(ゆうげんさいいっとう)の一行。
山呼万歳声

伊勢神宮の5月のさわやかな山並み、遷宮のための御木曳の行事にあたり、歓喜の声がひびき渡るこの時を、茶席はしっとりとした道具組で親しみやすく表現されておりました。

花入 玄々斎 竹一重切。銘 やなくい。

胡くい(やなくい)
箱型の矢を納める武具。長さ60センチほどのもので、矢を4本入れて背に入れて背負う。実戦と違って、矢尻を上にして納めている。これは平和を表しているからだというようです。

花 姫大山蓮 ふくらんだ純白の蕾一輪、清楚でした。

点前はSはせ業躰。 半東、I藤業躰。

若手のこれから益々伸びてゆかれる方々ですね。
お家元のご名代としてここに出ておられる訳ですから、大変なお役と思います

うるさい客がいると思われるでしょうが、学校でも生徒との双方向性というわれる時代に入っているのですね。
家元席はなんといっても特別な席です。遠隔地から伊勢へ参るのを楽しみにしている者の学びの気持ちを、申し上げてみました。

ともかく、和気あいあいとしたおもてなし、有難うございました。





一昨年アップしたお伊勢参りはこちらです。

伊勢神宮 おかげ通り

伊勢まいり 五十鈴川



近鉄特急に乗って帰る車中で、組織の内情について聞くことがありました。友人は選挙で選ばれた幹事長であったことから情報公開を志し実践したようでした。組織の難しさを聞かされた思いです。

お家元の誠実なお心を汲み、同門の人々の指導者として恥じない会計管理をしてほしいと願うばかりでございます。

関連ページ  

2006年 11月 26日 今の世で評価されなくなった 陰徳(いんとく)

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2007年5月 9日 (水)

ちいさな動画 三四郎池

4月27日、漱石研究家の内田道雄さんのご案内で、三四郎池を歩きました。

松岡陽子さんとごいっしょに東大赤門から入り、三四郎池に参りました。

「200704271609.3gp」をダウンロード

「200704271610.3gp」をダウンロード

「200704271612.3gp」をダウンロード

最近使い始めたケータイで動画を撮るなんて、若い人の真似をしているようで気が引けました。おふたりの後ろから探偵のようにつけていき、心字池のぐるりを撮りましたが、いやはやお粗末そのもの。

以前アップしたページのほうが数段マシでしたわ~~。

拙サイトにアップしたのは、もう6年前になりました。 

2001年11月20日 三 四 郎 池

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2007年4月30日 (月)

漱石のご遺徳 心の交りを頂いて

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松岡陽子マックレインさんが、ことしもオレゴンより里帰りなさいました。

ごいっしょに私も、会員制の宿舎に宿泊して、行動のお伴をさせて頂きました。ますますお元気になられる不思議なお方でございます。さて、上の写真がどこかお分かりではございませんか?はい。赤門をくぐったところ、向こうに見えるのは時計台。安田講堂、、、、。

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こちらは、また違う場所でございます。新宿の漱石公園にまいりました。数人のエライお役人さんに導かれ、漱石山房リニューアルの現地を、マックレインさんにご覧いただく一日でした。漱石山房のあった屋敷で、陽子さんは大正13年に生まれた赤ん坊なのですから。

クリーム色のスーツを召した若いきれいな女性が、新宿区の中山弘子区長さんでいらっしゃいます。

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それから下の写真は根津神社のツツジを見物がてら散歩しているところです。漱石研究家の内田道雄氏と、陽子さんと、少年少女のごとく、、、。

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私はここで、北鎌倉へ参りました。鎌倉・漱石の会へ出席のために。円覚寺内帰源院でのスナップです。

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講師は、午前の部 立原 幹氏。 午後の部 芳賀 徹氏。上の写真は講演前の芳賀先生です。

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上の写真は講演中。演題 「夏目漱石の美しい小島ー永日小品ー数編の読解の試み」

25編からなる短編集「永日小品」を、「漱石の美しい小島」とも、「漱石の実験工房」とも呼ぶのは、漱石が二十世紀小説の可能性を多方面に試みて、各篇に極上の面白さをつくりあげているからだと、芳賀氏は説かれます。みずから朗読される音律の妙、、、。一同聞きほれてしまいました。

その内容が日本の「きれいさび」を連想するものであり、私にはことに心に沁みる講演でございました。

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中公新書1656 『詩歌の森へ』日本詩へのいざない

著者のご本に署名してくださったのは、2003年春。内扉に、俳句をお書きくださっています。その日は鎌倉漱石の会があり、講師をおつとめになっておりました。

2003年4月29日

万緑の中に漱石居士笑まふ    芳賀 徹

今回あらたに、右のページにご署名を頂きました。

2007年4月29日

緋牡丹の崩れんとして再会す   芳賀 徹

詩歌をわがものにした日本の男性の、すばらしさを思わずにはいられませんでした。

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2007年4月23日 (月)

わが茶道のコミニュテイ メンバー数7000人を越える

ミクシイで私が管理させていただいているコミュニテイが、先ほどみましたら、メンバー数7,011人になっていました。

             

裏千家茶道に学ぶ人々と、伝統文化・茶道に関心を寄せる人々が入会しています。

トップページの一部をご披露いたしましょうか。

http://c.mixi.jp/urasenke

2004年12月28日 (運営期間 846 日)

カテゴリ 趣味  

茶道は芸術と精神修養という日本文化の一つです。

千利休(1522~1591)はお茶の理念を和敬清寂の四文字にあらわしましたが、これは全ての人において平和への理想でもあります。
抹茶を立て、飲む一連の形式化された動作は一般に『ティーセレモニー』と訳されておりますが、日本の歴史・文化的発展の基礎となる思索・芸術の形態を生み出したことを鑑みると、茶道は『the way of Tea』が適切でしょう。

現代のスピードの中で忘れられがちな人を敬う和みの世界と不動の心を育む一助となり、強いては茶室から広い世界の和を願います。

参考文献淡交社刊『茶の湯 六ヶ国語会話』序文

前の管理人はドイツ在住の日本人女性フジヤさんでした。このブログでも書いておりますのでご存じの方もありでしょう。私たちはお互いに理解し合い、共感をもつにいたりました。

昨年春ころでしたか。私は或る要請を受けたのです。その間のことを、今日トピに書き込みました。

________________________

みなさま

今日は2007年4月23日(火曜日)です。
裏千家コミュニテイのトップページを見ましたら、メンバー数7、011人になっておりました。

前管理人フジヤ様との個人的な交流があった上で、フジヤ様からたってのご依頼を受けました。それは昨年春ころだったかと思います。

諸事情から管理人を辞退したいと思っている。ついては管理を譲りたいので、どうかご一考いただきたいという内容でした。

私はそれは無理です、多くの会員が支持されている方なのでそのことをよくお考えになるように、とお返事いたしました。
その後日数が経ち、再度の要請を受けたのでした。個人的な事情がおありで苦しいお立場が伝わってきました。

昨年の8月ではなかったでしょうか。管理人を譲るというミクシイからのメッセージが承認か拒否かを求めてきました。この時点で私は承認をクリックいたしました。

前管理人様が引継ぎの挨拶をトピにされたのは、大分後の9月に入ってからでした。
当時のメンバー数は印刷して残しておりますが、4、500人前後と思って頂ければけっこうです。

フジヤ様は削除ということで悩んでおられたこともございました。放任していた為トピが乱立しコミュとして困った状態だと仰っていたのでアドバイスさせて頂いたのを覚えております。

至りませぬ私が管理を引き継ぎましてから、はや8ヶ月が経過したことになりましょうか。その間、おかげさまで会員数は増加の一途を遂げ、約2500人近い方々が入会されました。

これはひとえに裏千家茶道あってのこと、ご宗家と皆さまのおかげと心より感謝いたしております。
ミクシイの編集局のシステム改変により、副管理人制度ができ、当コミュではルソン様にお願いしております。

ご専門である某公的機関の職場に従事される方ですが、多忙ななかに管理人を助けてコミュの運営に努力してくださっております。

どうぞ、皆さま
裏千家と、日本文化である茶道のもとに集う、学びと憩いのひとときをご一緒に過ごしてまりたいものですね、
どうぞよろしくお願い申し上げます。

不肖現管理人 わびすけより

◇◇◇

反響より (エキサイトの拙ブログから引用)

M 2007-04-24

多忙なわびすけ様が、メンバー数7,000人を超すMIXIのコミュニティを管理していらっしゃるとは、頭が下がります。

なお、こちらの記事のコメントをお借りしますが、

わびすけ様のご紹介記事で知り、読ませていただいた「茶の本」で、(多分)百年前の西洋人と同じくらいの衝撃を受けました。
岡倉天心、千宗室、浅野晃のお三方のコラボレーションが更に素晴らしさを増幅したこの本に出会えたことに感謝します。

茶の湯の精神「和敬清寂」は、百万分の一に足りないほどしか理解できていないと思いますが、その精神に相通じるものを感じています。
H  2007-04-24
7000人を超える多くの人を束ねる管理人としてのお仕事は、本当に気苦労の多いことと存じますののに、裏千家と日本の茶道に為に、惜しみなくお心を砕いておられること、有難く存じます。
お茶とのかかわり方は人それぞれ、けれどその根底に流れる精神は今も昔もぶれることなく共通に存在するはず。そのことを、改めて色々考えさせられた最近でございました。
これからも、コミュの管理人として宜しくご指導賜りますように。

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2007年4月20日 (金)

