noteブック ランデエヴウ 椿わびすけ 

2009年1月21日 (水)

なんと遅い歩み…牛のように 私のノートブック

S1114582373

まずは最近の、知人の撮影になる画像から。

ココログと名前が変わる前は、ニフテイのノートブックだった。

画面いっぱいにゆったりと書き入れることができ、私のたいせつな秘密基地のような場所だった。 最初のページは

2002/12/17 Tue 22:09 雑司が谷へ 二度目の墓参

このノートに挙げさせていただいた最初のフレーズは野上弥生子の夫君であり、英文学者の豊一郎。漱石先生の高弟だけあって文章も大変すばらしい。臼川(きゅうせん)は雅号である。

◇ ◇ ◇

noteブック ランデエヴウ    椿 わびすけ

千円札から夏目漱石の顔が消え、中学校の教科書から漱石が消える。そんな淋しい時代になった。私は漱石山房で行われていた「木曜会」のことをおもい浮かべる。「それは先生の書斎というより我々の楽しいランデエヴウというような気持ちのする事が屡々あります。我々の最も自由な最も愉快な時間が其処で過ごされたのでありますから。」(野上臼川『木曜会の話』

http://homepage1.nifty.com/xkyou/newpage.notebook01.html

http://homepage1.nifty.com/xkyou/newpage.notebook02.html

http://homepage1.nifty.com/xkyou/newpage.notebook03.html

http://homepage1.nifty.com/xkyou/newpage.notebook04.html

http://homepage1.nifty.com/xkyou/newpage.notebook05.html

http://homepage1.nifty.com/xkyou/newpage.notebook06.html

http://homepage1.nifty.com/xkyou/newpage.notebook07.html

http://homepage1.nifty.com/xkyou/newpage.notebook08.html

http://homepage1.nifty.com/xkyou/newpage.notebook09.html

 

●1ページに10記事があって下から順に繰り上がっていくようになっている。最初の画像は裏千家宗家の抛筌斎(ほうせんさい)という由緒ある部屋で、松岡陽子マックレインさんが微笑しておられる写真であった。

注釈を加えるなら、このページはココログに移行するにあたって元のページを自分で保存し作成したものである。画像も拙文も同一には違いないが、余白がゆったりとしているのがいい。

今日は久々に別館・夏目漱石のサイトを更新した。

半藤一利氏と、松岡陽子」マックレイン氏のおふたりの豪華な講師をお招きして、京都漱石の會が主催する講演会なのです。学術的という堅苦しさはなく、とっても楽しい人間味あふれた方々です。日時や会場と、聴講料など詳しくはサイトをクリックしてくださいませ。

http://wabisuke.la.coocan.jp/

| | コメント (3)

2005年6月10日 (金)

亭主ぶり


 亭主関白をうたったのは、1979年さだまさし『関白宣言』。訴えるようなギターの弾き語りだった。現実はなかなかそうならない男の夢を郷愁のような曲の調べに乗せて大ヒットしたのだ。

 今日では社会通念として亭主という言葉さえ影が薄くなってしまった。ところがお茶のほうでは必要な役割の用語となる。この場合、性別は関係なく茶席のあるじを亭主と呼ぶのである。

 主と客があって茶事・茶会は成立する。利休居士は「直心の交わり」をもって茶事の要諦とされた。昨今の大寄せ茶会では望めないかもしれないが、マナーはめいめい見聞して学ぶことができる。

 つい先日、ご宗家から臨済宗大本山での献茶式と茶会へご招待を頂き参上した折のこと。今日庵の若き業躰の添え釜は名器もさることながら客をリラックスさせてゆかしい雰囲気でもてなされた。

 ところがもう一席、別の添え釜がかかっておりそこは異質の世界であった。挨拶に出られたのはお道具持ちで有名な或る会のワンマン長老。業躰の指導すら決して受けられないその方の亭主ぶりは、女性の身ながら年々「関白」の度が進んでいると聞いていた。

 寺院の開山忌供養とする為の家元の献茶式。その添え釜を奉仕する会の顔として席中におられるはずが、客に対してあたかも自分の弟子達に道具等を見せて教えてやる、といった態度で終始されるのだ。

 客に対しては道具も解らないでと侮蔑の表情。道具の拝見を末客から回される場面もあったし、会話は常に一方通行。正客に押しやられた者には会話という以前に亭主と心が通じない。

 知識は先輩に学ぶべきもの多くわが身の至らなさを恥じる私だが、せっかくの知識を騒々しい使い方をされる亭主ぶりに惜しい!と思った。
 僭越ながらいかに長老といえども非を非として認識し、お茶はしみじみと味わいたいものと願うのである。

 今日の画像は、先年お会いしたウイーンの修道女Sr.ベアトリックスと私。あの一会の心の交わりが懐かしい。




| | コメント (0)

2005年6月 6日 (月)

人よりも空 語よりも黙


 去る5月23日、歌舞伎町の新宿区役所を訪問された松岡陽子マックレインさんとご一緒した折、部長さんのご配慮で漱石公園まで公用車で連れて行っていただいた。

 早稲田町にあった漱石の住居の書斎が「漱石山房」とよばれるもの。戦災で消失したその跡地は都営アパートとカギ形の地形の公園になっている。有名人の記念館は数多いがこれまで漱石の為に作られた本格的記念館はなく、漸く「漱石山房」復元の動きになった。

 東京都で初の女性区長が昨年誕生。以後着々と文化面の充実がはかられたようだ。あの悪名高かった歌舞伎町が通りすがりのよそ者の私の目にも活気あるよい町の様相にうつる。新宿区ホームページには住民の声に耳を傾ける女性区長中山弘子さんの容姿がステキだ。

 陽子さんも区長さんの噂はきいて知っておられた。とにかく情報は新しく、明快なものの見方が若々しい。年齢を超えてこの未熟者の私にも対等に話してくださる陽子さん。
 教師臭がなく正直なご性格はおじい様の漱石ゆずりかと思ってみたりする。

 漱石が修善寺大患のことを書いた『思い出すことなど』にある文章が私は好きだ。漱石は重病からよみがえった時、赤とんぼを見た。その一節。


 空が空の底に沈み切ったように澄んだ。高い日が蒼い所を目の届くかぎり照らした。余はその射返しの大地に洽(あま)ねき内にしんとして独り温もった。そうして眼の前に群がる無数の赤蜻蛉を見た。そうして日記に書いた。――「人よりも空、語よりも黙。……肩に来て人懐かしや赤蜻蛉」


 漱石公園の漱石胸像にも、この句が彫られている。禅的な境涯だと思われるが、いやいや…自分には程遠いと思う。

 今日の画像は赤いブラウスがよく似合う陽子さん、実際私たちは終日おしゃべりを楽しんだのであった。



 

| | コメント (0)

2005年4月22日 (金)

ネットにおもう 中国と日本と


 島根県が竹島を日本領土として決議したことから中国では反日の嵐が吹き荒れている。
 いぜんからネットでお付き合いをしていた上海在住の商社オーナーMさんは自分の会社をたたんで最近日本へ帰国されたばかりだ。

 日本とは違って言論の自由をもっていないファッショの国家。今回の騒動の根にあるのは、民衆の長年にわたる閉塞感である、と内外のメデアで識者は論じている。やり場のないはけ口が反日といういわば公認のデモへと噴出したのだという。

 中国は若者が中心なのだろうか。暴力的な反日記事が書きこまれ嵐のように呼応するのは日本以上に普及しているITだと聞くと、なんとも複雑な気持ちになる。

 インターネットの怖ろしさは規制が全くない、いわば無法の世界だということである。発信者が特定できないことからまさに言いたい放題。
秩序が各人の良識にまかせられているのも絵に描いた餅といったところだ。

 京わらべはその昔、町の壁にらくがきをした。体制への批判や要望がもりこまれたそれはそれなりに面白い町衆の声であった。
 しかしらくがきをする者はごく少数であったし、現在のネットのらく書きとは質も数もとうてい比較にならない。

 ITは諸刃の剣と私は前にも書いたことがあるが、それは利便性が慎重さを欠く行為となり易いことにある。私自身の体験から思うのであるが、ネットによる恩恵と当惑とふたつのことについていろいろ感じる昨今である。

 拙サイトには掲示板があり誰でも投稿できるシステムになっているが、困ったことにアダルトサイトの書き込みが頻繁に行われ、それを削除しなければならない。他の良質な読者にもご迷惑がかかるのでいっそのことパスワード制にしたほうがいいかとも思う。

 自由ということは今流行の言葉でいえばまさに「想定外」の不自由さを伴うことを痛感するのである。迷惑投稿の常習犯はIPアドレスを次々と変更するので手の打ちようがないのだ。

 今日の画像は、めったにお目にかかることのできない秘仏である。古代中国、朝鮮、の影響が色濃く見てとれる。先日ご開帳の折に勿体なくも撮影させて頂いた1枚だが、お解りいただけるだろうか?




| | コメント (0)

2005年3月25日 (金)

パリ万国博覧会から


 1900年のパリ万国博覧会では、エッフェル塔にのぼった漱石がいた。漱石33歳。このエッフェル塔は、大革命から100年後の1889年に開かれた万国博覧会の際に建てられたという。漱石は英国留学の途上でフランスにも行き、妻鏡子に手紙を送っている。

「今日ハ博覧会ヲ見物致候ガ大仕掛ニテ何ガ何ヤラ一向方角サヘ分リ兼候名高キ『エフエル』塔ノ上ニ登リテ四方ヲ見渡シ申候是ハ三百メートルノ高サニテ人間ヲ箱ニ入レテ綱條ニ(テ)ツルシ上ゲツルシ下ス仕掛ニ候」

「博覧会ハ十日や十五日見ニ[テ]モ大勢ヲ知ルガ積ノ山カト存候(中略)其許懐妊中善々身体ヲ大事ニ可被成候」
 妻へ敬語をもって書かれた候文のやさしさ。

 エレベーターに乗って微苦笑したか、漱石先生。この博覧会はことのほかお気に召したようで3度足を運んでいる。漱石はフランスに関心をもったらしく、後で文部省に留学を問い合わせたものの、その願いは聞き届けられなかったという。もし希望が叶えられていたらどんな展開になっただろう?

 あれから約105年後の日本ではいま愛知万博が開催されている。
1970年の大阪万博では圧倒的なハイテクの展示があり、多数のパピリオンを見て回るのにヘトヘトになった私がいた。

 いっぽう、この万博の茶室では裏千家志倶会の懸け釜があり、最年少会員の私もご奉仕の末席に連なったことなど、なつかしく思い出される。

 漱石が驚いた「名高キ『エフエル』塔」エレベーターから、一挙に月着陸・アポロ宇宙船へ飛んだ時代の推移はまさにめまぐるしい。

 きょう開幕した、愛・地球博と銘うった愛知万博は、これまでの科学と産業の行き過ぎを反省してのことだろうか。
「自然の叡智(えいち)」をテーマにしている。
 人類のおごりが世界的な環境破壊になっている今日、西洋文明に対して早くから警鐘を鳴らし続けた漱石を思わずにはいられない。

この博覧会場では、ベルリンから京都へはじめてやってきた自転車タクシーが始動しているという談話室の書き込みもあって、ひととき心和むのである。
 スピードのみを求めるのでなく、環境にやさしいという利点を大切にする昔ながらの生活感が戻ってきたのであろうか。

 今日の画像は漱石が英国・オックスフォード マグダレンカレッジの塔を描いた水彩画である。おだやかな情趣の塔がうつくしい。(東北大学附属図書館)



| | コメント (0)

2005年3月16日 (水)

乗っ取り イギリスの日本寿司店


 ふたむかしも前のことになる。
 夫の在籍していたケンブリッジの大学へ私も夫を訪ね一夏を過ごしたことがある。ロンドンとケンブリッジと二つの町で食事した記憶は割合よく覚えている。

 日本料理を食べさせてくれる店は高級な感じで値段も高い。貧相な研究者の行くところといえば寿司の店、それも大衆向きの安い店だ。カウンターに腰かけて寿司職人に話しかけると自分は日本人ではない、と言う。

 聞けばコリアンだと笑顔で答えた。だんだん解ってきたのは日本人が経営している店はいつの間にか消えて、代わりにコリアン経営の店になって行くケースが多いということだった。朝鮮料理のスタミナたっぷりの焼肉に日本の寿司がメインである、こうした店はなかなか繁盛していた。

 さらに日本人の旅行代理店の人から興味ふかい話を聞かされた。日本人の経営する店が開店し客が集まるようになると決ってコリアンがすぐ近くに同じような店を開く。寿司も日本人が作っているのと同じように出すので客には全くわからない。

 しかし、いつの間にか元あった日本人の店はなくなるのが常だというのである。商売の競争に負けたことであろうが、客にとってはいい食事ができればいいので経営者のことまで詮索はしないのだ。

 最近のフジテレビとニッポン放送、対するライブドアの争いを見ていると私は昔自分が見聞きした短期間の海外生活の日々を思いおこすのである。
 企業買収は合法でとされているが、そのやり方に不信が増幅し今後の展開が泥沼化の様相を呈している。ホリエモンの考えに金儲けだけでないものを期待していた人々はどうやらその期待が幻想ではなかったかと思い始めるかもしれない。

 低迷したメデア界に電撃ショックを与えた勇気は評価していいのではないかと思う。しかし、挑戦者側が依頼していた弁護士が3人も辞任し、社員との信頼関係も実際はグレイであり、雇用は低賃金、オーナーのみ豪遊というのはどうも頂けない感じがする。

 果たして新たによりよきメデアを構築できるか、それは未知数である。若い人であっても実際にはきわめて旧い体質の人も多いし、できれば既存のメデアと和解の道を探り、日本のために双方でよきものを作り上げて欲しいというのが一般の視聴者の願いである。

 今日の画像は古い写真になるが我が家のねこ。かれは時として哲学しているような立派な表情をするのだ。




| | コメント (0)

2005年2月21日 (月)

ドラエモン と ホリエモン


 ホリエモンとは、32歳のIT企業社長・堀江貴文さんの持ち馬の名だという。それがたちまち飼い主の代名詞になって連日メデアをにぎわしている。

 フジテレビ対ライブドアーとの株式による戦いは、ホリエモンの奇襲乗っ取り作戦で世間をあっといわせた。アメリカでは当たり前の商行為として認知されているようだが、日本ではなかなかそうはいかない。今はどちら側にも勝算があるという展開になっているのが不思議な処だ。