漱石の書 「一草亭中人」 西川一草亭旧居を訪ねて

夏目漱石の書 「一草亭中人」


3月19日、京都市内 浄土寺の去風洞に、私は白檀のお線香一箱を手にして訪問いたしました。翌20日は西川一草亭の祥月命日なのでした。

去風洞は華道の家元で、現九代家元の西川一橙氏と奥様の丁重なお迎えをいただきました。ご夫妻は私のためにこの漱石の掛け軸を広間に掛けてくださっておりました。

もとは扁額であったようですが、おじい様にあたる一草亭が掛け物にされたようです。じつに高潔な気韻がただよっています。私は感動してみつめておりました。

会話のなかで、漱石のお孫さんであるマックレイン松岡陽子さんに触れました。
お父上の松岡譲氏と一草亭の間には深い交友があったからです。それらは一草亭が刊行していた雑誌『瓶史』(へいし)の執筆において知ることができます。

写真はマックレン陽子さんが昨年アメリカ大使館で行われた講演会のスナップです。


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私は特別に許可をいただいて、証明書を首にぶらさげ(皆おなじ)、参加させて頂きました。お隣は陽子先生の教え子である米人女性。アメリカ大使館の重要なお仕事をなさっているステキな方です。

西川一草亭は、 『風流生活』の中で次のように述べています。

「我々は実生活の他に芸術を求め、 趣味を求め、 芝居を見たり、 音楽をきいたり、 書を味わったりしているが、 毎日の生活をその侭芸術として味わひ楽しむことが出来たら、 どれほど人間は幸福だろう。 茶碗土瓶が芸術であり、 椅子卓子が芸術であり、 机硯が芸術であって、 行住座臥、 随時随所それぞれ鑑賞して楽しむことができたら、 それほど便利なことはない」

かれは、花の作品よりも暮らしを芸術にという思想でその時代を啓蒙したといえましょう。

本業の挿花の指導のほか、書画、庭園の設計・管理、住宅、茶室の設計を行いました。
門下には  京都帝大教授の 藤井厚二、壽子夫妻、浅井忠、高安月郊、都鳥英喜、幸田露伴など。
交流があった建築家は、 武田五一、藤井厚二、堀口捨巳、谷口吉郎、吉田鉄郎、天沼俊一、岡田孝男、本野精吾、大林夫妻など。

『 瓶史』は、 挿花、茶道、庭園、建築など日本の伝統文化研究が一草亭によって編集・掲載されました。


文化サロン

志賀直哉、幸田露伴、室生犀星、和辻哲郎、谷川徹三、小宮豊隆、松岡譲、阿倍能成、長谷川如是閑、板垣鷹穂、正木直彦、川喜田半泥子、北大路魯山人らが集う大サロンであったのです。

ひとえに西川一草亭の高い見識と人柄が当時の知識人を魅了したものと思われます。実弟津田青楓の縁で、夏目漱石門下の小宮豊隆、松岡譲、阿倍能成、が名を連ねていることも注目されるところです。



2006年4月末UP
 
スライドショーマックレイン陽子さんと皇居庭園を歩きました

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2007年4月 4日 (水)

花の下に逝かれたわが心の師 通夜に参りました

四月といえば桜。
東京ははや満開とか、各地の花便りがきかれます。


この原稿を非公開で書きはじめめてから、思うところあって停止していました。藤枝駅の画像は先月末に、大叔父のお通夜に行ったときのスナップです。

主人と私にとって、心から深く尊敬するお方でしたから、本当は喪に服さなければならない日々なのです。日本全国、桜の花が咲きう、美しい国というキャッチフレーズが、花に限ってなら実感をもって肯けるのです。でも、私たちはそうした思いには遠く、3月末に京都を発ち大叔父の在所にまいりました。

藤枝駅といえば、東海道藤枝宿の宿場町でした。藤枝宿(ふじえだじゅく)とは、東海道五十三次のうち江戸から数えて二十二番目の宿場となっています。1601年 東海道の宿場町として藤枝宿が置かれます。最盛期には旅籠が37軒あり、商業地としても栄えたようです。

この土地はひなびた感じが今も残る土地柄ですが、当時の住民の考えがはっきりとしていました。住民は、明治に入り東海道本線が建設される際、蒸気機関車の煙や火の粉を心配して、線路の建設を拒んだといいます。そのため藤枝駅は町から3キロほども離れて設けられ発展できなかったという見方があります。

住民の声が届いた行政ということ。今では日本の夢物語のように思われますね。



私的には大叔父さまですが、本来の出家には血縁関係はない筈です。
私は老師さまとお呼びしておりました。

けれども、主人と私の結婚に際して結納の席にもわざわざ京都までお出ましいただきました。
ほんとうにご恩になったお方でした。

曹洞宗の禅堂の指導者として、真摯な佛弟子を打ち出されました。
永平寺の西堂にいったん就任されながら、自ら辞任なさいました。
一生涯独身、肉食をされず精進潔斎を貫かれました。
老師のそのお姿に、私はどれほど多くの教えをいただいたことでしょう!

かつて老師のご染筆を2枚裏千家ご宗家にお送りいたしましたところ、鵬雲斎大宗匠から私にお声がかかりました。

「あの書を表装させてもらいますが、ご老師に箱書きをおねがいできますか?」と。

それから、「いや、私が箱書きをすることにしますから。」とおっしゃいました。
そのことをなつかしく思い出すのです。もう5、6年前のことでした。

私は時々ふっと、あの一行物と横物の墨蹟をご宗家で一度拝見できたらなぁ、と心の中で思います。

今は黙ってご冥福をお祈りするばかりです。



今年に入って、ご老師は遺偈(ゆいげ)をお書きになっていました。
四行のそのなかの一句は、 「九十五年」。

95歳の堂々たるご生涯でありました。

4月4日UP



大叔父 白山老師のこと。
http://tsubakiwabisuke.cocolog-nifty.com/rendezvous/2002/12/post_b120.html

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2007年3月13日 (火)

千羽鶴って ツバキでっせ 今咲いてます

スライドショー 千羽鶴が咲きました







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ことしの初天神(1月25日)、北野天満宮の植木市で、千羽鶴という銘のツバキの若木に出会いました。

「美智子皇后さまはこのツバキがお好きなんだそうですよ。」

植木屋さんにそういわれると、急に買いたくなりました。いそいそと重くても手に持って家に運びました。

その木に蕾がついていましたが漸く3月になって膨らみ、先日から次々と花が咲いています。

一重でうっすらと紅がさしているような、つつましやかな花です。一輪だけですがカメラに収めました。

うれしいことに、この日は中宮寺ご門跡さまの喜寿記念の或る行事のための会合がございました。

ご門跡さまを囲んで、編集委員のお歴々の方々の末席に加えていただいていますわびすけ。

冷泉さま、出雲路先生、北野天満宮宮司さま、中宮寺お世話役・ドクター辻さま。

皆さまの間で、きびしくも建設的なご意見、たのしい会話が続きました。会合はこれで4回目です。

なにやらデカイ顔に写っているのがお恥かしいです。千羽鶴のようには到底まいりませんです。

9月には晴れてお知らせできることと存じます。

1月25日 今日は初天神

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2007年2月18日 (日)

パソコンテレビ 若者のすがた

パソコンテレビ「GyaO」というのがあります。製作はUSEN。

BS JAPAN「未来図鑑」
http://www.gyao.jp/sityou/catelist/pac_id/pac0003003/

#42
知る人ぞ知るアーティストたち。
ゲストはテノール歌手 秋川雅史、詩人 chori。

今のところ最新のアップのようです。テノール歌手・秋川雅史さんの「千の風になって」はこのブログでも取り上げましたが、今回は対談で見せる素顔の彼をご覧いただけます。

製作者サイドで、千という名前にかけたわけではないと思いますが、千明史さん、ニックネームchoriさんが後半に出演。秋川さんの名前と千さんの名前と共通の「史」がつくことも偶然とはいえ面白いですね。

今の若い男性は昔の日本男子と違ってよくしゃべらはりますね。男は黙ってサッポロビールといったコマーシャルが好感された時代ではなくなったのでしょう(^。^)。

choriさんは若者らしい謙虚な一面を、詩に描かれています。

『現代詩フォーラム』から抜粋


引越し        
chori


この家には
よそよりたくさんの神さまが棲んでいるのだった
だから
別れを告げるのに時間がかかった

父親は張り切って
母親は淡々と
妹や弟は面倒くさそうに
荷物をまとめてゆくそのかたわらで
どこにも置きどころのないぼくが突っ立っている

小さいころはずっと大きな家がよかった
大きなお風呂も茶の間もうらやましくてしかたがなかった
けれど二十年経ってみれば
ぼくの身体はすっぽり六畳間におさまりきって
ちょっとでも大きな部屋になるとぐっすりねむれない
背比べをした柱の傷だとか
いまどき神棚だとか
古臭くてたまらなくいやだったこの家じゅうに
気がつくとぼくがしみついていて

みんなの荷造りが終わりかけたころ
ようやくダンボールを引き寄せる
幼かったぼくを
はみだしてばかりだったぼくを
ずっと誰かになりたかったぼくを
ていねいに折りたたむ
急かされて何人かは入れ忘れる

背中越しに
お風呂の神さま
お手洗いの神さま
お台所の神さま
名前も知らないたくさんの神さまが
そこらじゅうから湧いてきて
なんとなく
肩を叩きあっている
家族がこの家を去っていっても
取り壊されるまでのしばらくのあいだ
彼らはここにとどまりつづける
疲れた顔をしているものや
さみしそうにしているものや
恥ずかしがって
出てこないものや
それはもう人間とほとんど変わらなくって
情けないやらいとおしいやらで
しゅっ、

音をたてて勢いよくヒモを結んだ

五人分の荷物が
トラック二台ではこばれてゆく
ぼくは最後に玄関のドアにふれた
ゆっくり
何度も
何度も
さすった
誰かが
さすりかえしてきた

車は
神さまの家からどんどん離れてゆく
たいした距離でもないのに
引っ越すというより
家を捨てた気分になって
助手席で
そっと泣いた

2006-11-29

読者のコメントより

by m. at 2007-02-18 22:11

父親は張り切って
母親は淡々と
妹や弟は面倒くさそうに
荷物をまとめてゆくそのかたわらで
どこにも置きどころのないぼくが突っ立っている

短い文節の中に多くのことが語られているようでした。
いつも最後までひきつけられてしまう詩です。

ご近所でも古い家が倒されて新しく立て直されていきます。
一気に家は潰れるものなんだと思うのですが2階の襖に大きな文字で
いままでありがとうと書かれてあるのが見えました。家は人が住んでいないとどうしてあんなにすぐ駄目になるのか不思議です。

choriさんご一家がご家族で新年を迎えられていましたがご長男のやさしい心は皆様の心を繋いでゆかれることと思います。
by h. at 2007-02-18 23:02
引越し
これはChoriさんでなければ書けない詩。

昔どこにでもいた、そして今すっかり姿が見えなくなってしまっている多くの神様が、彼と彼をめぐる環境の中にはまだ生き生きと存在している。
私の子供の世代である、彼の中の多くの神様をとても嬉しく思います。
それは私達日本人が一番失ってはいけないものだから・・・

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2007年2月11日 (日)

訪問者の関心とは

ココログに日記をアップするようになって、訪問者のアクセスが少し気になるようになりました。あまり熱心ではないブロガーなものですから。上位になっているページをコピーしてみましょう。全体の割合でみると以下のようになっています。


解析対象期間: 2006年11月1日(水) ~ 2007年2月10日(土)

訪問者  アクセス の 二つの% が 出ています。

32.4%    44.7%
7.4% 7.0%
3.8%   2.6%
3.0%   2.6%
3.0%   2.1%
2.9%   2.8%
2.3%  2.1%
2.0%     1.8%
1.9%
 1.4%
1.8% 1.2%
1.5%
 1.2%
1.5%
 1.2%

どうしても旧いページから皆さまにご覧いただいたような結果が出ています。ささやかに雑文を綴ってますのにご訪問くださる方々、ご健康でありますようにとお祈りするばかりです。

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2007年1月20日 (土)

面白ければ良いのかぁ!? 青い目の『日本人紹介』

ドイツで暗躍中ではなかった、レッキとした企業で活動中のがんばるHiromba。さん。本職の傍らいろんなボランテアもしています。
以下は日本からドイツへ移民したと嘯いている好青年のお品書き。

デュッセルドルフ・テニスMLの管理人、
公益社団法人ヒューマネットのMLのオーナー、IT関係広報、ドイツでボランティア-月刊ひゅうまねっと
http://www.info-now.net/humanet/melmaga.html
の発行者などをしています。

デュッセルドルフ山の会MLのオーナーは、多忙につき辞めました。



さて、今朝からまた面白い情報が送られてきました。海外から日本人を紹介した動画なんです。いったい、誰が作ってるんでしょうかね???

キミ達に聞きたい事がある。 面白ければ良いのかぁ!? 日本男児Hiromba青年はこうのたまうのですが。

青い目のが見たこれなる日本人、その真実や如何に! 
よおくごろうじろ! (しかし、、、いったい誰がつくったんや?)


日本の形シリーズ【寿司】
名作ですので、これはご存知でしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=LuNu2a4FGTI&mode=related&search=


日本の形シリーズ【交際】感動の長編です。
その1:皆さん、愛し合っていますか?
http://www.youtube.com/watch?v=HQMubogH-1w&mode=related&search=

その2:いよいよ具体的な交際の始まりです。
http://www.youtube.com/watch?v=PkGl3AnjRVw&mode=related&search=

その3:シャワーを浴びてなかったんでね・・・
http://www.youtube.com/watch?v=ofj4dK8GX_s&mode=related&search=

日本の形シリーズ【土下座】
正しい土下座の仕方を勉強して下さい。
http://www.youtube.com/watch?v=s4V_K4eEmbQ&mode=related&search=

【おまけ】
コマーシャル偏
1981年のキンチョーなどのコマーシャル。懐かしい郷ひろみの「はえはえかかかきんちょーる」は2番目に出てきます。
http://www.youtube.com/watch?v=xOsUhRkIM20&mode=related&search=

1959年の黄桜のコマーシャル
「一級並みのコク、黄桜に準一級酒をどうぞ」が泣けます。
それにしても良く残ってたなぁ。
http://www.youtube.com/watch?v=t0p3gIyWvsU


う~~ん。かなり真面目な日本人像とも感じられんことはないですな。
ちょっと現代風ではないんとちゃいますか?

毎日、すし屋に行ってカウンターに腰掛て食べる大多数日本人。
お目当ての女性に結婚の申し込みをするのに、女性の父親へ心をくだく日本の青年。
上司への土下座の作法。
最後は「水に流そう」といってくれる日本人。

いやぁ~、笑えます。
ただ、こんな不潔な寿司店は日本にはありません。このコントを作ったのはもしかして「ラーメンズ」ではないのかな?
私たちは笑うことで済みますが海外には冗談で受け取られない可能性がありますし、問題は残るでしょうね。

折りしもこんなニュースがマスコミを賑わせています。
http://news.livedoor.com/topics/detail/2984475/

“海外の日本食優良店を認証する制度”



黄桜のコマーシャルは清水昆の漫画が出てうれしかったですねえ。
カッパはなんといっても清水昆の画風がいい。品があってなまめかしく、「和」の情緒があります。ほんとうに清水昆なのか「もどき」なのか、自信ありませんけれどね。


キンチョーの郷ひろみにはびっくりしましたよ。あんなに可愛らしかったとは。

これらをご覧になった皆さまは、どのようにお感じになられましたでしょう?

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2007年1月 7日 (日)

七種粥(ななくさがゆ)を炊きました

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ななくさ、七種の草を摘んで粥を炊く、お正月の伝統行事の一つです。

わが家でも昨夜は台所でコトコトこれらの草を叩いて、今朝はお粥を炊きました。本職の料理研究家によれば、お粥の最後に茹でた七種を入れるといわれますが、私は野の香りが好きなので直接ナマの七種を入れます。青臭いという感じはなくて美味しいのです。

歴史をひもとくと、平安時代頃には一月十五日頃に行われ、粥に入れていたのは米・粟・黍(きび)・稗(ひえ)・みの・胡麻・小豆の七種の穀物だったそうです。

現在の七種は、1362年頃に書かれた『河海抄』の「芹、なづな、御行、はくべら、仏座、すずな、すずしろ、これぞ七種」が初見のようにいわれています。

江戸時代頃には武家や庶民にも定着し、幕府では公式行事として、将軍以下全ての武士が七種粥を食べる儀礼を行っていたということですから、日本人としてはやはり食べる必要がありますよね。

台所の流しで、洗ったばかりの七種をカメラにおさめました。モノズキヨナ~~なんておっしゃいますな。以下の草がちゃんと入ってますよ。赤い根っこはホトケノザでしょうか?



芹(せり)  芹  セリ科
薺(なずな)  薺(ぺんぺん草)  アブラナ科
御形(ごぎょう)  母子草(ははこぐさ)  キク科
繁縷(はこべら)  繁縷(はこべ)  ナデシコ科
仏の座(ほとけのざ)  小鬼田平子(こおにたびらこ)  キク科
菘(すずな)  蕪(かぶ)  アブラナ科
蘿蔔(すずしろ)  大根(だいこん)  アブラナ科

庭から摘んできたものもあれば、スーパーで買った栽培された「ナナクサ」も入っています。

伝統の味、とっても美味しかったですね。あんさんとこもおあがりやしたか。

それから嬉しいことは、今日から裏千家宗家の初釜が行われています。初日の今日はご長男の明史さんもお手伝いにお出ましのようですね。皆さまとともに、ますますのいやさかをお祈り申し上げます!

最後に、わが家のツバキももう終わりそうです。なにしろ暖冬ですから。

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2007年1月 5日 (金)

買い初めでなくっても タカシマヤ

昨日は家族でタカシマヤに食事を、なんて書きますとヘンですか?タカシマヤには食堂街が昨秋リニューアルしてちょっとした話題になりました。
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お正月用の熨斗が出ていたお店です。

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中華料理の街みたいですな。
天井が低いのはまあ致し方ないでしょうね。でもきれいになっていました。


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三嶋亭。


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上から見たタカシマヤの正面ロビー。
子供たちもロビーで遊んでいました。ひとりで自動の車椅子に乗っている方も休んでいました。


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タカシマヤ人形のローズちゃんは愛想がいいですねえ。


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エスカレーター。
私たちは別にお目当てはなかったのですが、7階の三嶋亭に入りました。
おせち料理から開放されるためか(笑)。

すきやきは、昔行った寺町の三島亭の焼き方とは少し違ってました。仲居さんがテーブルの傍に立って世話をしてくれます。まず鉄鍋に砂糖を入れてから肉を入れています。へえ~。

牛肉は鹿児島の和牛でした。なんでも一人130グラム。一人につきロース三枚ということらしいです。それで丁度いい感じでした。野菜は青ネギ、タマネギ、ミツバ、豆腐、糸こんにゃく、麩。
わりしたを入れて味を調えます。

生卵を溶いていただきますと、これは柔らかいいいお味でしたよ。

味噌汁と漬物、白ご飯、デザートに柚子入りシャーベット。これで上から2番目のお値段です。
何ごとも1番上のものは手をつけないわが家ですから。庶民的なレベルなんです。

その庶民レベルの主婦のいうことには、「うちのほうがずっといい野菜を入れるし、具が多いですわ~」。
シイタケ、ハクサイ、オオニタネギ、ササガキゴボウ、シュンギク、ナマフ、クズキリ、そんな具をいつも入れますからねえ。ただね、主役だけが違うってことなんです。ソレガモンダイダ。

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2006年12月24日 (日)

クリスマスの贈りものはお手作り

贈りものっていろんな受け取り方がありますね。

日本ほど贈りものが横行している国はないと聞きますが、どうなんでしょう?