 私は堀江さんをテレビで見ただけだが、嵐のような非難を受けている程その人に悪い印象は受けなかった。インターネットで成功し今や若者たちのヒーロー的な存在になっている彼の魅力はなんだろう?と考えた。
 
 反射的に浮かんだのは、五島 慶太氏(明治15年~昭和34年)のことだ。東京急行電鉄の事実上の創業者とされる実業家を若い世代は殆ど知らないだろう。

 東京地下鉄の乗っ取り、三越の乗っ取り等で「強盗慶太」といわれた人である。しかし、開発事業では伊豆半島、多摩田園都市の開発等で貢献度の高い業績を残している。

 私はホリエモンが昨年のプロ野球新規参入のきっかけを作ったことを忘れてはいない。仙台を真っ先に候補地に指定し地元にアッピールしたことも。彼は結局敗退したのであったが、その志は大きく野球史上に生きたのではなかったか。

 金儲けだけではないもの、哲学というべきものを彼は持っているように見える。彼の会社は若い重役がそれぞれ権限をもち、ワンマン社長だけではない空気があるようだ。彼はこう語っている。

「今までは、何かを探すためにインターネットを使っていたが、これからは違う。これからは、本来のインターネットのよい点、コアであるコミュニケーションの部分にどんどん到達していく。」

 彼は「探す」よりも「繋がる」ことのほうに期待をかけ、マスメデアとインターネットとの融合をもくろむ。その思いを支配といったり、物は金で動くと言ったり、露骨な言葉を使ったことがより一層感情的な拒否反応を招いた。

 未熟な点はやはり反省もし、さらに大きく成長してほしいと私は思う。そしてできれば、日本人のマナーを知って欲しい。
 時には和服に身を包んでしばし正座して、一碗のお茶を飲んで頂きたい。

 ドラエモンの夢ドアー。人間のドアーには何があるのだろうか。
 若者たちの夢の代行者!
 ホリエモン



| | コメント (0)

2005年2月12日 (土)

おあしが 無い


 夏目漱石の千円札は、1984年に肖像が採用され、そして2004年11月1日をもって消えた。
 とはいってもまだ当分は流通しているので、新券の野口英世がいかにも「パーマをかけた夏目漱石」に見えるのである。

 漱石を千円札にすると政府が決めた時、漱石の遺族は喜ばなかったと聞いている。漱石の人となり、名利を求めない信念を考えるならば、おのずとそういう気持ちになるだろうと私も思う。
 金銭にまつわる幼少からの体験、その苦しみが小説の背後には常に描かれている。

 古いことばで言えば、おあしであろう。新券5千円札の樋口一葉は、次のような名高い歌を詠んでいる。

我こそは だるま大師に成りにけれ とぶらはんにもあしなしにして

一葉の26年4月19日の日記。

「だるま大師には足がないのは誰でも知っている。知リ合いが死んだので弔いに行きたいけれども、私は貧乏て、あしのない達磨さんみたいなものだから、香典のおあし、お金がつつめないのです。」

 一葉のペンネームもここから出ているという説もあるが、ユーモアとペーソスがにじみ出ている歌である。
 24歳の若さで亡くなったこの美しい女性文学者には、あまりにもかなしい貧窮の生活であった。

 この歌から、葦の葉に乗った達磨像はみられるだろうかと、私は探してみた。古典の達磨像にはさまざまな形があり、その中に葦の葉の上に乗って海を渡る「葦葉達磨図(ろようだるまず)」があった。

 達磨大師は面壁九年。座禅のすがたから足がないことになっているが、この絵ではちゃんとしっかりした足が描かれていて、ほっとした。

 今日の画像は、白河市歴史民俗資料館から昨年、転載許諾のメールをいただいていた「葦葉達磨図」である。
 阿部正武筆。この方は江戸幕府の老中職を務めた大名だという。おあしには何不自由しなかった筆者であろう。
 ここに出典をしるし、謝意を表したい。



| | コメント (0)

2005年2月 3日 (木)

ITとはいとおそろしげなるものなり


「ITとはいと面白げなるものかな。」 から 「ITとはいとおそろしげなるものなり。触らぬ神にたたりなしとぞきこえけむ。」 へと環境が激変したため、恐竜(稽古場便り)は絶滅いたしました。そしてそのあとには新しい世界が・・・・・・・。

 こう書いているのは、ネットのご縁から中宮寺山吹茶会で都合三日間お手伝いをしてくださった私の友人、松江市のviolettaさん。
 この1日から2日と彼女のウェブサイトでは大地震が起こった。というのは、彼女が管理運営するページ「稽古場便り」が急に閉鎖ということになったからだ。

 ことの起こりは、茶道雑誌『淡交』2月号巻頭に家元のIT批判の文言があったことのようだ。お家元の考えは、私もこれまでも宗家での道話などで存じ上げているが、宗旦さんの「稽古とは心に伝え目に伝え耳に伝えて一筆もなし」の侘びの境地と修道の在り方説かれたものである。

 IT、インターネットの世界は顔がみえず、なかなか当事者を特定できない。何をやっても解らないという処から茶道の伝物・許状にも配慮せず無責任な記事を載せ続ける人が実際にいるらしいのだ。こうした現状を憂慮され、混乱を避ける為に先ず原則を表明されたのだと私は考える。

 しかし、多くの師範の方々には突然の鶴の一声がズシンとこたえたのではなかろうか?violettaさんの師事している高齢の先生は、彼女の稽古場便りに対して急に苦言を呈されたという。そして師の心を汲んだ上は、丹精こめたそのページをただちに閉鎖したのであった。

 身につまされる話である。ITは諸刃の剣といえよう。しかし、師の教えを大切に残そうとして克明に記録し、故郷を離れたわが子へのメッセージと、自らの学習のために努力する人の意欲を摘み取ることにならなかっただろうか?

 今やITはなくてはならぬ時代である。ITを知らない多くの人々へはより謙虚にそれなりの気遣いを以って接しなければならないと思う。それと同時にITに純粋な熱意をもっている者にあらぬ誤解が生じるとするならば…それもまた残念なことである。

 今日の拙サイトトップページは雪をかむって咲く玉之浦の画像をUPしたが、雪のない晴れた日のおなじ椿の花をここには載せようと思う。
 オペラ『椿姫』のヒロイン・violettaに、イメージを重ねながら…。

 



| | コメント (0)

2005年1月26日 (水)

フランスからおくられてきた香水の名は 『緑茶』


 ひとっとび!海を越えて私のウェブサイトに訪問される方には、男性あり、女性あり。最近ではフランス・グルノーブルの山荘にお住まいのマダム ぼいやれ なおこさん。
学者の夫君は親日家で、家庭内のお写真を見るとなんと絣柄の半纏を羽織ってくつろいでいらっしゃる。

 なおこさんからのメールにはこのところ日本茶がよく登場する。というのも種をあかせば私が抹茶を少しばかりお送りしたからだ。

「心得のありそうな知人に点茶をお願いしたところ、指導本とお里からの「あんこもの」(貴重でございます:笑)持参で、登場。もう3日にわたり山の茶房に通い詰めで「滅多に味わうことのできない上等の御茶ですよ」とたいそう喜ばれています。

 わびすけさまのお福分けの和が広がるグルノーブル、昨日は珍しく一日雪が降り積もりました。」
と、まあこう書かれるとどうもムズムズとこそばゆくなる。
 なぜってその茶とは、お付き合いのある茶店からサンプル用に貰った濃茶薄茶の二缶だったのだから。

 ところが、事態は海老で鯛を釣ることに進展したのであった。航空便で届いたなおこさんの小包みを開けると、グリーンの瑞々しい色調のオーデコロンが出てきたのだ。

 香水の名前は?、と不思議に思っていたところ、なおこさんから教えられてのは、「て・ヴェール」(緑茶)である。
 なるほど、箱に描かれたイラストは茶の葉と茎だというわけか。ほっそりとしてパリジェンヌのような可憐な茶の葉の絵である。

 (フランス YVES ROCHER社製造 テヴェールTHE VERT オーデコロン)。

 しゅっと吹くと、なんとも爽やかな上品な香気がたつ。
ああ、日本の緑茶がこんなステキな香水になって、世界の人々に愛されている!
 私はいっとき、幸福感に酔うよに甘美な時間を過ごしていた。

メルシー! マダム なおこ。


 

| | コメント (0)

2005年1月 8日 (土)

テレビドラマ『夏目家の食卓』


 「そりゃぁお前さんだろ」と言われそうだ。
 漱石の文学というより人間漱石に興味をもつ読者はと書こうとしているが、まあそれは致し方ない。

 一昨日久しぶりにドラマを見た。コミックな『夏目家の食卓』は約2時間、視聴者を引きずって最後まで見せた。スターを揃えての正月番組で、気軽にマンガを見るようなタッチが案外成功していたのではないだろうか。

 文学として見れば不満は大いにある。漱石作品には品格があるのが特徴だが、漱石山房での裸踊りなどをはじめとしてどうも品がないのが残念だった。ドタバタ劇の域を出ないという感じもなくはない。
 これは小説とは別個のドラマなのだと、割り切って見たほうがいいと自分に言いきかせた。

 けれども、このドラマの主眼とするものは、これまでの漱石観、悪妻の代表のようにされてきた鏡子夫人に新たな視点を提供したことにある。それがよく解った。

 文豪の食卓であればもっと豊かなイメージがあるが、白飯に生卵をかけてガツガツと食べる漱石。胃潰瘍で苦しみながら娘の差し入れたクリームパンに相好をくずす漱石。しかしその彼は弟子や来訪者にはちゃんとしたものを常に振舞う。
 
 夫のひどい神経衰弱が原因で一時実家へ戻っていた夫人が両親から聞かされたのは、漱石が仕送りをしてくれていることであった。こうした挿話も夫婦の結びつきが表面ではわからない情をもつことを示していた。
 夏目鏡子著『漱石の思い出』からの引用で、これらの場面設定が随所にみられた。

 夏目家の食卓は豊かな食卓であるべきところ、主人である漱石は食べることが出来ない。家族がそのことに涙している食卓である。地位もお金もいかんともし難い、ただ妻子の愛が切々と伝わる…。
 この場面は哀切で、胸があつくなった。

 確かにこれまでにはない漱石像ではあった。その意図は充分に描かれていたと私は思う。食卓は家族が寄って出来上がり、時間を共有する大切な場所なのだ。
 主演男優モックンと女優りえちゃん、脇役もそれぞれいい個性があった。

 それから、漱石と鬱病への偏見が番組制作側にあったのではないか。見るのが少々辛かった場面もあった。現代病といわれているこの病に、漱石夫妻の行跡は参考となるだろうとも思う。

 今日の画像は新妻時代の鏡子夫人。
 見合いをした後、気どりがないところが気に云ったと漱石は言ったという。




| | コメント (0)

2005年1月 3日 (月)

ウクライナを救った日本の招き猫


 キエフといえば、京都市の姉妹都市である。キエフ市街には公園や並木道が多く、緑地が市面積の大半を占めることから「森の都」といわれている。私がこの話を知った時分はソ連の一都市であった。

 1958年(昭和33年)、駐日ソ連大使が京都を訪問。京都市長にキエフとの提携を提案し、翌年キエフ市長から正式に申し込みがあった。その後約10年間にわたって、友好関係が深まり、1971年(昭和46年)姉妹都市結成宣言を行ったという。

 ところが今や、キエフはウクライナの首都である。1991年、旧ソ連邦から独立したのがウクライナであった。それに伴い民衆の意識が従来の政治にNOを主張し始めた。ウクライナ大統領選やりなおし投票が行われ、これまでのロシア寄りの政権は敗退した。

 しかし、すさまじい陰謀・策略があったことは歴史に残る。親欧米派の野党候補ユシチェンコ氏は9月、政府関係者に招かれた夕食会のあと体調を崩し、ウィーンの病院に緊急搬送された。顔が腫れあがり別人のごとく人相が変わっていた。

 検査の結果、ほぼ1千倍にあたる高濃度のダイオキシンが検出されたというニュースには、古今東西、政治の恐ろしさを思い愕然とするのである。ただ、そのなかに、ほっとするような嬉しいエピソードがあった。

 大統領選のやりなおし決選投票で、日本の招き猫をあしらったポスターが3万3000カ所の投票所に張られた。ポスターの猫がウクライナ語で「私は公正な選挙に賛成です。あなたは?」と問いかけ、投票所に「手招き」している。

 費用の450万円は日本政府の草の根無償援助を使い、在ウクライナ日本大使館と現地の非政府組織(NGO)が共同で製作したと、ニュースは伝えていた。

 招き猫のポスターにはウクライナ語で「家庭に幸運を呼び込む日本のお守りです」と説明がついている。なんと気が利いた国際交流であろうか!