親しい間柄の心のこもったプレゼントは一方通行ではありませんし、お互いの潤滑油の役割もありましょう。けっこうなことですよね。

ただ、上にあつく、下に薄いといった社会慣習は問題なきにしもあらず、といったところでしょうか。私がいただく場合はまったく上下関係なしです。

私は最近、クリスマスプレゼントを頂戴したようです。毎年この季節には宅急便で到来するのです。それは、お友だちのカトリック修道院のシスターから自家製のパン&ケーキなんです。

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シスターポーラ先生は長年、N高校の校長先生をつとめられたお方。趣味のケーキ作りはプレゼントとなってゆかりある人々に配られます。私のお友達シスターーCのご縁でこちらにも回ってくるのは有難いことです。見た目はシンプルですがお味が極上。とっても美味しいんです。

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ことしの学園祭には、なつかしいアメリカ人のシスタージーン先生からの私宛のカードとお茶、栗きんとんのお菓子も届きました。嬉しかったですねえ。猫がとりもつ縁なんですよ。

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たまたま写真を撮っているとうちのドラが邪魔しにやってきたところです。


今度は、真面目なお役人の男性からの贈りもの。愛妻家のぞうべけんいちさんのお人柄が分かる品物なのです。これはすべて奥様のお手作りなんですね。

あ、念のため、決して贈賄にはならないことを保障いたします。ぞうべさんとはお家元の茶会にお誘いしてご一緒させていただいたご縁なんですよ。

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居間につるした、さかなねこ

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おやこねこ (実物サイズはこの約半分くらいです。)

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ちりめん細工の和菓子(実物大です)

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ネットのおつきあいということでPC上に置かせていただきましたが、まずかったですか。

ぞうべさん(*^。^*)

奥様にどうぞよろしくお伝えくださいませ。

拙サイト

家庭に幸福をよびこむ日本のお守り

シスターからいただきもの ネコカードと

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2006年12月20日 (水)

京都 新風館 クリスマスライブ

新風館の中庭で、新人ミュージシャンたちによるライブが行われました。
無料ということもあり、噂に聞いているライブ、ポエトリー・リーディングというものを聞いてみたいと思い、寒い日でしたが出かけてまいりました。
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詩の朗読が、軽快な打楽器とベースのリズムに乗って、空気のなかに刻まれていくような錯覚…。新しい感覚の散文詩ですね。

本来ポエムには、音楽、匂い、色彩、と3つの要素があるとされています。京都の匂いがそこはかとなく音楽の中に感じられました。視覚的な広がりはこれから出てくるのではないでしょうか。

choriさんの声よりバックサウンドのほうが音量が大きく、私の耳には詩句が聞き取れなかったのが心残りでした。

占いで精神年齢22歳となったわびすけも、肉体年齢が正真正銘の22歳、choriさんには追いつくのが精一杯でした。





新風館に来ましたのは、じつはこれでたった2度目なんです。

ヴェロタクシーがドイツから日本へ輸入され、最初に京都で試乗会が催されたののが、この新風館だったのです。お暇のある方はこちらをご覧になっていただけますか。


拙サイト

2002・2・17UP 京都議定書発効 べるりんから京都へやってきたヴェロタクシー


2005・2・17UP べるりん・いちか & 椿わびすけ  へんしゅうってむつかし~

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2006年11月26日 (日)

今の世で評価されなくなった 陰徳(いんとく)


ノロウィルスでこの四日間は胃腸をからっぽにしました。

イスラムでは断食が聖なる行いとされていると聞きますが、腹ふくれるだけでは不自然なのかもしれません。

茶友のSさんは私より先にこのウィルスにやられその一部始終を電話してきました。彼女は医者には行かず正露丸を一日に3錠飲んで3日で治したそうです。

正露丸、、、そうでした。日露戦争の時に兵士達が常備した丸薬で、もとは征露丸。露西亜(ロシア)をやっつけるという意味で征の字が使われたのでした。クレオソート丸が最初の名前だったようです。

Sさんは年齢的に私よりかなり年長ですから旧い事柄をよくご存知です。それに両親の面倒をよく見られ、そのためもあってず~っと独身を通してきました。

彼女は胃腸病が治ったあと、すぐに宗家の宗旦忌の七事式に出演しましたが、本人は内心不安で途中で倒れなければいいがと思っていたと、後で話していました。

Sさんは茶道の正教授で組織の大役をしていますが、その長に就任するまでには表面には出ない軋轢があったのです。彼女を長にしたくないボス的人物がこう宣言したそうです。

いまから6年前のことです。

「第一、あんたには、肩書きが無いからね。」
そう言った方には茶道だけでなく大学名誉教授という重々しい肩書きがあるのです。

Sさんはその時、ことばを失ってただ泣いたそうです。
組織とは無関係な私ですが、私はSさんを蔭から応援していました。私は彼女に電話で申しました。

「あなたはご両親のお世話をされて見送られ、ご弟妹の面倒も見られ立派に家を守ってこられたひとですよ。
陰徳を積んでこられたことは知るひとぞ知るです。
世俗的な肩書きなどより高い次元で立派な行いをされたじゃありませんか!」

圧力をかけた人物は自分の弟子を長にすえる考えがあったからでしたが、結局選挙で決着をつけることになりました。肩書きではなく人物のSさんが選挙の結果選ばれたのは、もちろんでした。

今ではそうしたことがあったのかも忘却のかなたですけれども。

しかし、茶道の世界はもう昔とは違っています。ご存知のように、政治家は集金能力のある者を重用します。

組織ということになると、世間の厳しい命題がかかってくるのでしょうか。

禅の師家(しけ)は弟子を打ち出すのを「一個半個」と言ったと伝えられます。
ひとり或いは半分であっても真の人物を養成することを目標にしたのですね。

禅も茶も個の間はいいのですが、いったん組織となりますと…、難しいものと思います。

教育の問題が現代日本の最大の不安材料になっています。

私はつくづく思うのですが、先生という立場にある方々が謙虚であってほしい。そして母親の立場にある方々が昔の日本の母親のような素朴なひとであってほしいと。

陰徳、目にはみえない蔭のよい行いを、昔の母親は子どもに教えていました。

学校の先生のいうことをよく聞きなさい。弱い者をいじめたり、強い者にへつらったりしてはいけません。読み書きそろばん、その三つを大事にと、、、、、。

現代に生きる若い女性は、明日の日本を作る母体なのです。
人の肩書きに惑わされること無く、本質的なものを追求していってほしいと思います。
無力な自分を棚に上げてごめんなさい。


拙稿 小川一真アルバムから 女性美を見る

明治の古写真 茶摘みと茶道

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2006年11月 5日 (日)

京の尾形光琳が 熱海のMOA茶苑へなぜ?

開炉といいますと先ず茶壷(ちゃつぼ)が浮かびますね。

かの名だたたる国宝茶壷は、色絵藤花文茶壷 野々村仁清作。それは熱海のMOA美術館にあります。

そのMOA美術館の茶苑で行われた大徳寺塔頭(たっちゅう)徳禅寺・護持会25周年記念茶会。

濃茶 光琳屋敷。MOA茶苑内の案内図と光琳屋敷の画像

なぜ、京都人である光琳の屋敷がここにあるのでしょうか?光琳との接点はなにか?

それは、尾形光琳筆 紅白梅図屏風 の国宝がこの美術館に収蔵されているのです。

さらに、大徳寺開山 大燈国師の墨蹟があることがことが挙げられます。

宗峰妙超墨跡 秋風偈 重文

したがって、伝統仏教である臨済宗大徳寺と、いわば新宗教の世界救世教との関わりがこうした処にあるといえると思います。また、教祖の岡田茂吉氏の年譜には興味深い記述がありました。

1905[23] 東京にて小間物小売商「光琳堂」開業 。
岡田氏の光琳への思い入れが早くから並々ならぬものであったことが伺われますね。

ここで茶会記を簡単に書き写してみましょうか。

濃茶 光琳屋敷。  

主   遠州茶道宗家13世  不伝庵 小堀宗実

寄付

床   狩野探幽筆  瀟湘八景ノ内  瀟湘夜雨

炭道具 
香合  呉須染付 柘榴
他    遠州好
羽箒  玄鶴 一双ノ内・右
釻    遠州好 宣徳 太平    大西 定林作
灰器  遠州切形 伊賀

本席

床  大徳寺開山宗峰妙超墨跡  徹翁  (二字大)
花  白玉椿  照葉
花入 古銅 龍耳

点法席

床 遠州蔵帳の内  大徳寺一五六世 江月宗玩筆
大徳寺宗流      箱書付 小堀遠州筆

釜 天明  霰地紋 尾垂
水指    南蛮 ハンネラ蓋  松 木地半板に乗せて

茶入  瀬戸破風窯 翁手
銘・玉津島  挽家 ・内箱書付 松花堂昭乗筆
ひととはば しれる翁のよがたりを 
        むかしにかへすわかのうら浪

仕服 茶地雲竜文金襴
    紺地宝尽文金襴

茶碗 大井戸 銘・江山 箱書付 大徳寺一九〇世 天室宗竺筆
茶杓 小堀遠州作共筒 内箱書付 権十郎逢雪筆
銘 ・ 本 外箱書付 和翁宗中筆

建水  遠州蔵帳の内 砂張 合子 箱書付 小堀遠州筆 
蓋置 青竹引切

茶銘 一玄乃昔  小山園詰
菓子銘 好 紅白きんとん 源太満永堂製

薄茶席はまた後日に。



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2006年11月 1日 (水)