 西洋ではとかく猫を悪魔の使いだとか偏見をもったようだが、この度の日本猫の活躍ぶりはどうだ!
 とにかくウクライナは新生への道を踏み出したのだ。自由とパンを求める民衆の期待に是非とも新大統領は応えていってほしい。

 日本猫をいつくしむ日本人の心も、捨てたものではない。




| | コメント (0)

2004年12月 9日 (木)

色紙に書かれた語をよむ


 今日の宗家けいこ場で初めて見る色紙が槍の間の床にかかっていた。
「黒風吹不入」坐忘斎家元の落款がある。点前指導は最も人気の高いA業躰。七事式の稽古を五人でさせていただきながら皆は色紙のほうをちらちた見ている。

 A先生はその空気を察して言われた。「私はその意味がわからんのです。」
 親しい長老のひとりaさんが私に「あんたなら何というのかね?」と問われたので咄嗟に思いついたことを言った。
「黒という色から考えると、季節かもしれません。春は青春の青色、秋は白秋の白色。夏は朱夏の朱色、冬は玄冬の黒色。」

「…ということから黒風は玄冬の意味でしょうか。」
 私はその場で感じただけのことで内心は眉唾ものかな?とふっと思った。ところが家に帰ってもう一度この語を思い浮かべてはっとしたのである。

 最近、台風災害で各地でたいへんな被害が出ている。そうだった!
 黒風とはあの観音経に出て来る語ではなかったかしら…。お経では暴風雨のことが黒風と書かれているのに気がついた。

 入於大海假使黒風 吹其船舫
(大海原を航海しているとき、たとえば、暴風が吹き荒れ)
という一節は、観音の名をとなえれば救われるという観音経のサワリであろう。

 お家元は今という時節を考えられ、この語を書かれたのではなかろうか?こうしたこともすべからく見る者の主観であって、ほんとうのところは筆者に聞いてみなければわからない。

 気のいいその長老から「先生がいるのに余計なことはいわんでもいい。」とたしなめられ、「そういう事をいう者がいるから困る。」と可愛げなく答えた私であった(笑)。

 鵬雲斎前家元が制定されたものに、道・学・実の三つの教えがある。点前は実技・実践の実であるが、学の次にあることを茶人はとかく忘れているのではなかろうか。

 型破りのひとりかも知れない自分を見返りながら、茶席にかかる書について(師に聞くばかりが能ではないでしょ。間違っていても自分のありのままの感想を述べるのが礼儀では?)などと反芻する私であった。
 やっぱり、かわりもんなんでしょうかねえ。


 画像は中宮寺での茶会にかけた漱石の書である。杜甫の詩を漱石がすこし変えているので二通りの読みができる。




| | コメント (0)

2004年11月22日 (月)

心技体 すもうと茶人


 モンゴル出身の横綱朝青龍はとかく物議をかもす力士である。勝負にすさまじい闘志をむきだしにする、それはけっこうなことだが勝敗がついた後の態度に問題があるのだ。

 相手を憎憎しげに見下す場面を私もテレビで何度か見た。以前相撲審議会で彼に綱を返上させるべきだとの声が出たのも横綱の品位に欠けるという一点だった。
 日本古来の礼に基づく武道。武道には「心・技・体」といった教えがある。ここで技の前に心があるということがとかく忘れられている。

 今日は宗家の稽古があった日。槍の間でのこと。指導は85歳の寺西業躰先生。点前は平点前濃茶を私がさせていただいた。客はふたり。正客はS先輩、二客はX先輩、共に貢献度の高い名誉師範の方々だ。

 私は点前には大ヌケをする困った習性がある。稽古不足がたたっているのは誰よりも自分がよく知っているが、順序もケアレスミス続出、何より悪いのは濃茶の練り方がうまくいかなかった。劣等生はほぼ3人分を錬ってお出しした。

 飲み辛そうなお次客に「ふかげんで失礼しました」と私は詫びた。そして「お残しください。お相伴させていただきます」と言った。一碗を共に飲みまわすこれは小間の茶事で行う点前の一形式なのである。

 ところが、お次客は「そんないい加減なことを。」とあきれ顔。私は咄嗟に寺西先生に助けを求めた。「先生。旧い茶事のすがたがこの在り方ではなかったでしょうか」

 老業躰は答えられた。
 「主客共にというのが茶の基本じゃぁないか。亭主は中仕舞いをした後、末座に着き、客と共に一碗を飲むんじゃ。後で出来た濃茶付き花月の式をみればわかるだろう」

 正客のSさんは控えめでありながら芯の通った生粋の京おんなである。次客になられたX先輩は当流NO.1の地位肩書きをお持ちの学識経験者の方。おそらく直門中のトップと自他共に認められているのではなかろうか。
 今風に例えるならば、右脳にんげんと左脳にんげんの典型といえるかもしれないと思う。

 結局、不手際な主の求めは聞き入れられず、次客のXさんが飲み終わられ、茶碗は空で返ってきた。塊のあるところは粗相をした張本人の私が飲みたかったのだが。申し訳ないと思った。

 「ツブがあってもふつうは口の中で溶けるけど、今日はいつまでも苦いわ…」
 お次客のよく通る声が稽古場の茶室に響く…。




 

| | コメント (0)

2004年11月16日 (火)

サーヤさま ご婚約


 北日本新聞のウェブ版の、「料理や茶道知人に学び 紀宮さま、普通の家庭常に意識」というタイトルが目に飛び込んできた。他紙には見られない記事でこれを書いた記者さんの公平なやさしさが嬉しい。

 「紀宮さま(35)はここ数年、知人宅に通い、料理や茶道を学ばれていた。鳥類研究で出勤する際は手作りの弁当を持参。」
 本文を読みながら思わず微笑してしまう。女性の生き方としては母君美智子皇后の薫陶を受けられた現代キャリアウーマンの、ごく普通の生活感を庶民の私達は共感をもって肯くのだ。

 都庁勤務の黒田慶樹さん(39)とのご婚約内定。サラリーマンの妻となられる清子(さやこ)内親王は兄君の学友というご縁を選ばれたようだ。私達からみればなんでもない普通の感覚が、皇室ではいかに至難であるかを思わずにはいられない。

 「料理を学び始めたのは3年ほど前から。月に1回程度、野菜の皮むきに始まり、めん類、チャーハンなど、世間一般の食卓に当たり前に出てくる家庭料理の手ほどきを」受けられたようだ。

 父の日・母の日には手料理を振舞われたというのも、一般庶民とおなじだ。これまでの皇室伝統の困難をたいへんなご努力で改革されたご両親陛下の賜物と私は拝するのである。

 国民は品格ある皇室をいただいていることを他国に対して誇りをもつことが出来る。しかしまた、皇室の方々の個人としてのお幸せを願うものでなければならない。自分たちが自由を享受しているのを感謝すると共に時代の推移をみることが求められる。

 拡大するイラク戦争、日本各地の台風被害、未曾有の新潟地震、この日記では私は書く気にならずそのままストップした状態であったが、今日は明るいニュースにやっとしたためることが出来た。

 画像は13日鷹が峰の光悦寺で撮った鐘楼である。慶びの鐘の音を紅葉が聴くといったところか。




| | コメント (0)

2004年10月15日 (金)

庭の柿の実を食べるのは


 漱石が描いた「柿烏図」は、たしかにカラスである。ところが最近ニュースになっているのはクマが民家の柿のみを食べにやってくる事件なのだ。
 なんと熊の食料であるはずのどんぐりが山になくなっているのが原因であるらしい。開発という名のもとに自然が荒らされ山はどんどん狭められて行く。動物が第一に犠牲になり、その悪循環で人間が犠牲となるのが痛ましい。

 全国各地で人がクマに襲われる被害が相次ぐ中、富山県のある町では、児童が集団登校の際、クマよけの鈴をランドセルに付け始めたという。あのアルプスの山のハイジたちとはもう雲泥の違いだ。

 しかし、いっぽうでは熊鍋がうまいと人気が出、なんでも1キロ1万円だとかのニュースも聞かれる。これではますます殺生が増加するだろう。もとは農耕民族であった日本人も遊興の度が過ぎ変質したものではある。

 漱石はふるくからの生活環境を変える事を好まなかったようである。英国から帰国した時期に自宅に電灯をつけることも断固として反対した。そのため夫人は漱石が病気で入院している隙に急いで電気工事を依頼し完了した。ランプの暗さから開放されたのは漱石もその時以来かもしれない。

 ふるきをあたため、あたらしきをしる。私はたずねるというより温めるの言葉が好きだ。
 
 過日、茶室の洞庫について敬老の日にページを更新したけれども、その後裏千家又隠の洞庫は15世家元によって伝統が守られたことを書かなければならないと思った。

 又隠の洞庫の戸は鵬雲斎大宗匠ご自身、60歳までは使用できないように板を打ちつけて閉じられ、還暦を迎えられた時に開かれたのだと私は寺西業躰からお聞きした。

 こうした先祖から受け継いだ伝統を守ることは、人間としての謙虚さがあってこそ出来るのではなかろうか。

 やみくもに変質の道をゆきつつある今の日本という国土を、淋しく思う。






| | コメント (0)

2004年9月18日 (土)

プロ野球 ストライキ決行


 このところメデアではプロ野球ストライキ決行のニュースが華々しく踊っている。
 「労組日本プロ野球選手会(ヤクルト古田敦也会長=39)と日本プロ野球組織(NPB)の労使協議(協議交渉委員会)が17日、都内のホテルで行われ、選手会は18、19日のストライキ決行を決めた。

 古田会長は新球団参入で来季12球団維持を求め、一時は合意寸前まで行ったが、言葉をめぐり決裂した。」
 ことのいきさつは、選手会が『来季の新規球団参入に最大限努力する』と文言を入れることを求めたのに対し、経営者側は玉虫色の表現で逃げようとしたのだ。

 どうやら旧態依然のオーナー側の縄張り意識が日本野球界の現状らしい。面白いのはストを支援する声がファンだけでなく世論として圧倒的に多いことである。わけてもファンに申し訳ないと号泣した古田選手には盛大な声援が飛んでいる。

 史上初の「野球のない週末」は、70年のプロ野球史の1ページを開いたわけだが、庶民とはかけ離れたスター選手の莫大な年収、そうした金権行政を自ら行ってきたK球団の体質。なにかしら私にはピンとこない話しにも思われる。

 とはいっても、日本のプロ野球界に見切りをつけアメリカ大リーグへ転出した選手の心情は充分理解できるし、野茂やイチロー、松井秀選手の活躍にはアメリカであればこそと拍手を送っているのだけれど…。

 正岡子規が詠んだベースボールの短歌を思い出して、あらためてページ開いてみた。

『久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも』

『若人(わかひと)のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如くものもあらじ』

『国人ととつ国人と打ちきそふベースボールを見ればゆゆしも』

 もし、野球の初心というものがあるとしたらこうした世界であったろう。子規が今回の騒動をみればどんな感想を漏らすだろうか?
 野球についてそんなことをふと思う。

 今日の画像は『彼岸過ぎ迄』の表紙。ちょうど明後日が彼岸の入りになるので拝借させていただいた。




| | コメント (0)

2004年8月21日 (土)

アテネオリンピック 女子柔道


 日本各地では大雨から風水害が起きている。いつも被害を免れる京都はつくづく幸運な土地だと思う。堤防や河川の管理がいいということかも知れない。

 昔の京は、「鴨川の水と坊主には勝てない」といわれたと聞くけれど、今日では水のほうはなんとか克服しているのではなかろうか。そうした日々の中で、人々はアテネオリンピックのテレビ観戦を楽しんでいる。

 わが家ではスポーツに熱中することはあまりない。私はオリンピックの柔道に興味があって観たくらいである。その自分が日本女子柔道の活躍にはただただ感動した。レスリングまがいのjyudoではなく、伝統の技である1本を勝ち取った複数の選手たち。中でも谷本、上野、阿武さんらは金メダル以上の感動を送ってくださった。
まことにそれは大多数の日本人が共有した喜びであった。

 女性の美しさは外面でないことを如実に示したいさぎよい姿。その飾り気のない愛らしい笑顔!オンナだてらにという古来のけなし言葉がまったく色褪せたすばらしい女性美だと私は思った。

 「仏性に男女なし」とは、私が師事した禅の師家T老師が昔仰った言葉である。私はありがたくその問答を思い起こした。

 また、勝負ごとを好まなかった舅は厳格な家父長であった。そうした教育を受けた父の子供たちは皆地道な学究の道を選び、夫も勝ち負けには離れたところで生きてきた。今もなお、一喜一憂をするな、と私に教えてくれる人である。

 漱石は明治大正に生きたが、やはり勝負ごとを好まなかった文豪であろう。弟子たちに自らの真摯な生き方を身をもって示したが、決して他との競争を強いることはなかった。漱石のいう自己本位は、自己を克服することを教えたものであった。

 今日の画像はなににすべきであろうか。書斎の机の前で憩うともなく座している漱石先生の、声なき声を聞こうと思う。
 



| | コメント (0)

2004年8月 1日 (日)

台所にローズマリーの香り


 遅筆という言葉は最近聞かなくなったが、私はとにかく筆が遅いと思う。おっくうではなく、ウェブサイトにしても気が乗れば徹夜してでも書き終えるのだけれども、そうした気分になるまでは時間がかかるのである。noteブックもずいぶんおざなりになっていた。

 事務能力という点では手抜き主婦を長年やってきたこともあって、落第点がつくのは間違いなさそうだ。インターネットに関わるようになってからはITのノウハウを知らなければならず、独学であっても時間を食い、つい家の中の整理整頓はおざなりになる。

 そのため、知らず知らずのうちに周辺に犠牲を強いていた。家族のことは棚にあげても、庭の木の何本かを枯らしてしまったのが悔やまれる。30数年を経た杉の木2本、思い出ふかい柚子の木が枯れたのは、この夏の水不足と害虫のせいと何といっても私の無関心だった。

 その自己責任を思うとやりきれなくなる。それで思いついたのはいつかデパートで買ったままにしていたハーブ香だった。蚊取線香の匂いも時には変えなければとハーブエッセンスを焚くことにする。

 台所は私がもっとも居る時間が長い場所だ。流しを後ろにして置かれた木製テーブルには本や書類等やPCも置き、椅子の横には電話機を置いている。電話の台にしているのは昔組みひもを習っていた時に持っていた「丸台」だ。

 壁につけたこのちっぽけな香料スタンドが夜には豆電球のあかりになる。ローズマリーの香りが漂いはじめるとほっとして安らぐ私がいる。ノートパソコンに入れたCDからバイオリンの曲が流れる。

 ローズマリー、娘時代の私はローズマリークルーニーというアメリカの映画女優のファンだった。もう知っている人は少ないかも知れない。
 けれども、ハーブの中のこの花は、シソ香で地中海沿岸原産。語源はラテン語のros marinus(海のしずく)だという。その香りは東洋の香とまた違ったやさしさがある。

 今日の画像はわが家の台所の一隅、不出来の主婦を慰めてくれるローズマリーの明かりである。



| | コメント (0)

2004年7月 6日 (火)

気に入らぬ風もあろうに柳かな


 出光美術館はせんがい和尚の禅画蒐集でもよく知られている。
 タイトルにした俳句は、堪忍柳画賛(かんにんやなぎがさん)という掛け物に書かれている賛である。 

 せんがい筆 江戸時代 紙本墨画 「気に入らぬ風もあろうに柳かな」
 PCなら即座にお気に入りに保存ということになろうか。私はこの句を見て、ああ、そうなりたいものだと思った。けれども、そうはなれない自分に微苦笑する。

 今日は精中忌という裏千家宗家・三大忌の行事が執り行われた。第十一代玄々斎宗匠の遺徳をしのび全国から同門社中の方々が参集された。
恒例になっているけいこ場席という茶席をもたせていただく私ども直門会会員は、ご奉仕の一日を過ごした。

 今回、私の属する10人程度の班は道具の係りであった。季節の取り合わせを協議し、道具を持ち寄り席を構成する。何度かやり直し、よりよいものへと相協力してゆく。役割分担も自ずと決まってくる。80歳とはとても見えない品格ある大先輩がいらっしゃる。70歳の方の後はそれぞれ60代、50、40、30代と続く。

 若い人たちは点前とお運び。年くった者が半東の役。これらは順番である。私が半東に出たのは朝から3度くらいだったろうか。

 最後のころ、お家元がご家族とごいっしょにお越しになった。
 席中の会員めいめいの持ち出しの道具と取り合わせの雰囲気をていねいにご覧になる。そして水屋につとめる皆のために必ず水屋まで足を運んでねぎらわれる。周囲への気配りはたいへんなものだ。

 拝見のとき、茶杓をご覧になりはがらお家元はおっしゃった。
「これは私のだな。」
 カメラを手にして席に入っていった私に
「この茶杓は、中宮寺の時のだね。」
 と、ほほえんで言われた。

「はい。たまやなぎ のご銘を、いただきました。」
 個人的なことになり恐縮しつつも、感激であった。
 ほんとうによく覚えていてくださったと思う。

 昨日、拙掲示板に、三河娘さんから最新の書き込みがあり、それは次のように書かれていた。

 「その中でも一番の感激は、多満柳のお茶杓を、手にとって拝見させていただいたことでございます。その景色は、まさに床に掛けられた淡々斎様の風(「松風隔世塵」)に、そよぐ翠の柳でした。」

 注をつけるならば、茶杓はごま竹でいく筋も柳の葉が垂れている景色なのである。

 



| | コメント (0)

2004年6月23日 (水)

白夜のフィンランドから


 北欧のフィンランドから1通のメールが舞い込んだ。フィンランド人男性と結婚している日本人妻のように自己紹介をいただいた。

「偶然、わびすけさまのHPを拝見しましたが、宝物を見つけたような心境です。日本の素敵な様子が写真で拝見出来て、見ていると気持ちがすーっと落ち着いてまるで茶室にいるような気分にさせて頂けます。」

 ヒサコさんというお名前のその女性は、「娘が大阪の実家にいます。」とお書きになっているのでご主人とも熟年のご夫婦といっていいかもしれない。昔、お茶を京都の或る女子大の茶道部で習い、結婚後もそのまま大切な趣味とされてきたという。

 写真が3点ほど添付されていた。裏千家・千玄室大宗匠がフィンランドの茶室披き記念講演会で講演されているッスナップは最新のニュースでもあり、私としてもことのほか嬉しい写真であった。

「ヘルシンキ市にある、フィンランディアホールで300名以上の観客が大宗匠のすばらしいお話に聴き入っていました。」
 お話によると、日本大使公邸ではハロネン大統領にも大宗匠はお茶を点てて差し上げられたという。その時の大統領のひとことが、じつに立派である。

 「春の味がする。」
 それがハロネン氏が一碗の茶を喫した際の、ことばであった。グリーンテイーのほろ苦い味。しかしその中に萌える植物である茶の葉の、春を感じ取られたものと思われる。
 それにしても、なんという詩的な感想であろうか!

 大統領と大宗匠のティーセレモニーのことは、次の日の新聞に大きく写真入りで掲載され、ニュースでも放送されたという。最近の日本人といえば、恥ずかしい援助交際や考えられないような殺人事件等が、ドイツなどでは日本の現実として報道され、在留邦人は肩身が狭いと聞くのである。

 そして、ヒサコさんは最後に、次のような言葉で結んでいる。
「海外で日本人を正しく理解してもらうことはとてもむずかしいのです。今回の大宗匠の来フィンをきっかけに日本人を正しく理解してくれるフィンランド人が増えるのではないかと、とてもありがたく思っています。」

 大宗匠の講演風景のスナップはPhotoBBSへ掲載することにして、ここには白夜の画像を出してみよう。夜の11時半、外はまだ明るくこれがヒサコさんが撮ったその夜の写真である。





| | コメント (0)

2004年6月20日 (日)

命を張って主人を救った犬 ナナ


 「愛犬ナナ:6日ぶり見つかる、けがなく無事 南アルプス 毎日新聞 2004年6月20日 20時44分」
という毎日ウェブの記事が目に飛び込んできた。思わずよかったと声をあげ、明るいニュースに今私はごきげんになっている。その話というのはこうだ。
 
 山梨県南アルプスの峠で13日、下山途中の自営業、三上浩文さん(43)が、前方のクマザサのやぶから飛び出してきた体長約80センチのクマに襲われた。

 足でけるなど抵抗したが、手足をかまれ血だらけ。しかし連れていた愛犬「ナナ」が激しくほえて走り出したため、クマはナナを追って走り去った。

 この記事がウェブに出てからというもの、ナナの安否を気遣い救援を望む声が日に日に高まった。尤も犬は熊に食われたのではないかとの予想もあったが、生存の期待のほうがはるかに大きかった。

 人間界ではこうした美談が出ると、どうも素直には受け取られない。けれど動物の場合ならあるがままに伝わるのがいい。
「ナナには総理大臣になって欲しい!」などど巨大ウェブ掲示板で書き込みが出てくるのも微笑ましく見てしまう。

 人間なら出生の善し悪し、学歴、肩書きなどが幅をきかすようだが、動物はもっと純真な生きものだ。もと捨て犬だったナナは5歳の雌。拾われてからは山登りで主人と行動を共にした同志でもあった。

 過去の記事を辿ると次のようになる。
 「甲斐駒ケ岳や八ケ岳にも一緒に登っている。」と三上さんは話した。
 そして、「恩返しをしてくれた」と涙ぐみ、ナナの帰宅を待っている。」(毎日新聞)[6月14日20時32分更新]

 昔、忠犬ハチ公は銅像になった。現代の若い人たちにはこちらのナナのほうがわかり易いのではなかろうか。
 といって、犬もネコも動物が主人を想うことには変わりはない。

 ヘクトーという犬を飼って犬好きな面があった漱石。平成の多難な時代の、こうしたエピソードは荒らしの中の静けさのようにも思われてくる。

 今日の画像はトラノオ、虎の尾とかけば動物になるがやさしい草花である。 





| | コメント (0)

2004年6月 4日 (金)

好漢 夏目房之介さん


「夏目漱石・夏目房之介が探す祖父“猫”誕生百年」
このようなタイトルで、NHK教育テレビのスペシャル番組を見たのはつい先日だった。硬派のマンガ・コラムニストとしてずいぶん前からいい仕事をしておられる房之介さんは、人気の高い現代作家である。

 この番組の視聴率がNHKの1パーセントを越えたということからもこの作家の人気度が知れよう。

 テレビでは夏目家で今回発見された原稿から、房之介さん独自の読解によって『文学論』の意義がわかりやすい語り口で展開されていたが、それでも私にはまだまだ難しかった。

 ただ、批評家とは視点が違うということはストンと納得がいった。漱石ほど批評家が群がる作家も少ないと聞く。ある意味で漱石は評論家を養ってきたといえるかもしれない。けれども、房之介さんは偉大な祖父に反抗した挙句に、漫画家となり独自の道を拓いた方である。

 テレビを見ながら、私は従姉弟にあたる松岡陽子マックレインさんのご性格をも併せて想い、生一本の坊ちゃんの気質はやはり遺伝するのだわ、と心が明るくなった。漱石の文学・学問、そしてその生き方を誠実につきすすめていかれる方々だと思った。

 マックレイン陽子さんはといえば、先日滞在先の東京のホテルから電話をくださり、たのしいおしゃべりをさせて頂いた。多摩市の中学校から依頼され講演をされたらしい。『坊ちゃん』を読んで面白かったという声が殆どだったそうだ。

 中学生はいいとしても、電車の中で若い女性が念入りに化粧をしている光景にはもう、ビックリした!とのこと。それから人々の虚栄心から服装や装飾品で飾り立てることも嘆かわしいと話された。まことにその通りであろう。

 今日の画像は昨年、出版された著書『漱石の孫』の内扉にサインしてくださった自筆マンガである。
 鎌倉漱石の会のkiraさんから贈られ歓声をあげたのがつい昨日のようだ。



 

| | コメント (0)

2004年5月14日 (金)

"はんなりしたいい席でした”


 「皆様、すみません。また雨になりまして。」
「雨おとこ」と一部ではよばれているその方は客に向かって先ず丁重に頭を下げられた。場所は金閣寺の新築されたばかりの広間、席主は今日庵・坐忘斎家元である。

 昨日、雨のなかを金閣寺で今日庵家元の献茶式が執り行われた。今年は開山の夢窓国師650年遠忌と足利義満600年祭との記念行事ということで、茶席だけでも傘をさした人々が入れ替わり立ち代り、その数約600人だったと聞く。

 私は友人と共に一万円の茶券を買って朝から客として参会したのだった。先ず副席である淡交会京都支部連合会の薄茶席へ。それが済むと木の香も新らしい広間席の今日庵・濃茶席に入った。

 三客あたりに坐らせて頂いていたが、お家元のご挨拶に続いて床掛け物のご説明を感深く拝聴した。それは千宗旦の七字一行。「馬祖去有時ホウ老」(漢字が出ないのでこのまま)、枯淡の風格がにじみ出ている書だと思った。

 利休の師である古渓和尚は利休に贈ったかの有名な詩のなかでホウ居士と利休を「神通老作家」とうたっているが、僧でなくごく普通の在家仏道修行者が今ここに有るように、そのこころを共有したいと私は思った。

 親しみやすいお話ぶり、そのついでといえば失礼になるが、お家元はこうも仰ったのである。
「この間、中宮寺ではありがとう。はんなりとした、いい席でした。それに…」
と言葉を切ってから続けられた。
「余計なものがないのもよかった。」

 恐縮してというべきところ、私の口からは咄嗟になぜかこんな言葉が出てしまったのだ。
「まだ、女の部類に入っております。」。なんとまあはしたない(笑)。

 昨夜このお家元のお言葉について、書きかけたものの何やら自慢げにみえて結局止めてしまった。ただ、まとめにもならない結論は得た。

 はんなりというのは、華なりということから出た言葉だという。お家元は生粋の京都人でいらっしゃるから別として、一般にはいわゆる京都ブランドのような感じで最近よく使われている言葉だ。

 しかし、なんのことはない。はんなりという名の焼酎も京の地酒の一つとして売られているらしいのである。
 さて、今日の画像は山吹茶会の2日目、ご正客は薬師寺の管長さまであった。




| | コメント (0)

2004年5月 3日 (月)

山吹茶会 イラクのこと


 notoブックも約一ヶ月ぶりの更新になってしまった。
中宮寺・山吹茶会も無事におわり、夢のあとならぬ様々な想いが私の脳裏に明滅する。

 その間、イラクの地では悲惨な戦争が続き、罪のない民間人が犠牲になっている。北朝鮮による日本人拉致問題はいっこうに解決しない。国内では依然として経済不況が経営者の自殺を生み続け、こうしたことはもうニュースにも取り上げられない。

 そのような世相のなかで、私はこの度の中宮寺・山吹茶会の献茶式を無事迎えることが出来たのである。
 坐忘斎家元の中宮寺においては家元として初めて献茶式であり、その添え釜をさせていただくこと。裏千家の末席に連なる自分の「最初で最後の一会」として臨んだのであった。

 日野西光尊ご門跡のおすすめを頂き、私がこの大任をお受けした時、直門会のお仲間である大先輩から「なんで引き受けた!」と先ず第一声があった。

 ご縁ですから、と私は応えた。政治のせかいと同様にどの社会でもトップに支配的な意識がつきまとうのは否めない。先ずはお伺いを立てるいわゆる根回しが求められるのかもしれないが、私はそうしたことは無頓着な人間だ。イラクから生還した人質に対してバッシングが盛んに行われていることをおもいあわせる。

 個人として自分の出来る範囲で中宮寺ご本尊とお家元のための添え釜を懸けさせていただく、ただそのことに専念したいと思った。そして旧友の黒田宗代社中のOmoriさん方をはじめ、私の社中、ネットのご縁から参集して下さった皆さんのお蔭で茶会は成就することができたのであった。

 茶会には裏千家の同門方多数、また表千家の門人方、22日の薮内ご宗家の献茶式の添え釜ということで薮内流の門人の方々もお出ましくださった。利休居士の茶に繋がる、こうしたご縁は席主として言葉に尽くせぬ感激であった。

 今、心からの感謝のなかに、今日の画像を選ぼうとする私がいる。やはり、お家元から頂戴したご染筆にしくものはない。




| | コメント (0)

2004年4月 3日 (土)

漱石のヤシャゴ Soseki


 漱石のヤシャゴがアメリカに誕生した。マックレイン陽子さんからこの前のメールで、ヒマゴの次はなんと言いますか、と尋ねられ、玄孫と書いてヤシャゴと言うようです、とお返事したのだった。

 陽子さんの一人っ子であるご子息は、漱石の面影をどこか漂わせていらっしゃる。一昨年いただいたお写真は拙サイトのトップページに幸せな母子像として掲載させて頂いていた。

 やはり一昨年京都で私といっしょに桜見物をされながら、陽子さんは私の息子は医者をしてますといわれ、次いで娘が…と言われた。娘とは日本風にいえば息子の嫁なのであった。ああ、いい感じだなとその時私は思った。

 無事アメリカで漱石のヤシャゴは誕生された。しかも名前はSosekiというのだ。昔の日本では父方のほうで生まれた子の名前を考え、大抵父親か祖父がつけるのが普通であった。戦後そうした慣習はなくなったがやはりこれも西洋化なのだろうか。

 マックレイン松岡陽子さんからのメールは常に名文である。下手な説明を加えずともそのメールのままをコピーさせていただきたい。


伊津子様

 息子の所の子供が三月二十五日無事生まれましたので、御報告申し上げます。私は遠くに住んでいるのでまだ見ていませんが、写真では太っていて健康そうなので、一安心しました。前にもちょっと申しあげましたが、やっと決めた名前がふるっているので、お知らせ致します。

 Alejandro (Alex) Soseki McClain

 息子のワイフがエルサルバドルで生まれたので、First name はスペイン系のAlejandro (英語のAlexander にあたり、短くすると英語でもスペイン語でもAlex)、Middle name がSoseki、そして性がMcClainで、エルサルバドル、日本、アメリカの三つの血統を入れたそうで、多民族国家アメリカらしい名前かもしれません。息子曰くSosekiという名前は高貴に聞こえて好きだそうです。漱石があの世でびっくりして苦笑しているかもしれません。

もうすぐお茶会ですね。素晴らしい会になりますように。お家元にも出席させていただくことができず本当に残念だとくれぐれもよろしくお伝え下さい。ではまた。

陽子



| | コメント (0)

2004年3月26日 (金)

教え子の花さん!