鵬雲斎大宗匠が語られた 利休頭巾

開炉のよろこびに、今日の裏千家宗家は早朝から大勢の同門社中が参集しました。

咄々斎(とつとつさい)で家元の道話、ついで大宗匠の道話、それぞれ茶道宗家ならではの風格ある内容でした。

つい先日このブログで取り上げたばかりの「利休頭巾」について、鵬雲斎大宗匠は次の話をされたのです。

私は速記したわけではありませんからニュアンスが多少違っているかもしれませんが、大意はこの通りだと思っています。

「私と家元と孫の明史と食事の時に話し合ったのが、「利休頭巾」のことです。

利休居士は有髪でした。そのころの被られた利休頭巾の絵などを見ますと有髪のようすがわかります。
しかしその後、天正十年に剃髪をされています。利休頭巾もそれにあわせて作り変えられたんですね。
書物で伝えられることより、わが家は連綿と利休居士の茶の道を受け継いできたし今後もそうだということを話し合ったのです。」

これまでは家元ご一家と別居されていた大宗匠。

今日のお話で、この度新築されたお屋敷で3世代の大家族の和やかなお食事のひとときが伺え、拝聴する私共も嬉しく仕合せを感じました。

稽古に移りまして、指導の阿部業躰にいつものように何気なく問いかけました。

「淡々斎が利休頭巾を与えれたのは、東京の鈴木宗保業躰と寺西宗楽業躰のお二人だったようにお聞きしていますが。」

「うーん、伊藤宗典さんも貰ってたんじゃなかったかな。」

そこで、わたしの隣に坐っていた伊藤家のヨメである宗福さんに、「お宅に利休頭巾は今あるの?」と聞いたところ、

「あったかも知れんけど阪神大震災でなくなったわ。私は見てないから知らんわ。」とのこと。

でも利休頭巾をかぶったお祖父さんの写真が残っている、という話でした。

時代が変わったというのでしょうか。

今の時代に古風な頭巾をかぶって町を歩く人は、ちょっと考えられませんしね。

「阿部先生はいずれ貰われるのじゃないですか?」と余計なひとことの私。

「いやぁ。そんなことはないよ。」

結局、鵬雲斎大宗匠の代には利休頭巾を与えられた方は一人もありませんでした。

今後、坐忘斎家元が年を重ねられた時、この伝統をどのようになさるのか、こちらも謎ですね。

床にはハシバミの一枝と白椿が入っていました。

「ハシバミを炉開きに使うというのが約束のようになっていますが、どのような謂れが?」

「ああ、これは、照葉という意味ではない。黄葉して落ちる秋の最後のすがたではないんです。葉が落ちてからハシバミは花をつけているのです。それにはこれから始まるという意味がある。開炉に際して、始まりの時ということで用いるのでしょうな。」

いつもながら、阿部業躰の分かりやすいお話には感銘を受けるのです。

床の花をまじまじと見ます。枝にぶらさがったのがその花なのでしょうか。
いつか、こう言って教えてくれた人がいたのを思い出しました。

「長い房が垂れ下がっているようなハシバミの雄花ですよ。」

雌花は春に咲きのちにドングリの実をつけます。阿部先生の言はハシバミの雄花のことですね。この垂れ下がった雄花は来年の春まで枝についているわけです。まあ、受け取り方によれば、まさに男社会だということにもなりましょう(^。^)。

それからまた、一茶の俳句もありますね。はんというのが榛の音読みです。ハンノキ(榛の木)と探せば解説がでてまいります。

はんの木のそれでも花のつもり哉     一茶

子規の短歌にもみられます。

はんの木に鴉 芽を噛む頃なれや 雲山を出でて人畑をうつ
                                      正岡子規


そういえばはしばみ色という色が日本にはあるのも、面白いです。

若い方々が面白いことを囁いていて、皆でそれをサカナにして笑ってしまいました。

「ハジカミは知ってるけど。ハジトミはよく分かりません。」

先生も、「ハシバミ、ハジカミ、ハジトミ、かあ。似てるからなあ。」とにこにこ。

寿司の話、露地の話、などをほうふつとして楽しい会話でした。

稽古は、台子で「真の炭」、「真の行」、「大円真」、が行われ、こちらも丁寧なご指導を頂いたのです。


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2006年8月25日 (金)

IT新聞JanJanへの掲載記事は今日で51回目に

JanJanに今日の掲載記事として拙稿が出ておりますのでお知らせいたします。

松山中学の勇気ある生徒たちと漱石作詩の「童謡」

今のところ、8月の掲載記事はこの程度です。
「首塚」と隣り合わせる茶席東陽坊

紫式部には家庭がありました 慮山寺(ろさんじ)源氏庭の桔梗

じつは、私が日本インターネット新聞に記事を投稿するようになったのが昨年の10月。掲載された記事を数えますと、51回目になります。

先日の「首塚」と隣り合わせる茶席東陽坊」が丁度50回目のものでした。
親しい方には数人お知らせいたしましたが、そのなかから少しご披露させていただきますね。



わびすけ さま

50本 書き上げられたとか おめでとうございます。
10ヶ月で50本、週1本はプロなみのペースです。

タイトルを改めて拝見して やはり心に落ちるのは古都
の趣をテーマにした一文でした。おおかたは生き生きと
書かれていたからです。これが わびすけさんならではの
「個性」だったのだと気づかされました。

つぎは100本です。書き続けてください。    鯰



50本掲載おめでとうございます。
タイトルを見ても、わびすけ様の博学ぶりがよくわかります。
これからもますますご精進なさって、ぜひ出版記念パーティーに
お呼びくださいませ。  
                             ぞうべ



おめでとうございます。聞きかじったり誰かが言ってたことをさも自分の意見のように表す人はたくさんいますがわびすけ先生のようにご自分の言葉であいまいでなくご自分の意見をおっしゃることはうらやましくもあり、また素晴らしいことと思います。
猫のかじられた足の指のことから私ほとんどタイムリーに読ませていただいておりましたわ(笑)。

50本が100本に200本に・・・どんどんお書きになりますよう、楽しみにいたしております。
明日から出張と少しの休暇のため出かけます。母が元気でいてくれますお陰です。
残暑厳しい毎日。ご自愛なさいますよう。そしてますますのご活躍を。  匿名希望
                                           


先生のHPがつまらないなんて、とんでもない!!
むしろ、トピックスがより幅広く、より濃い中身に進化を遂げているとおもっております。
ただ余りの先生のエネルギーあふれる書き込み量に、私などは読ませていただき、ついていくのに精一杯!!
無反応な読者をお許しください。
これからは、少しでも書き込めるよう精進いたします。    匿名希望



ちなみに最初に記事を書き、掲載されたのが以下の拙稿でした。この時の読者の応援クリックは予期しない数で驚いたものです。

2005・10・13 猫にかじられて足の指を失った記事について

椿わびすけの最新情報 2005・10・19

  朝から今日庵へお稽古に行き昼近く帰宅した。食事もそこそこにPCを
開くと「メデア インターネット新聞 JANJAN」10/19号に、私の書いた記事
が掲載されていた。
報道はどのように変わったか(椿伊津子) これは18日付けで私のブログ
には下書きのつもりでアップしたものをほぼ同じ内容で投稿したものであ
る。そのことをあらかじめ編集部にご相談したところ「ぜひ掲載させて頂
きたい。」とのことで早々と今日の新聞掲載になった。

先の第一作目の猫にかじられて足の指を失った記事については、今日の
記事ランキング TOP5になっているのを発見、驚いた。その上「オスス
メです!」の欄にも入っているので恐縮してしまった。

*********************************

先週(2005/10/11~10/18)のTOP5
1 猫にかじられて足の指を失った記事について 215point
2 「のまネコ問題」から見るマスコミのイメージ操作 144point
3 エイベックス・のまネコ問題に見る、既存メディアのインターネットへの偏見 62point
4 「日本のアジア政策を考える」シンポジウムで加藤、岡田氏ら参加 57point
5 「ID理論」擁護 にせ科学で道徳を補強する産経新聞 52point
あれから約10ヶ月 を経過したのでしょうか。最近はポイント数が激減しております。魅力がないってことだろうと反省しきりです。JanJanには先輩記者のあとに続こうという気持ちでこれまできましたが、最近は新人の方々の活躍が頼もしいことです。

ともあれ、皆さまからあたたかいお励ましをいただきました。
ロムされている方々を含めて、忙しいお時間をさいて拙稿をお読みいただいていますことを、心より御礼申し上げます。

JanJan編集部の方々のご配慮にもあらためて感謝!

ほんとうに有難うございました。

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2006年8月21日 (月)

『坊っちゃん』の碑 漱石作詞「源兵衛」の童謡

2006年 08月 21日
漱石が書いた童謡って、ご存知でしたか。


  源兵衛が 練馬村から    
  大根を  馬の背につけ   
  お歳暮に 持て来てくれた   


  源兵衛が 手拭でもて
  股引の  埃をはたき
  台どこに 腰をおろしてる


  源兵衛が 烟草をふかす   
  遠慮なく 臭いのをふかす  
  すぱすぱと 平気でふかす 


  源兵衛に どうだと聞いたら
  さうでがす 相変らずで
  こん年も  寒いと言った


  源兵衛が 烟草のむまに 
  源兵衛の 馬が垣根の      
  白と赤の 山茶花を食った


  源兵衛の  烟草あ臭いが
  源兵衛は  好きなぢゝいだ
  源兵衛の  馬は悪馬だ


    岩波「漱石全集」より


この詩にはテンポのいい曲がつけられているそうで、松山市の或る銀行の合唱団によって披露されたのです。
松山、道後温泉の側に漱石「坊ちゃんの100年祭」の記念碑ができたのは、ことしの4月。お知り合いのさんごさんからお知らせいただいたのでした。テレビでも新聞でも報道されました。

 「夏目漱石(1867~1916)の小説「坊っちゃん」発表から100年になるのを記念し、 小説の舞台とされる松山市で29日、記念碑の除幕式があった。」
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20060430k0000m040030000c.html


これは漱石研究の団体である、「松山坊っちゃん会」が建立して松山市に寄贈したとのことです。
会長の頼本冨夫様とは私も私信を交わしたことがありますので、蔭ながらよろこんでいました。
「松山坊っちゃん会」坊っちゃんニュース