 私がまだ三十代にならない頃だったろうか。十八歳の花さんが拙宅へ茶の稽古にきていた。大学進学の準備中に母親が急死、心ならずも自活の道を選び、仕事が終わってから近所の私のところに来て、茶の稽古にいそしむのであった。

 東京に住み、大手電気メーカーの管理職をしている兄がいて、彼女はその兄のことを誇らしく話していたように思う。しかし株投機の失敗をしたらしい兄の為に仕送りをするという彼女の話には、仰天したのを覚えている。年老いた父親は実直な庭職人であった。

 花さんの仕事は、母親から受け継いだ店で野菜と魚の小売をすることだった。勿論仕入れから小型トラックの運搬まで一人でこなした。今のようにスーパーがない時代だったから、新鮮な食材が安く手に入るこの店はけっこう繁盛したのである。

 夏になれば店を仕舞ってから彼女は浴衣に着替え、お茶の稽古にやってきた。他のお嬢さんがたの中で、ひとり花さんのひたむきな学習態度に、私はふかく感じるものがあった。着物すがたもなかなかきれいな娘であった。

 京生まれ京育ちの現代っ子・花さんは茶道のよい面をどんどん吸収していった。着物の着方から毛筆でしたためる礼状の書き方や懐石料理の作り方も私は教えた。

 後年、彼女は結婚しよい家庭を持った。時折里帰りしては毎年のように拙宅に立ち寄ってくれるが、ある時話のなかでポツンと花さんはこう言った。

「母がいない家で先生の教えがどんなに役にたったか、結婚して親になった今、はじめて分かりました。」

 教え子とは、なんと有り難い存在であろうか!彼女は働いて得たお金で茶の稽古の月謝を払い、若々しいエネルギーを私に与えてくれていた。そして現在は子育てが一段落し、公認のカラーアナリストとして社会で活躍している花さんがいる。

 茶室は色彩と道具の調和をかもし出す場所でもある。私のささやかな稽古場から、日本の伝統文化からこうした結果が生まれたことを、どのように感謝したらいいだろうかと思う。

 中宮寺・山吹茶会の券を求めに、つい先日他府県から私を訪ねてきてくれたわが教え子の話を、今日は書かせていただいた。




| | コメント (0)

2004年3月11日 (木)

蘇我馬子邸の正殿見つかる


 飛鳥時代の大豪族・蘇我馬子邸の正殿見つかる。奈良・明日香の島庄遺跡。馬子の実態などを探るうえで第一級の発見。(3.11

 今日、このニュースがNHKテレビで報じられた時、アナウンサーが「聖徳太子の養父である蘇我馬子の邸宅跡が」といっているのにオヤと思った。

 厩戸皇子と呼ばれていた聖徳太子は、両親とも蘇我稲目の血をひき、馬子は大伯父にあたる。もっとも馬子のむすめを妃にしているので義父という関係なのだろうと思う。
 しかし、太子が佛教を信奉し十七条憲法を制定したのは、馬子の存在なしには考えられず、それで養父という表現になったのかもしれない。

 女帝であった推古天皇が蘇我馬子にあてたうるわしい歌がある。

 真蘇我(まそが)よ 蘇我の子らは 馬ならば 日向(ひむか)の駒 太刀ならば 呉(くれ)の真刀(まさひ) 諾(うべ)しかも 蘇我の子らを 大君の 使はすらしき(紀)

 (大蘇我の人よ! 蘇我のあなたら、馬で言えば、日向産の名馬ですわ。太刀で言えば、呉(くれ)産の名刀ですわ。ほんとうに…)

 これは、推古二十年(612)正月、天皇は小治田宮で大宴会を催し、この時蘇我馬子は宮殿を誉め讃える歌を献上した。これに和した天皇の歌であるという。「やまとうた」の水垣久さんに私はそれを教えられた。

 今日の馬子の邸宅跡が発見されたという朗報に、聖徳太子とその母に思いをはせる。太子の母は穴穂部間人皇女(欽明天皇と蘇我小姉君の子)なのである。

 そして、中宮寺の寺伝によれば、本尊の如意輪観世音菩薩半跏像は、聖徳太子がおん母をしのんで造られた像であるという。私は日野西光尊門跡からそのようにお聞きした。

 今日の画像は何よりも、中宮寺・半跏思惟の像を載せさせていただきたいと思う。




| | コメント (0)

2004年2月26日 (木)

続 皇太子さまと 水フォーラム2


 かつて、英国オックスフォード・カレッジで研究された皇太子さまのそれは学究らしいお言葉であった。そして一貫して水のテーマを現実社会への提言とされたのもご立派だと思った。

 昨年2月、京都国際会議場で開催された世界水フォーラム!その中の「水と交通分科会」は「淀川21世紀ビューロー」(NPO)が主催。それは岡宏治社長のもと深い志をもつ鋭意の方々が結集している団体である。

 私自身は国際会議場に行くことはなかったけれども、大会の厳重な警備とか、世界各国からの要人の来訪、とにかく大変な催しがあるということくらいは誰かから聞いていた。

 しかし、そうした会議の真の意図に考えも及ばず、ましてや主催者側がどのような方々であるかもまったく知らなかった。水フォーラムという言葉だけがただ記憶にあった。

 ネットのご縁は、まことに不思議で有り難いものである。これこそ、有ることが難い、ということではなかろうか。これまでまったく未知の間柄であった「水」の非営利法人、「淀川21世紀ビューロー」!

 私の運営するへぼサイトと優良サイト「淀川21世紀ビューロー」とが相互リンクの間柄になったこともあって、いつしか理解が進み親しくさせて頂くようになった。
 
 人間味豊かな岡宏治氏のもとに、礼儀正しく意欲的な憲さんという青年茶人あり、ホノルルマラソンで完走したフレッシュな女性社員がある。拙サイトの掲示板に書き込んでくださる内容はいつも刺激的で楽しい。

 いま、私が感動するのは、その岡氏と社員の方々が連れ立って4月の中宮寺における私の茶席にお越しくださるというお知らせを受けたことである。平日のお仕事を返上されてのお出かけも、まことに忝く思われる。

 今日は思いがけないよいニュースと、それに関わり深いお友だちについて触れてみた。1000字制限にひっかるので2回連続の日記になってしまった。

 水の画像がみつからないので、昨年利休忌に使用した掛け物を出してみたが、如何であろうか?
 鵬雲斎大宗匠がこの時、席中におみえになり、「おお、水フォーラムだ!」と仰せになったのを私は忘れない。




| | コメント (0)

皇太子さまと 水フォーラム1


 皇太子さまが44歳になられた。産経webでその記者会見の記事を目にして、お小さい時のニュースを思い出した。お母様の美智子さまが「なるちゃん憲法」を作られたお子、あどけなく聡明で、国民の人気を一身に集められたお方だった。

 若い世代は皇室に対して無関心層が多いといわれるが、皇室ご一家はヒューマンで素晴らしい方々と私はいつも思う。スキャンダルが取り沙汰される英国王室に比べるとなお、その感をふかくする。

 私がこの皇太子さまの記者会見で感銘を覚えたのは、水について言及されたことであった。

 皇太子殿下「私が今、関心を持っているテーマや研究についてお話ししてみたいと思います。」

 ここで嬉しいことは、よく存じ上げている「水フォーラム」の名が出たことである。

「私は今後、地球環境の問題がとても大切になってくると思います。昨年、第3回世界水フォーラムが京都市を中心として開催され、世界におけるさまざまな水問題が討議されました。私も名誉総裁としてこの催しにかかわることができましたが、水に関する問題が実に多岐にわたっていることに驚かされました。中でも、世界では約11億人が安全な水を飲むことができない、そして約24億人が下水道施設を持っていないこと、劣悪な水環境のために8秒に1人、子供の命が失われているという事実には、水は安全と思われがちな日本において、大いに考えさせられるものがありました。恐らく水フォーラムを通してわが国でも多くの人々が世界における水問題について認識を深めたことでしょうし、私自身、公務としてこのようなフォーラムに関係することができたことを大変うれしく思っております。」

 さらに言葉を続けられた。
「21世紀は「水の世紀」とも言われますけれども、」

 そして次のように具体的に述べられたのも、分かりやすくて私には有り難かった。

「ところで、水フォーラムの折にも水上交通の問題が取り上げられ、私たちもそのセッションに出席しましたけれども、私は今後ともこの水上交通の研究を通しても水の問題を深めていきたいと考えています。具体的には、水フォーラムの記念講演の折にお話ししましたけれども、瀬戸内海と京都とを結ぶ淀川の中世の水上交通や、イギリスで研究していたテムズ川の水上交通の問題を、今後さらに深めていきたいと思います。」(2へつづく)

 
鈴木大拙筆 水。




| | コメント (0)

2004年2月23日 (月)

猫の広告文


 2月22日の今日は、ニャ~ニャ~ニャ~の語呂合わせで、猫の日になっている。尤もこれはマニアの間でクチコミで伝わり、メデアが話題提供をしたものと思われる。

 漱石が朝、腹ばいになって新聞を読んでいると飼い猫が漱石の背中に乗ってすましこんでいるのが常だったという。猫好きというわけでもない彼と気ままな猫とは案外相性がよかったのかもしれない。

 漱石は『我輩は猫である』の広告文を書いている。それもまた猫の口を借りた小説のPRだ。

「吾輩は猫である。名前はまだない。主人は教師である。」
 の有名な一節からはじまって、猫はまた人間を持ち上げているのが面白い。

 「吾輩は幸にして此諸先生の知遇を辱(〔かたじけの〕)ふするを得てこゝに其平生を読者に紹介するの光栄を有するのである。……吾輩は又猫相応の敬意をを以て金田令夫人の鼻の高さを」と、うんぬん。

 なんといっても本を買ってくれるのは人間さまであるから、その点は猫もぬかりないとみえる。
 いっぽう鏡子夫人といえば、ある時子猫が布団のなかにいるのに気付かず、布団を片付ける際にあやまって踏んづけたことがあった。
 手当ての甲斐もなく子猫は死んでしまったが、そのことを夫人は隠さず『漱石の思い出』に述べている。

 けれども、漱石夫妻はいわゆる猫可愛がりをすることなく、最後まで責任を持って愛情をそそぐ飼い主であった。それは現代の異常なまでのペットブームとは次元が違うように感じられる。

 『永日小品』には黒猫の死が淡々と綴られている。そこには猫の面倒を見続けた夫人への愛情と感謝がそこはかとなくにじんでいるようだ。

 夫人は猫の墓を作り、夫に墓標の俳句を書いて欲しいとねがう。その俳句もまたすばらしいのだけれども、こうした夫婦の、動物との一体感のようなものは時代を超えて私たちの心を揺さぶるのである。

 この随筆の最後の文章からは、漱石の妻への感謝がしみじみと伝わってくる。

「猫の命日には、妻がきっと一切(ひとき)れの鮭(さけ)と、鰹節(かつぶし)をかけた一杯の飯を墓の前に供える。今でも忘れた事がない。ただこの頃では、庭まで持って出ずに、たいていは茶の間の箪笥(たんす)の上へ載せておくようである。」

 今日の画像は岡本一平えがく漱石先生の肖像である。クロネコがなんともユニークだ。(東北大学附属図書館)




| | コメント (0)

2004年2月17日 (火)

ほっとするニュース


 ホームレスに低額賃貸住宅 東京都などが2千室確保。
 先ほど、こういうニュース記事が目に入った。寒さがようやく遠のいたこの頃、遅すぎる感はあるもののほっとするニュースである。

 最近明るい記事はなかなかお目にかからない。芸能界ではくっついたり離れたりの人間模様が面白おかしく取りざたされるが、こうしたニュースもマンネリ化し、ほな、なんなりとええようににやっとくれやす、ということになる。

 それからするとホームレスに住宅をという今回の東京都の決定には「よくやらはりましたなぁ!」と座布団なんまいか投げたくなるのだ。

 なんでも、4月から都営住宅や借り上げた民間アパートを低額で貸し出すために、NPO法人(特定非営利活動法人)などに事業を委託し、就労相談にも乗るという。その予算約6億円。

対象になるのは公園でテント生活をしている人で、都と区が2000室を確保し、家賃は月額3000円前後という。税金の使い道もこうした実績があれば納税者もなっとくするだろう。

 京都市も別ではない。阪急の地下街を歩くと多くのホームレスが寝転んでいる姿を目にする。老人だけでなく若者も女性も…。
 繁華街にいれば残飯がもらえるから離れないのだと聞く。そして中には精神病院や非人間的で苦痛をもたらす居場所よりも、自由を求めてたどり着いたのがホームレスだったとも聞いた。

 けれども、いまだ彼らに住宅をという政策はない。私はぜひとも東京都にならって実施して貰いたいと思う。誰しも人間である以上そうした権利はあるはずなのだ。

 人生の最後の住宅といえば墓になるが、ひとは一生涯安住の地を望んでやまない。感覚がなくなった死者でなくとも、今生きている者がせめて雨露をしのぐ場所を望んでも、いいのではなかろうか。

 今日の画像は漱石画、海のみえる墓の絵である。漱石は自分のイニシャルを大きな岩石に書いている。





| | コメント (0)

2004年2月 7日 (土)

玉露の一しずく 


「舌の先へ一しずくずつ落として味わってみるのは、閑人適意の韻事である」
 漱石は『草枕』でこう書いている。これが玉露のことを指しているのはいうまでもないが、胃弱の彼がことのほか愛したのが玉露であった。

 抹茶の茶道については茶人を皮肉っている漱石だが、玉露に関してはただその味のみを至福として文章にあらわした。

 「…普通の人は茶を飲むものと心得ているが、あれは間違だ。舌頭へぽたりと載せて、清いものが四方へ散れば咽喉へ下るべき液は殆んどない。只馥郁たる匂が食道から胃のなかへ沁み渡るのみである」
 『草枕』


 今日庵家元の弟君である故伊住政和氏は、茶道家元を支える若き宗匠であり、複数の会社を経営する実業家でもあった。その氏は残念なことに昨年急逝され、最近一周忌が行われたばかりである。

 社員のお一人に伺った話である。
 伊住社長の部下であったYさんはかつて煎茶を習ったことがあり、その話をすると急に社長が興味をもたれ、そこに行ってみよう!ということになった。

 ところが煎茶道家元の家で初めて玉露を飲まれた氏はいたく感動されたというのだ。伊住氏の遺されたエッセイからその間のようすを伺うことができる。

 
「同じ茶の木から生まれたとはいえ、これまで、煎茶と抹茶はあまり仲の良い兄弟ではなかったのだ。だからといって、人間同士が仲良くできないというわけではない。」

 謙虚に、あるがままの心で茶を語る伊住宗匠。こうした伊住さんを心から慕う社員は少なくない。
 氏は続けていう。
「この喜びを伝え尽くす筆力を私は持たない。その代わり、夏目漱石の『草枕』の一文に目を通されることをおすすめしたい。

このエッセイのタイトルは
「一滴の茶のうまみを極める煎茶道の世界に心震える」文・伊住政和
 
「私はいまだかつて、こんなささやかな豊かさに出合ったことがない。
 一滴の味わいに命を懸ける茶人がいる。滴りの中に一境涯を見たり。私は恐ろしい体験を実はしたのかもしれない。」


 今日の画像は昨冬鎌倉漱石の会で展示されていた漱石書簡。
「饅頭沢山ありがとう みんなで食べました いやまだ残っています 是からみんなで平らげます 俳句を作りました」と読める。





                       

| | コメント (0)

2004年2月 2日 (月)

赤坂政次さん


 赤坂政次さんといえばいわずと知れた光悦会の重鎮。茶道具の目利きであるのは申すまでもなく、関西における道具商としてはおそらく随一の方ではなかろうか。85歳とは見えない若々しさをお持ちだ。

 光悦会とは、本阿弥光悦をしのぶ茶会で、春の東京の大師会に対し、秋に京都で開催される大茶会をいうのであるが、その会を作ったのが、土橋嘉兵衛、山中定次郎らの世話役。その筆頭の土橋のもとで研鑽を積み大番頭となったのがこの赤坂さんなのだ。

 もとは遠州流に属しておられたが、戦後復員されてから表千家の茶に親しまれた。流儀は違っても、もともと三千家は親戚であるから当然裏千家にも顔を出される。

 私は京都美術倶楽部の会員制月例茶会でずいぶん前からお馴染みになっていた。赤坂さんはいわゆる道具商といったタイプではなく、ひょうひょうとした人間味があって、茶がある方だなぁと尊敬の念を抱いたのが最初だった。こちらは道具にはずぶの素人だが恥ずかしげもなく会話する。

「お言葉ですが、この掛け物の語句はちょっと違った意味あいではないでしょうか。」
 そんな失礼な問いかけにも
「じつは、私は文学博士でしてな。」
などと、いつの間にか笑声のなかに席中が沸くのだった。
  
 ある時、担当された茶会の券をお送り頂いたが、その筆跡の品格あることに私は感嘆した。自分が恥ずかしくなった。そうした赤坂さんにいつか茶会のご相談をすることができたらなぁ~と内心思っていた。

 もちろん道具も譲って頂いたものがあり、それらは悔いのない買い物であった。中宮寺山吹茶会のことで私がご相談した時、私がとりあわせた道具組の会記と共に主要な道具もをご覧になりながらこう言われた。

「茶は、無理のない道具組がいいと思いますよ。あなたらしい取り合わせが何よりいいでしょうな。」

 主茶碗についてはたいへんなお褒めに預かった。母の形見であり何より愛蔵の道具であれば私の喜びもひとしおであった。

 そのわびすけの茶会は、夏目漱石と猫が出て来るし、ひろく世界とつながっている。そしてそれは坐忘斉家元の和の心を伝える一会として、表現できれば幸いこれに過ぎるものはない。

 今日の画像は、京都美術倶楽部・松庵茶会における席主、赤坂玄古庵その人である。
 昨年春、4月9日のことであった。




| | コメント (0)

2004年1月23日 (金)

電子メールの日


 今日1月23日は電子メールの日だという。そのこころは、「1(いい)23(ふみ)」(いい文・E文)の語呂合せだ。

 猫の日があるというのを知った時はなんで、と不思議だったけれども、2月22日がにゃんにゃんにゃん、だからですと聞いて感心したことがあった。よくまあこうした愉快なことを考え出す人がいるものだ。

 尤も語呂合わせは日本語であることが条件である。Eメールもいい文となってゆかしい響きがあるのがいい。

 ことし宮中での歌会始めは、お題「幸」を古式にのっとり詠み上げるようすがテレビ中継で放映された。天皇・皇后両陛下の品格あるお歌も印象的であったが、召人の大岡さんの歌はEメールということばを入れたフレッシュな歌であった。

 いとけなき日のマドンナの幸っちゃんも 孫三たりとぞEメールくる

    大岡 信

 電子メールがどんなに便利なものか、ひとたびそれを知ったらコンピューターを離せなくなるから不思議だ。大学はもとより高・中・小まで習得するという世相を考えると、今度は、文字を書くことがおろそかになりはしないかと心配になる。これを老婆心配というらしい。

 読み書きソロバンが基本であった頃の教育を受けた者としては、この利便性の恩恵を感じることがしばしばである。
 最近、漱石を訪ねるカメラさんぽの新ページをアップしたが、カナダから一瞬にして原稿が送られてくるのだ。こちらも編集者として色々文句をつけるし、両者の推敲が一瞬にしてカナダと京都間を飛び交う。航空便ならゆうに一週間かかるところである。

 私は素直に今日の日がEメールの日であるのをよろこぶのである。いい時代に生まれ合わせたことを感謝したい。そして、よき友人たちに恵まれるえにしと共に平和な時が続いていってほしいと願う。

 なにか適当な画像はないかと探したものの見つからない。結局自分のパソコンの画像を出すことにした。じっさいは整理整頓ができていない乱雑な部屋なのにここではさもきれいに見えるのが可笑しい。






 

| | コメント (0)

2004年1月14日 (水)

月給取り漱石


 月給取りといえばサラリーマン。
裁判官も代議士もお役人もみな月給取りなのだが世間ではそうは言わない。

 明治40年4月(1907)漱石は大学教授を辞め朝日新聞社に入社した。5月に「入社の辞」として書いている文に次のようなくだりがある。


 新聞屋が商売ならば、大学屋も商売である。商売でなければ、教授や博士になりたがる必要はなかろう。月俸を上げてもらう必要はなかろう。勅任官になる必要はなかろう。新聞が商売である如(ごと)く大学も商売である。新聞が下卑(げび)た商売であれば大学も下卑た商売である。只(ただ)個人として営業しているのと、御上(おかみ)で御営業になるのとの差丈(だ)けである。


 森鴎外や夏目漱石は、西洋に留学してはじめて印税というものを知った。印税をとったのは日本では漱石からだという。

 漱石の文名があがるとジャーナリズムも放ってはおかなかった。読売からの入社勧誘は断ったが40年朝日から招きがあり漱石は主筆池辺三山の人柄に感じて入社を決意する。

 月給200円。賞与年2回。その他9か条にわたる契約をした。大学の年俸は800円であったから、朝日は約4倍に近い年収を約束したことになるのである。

 こうしたことは合理主義とでもいうべきだろうか。漱石は「理に合った」契約というものを取り交わした先進的な日本人であった。
 ところがその月給を弟子筋の野上豊一郎(臼川)に受け取りに入ってくれと頼んだ手紙があるのも面白い。

 明治41年8月、漱石は野上豊一郎宛てに書簡で月給の受け取りを依頼した。

 社から月給をもらいたいに付ては御ひまな時封入りの名刺を以って京橋区滝山町四の社の会社へ行ってお受け取り願度と存じ候。二十五日の午後が渡す日なれど今月末迄のうちにていつにてもよろしく候。用のあるところ時だけ済まぬ事と存じ候。

 のんびりした師弟関係がほほえましい。
 当時の貨幣価値がもひとつ分からないが、後に漱石が令嬢に買ってあげたピアノの代金が400円だったというから、大体の物価水準は想像できよう。


今日の画像は初期に描かれた漱石画、「書架の図」である。 ”Oct,1902 K.N.”のサインと共に「君と我、かたわらに人無し」と英語で記されている。
 君とは愛蔵の書物を指しているのだろうか。






| | コメント (0)

2004年1月 1日 (木)

障子貼り


 内田魯庵 『温情の裕かな夏目さん』のなかに、漱石が障子を貼っていたという話が出ていて興味ふかい。

 たまたま昨年の暮れに、といってもつい二三日前のことだけれども、私の寝室にしている三畳の和室の障子の破れ穴から風が吹きこむので、慌てて目貼りをしたのだった。

 さっぱりと張り替えればいいものを応急処置みたいなことで間に合わせた。後で主人から「まるで子どもが貼ったようだな。」とひやかされたくらい拙い出来上がりだった。

 しかし、あの亭主関白の漱石が障子貼りをしていたとは!しかも明治時代、こうした仕事をするのが主婦ではなく一家の主であったということが面白い。

 魯庵は、「私が夏目さんに会ったのは、『猫』が出てから間もない頃であった。」と書いているところからこの家は、森鴎外が住み、そして漱石も住んだことのある「千駄木の家」である。

 「初めて会った時だってわざわざ訪ねて行ったのではなかったが、何かの用で千駄木に行ったが、」とあり、年譜からも夏目漱石が住んだのは明治36年3月~明治39年12月ということが判明するのだ。

「丁度夏目さんの家の前を通ったから立寄ることにした。一体私自身は性質として初めて会った人に対しては余り打ち解け得ない、初めての人には二、三十分以上はとても話していられない性分である。ところが、どうした事か、夏目さんとは百年の知己の如しであった。」

 漱石はたいへん機嫌がよかった。
「丁度その時夏目さんは障子を張り代えておられたが、私が這入(はい)って行くと、こう言われた。」

「どうも私は障子を半分張りかけて置くのは嫌いだから、失礼ですが、張ってしまうまで話しながら待っていて下さい。」
 そんな風で二人は全く打ち解けて話し込んだ。私は大変長座をした。」

 今明治村に保存されているこの家を、私は訪ねてみたいと思いながら未だに果たせないでいる。漱石が「我輩は猫である」を執筆した書斎は「我猫庵」と呼ばれていたようだが、ちらっと障子のようすを見たかったのである。

 漱石先生はちゃんとした貼り方をされたのだろうなあ、とそんな子どもじみた想いにしばらく浸っていた。

 今日の画像は鉄道旅さんが明治村に行って撮影された、漱石が『我輩は猫である』を執筆した家。苦沙弥先生と猫の昼寝の場所だった縁側には白い障子が続いている。





| | コメント (0)

2003年12月26日 (金)

クリスマスのパン と シスター


 イブには毎年必ずパンを作って持ってきてくださる方がある。
カトリック修道院でシスターたちが作られる菓子パンだ。クルミやナッツなどの木の実が入っており、見かけよりも中身はずっといいので私は毎年心待ちにしている。

 ケーキ作りには第一人者と自他ともに認めていたシスターポーラは今アメリカに行って留守だとか。高校の学校長でありながらケーキ作りが得意というすこぶる魅力的な日本女性なのだ。彼女がいないのでで今年のパンは例年より品質が劣るのだという。

 友人であるシスターカーラが今日、プレゼントのパンを運んできてくださった。リフォームした居間のこたつに入ってもらい久々に語り合った。シスターは学校では経理担当の仕事をされ、そのほか茶道の指導もされている。

 いぜん拙宅に稽古にみえていた時期があった。修道院ではわからない世間のものを多少なりともお伝えしたのかもしれない。私の傾向として点前よりも水屋、取り合わせ、道具の見方、茶書についての語り合いなど…。お恥ずかしい指導であったが、むしろシスターから学んでいた自分を思う。

 来年4月の中宮寺での山吹茶会、お家元のお献茶、今日庵席、淡交会奈良支部席、そしてかたじけなくも私が一席釜をかけさせていただく。その添え釜ということに話が及んだ時、シスターは目を輝かせて言われた。
 「私はおてづだいに行きますよ!」

 足を痛められ、長く坐っていられないというシスター。
 無一物ということとは異なるけれども、自分のわがままから門人を持たない私にもこうした方々の多くの支えがあり、とにかく一会は進行しそうな気配である。
  
 ことしもクリスマスのプレゼントは修道院特製のパン!みかけよりも中身が美味しいのが嬉しい。

 そして更に私は、インターネットの恩恵を胸をあつくして思うのである。

 今日の画像は、寒牡丹。松庵茶会12月例会で撮影したもの。
 春牡丹には青い葉が豊かにあるが、寒牡丹には殆どない。そして古木を添えるのが慣わしとなっている。




| | コメント (0)

2003年12月12日 (金)

鎌倉漱石の会 冬日のなかに


 12月9日の漱石忌を前にして7日の日曜日に開催される鎌倉漱石の会に参加するために、私は前日から大船の宿舎に滞在していた。
 京都を離れるのは一年のうち数えるほどしかないがご縁の有り難さ、鎌倉もうでのこの行事は私にとって欠かせないものになった。

 先ずホテルから東慶寺にお電話して井上禅定さまのご都合をお伺いする。電話に出られた方から「じつはきのう転んで骨折され入院されています。」との思いがけないお知らせ。10月には長年連れ添われた夫人に先立たれたばかりと知ったところだった。まことにおいたわしい。

 しかし、禅定さまのことだ。持ち前の平常心で時間がたてば回復されることだろう。心からご快癒をお祈りしたい。

 翌7日の朝8時半には東京からミモザさんがホテルまで来て下さりごいっしょに朝食をとる。

 雨もようで寒かった前日と打って変わり、この日は陽射しもやわらかく円覚寺境内を幸せな気分で帰源院へと歩く。漱石会会員の方々が黙々と山門への石段を登って行かれる。落ち着いた雰囲気をもつ方々だ。

 本堂に坐って、ご住職が作られた恒例の甘酒を早々と頂戴することにした。前々回だったか遠慮して最後にミモザさんと手を出したところ品切れでガッカリ。今回帰源院和尚さまお手製の甘酒はあったかくていいお味だった。 