さんごさんはこのお盆にふるさとの松山へ行かれ、記念碑の写真を撮って送ってくださいました。拙サイトPhotoBBSでその写真を見ることができます。

「これから色々漱石の関連の公園になるという敷地の一角に一番に出来たのがこの記念碑です。まだトイレとこの碑だけでした。」

その写真には、漱石の顔の写真と坊ちゃんの書き出しの文章が書かれたとてもシャレた記念碑があって、これに漱石の詩に曲がつけられた「童謡」のCDがあればなぁ~と、思ったものです。
まあ、ふとどき者の欲ではありますが(笑)。

除幕式の日に漱石の童謡が歌われたそうです。
坊ちゃん会の依頼で伊予銀行の合唱団の方が漱石の詩の合唱曲を初披露されたそうですが、じつはさんごさん、この合唱団に昔いらしたことがあったのです。

実は昔(50年くらい前)に私もこの合唱団に居たことがありました、といわれ、それもその筈、さんごさん松山東高校(旧制松山中学)のご出身ですから、そうしたつながりがあるのは頷けますね。

記念碑は高さ1.7メートル×幅0.6メートルの黒御影(みかげ)石製。
道後温泉本館東側に 市が整備中の休憩所内に建てられています。小説冒頭の5行の自筆原稿と漱石の肖像を描き、 碑文は地元出身の作家、早坂暁さんが揮ごうしたということです。

漱石は1895年から1年間、松山市に英語教師として滞在しました。「坊っちゃん」はこの経験を 元に書かれたとされる小説なのですね。

この漱石の詩に今回あらたな曲がつけられた『童謡』について、元松山東高校教諭の頼本冨夫会長は、こう述べられたとのことです。
「読み継がれてきた小説のように、長く親しまれてほしい」


それにしても、漱石のこの詩、なんとも素朴な味がありますねえ。


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2006年8月16日 (水)

旧同盟国・ドイツで勉学中の若い友人から

ドイツで勉学中の若い友人、写真でおわかりのように魅力的な日本女性なんです。
Noriko1_4
或る会員制の掲示板に、私はささやかなトピックを建てています。

七事式  書き込みも少ない閑散とした場所ですが、きのうその友人の書き込みがあったのを見つけました。

11: フジヤ

8月15日終戦記念日と独立記念日こちらについては私自身多くの人種・宗教・文化に囲まれる中、日本人としての自分を改めて考えさせて頂きました。 」


じつはですね。
彼女は、裏千家というコミュの管理人をしていて、その個人的なキャラクターでたいへん人気がある女性なんです。非常にしっかりとした個性の持ち主で、芸術的な感性は抜群。人生の苦労も経験している子持ちのお母さんでもあるのです。

この続きは後ほど書くことにして、


遅くなりましたが、つづけます。

フジヤさんが、「日本人としての自分を改めて考えさせて頂きました。」とお書きになったことは、果たしてどういう内容だったのでしょうね?

なんとなく私が推測しますのに、若い世代の方々は第二次大戦争を西欧人の目で見ている傾向がありはしないかと。マスメデアの論調がそうなっていますし、日本人の立場でいえばとかくナショナリズムに傾いているといったように受け取り方をされる。

悪いほうでは、右翼だと烙印を押されかねないわけです。
私もこの15日の記事は、自分のブログにだけ書きました。


もし、公共のマスメデアのどこかにでも、投稿するとなると、おそらく採用されないでしょう。なぜなら、現今の日本ではなにごとも戦争をしかけた日本の責任だ、美化することは許されないという見解を殆ど、大手の新聞社がとっているからです。


公式見解っていうんでしょうか。記者クラブの組織も権威あるものとして決められた路線があるみたいですね。
自分で考えて書く新人記者がいても、すぐさま没にされ、デスクから叱責を受ける。育てる為かもしれませんが、そんな風に聞いたことがありました。

そうかといってあまりにも保守的なところは、こちらが敬遠しますし、むつかしいものです。
でも、海外にいらしてこうした私のつぶやきの声に耳を傾けてくださったこと、無駄にならなかったとしみじみ思いました。


岡倉天心の『茶の本』のなかにも、日本への熱い思いが書かれています。
『東洋の理想』はもっと過激です。
それゆえ天心は戦後、保守反動として糾弾されtたのでした。


西欧の植民地と化していたアジアを直視した天心。
東洋の虐げられた人々を救おうとしたのが、天心の思想ではなかったでしょうか?
そうした高い理想が、結果として軍部によっておぞましく悪用されたのでした。


しかし、その理想が当時の若者たちの心の琴線に触れたことは全く無かったと、断言できましょうか?
特攻隊に志願して逝った若い方々の心には…、

もうこれ以上私は、書くことはできません。


合掌

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2005年9月13日 (火)

土井八枝、与謝野晶子、夏目鏡子、その時石川啄木は

石川啄木の年譜より

まず第一に、土井八枝(土井晩翠夫人)のこと

>1905年(明治38) 5月20日 結婚のため帰郷の途につく。途中仙台に立ち寄り29日まで滞在。
この時、啄木は19歳。 
自らの結婚式に出席するために帰郷の途中、仙台で下車し詩人土井晩翠を訪ね歓談した。<

参考 盛岡タイムス 2002~2004連載 山下多恵子さん筆。

 >1905年(明治38)5月、啄木は自らの結婚式に出席するために帰郷の途中、仙台で下車し詩人土井晩翠を訪ね歓談した。一週間後、啄木は「田舎の母が重態だが旅費がないため帰れない」という創作の手紙を晩翠宅に持たせる。妻の八枝は27歳、真面目で勤勉な女性で手元にあった15円を持ち、人力車を走らせた。旅館に着いた彼女が見たものは、友人と酒を飲み真っ赤な顔をして談笑している啄木であった。

 厚顔無恥ともいえるふるまいは、父の住職罷免により一家の生活の責任を負ったが、その現実と向き合えずにあがいている啄木の姿だった。<


今の世で20歳といえば、成人になったばかりの青年です。その彼は、世話になった女性たちのことをこう書き綴ってています。


「二十歳の時、私の境遇には非常な変動が起つた。(略)その変動にたいして何の方針も定める事が出来なかった。」


うら若き八枝夫人の行いと夫・土井晩翠の愛情ふかい性格を、うつくしいと思わずにはおれません。


閑話休題
画像は大鯛の蓋ものの器。楽焼系の陶器で、茶懐石に使用するものです。
蓋をあけますと、なかにはみどりの笹につつまれた笹寿司が!
京懐石の有名な店にたまたま行ってまいりました。魚はなんといっても鯛!鯛にたとえられる作家はだれ?中身はなに?
いまふうにいうならば作家のパートナーはどんなひと?夫唱婦随を守ったように見える明治の文豪の妻たち。

貧しくともよい時代だったのではなかったでしょうか?そんなことをおもいながら画像をアップさせていただきます。


第二に、与謝野晶子(与謝野鉄幹夫人)のこと。

明治41年5月  啄木の日記

「与謝野氏外出。晶子夫人と色々な事を語る。
明星は其昔寛氏が社会に向って自己を発表し、且つ社会と戦う唯一の城壁であつた。そして明星は今晶子女史のもので、寛氏は唯余儀なく其編集長に雇はれて居るようなものだ!」


「隣りの生田長江君を庭伝いに訪ねる。
八時頃森田白楊君が来た。二週間前に平塚明子と浮名を流した人。今は夏目氏の宅に隠れて居るとの事。」

当時、啄木と与謝野夫妻、森鴎外、夏目漱石並びに漱石の門人たちとの交流。
与謝野邸を尋ねた日、鉄幹が漱石をどのように語ったかが興味深く書かれています。


明治41年5月 啄木の日記

「小説の話が出た。予は殆んど何事をも語らなかつたが、氏は頻りに漱石を激賞して″先生″と呼んで居た。」

「「晶子さん(略)予はあの人を姉のように思うことがある。」


啄木は中学時代、与謝野晶子の『みだれ髪』を愛読していたのですね。
1902年(明治35)初めて与謝野家を訪門。1908年(明治41)には与謝野家に滞在して、鉄幹が留守中、晶子と二人だけで語る機会も度々あったもようです。

>彼女は子沢山の苦しい生活の中で、夏物を持たない啄木に、単衣を縫って贈ったりしている。<


第三に、夏目鏡子(夏目漱石夫人)のこと。

明治45年1月22日 啄木の日記

「私は全く恐縮した、まだ夏目さんの奥さんにはお目にかかつた事もないのである。」

>1月22日、森田草平が面識のない夏目漱石夫人の見舞金10円と征露丸150粒を持ってくる。この日の日記に“征露丸”は“日露戦争の時兵隊に持たせたもので,クレオソオトと健胃剤が入つてゐるから飲んだらよからうといふのだつた。”<


石川啄木が貧窮のなかで、病苦と闘いながら亡くなった年。
それはこの年(明治45年)の春4月でした。まだ26歳2カ月。青年のまっただ中でありました。

そしてなお、啄木の妻、節子夫人は一年後に他界するのですが、亡くなる間際に、次のような言葉を書き残したということです。

「-------森(鴎外)さん、夏目(漱石)さんによろしくお願いします」と。


いかがでしたでしょうか。
明治の文豪とその配偶者たち…。

今夜は、この心高き女性に思いをはせて、私はひとり文学の美酒を杯にそそぎたいと思います。

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2005年8月25日 (木)

詩人 土井晩翠

詩人    土井晩翠


詩人よ君を譬ふれば
恋に酔ひぬるをとめごか
あらしのうちに楽を聞き
あら野のうちに花を見る。

詩人よ君を譬ふれば
世の罪しらぬをとめごか
口には神の声ひびき
目にはみそらの夢やどる。

詩人よ君を譬ふれば
八重の汐路の海原か
おもてにあるゝあらしあり
底にひそめるまたまり。

詩人よ君を譬ふれば
雲に聳ゆる火の山か
星は額にかがやきて
焔の波ぞ胸に湧く。

詩人よ君を譬ふれば
光すずしき夕月か
身を天上にとめ置きて
影を下界の塵に寄す。



詩人よ君を譬ふれば、のフレーズがとても耳にこころよいのです。
それではこれを書いた頃の晩翠のプロフィールを見てみましょうか。



出典 東北大学図書館「漱石文庫」


処女詩集『天地有情』が世に出たのは、明治32年(1899)
土井晩翠は29歳の青年であったようです。

彼は、これによって『若菜集』(1897)の詩人島崎藤村(1872-1943)と併び称される程、高い評価を受けました。

翌33年には、第二高等学校教授となります。しかし、明治34年6月、二高教授を辞職して、私費で欧州遊学の旅へ。明治34年10月から35年5月までは、ロンドンのユニバーシティ・カレッジで英文学を、36年1月から4月まではパリのソルボンヌ大学で仏文学を、36年10月から37年7月までは、ドイツのライプチッヒ大学で独英文学を研究し、同年11月に帰朝した、となっています。

おもしろいことは、明治34(1901)8月、ロンドンで夏目漱石が土井晩翠をヴィクトリア駅まで迎えたという記録が残っているのですね。4歳年下の晩翠はどんなにか嬉しかったことでしょう。

漱石は晩翠にとっては尊敬の対象であった先輩だと思われます。
のちに漱石は晩翠に宛てた葉書に、自画像を描き、このように話しかけます。


自分の肖像をかいたらこんなものが出来た 何だか影が薄い肺病患者の様だ。君が僕を鼓舞してくれるから今にもつと肥つた所をかいて御目にかける 現在の顔は此位だ

(明治38年2月2日(木) 土井晩翠あて書簡)


「君が僕を鼓舞してくれるから」 の漱石の言葉。
ふたりの信頼関係を物語るのに十分ではないでしょうか。この葉書を書いたとき、漱石は帰国してから3年目、身分は東京帝国大学英文科講師であり、『我輩は猫である』も世に出し喝采を受けた時期でありました。

漱石は漢詩と俳句を書く人でありましたし、晩翠が早くから詩人として心に想う存在であったかもしれません。
晩翠のうたう「詩人」ーーそのひとりは、漱石ではなかったか、とふとそんな風に、私は感じるのでした。

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2005年8月23日 (火)

土井晩翠の詩 星と花

土井晩翠の詩 星と花


同じ「自然」のおん母の
御手にそだちし姉と妹(いも)、
み空の花を星といひ
わが世の星を花といふ。

かれとこれとに隔たれど
にほひは同じ星と花。
笑みと光を宵々に
かはすもやさし花と星。

されば曙(あけぼの)雲白く
御空の花のしぼむとき、
見よ白露のひとしづく
わが世の星に涙あり。

明治三二年四月、土井林吉の第一詩集『天地有情』は、博文館から出版。
この「星と花」はその中の一篇です。
翌三三年には母校の第二高等学校の教授となりますが、三四年にはロンドンに遊学。
駅では夏目漱石の出迎えを受けています。

ところが二人とも英文学者であり、高等学校教授という身分であったことが、不審な事件に
何かと取り沙汰されることになりました。
不審な事件とは、のちに「ナツメ狂セリ」という怪電報を英国から文部省へ何者かが打電した事件のことです。

それを、岡倉天心の弟の由三郎だとする説があり、これには松岡譲が否定しています。
しかし、なんといっても傷ついたのは、漱石本人だった筈です。
漱石の死後、鏡子夫人が或る雑誌に語ったという話に、晩翠が驚き、事実はこうだと綴っている
エッセイがありました。


『漱石さんのロンドンにおけるエピソード 夏目夫人にまゐらす』 土井晩翠
英文学者であるがゆえに嫌疑をかけられた土井晩翠と岡倉由三郎!
ところが晩翠の語ったことによれば、国文学者の芳賀矢一の名が挙がり、これは漱石を貶めるものではなく、別の観点からされたと思われるように書かれています。

故芳賀矢一先生が独乙留学の期が満ちて帰朝の途中ロンドンに来られました、それで二三の同志が落合つた折、自然話は夏目さんの病気に及びました。其頃ベルリン留学生の或る真面目な方が発狂して下宿屋に放火したといふ一珍談があつたので芳賀先生は『……どうも困つたな、夏目もろくに酒も飲まず、あまり真面目に勉強するから鬱屈して、さうなつたんだらう、もう留学も満期になる頃だが、それを早めて帰朝させたい、帰朝となると多少気がはれるだらう、文部省の当局に話さうか……』――正確には記憶しませんが以上の意味の言葉があつたやうです、(姉崎正治教授がその席にお出ででなかつたか、どうか、何しろ二十五六年前のことなので記憶は朦朧たらざるを得ません)
 あとに述べる通りそれから一ヶ月以内に私は全く英国を去つてしまつたので、くはしい其後の消息はわかりませんが、帰朝の期の早まつたことは良好の結果を来した云々とパリで所謂風の便りに聞いたやうです。多分芳賀先生が文部当局と相談なされての上で無かつたでせうか? 当時文部省には芳賀先生の親友上田萬年博士が専門局長であられたと記憶します、今日の学習院長福原さん、先頃まで大阪高等学校の野田義夫さんも同省に在官であられたでせう。ともかく此件に関しては漱石さんは感謝さるべきであると信じます。


晩翠の結婚媒酌人でもある芳賀氏。漱石といっしょにプロイセン号に乗船して留学した芳賀氏。
真相はいぜんとして闇の中ですが、この晩翠の言葉は傾聴に値するのではないでしょうか。

先に私のアップした「漱石と晩翠など」の記事には、松岡陽子マックレインさんは次のように仰っています。

 お送りいただいたものすべて大変面白く読ませて頂きました。土井晩翠のこともいろいろ習いました。晩翠と言えば、アメリカに来て少ししてから一世のお医者様にお会いしましたが、彼が日本にいる時読んだ晩翠の詩が好きで忘れられないとおっしゃったので、私自身も当時食うや食わずの貧乏学生でしたが、アルバイトから稼いだお金で次のクリスマスに日本から全集を取り寄せて差し上げ大変喜んで頂いた事を思いだしました。その先生は若い頃瀬戸内海の小さい島で育ち、家庭が大変貧乏でお父様とアメリカに出稼ぎにいらしたそうですが、働きながら医学部に行かれ医者として成功され、後年は美術館などに寄付され医業の他にもいろいろ尽くされました。私のことも長年助けて下さり昨年ほとんど百歳で亡くなりました。いつも思うのはどんな職業の方でもそうやって自分の専門の職業の他に文学または美術に興味を持つ方はその視野が広くてよろしいですね。

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2005年8月17日 (水)

晩翠通り 晩翠草堂 土井晩翠

最初の画像は、仙台市博物館の庭園。みどりの杜のネーミングにふさわしいところです。








仙台の旅から京都に帰ってからまだ一週間です。
それが今日8月16日、宮城県沖地震のニュースに愕然としてしまいました。

お世話になった阿部かまの会社へ、地震見舞いのメールを出しましたところ即座にお返事がかえってきました。メールは早くてこうした時にはありがたいものです。

「こちら11時56分頃宮城県沖地震が発生、津波注意報も出ましたが、大事に到らず仙台市内、当ビルも数秒おおきくゆれました。当社には一応被害は出ませんので、従業員等も全員無事でご安心下さい。取り急ぎお知らせいたします。」

ああ、よかった。人々の無事が何よりです。でも、また心配なのは、晩翠通りと名づけられた大通りに建っている、あの土井晩翠の旧宅・晩翠草堂のことです。

晩翠の弟子達が戦後、恩師のために建てた木造平屋住宅で、地震の影響がなければいいがと…。

この度は東北大学付属図書館『漱石文庫』を閲覧するのが目的だったのですが、なんと、阿部かまの本社とちょうど後ろ合わせに建っているのが、晩翠草堂だったのです。

『仙台・東北大学をたずねて 漱石と土井晩翠のことなど』

先にアップした、このふたりの文豪についてのエピソードは、漱石夫人と晩翠の発言が残されたことで今後、例の「怪電報」がなんであったか解き明かされることでありましょう。




晩翠の履いていた下駄も保存されておりました。家屋敷が仙台市に譲渡され、今は市の管理になって無料で拝見することができました。



『オヂュッセーア』1万2千余行の韻文訳の出版、晩翠のライフワークは翻訳でもありました。80歳の昭和25年、第8回文化勲章を受章。詩人として文化勲章を受章したのは晩翠が最初であったそうです。

オヂュッセーアは浅野晃訳の詩集を持っていますが、晩翠の訳は存じないままでした。いずれ是非読みたいと思います。


河北新報によれば、この地震の影響は次のようになっています。
宮城南部震度6弱 けが59人 新幹線116本運休
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 宮城県沖を震源に16日発生した「8.16宮城地震」は、宮城県川崎町で震度6弱を観測したのをはじめ、仙台市宮城野区と泉区などで震度5強を記録した。揺れは北海道から近畿地方までの広い範囲に及び、震源地に近かった東北地方を中心に被害が広がった。政府が首相官邸に設置した官邸対策室などによると、地震によるけが人は宮城県を中心に5都県で計59人に上った。仙台市泉区では複合健康施設で屋内プールの天井パネルが落下し、26人が軽傷を負った。福島市、北上市、気仙沼市などでもけが人が出た。住宅の全壊や一部損壊も各地で相次いだ。東北新幹線は架線の断線で約10時間、運転が完全にストップし、全面復旧は17日未明となった。JR東日本は上下116本が運休し、影響は約10万3000人に及んだと発表した。一時運行を見合わせた仙台市地下鉄は約3時間後に復旧したが、高速道路など交通機関の混乱は夜まで続いた。気象庁によると、地震は16日午前11時46分ごろ、牡鹿半島の東南東80キロ付近を震源に発生。震源の深さは約42キロで、地震の規模はマグニチュード(M)7.2と推定される。気象庁は「今後、最大震度5強程度の余震の可能性がある」と警戒を呼び掛けている。(8/17 01:25)>>>詳細