 午前・午後とも研究者のそれぞれご専門の講話で、漱石の留学時代の作品と手紙、フランスと英国に絞られたもの。いつもながら学生にかえった気分で聞かせていただく。

 本堂でなく庭の腰掛で静かに聞き入っている会員の方々。こうした不変の読者に恵まれた作家は日本で何人有るだろう。

 大正5年12月1日、漱石は病臥の床で「香をたいてほしい」と鏡子夫人に頼んでいる。夫人は「梅ヶ香」をたいてやりました、と『漱石の思い出』には書かれている。私はその光景をふっと思い浮かべた。

 茶道で炉の季節に用いる練香にその「梅ヶ香」の香名がある。私は帰源院のご住職に手土産にもと持参していたが、ついにお渡しする機会もないまままた京都に持ち帰ってしまった。

 100年後の今、漱石先生はこのようにして、香をたいてもらっているのである。冬日のなかに、こころ厚い多くの読者によって!
 今日の画像は帰源院の本堂と庭での昼食時である。
 

 



 

| | コメント (0)

2003年11月26日 (水)

リフォーム大作戦


 テレビの人気番組は世相の流れがあるようだ。最近は家のリフォームをのぞむ施主に建築家がどのように対応し住居を完成するかというリポートに人気が集まっている。現在週2本別のテレビ局でそれぞれ放映している。

 平素あまりテレビを見ない私がこうした番組に興味を持つようになったのも、実際のところわが家で似たよううなことを始めたからである。木造家屋の水まわりが年数を経てガタが来たのだ。

 台所、台所に隣接する居間、洗面所、風呂。これらがいつの間にか湿気を含んで床板がボコボコになり、どうにもやりかえねばならなくなった。それに住人の今後のためにバリアフリーでということになり、ちっぽけなリフォーム大作戦になったのだった。

 私たちは国全体が物質的には貧しい時代に育ったからだろう。ものをやすやすと捨てるということが出来ない。今回さし当たって不要になったものを捨てることからはじめ、思い切らねばならなかった。

 あるわあるわ、捨てなければならないものが山のように出て来た。二十年ちかく使用した2漕式洗濯機。冷蔵庫もほぼ同じ時期に買ったもの。電子レンジも旧いものながらまだ使用できる。残念ながらこれらも他のものと廃棄処分にしなければならない。

 シンプルな旧式の家電だったからこそこんなに長持ちしたのだろう。とにかく、システムキッチン・リフォームが台所と居間とだけ一応出来上がった。バストイレはこれからだ。

 決して高級品ではないが、なんとなく幸せな気分になってくる。それでも新しい家電は「10年もてばいいでしょう」と言い、店の人が運んで来た。

 日本人の統計から見れば、人間の持ちは80年としてなかなかよく出来ていると思う。修繕も近代的な病院でなく、ぬくもりのある家の中で、そろそろとやってゆけばいい。台所に一輪の花でも活けておこう。

 今日の画像は、大黒柱ならぬリフォーム柱に掛け花入れをかけ、庭に咲いたホンナミツバキをさしたもの。この花入れは短冊が春慶塗で花入れは渋草焼き。飛騨高山の特産品である。

 主人の大先輩であり恩師でもあるK先生から何かの記念に頂戴したもの。K先生の奥様が好まれたと伺っていた。
 やはり二十年ちかく私が仕舞い込んでいたものを、今回ここにお晴れさせていただいたのである。
 K先生ご夫妻にあらためて感謝!




 

| | コメント (0)

2003年11月14日 (金)

老いるということ


 米大リーグの2003年最優秀監督賞に、ナ・リーグはマーリンズのマケオン監督(72)が、ア・リーグの監督(46)と共に受賞者として選ばれた。

 マケオン監督はレッズを率いた1999年以来、2度目の受賞というからベテラン中のベテランだが、72歳という年齢がひときわニュースをもりあげた。

 今年のシーズン途中に就任しながら、チームにワールドシリーズ優勝をもたらしたマケオン監督だ。この日の電話会見で、「(球団に)私のような老いぼれを雇う勇気があったなんてねえ」と楽しそうに語ったという。

 私はそんな記事を読売ウェブで読みながら、最近政治面でクローズアップされた比例選挙区定年制を思い、日米時を同じゅうして72歳ねえ…とその違いを感じた。

 衆院選出馬を拒否された中曽根氏の85歳と比べれば、この老指揮官は高齢の基準が違っている。しかし大リーグの能力主義はいかんなく発揮されたとみていい。

 アメリカの能力主義は非情な世界であろう。ただ、日本では浪花節的な体質とよくいわれることだけれど、どうしてその違いが出るのだろうか。捨てる神あれば拾う神ありという自由なよき空気があるのは、どちらの世界だろうか。

 老ということは年齢だけのことではないと思う。自然の中の自分を知ること…それもあるのかもしれない。
 いっぽう、傷ついたものを補修し、その傷も作品の風格にまで高める、そうした侘びの美を見出したのが日本のすぐれた茶匠たちであったことを、思いあわせる。

 先日、桐蔭会11月の例会で今日庵第4世仙叟の竹花入を拝見させていただいた。三筋に割れたあとを漆でつくろい鋲でとめてある。その傷がそのまま景色となっているのである。白玉椿が一輪楚々と入っていた。

 ご宗家には宗旦作の老僧というじつに風格ある二重切竹花入があり、時々茶会にお出しになる。美術品というより人生そのものといっていい程の感動を私は覚える。

 老僧という銘がまことにふさわしい。

 今日の画像は昨年天龍寺献茶式の日、今日庵席で撮影させて頂いたその「老僧」である。ストロボの光で侘びの感じがでなかったのは残念だったが。




| | コメント (0)

2003年11月11日 (火)

働きアリ と お大尽 


 「働きアリ」2割が働かず、北大・助手らが研究ーーこんな記事が目に飛び込んできた。

「働き者」とされながら、ほとんど働かない「働きアリ」がいるというのだ。その内容とは、昨年春から5カ月間、国内の森林などにいるカドフシアリ約30匹ずつの三つのコロニー(集団)を室内の人工の巣に移して観察した。

 その結果、「巣の外にエサを採りに行く」「卵や女王アリをなめてきれいにする」「ごみを捨てる」などの仕事をほとんどしないアリが、どのコロニーにも約2割いたという。

 ここまでなら人間さまの世界とあまり変わらない。たまたま昨日は衆議院選挙があって私も投票に出かけたこともあって、妙にこのアリの話が頭から離れなかった。

 国民のために働くアリを選ぶのは、地味な働きアリの群集だ。その選んだアリは至れり尽くせりの高賃金で養うことになるのだが、果たして思うように働いて貰えるかどうか?

 議会での出席簿を点検するわけでもなく、発言はゼロだというアリもある。親子、夫婦、兄弟、一族郎党、揃って働きアリの「のれん」を出す。こんなに美味しい場所はないのかもしれない。

 しかし、自然界の働かないアリは約2割だというのは、立派なものである。しかも研究者は次の考察をしているのも興味深い。

 働きの良いのを取り除くと、次に仕事熱心な層の労働量が若干増えたが、働かない層はやっぱり働かなかった。逆に仕事をしないのを除去すると、よく仕事をしていた数匹の労働量は若干、減った。最も働いている層の仕事は、幼虫の世話が大半だったという。

「働かないアリは一見、役に立たないようだが、コロニーにとっては意味があり、役立っている。働かないのは、年を取って働けないのかもしれない。」

 こうした観察はなかなか面白いと思った。
 それにひきかえ、人間の議員はいうならばお大尽の職分である。選挙民の殆どは営々と働き、中には失業の憂き目にも会い、それでも納税はきちんと払うといった多数のアリたちなのだ。

 何よりも、原点であるものを忘れないでいただきたい。取るに足らない、そしてあまり働かない1匹のアリでしかない私は、小泉さんに期待しつつ、このように思った。

 今日の画像は、茶庭の露地にある関守石。この石があればこちらは通れませんという指標になるのである。
 


| | コメント (0)

2003年11月 6日 (木)

柚子の色づくころ 


 京都は西、水尾の里の柚子は有名である。柚子湯にと、以前お知り合いからたっぷりとした包みをいただいたことがあった。年輪ある柚子の木の実は大きくて重みもありその香り共じつに風格があった。

 ゆう、京都ではゆずというより、ゆうと呼ぶことが多い。拙宅のせせこましい庭にも柚子の木は一本植わっているが、天神さんの縁日に出る植木市で苗木を買って植えたものであった。数えればもう30数年もの前になろうか。

 ゆうは蜜柑と同じ、その葉は蝶々の大好物である。蝶は必ずやって来て卵を産み付ける。ひょろっとした小さな木ながら春から夏にかけて青虫たちがくっつき、私は割り箸でつまんでは来る日も来る日も青虫退治をやったものだ。しかし、まずいことになってしまった。

 「おばちゃん、あかん!ぼく青虫を育てて蝶になるの宿題でやってるんだよ。ゼッタイ、コロシたらアカンのや!」
 近所の小学生がある日、やってきて私のこの現場を押さえてしまったのだ。

 木と青虫の折り合いをつけどうごまかしたか覚えていないが、あの日以来、虫退治をすることからは一応撤退したのだった。そのお蔭か、黒アゲハチョウがわが家の庭にはヒラヒラ舞うようになったのが可笑しい。

 桃栗三年、柿八年――梅は酸い酸い十三年、柚子は九年花盛り~
そんなことわざがあるが、九年どころか20年過ぎてもゆうの実はならなかった。青虫が葉っぱを食い荒らすからだ。
 ところが諦めていた頃柚子の白い花が咲きその花は見事実をつけた。それ以来毎年わが庭の嬉しい行事になっている。

 利休は「柚子の色づくを見て炉を開く」と言ったと伝えられる。旧暦十月の亥の日に開炉の日は定められているが、ことしはゆうの色が丁度色づいてふさわしい日になった。

 先年、口切の茶事をいそいそと自分の茶室で行っていたことなどが思い出される。ご宗家では宗旦忌に壷飾り花月をして宗旦さまへお供えする。門人として身がひきしまるひとときである。

 今日の画像は虫に食べられて葉がなくなったわが家の柚子の木、あちら立てればこちら立たず…(笑)。それでもゆうは色づいてくれた。



| | コメント (0)

2003年10月19日 (日)

星野さん と 中坊さん


 今日、阪神タイガースは日本シリーズ第一戦を行いダイエーに敗れた。
 テレビの一場面をチラっと見た限りでは映っていたのは星野監督が笑っている顔だった。勝敗が決していない時でトラ側が失敗した時だが、目下、日本人の人気度ナンバーワンと思われる星野さんだ。その表情もなかなかよかった。

 タイガースが優勝した頃、すでに星野さんの母堂は逝去されていたが、彼はその葬儀に行かず野球場にいて監督の責任をまっとうされた。 ひとり監督のその胸中はいかばかりであったろう。

 優勝した明くる日にはスポーツ新聞数紙に阪神優勝御礼の全面広告を出した。ファンの皆さまへと数千万を出してその気持ちを表した。

 男仙一、とファンやメデアがはやしていたあの言葉は、今はみられなくなった日本男子の理想像だったのだろう。
 オーナーに対して強い発言力をもち、チームを変えた名監督。しかし、最後には亡き母上のためにファンのために、純粋に彼は布施をされたのだと私は思った。

 そうこうする内に今度は辞任表明だ。なんというすっぱりとした去り際であろうか。原監督を解任した巨人のオーナーをみればこれがこの世界の現実であると彼は達観されたのだろう。

 まさに、三界は火宅なり。

 漱石が第一義という言葉をもってあらわした倫理観、世の正義感、そうしたものを今の世に見ることは少なくなったが、私の心から尊敬してやまない中坊弁護士のことがこのところしきりと思われる。
 
 中坊さんは誰も成し得ない火中のクリを拾われたが為にとんだことになってしまった。以下がニュースで知った事柄である。

 中坊公平弁護士は、整理回収機構の社長だった97年から98年にかけて、旧住専に負債があった大阪、不動産会社の債権回収で土地を売却した際に、ほかの債権者に実際より低い金額を伝えたとして、不動産会社側から詐欺容疑で刑事告発されていた。
 
 10日午前、会見した中坊弁護士によると、「私のほか、部下が東京地検の取り調べを受けるに至った。厳しい回収姿勢を求めた私の責任だ」として、46年にわたった弁護士資格を返上することを決意したという。

 ああ、中坊さん!
 私はここでも、ひとり中坊さんの胸中を思わずにはいられない。
 三界は火宅なり。
 法華経の比喩品にある仏のことばを反芻するばかりである。
 

 

| | コメント (0)

2003年10月13日 (月)

京都五花街の芸妓


 友人で、長年お茶屋に茶の指導に出かけている方があって、よく舞台の券を頂戴する。京都五花街についてくわしい方でいろいろ教えてもらえるのが有り難い。

 祇園甲部が都おどり、先斗(ぽんと)町が鴨川おどり、上七軒が北野おどり、あと、祇園乙部、宮川町と五つある、京都五花街はお茶屋が母体である。

 先日も北野上七軒の寿会にお誘いを受け歌舞練場に行き、ひとときを楽しませてもらった。お茶屋のなかではスターともいえる売れっ子芸妓がいてその人の出る舞台はひときわ観客をとりこにする。

 私はストロボなしで舞台から最も離れた壁際に立ってカメラを構えた。同性の自分でもうっとりとなる美しいひとの舞であった。なんとなくあの文章が浮かんできた。

 漱石は『我輩は猫である』のなかで、美しい三毛子にあこがれる男の想いを語らせている。新道の二絃琴の御師匠さんの所の三毛子(みけこ)についての一文だ。


 三毛子はこの近辺で有名な美貌家である。吾輩は猫には相違ないが物の情けは一通り心得ている。うちで主人の苦い顔を見たり、御三の険突を食って気分が勝れん時は必ずこの異性の朋友の許を訪問していろいろな話をする。すると、いつの間にか心が晴々して今までの心配も苦労も何もかも忘れて、生れ変ったような心持になる。女性の影響というものは実に莫大なものだ。

杉垣の隙から、いるかなと思って見渡すと、三毛子は正月だから首輪の新しいのをして行儀よく椽側に坐っている。その背中の丸さ加減が言うに言われんほど美しい。曲線の美を尽している。尻尾(しっぽ)の曲がり加減、足の折り具合、物憂げに耳をちょいちょい振る景色なども到底形容が出来ん。ことによく日の当る所に暖かそうに、品よく控えているものだから、身体は静粛端正の態度を有するにも関らず、天鵞毛を欺くほどの滑らかな満身の毛は春の光りを反射して風なきにむらむらと微動するごとくに思われる。吾輩はしばらく恍惚として眺めていたが、やがて我に帰ると同時に、低い声で「三毛子さん三毛子さん」といいながら前足で招いた。