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2005年8月12日 (金)

みちのくの七夕まつり

みちのくの旅は雨にたたられました。
仙台の東北大学をたずねてみたいと、いう思いは漱石ファンなら誰しも心あたりがあるのではないでしょううか。

漱石の直筆原稿や蔵書など、『漱石文庫』は宝庫なのです。仙台も空襲で多くが消失したそうですけれども、この文庫はよくも生き残ったと思います。

空路での仙台行きは、2度にわたって変更を余儀なくされました。なにしろ台風が直撃するコースだったからです。

7月が8月になり、それもご親切な仙台の友人のアドバイスで、七夕まつりのころに、ということになりました。

図書館のほうは、先ほどサイトのほうへ記事をUPいたしました。ここでは、七夕のことだけ触れてみましょう。

じつは、最終日の8日に市中は大雨となったのです。目抜きの商店街アーケードなら歩きながら見ることも出来たのですが、体力も根気もない私はすぐ諦めました。

翌日、仙台市博物館へ。それから土井晩翠旧居のまうしろに位置する、「あべかま」本店。そこでも七夕飾りにはからずも逢うことができました。

仙台の七夕まつりは戦後に復興したものとか。京都の笹に短冊の、あの飾りとはだんぶん印象が異なります。ただ、子どものきものを形どった紙細工が添えられていたのは、とても可愛らしかったですね。

昔は布で手作りをしたものだと、そう「あべかま」の奥様は仰っておりました。

画像は上から博物館エントランスホール。笹かまぼこの「あべかま」本店の庭。食事どころも料理に七夕かざり。
最後は、もりの都・仙台にふさわしい、東北大学付属図書館の前庭です。
 

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2005年7月 2日 (土)

雑司が谷に漱石の墓所をたずねお参りした日のこと

雑司が谷に夏目漱石の墓所をたずね私が最初にお参りした日は、2001年秋。
あれからもう4年近い歳月が流れました。松岡譲氏『夏目漱石』の解説によってこのお墓について教えられたことを思い起こします。

<十二月}二十八日に雑司が谷の墓地に愛子ひな子の遺骨にとなりして埋葬された。
一周期の時新しく広い墓地にかへ、墓を建てて改葬された。
墓は未亡人の妹婿鈴木禎次の設計になり、新様式の石塔である。
字は漱石の親友菅虎雄の筆になった。この墓地も落合火葬場とともに彼の作品の中に
描かれた有縁の地であるのである。墓地は『こころ』に、火葬場は『彼岸過迄』に。>

安楽椅子の形をデザインした石塔には、ご遺族のお気持ちが痛いように感じられました。病苦から開放され永久に安らいでほしいとの願いを…。ただ、スケールがあまりに大きいので当時から世間の評判はいろいろあったようでした。
傍らに夏目房之介さんがおつくりになった新しい小さなお墓があり、つつましい感じで私はお人柄を想いました。ふたつのお墓に私は持参したささやかな花を供えしたのでした…。

ことし5月松岡譲氏二女・松岡陽子マックレインさんが来日。故夏目純一氏夫人嘉米子さんの3回忌に出席されたとのこと。この雑司が谷霊園にもお参りされ、ふとこんな感想を述べられたのです。

「漱石の墓は、彼の好みじゃないわ。祖母はなんでも大きいのが好きな人だったですからね。でも、私はあれはあれでいいと思ってます。」

江戸っ子漱石をほうふつとする孫の陽子先生。旅行中でも毎日70回縄跳びをされ、ウオーキングが健康の元だと信じて実践される若々しさ。学究の生真面目さと、妻であり母である主婦のやわらかさが感じられて、傍にいるだけでたのしい方です。

今日はこのブログに、元新聞記者のなまずさんと掲示板でやりとりしたことどもを、なまずさんのご了解のもとに転載させていただきます。

椿わびすけ さま
いつも 励ましていただきありがとうございます。
掲示板の転載のこと どうぞ 気がねなく 転載してください。
暑くなってきました。健康にはご留意ください。 なまず。
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(172) 時代を感じました 名前 : namazu 2005年07月01日(金) 17:15
 松岡陽子マックレインさんのこと 頷きながら読ませていただきました。
 以前、訪れた雑司ヶ谷の漱石先生の墓。その墓石の大きさに驚かされたものです。お孫さんの死生観に時代を感じます。


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(171) 自然のなかに お墓に代わるもの 名前 : 椿 わびすけ 2005年06月30日(木) 09:42
くりママさんと鯰さんのお気持ち、よくわかります。お墓というものは先祖供養と結びついて日本人の生活にはなじんでいますが、最近はアメリカでも宗教を離れた自由な考え方が増えているようです。漱石のお孫さんのマックレイン陽子さんからお聞きした実話をつたないブログに書きました。
http://rendezvou.exblog.jp/


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(170) 頓田川のほとり 名前 : namazu 2005年06月29日(水) 12:09
 クリママさん 岡山のクリちゃん元気かな、いつもWeb上でたしかめ、ほっとしています。
 吉田さんとは同郷だったのですね。驚きました。「頓田川河口」が、どのあたりかな と気にはなっていました。
 どこかシャイな人でしたが、やはり生まれ故郷に思いをのこしていたのですね。あらためて あの人柄がしのばれます。
 クリママさんのHP http://www11.plala.or.jp/nayama/


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(169) 病床での書き置きを読んで 名前 : kurimama 2005年06月28日(火) 00:30
ご無沙汰しております。岡山のくりママです。
回りでお葬式が続く年頃になり、派手なお葬式に参列したり、身内だけのお葬式の話を聞いたりしている昨今なので、逝った方からの「ごあいさつ」を直ぐに「見聞録」で読みました。
思いがけないことに、その映像作家さんは私の同郷の方でした。70歳過ぎの姉が頓田川河口近くに住んでいるので電話で聞いてみると、知人の同級生だとのこと。
世界を飛び歩き、心残りのない生き方ができたから、自分のやり方で旅立つことを選んだのでしょうね。共感を覚えました。


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鯰のひとりごと
ある映像作家の死 by namazu
吉田元さん。自然と共生しながら生きてきたカメラマンでした。4月25日にガンで亡くなりました。遺言とうりに知らせることなく、家族とごく親しい仲間だけで秘蔵の酒を酌み交わして送ったようです。この人らしい「あいさつ」を再録しました。(05.06.22)
あいさつ

 私・吉田 元は平成17年4月25日 くたばりました。4月28日、自宅でごく近親者のみに送り出されました。通夜も坊主の読経もありません。いきなり棺に野の花を投げ込み、葬場へ直行です。今ごろは小さな骨壺の中でしょう。この上もなく暗く、いやな場所です。早々に瀬戸の来島海か頓田川河口(ふるさと)でも、あるいは八重山の海辺にでも ばらまいてもらう手はずです。地球が墓場になります。好きなときに世界中に出かけます。
 春のホオジロのさえずりに聴きいり、アルゼンチンのパンピエロ(季節風)を見たり、秋には皆さんの家の庭の片隅でコオロギを聴いているかもしれ ません、とにかく70余年の楽しい生涯でした。快い人たちーあなたのことですーに出会い、全く愉快でした。思い残すことがありません。素晴らしい一生です。ありがとう。それではー  元

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2005年6月25日 (土)

太平洋から日本へ 漱石の孫マックレイン陽子さん

太平洋から日本へ
「太平洋にいつかわたくしの灰をまいてください、というのが希望なのです。そうなれば日本へ流れていきますから。」

5月のある日、こう晴れ晴れとおっしゃるマックレイン陽子さんの、若々しいお声が耳に残っています。このたびの来日には、夏目房之介さんのお母様の3回忌にお参りされる目的がおありだった由。それにご実弟も他界されてお寂しいはずですのに、からっと明るいご様子に私はことばもありませんでした。

「主人も自分で望んでました。わたくしは彼の遺灰をシャクナゲの花がきれいに咲く場所にまきました。シャクナゲの咲く季節にはそこに行って主人に会うのです。」
…アメリカ人のご主人は自然を敬い、日本美術を愛好する方だったのです。

昨今の世相になっている延命治療について私が懐疑的ですと述べると、陽子さんはきっぱりとおっしゃった。
「もったいないわ。せっかく楽しく生きるべき命なのに。あちらではベジタブルというんだけれどそれは絶対にイヤ!わたくしはそうしたことを弁護士を通じて書類を作りました。」

漱石より31年長く生きていることを感謝され今も人々の尊敬をうけていらっしゃる、オレゴン大学名誉教授・松岡陽子マックレインさん。今日の画像は、この春サクラの花が咲きましたと送ってくださった一枚です。

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2005年6月23日 (木)

松岡陽子マックレインさんと中村是公旧邸宅にあそぶ

中村是公といえば満鉄総裁として有名ですが、のちに東京都の知事にもなっていますね。
是公さんの旧宅を松岡陽子マックレインさんとご一緒に訪ねて遊びました。それから「漱石山房復元」のニュースでクローズアップされた新宿区役所を訪問いたしました。懇談のあと部長さんのご厚意で漱石公園にも連れて行っていただきましたし、新宿区のお役人の方々のご親切は忘れることができません。

中村是公旧宅はいま結婚式場&レストランになっています。管理人さんの話では「この応接間には夏目漱石がよく来られていたそうです」と。


どこか漱石のおもかげを陽子さんに感じましたが、それは私だけでしょうか。。


漱石山房復元へ 新宿区と中村是公旧宅を訪問 松岡陽子マックレイン

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