 漱石先生は祇園に来てお茶屋で舞妓とざこねをした経験もあったが、色っぽいものでなく幼い舞妓に同情したのだった。それを書いた新聞記者の記事も残っている。




| | コメント (0)

2003年10月 2日 (木)

蓮池 と 蓮茶


 天龍寺の蓮池には石橋がかかっている。昨日その場所を歩いていて『虞美人草』のなかの甲野さんと宗近さんとの会話を思い出した。
 大燈国師や夢窓国師の名も出てくるところがやはり漱石の好みなのだろう。

「どうでも、好いさ。――まあ、ちっと休もうか」と甲野さんは蓮池に渡した石橋の欄干に尻をかける。欄干の腰には大きな三階松が三寸の厚さを透かして水に臨んでいる。石には苔の斑が薄青く吹き出して、灰を交えた紫の質に深く食い込む下に、枯蓮の黄な軸がすいすいと、去年の霜を弥生の中に突き出している。

 私は和服であったけれど、愛機のライカデジルックス1をバックから取り出し首にかけた。そしてすぐさまシャッターを押した。漱石が朝日新聞にこの小説を著した当時は、天龍寺の蓮池もかなり広いものだったのではないか…などと想いながら。

 季節は違うものの、枯れ蓮といい石の橋といい、現在もあることが何よりである。石には苔の斑の代わりにススキの穂がなびいている。

 寺の境内であればこそこうした景観が守られたのであろう。神社仏閣は庶民の間ではどうも親近感が薄れているようだが、自然破壊の世相を押しとどめる役割を果たしてきたことは大きいし認めなければならないと思う。

 蓮について今日はいい話を聞くことができた。裏千家今日庵に於いては毎月一日は直門が家元の道話を拝聴する。家元のお話の後、前家元の千玄室大宗匠が先日ベトナムに行かれた折の土産話をされた。

 「共産主義国家のベトナムの国家元首の歓迎を受けましてね。ホーチミンの遺骸も見ました。ホーチミンというひとは偉い方で…。」
 「そこで蓮茶というのを飲みましたが、蓮の葉を煎じたもので蓮の実も入っているようでした。」

 ベトナム。過去のベトナム戦争を知る年代の私たちにとって、それはほっとする和やかなひとときであった。
 私もいつの日かその蓮茶を飲んでみたいと思う。





| | コメント (0)

2003年9月12日 (金)

夕顔もよう 宗旦の子・仙叟が好んだ夕顔釜


 釜ひとつあれば茶の湯はなるものを 数の道具をもつは愚かな 

 利休百首にある和歌であるが、素直にみれば釜の重要性を言ったものだろう。利休時代ヘチカンという貧しい茶人があって、手取り釜、つまり大きい鉄瓶で茶の湯をし、人をもてなしたという。

 彼は侘び茶人の代表選手のようになっている伝説の人だが、実際にはなかなかこういかないのが茶の世界かもしれない。

 京都美術倶楽部。およそ、茶道具や骨董に興味をもつ人ならこの倶楽部の名を聞いたことはあるのではなかろうか。ここは全国から集まった骨董品が鑑札のある道具商人の間でせりにかけられる処である。いわゆる卸、そうしてここから小売へと。

 その京都美術倶楽部で行われる松庵茶会。よりぬきの道具商による茶会ということで年10回開催されている。道具がわからないと困るので私も長年勉強にもなればとこの茶会には通ってきた。会員制になっていいるがその多くは京阪神の数寄者のような人々だろう。とにかく道具を見るのが好きだという…。
 今月の例会は善田好日庵。京都の道具商では知らぬ人はない大御所だ。しかしそれは驚くべき席であった。

 釜。私が釘付けになったのは、夕顔のもようが浮き彫りになっている地肌と、これを好んだ宗匠の在判がくっきりと出ている釜であった。その次第というのが尋常ではない。仙叟自筆の添え状に加えて更に一燈、玄々斎と続くのである。

 釜 仙叟好夕顔釜 仙叟在判 添状 一燈折紙 玄々斎箱 浄久造 田村家伝来。

 これこそ、裏千家今日庵において秘宝ともいえる道具ではないか!
 おそらく途方もない値段がついているに違いない。席主の善田氏はそんなことを匂わせておられたし、ひょっとして億近いのではないかとも思った。

 ただ、愉快であったのは、この釜のことを知らせた仙叟の書状の内容である。魚のいわしを貰ったことを喜び、相手にこれから賞味すると礼を述べているのだ。こうしてみるとどこかに侘びの気分がにじみ出ているようで、私は或る救いを感じたのであった。




| | コメント (0)

2003年9月 4日 (木)

野球 のーぼーる


 阪神タイガースの優勝はマジック7となり星野監督胴上げのその日が愈愈近づいてきた。
 なんといってもこれまでが永年ダメトラだったから、ファンならずとも今年の健闘には快哉を叫びたくなる。

 ところでベースボールを野球という語に訳したのは正岡子規だという説があるが、どうもスポーツ界でははっきり認知されてはいないようだ。

 ただ、彼が自分のことを野球と書いて「のーぼーる」と読ませたということは確かな資料として残っているらしい。

 子規の本名は升(のぼる)といい、野球青年だったという。のぼるから「野のボール」すなわち「野球」となったと千葉にお住まいの朝川 渉さんに教えられた。

 それは、明治23年3月16日の葉書で、子規は自分のことを「野球」と署名し、「のぼーる」と読ませた。同年4月には、手紙に次のような俳句を書いているという。

 恋知らぬ 猫のふり也 球あそび   能球

 恋を知らぬ猫のふりして、キャッチボールで遊んでいるのは、青年子規のプロフィールであろうか?
 ここにある能球という署名もやはりのーぼーるのシャレであろう。まことにほほえましいエピソードではないか!

 後年、病気であれほど苦しんだ彼にもこのような快活で愉快な日々があったことをしみじみと喜びたいと思う。

 今日の画像は子規が描いた「玩具図」である。九月二日の署名があるのがうれしい。漱石に勝るとも劣らぬ美しい画像をつつしんでお借りする。





| | コメント (0)

2003年8月25日 (月)

鴎外が訳した 「椿姫」 の名


 椿の原産地は日本であり、そのため学名はカメリアジャポニカという。日本では一重咲きの藪椿や雪椿が基本的な椿とされているが、ヨーロッパなどではどちらかといえば八重咲きの椿が愛されてきた。

 「椿の花をもつ女」、デュマが書いた小説の原題を森鴎外が「椿姫」という名に訳したというが、見事な翻訳である。けれども小説よりもヴェルデイ作曲のオペラで多くの日本人に親しまれてきた。

 椿の花には香りがない。椿姫がいつも胸にさしている椿の花は、香りがないゆえに胸を病む彼女が好んだのだという。百合のように香気がつよければ胸苦しくなるからであろう。

 その椿姫にはモデルが存在したという。マリ・デュプレシという美女がヴィオレッタ(マルグリット)の実際のモデルとされている。今日の画像はコメデイーフランセ-ズ所蔵と伝えられるマリの肖像である。

 聞くところによると聖職者との私生児として生まれ、不幸な環境に育ったマリ。その彼女は類まれな美貌と芸術的センスによって瞬くうちに多くの貴族達の憧れの的となった。ただし、身分はいわゆる高級娼婦、クルテイザンヌとして…。

 先に私は吉野太夫と比較して椿姫には多分に失礼なことを書いた。思えば文豪・デユマの心をとらえ、大音楽家ヴェルデイを虜にした心あるマリ!私はその魅力についてとやかくいうものではない。ただ贅沢を欲したあまりに悲劇を身をもって演じた西洋の「姫」は、吉野とは余りにも違いすぎると思ったのであった。

 吉野はつつましさを体得した女性であった。身請けされた後に灰屋紹益に嫁した彼女は貧しかったせいか常にみすぼらしい身なりをし、夫と家に尽くしたと伝えられる。吉野が好んだ吉野窓はよく知られているが、それは完全な円形ではない。底辺が切り取られており、それは不完全な欠けたものを尊ぶ気持からなのであった。
 
 
 今夜は、高級娼婦というまことに哀しい名を一時はつけられた二人の美女を想い、その時代を想い、椿の花に寄せて、ささやかなしのび草とした。




 

| | コメント (0)

2003年8月18日 (月)

京都五山 大文字送り火


 16日の8時過ぎに家を出て大通りまで歩いた。大文字送り火は自宅の2階の物干し台に出ると、彼方の山に燃えるのがくっきりと見えるのであった。ほぼ2、30年前にもなろうか。

 そうして家族とともに、逝きし人を送るために合掌するのが習いであった。他の都市ほど高層建築がニョキニョキと建つことなく、京都は住宅地域の規制が厳しかった頃のことである。けれども望景という点において今はすっかり変わってしまった。

 ネットのお付き合いでいえば知人ということになるが、一人娘を亡くされた東京の方があり、せめてその方に大文字の送り火を写真に撮ってお届けしたいという想いもあった。
 
 夜の往来は見物人のラッシュだった。手に手にカメラ、中にはケイタイをかざして写真を撮っているのが見える。交通整理のおまわりが「立ち止まらないで!」と声をからして叫ぶ。観光客が多いようだ。

 大文字の送り火の歴史は古い。京都の送り火は松明を投げて虚空をいく霊を見送る風習から出たものである。また病気平癒、悪霊退散のご利益があるというも人気を呼ぶのだろう。

 京都にならってか日本各地で大文字焼きという盆の行事がかなりあるのを知った。「三島夏まつり大文字焼き」は日本一の大きさを誇るもので、「甲斐いちのみや大文字焼き」も有名だそうだ。

 もっとも古い説は平安中期、弘法大師空海が始めたものだという。
 山麓にあった浄土寺が火災に遭った際、本尊の阿弥陀仏が光を放ちながら山上に飛び、火を免れた。 そこを弘法大師空海が耳にし、人の体を表す「大」を描いた。(都名所図会)
 
 今日の画像は、大文字送り火の夜景で偶然撮った一枚である。デフォルメされているようなのが可笑しい。



 

| | コメント (0)

2003年8月10日 (日)

吉野太夫と放映ドラマ


 歴史上の人物を取り上げるドラマは視聴率がよいので、なんのかんのと創作をしては人気ドラマを作り上げ放映するようだ。そのことで今お膝元の京都島原ともめている。

 ことの起こりは、NHKの大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」で4月6日に放映された、江戸時代初期の名妓(めいぎ)、吉野太夫(1606―43)の半裸シーンについて、太夫ゆかりの京都・島原の文化財保護団体「角屋(すみや)保存会」と地元自治会が「一流の文化人だった太夫への偏見を招く」と、NHKに抗議していたことが公になった。

 問題になったのは、背中をあらわにした太夫が武蔵に「抱いて下さい」と言う場面らしい。島原側が今年2月と3月、NHKに「裸のシーンや性的な文言の削除」を求めたが、制作担当者らは「必要な個所」として譲らなかったそうだ。

 製作側としては、遊女だから当然という考えだろうし、そうした性的シーンが人気を呼ぶ風潮を熟知してのことかもしれない。けれども、吉野の地元にいる者としてはやはり心穏やかではない。

 私は、吉野太夫とは世界でもあまりみられないような魅力的な女性だと思っている。椿姫が西洋では有名であるが、到底この二人ではくらぶべくもない。吉野には教養と情けとさらに日蓮へのふかい信仰があった。常照寺の赤い山門は「吉野門」とも呼ばれているが、吉野太夫の寄進によって建てられたのであった。

 当時、彼女に思いを寄せて通い続ける二人の男性があったのはよく知られている。関白・近衛信尋と佐野重孝(灰屋紹益)。本阿弥家の生まれである佐野家。近衛と共に京の町を代表する文化人であった。紹益は彼女を身請けする。紹益二十二歳、吉野は二十六歳の時であったという。

 佐野は親の許しが得られず駆け落ちしたのであるが、後に吉野の人柄に感じ入った養父に認められ幸福な家庭を営んだと伝えられる。灰屋というのも茶につながり吉野は吉野窓という窓を考案し遺している。


 今日の画像は、吉野の夫・灰屋紹益が彼女の没後、生前を偲んで、御所の絵師・土佐光興に描かせたものである。



| | コメント (0)

2003年8月 4日 (月)

黒猫の因縁


 黒猫といえば先ずポーの小説になるだろうが、日本ではなんといっても漱石であることは誰しも異論はないと思われる。

『吾輩ハ猫デアル』の序に、猫に対してじつに細やかな心情を書いているのを見ると、昨今テレビなどで評論家が「飼い主とペットはパートナーの関係でなければならない」と弁じているのが、何を今更と笑ってしまう。

 その「序」にはまさしく人間と猫との因縁が同じ生き物として書かれているのである。

 此書は趣向もなく、搆造もなく、尾頭の心元なき海鼠の樣な文章であるから、たとひ此一卷で消えてなくなつた所で一向差し支へはない。又實際消えてなくなるかも知れん。然し將來忙中に閑を偸んで硯の塵を吹く機會があれは再び稿を續ぐ積である。猫が生きて居る間は――猫が丈夫で居る間は――猫が氣が向くときは――余も亦筆を執らねばならぬ。

 明治三十八年九月  夏目漱石


 じっさい漱石はこの書物で一挙に人気作家として売り出したのだから、因縁は深かったのだ。

 私が好きな文章に、『硝子戸の中』で猫と自分を重ねあわした箇所がある。猫はひどい皮膚病にかかり、漱石は大病で入院する。これはその後の記述である。運よく漱石は退院し家へ帰ることができた。


 私の衰弱がだんだん回復するにつれて、彼の毛もだんだん濃くなって来た。それが平生の通りになると、今度は以前より肥え始めた。
 私は自分の病気の経過と彼の病気の経過とを比較して見て、時々そこに何かの因縁(いんねん)があるような暗示を受ける。そうしてすぐその後から馬鹿らしいと思って微笑する。猫の方ではただにやにや鳴くばかりだから、どんな心持でいるのか私にはまるで解らない。


 漱石が書いた黒猫の絵には、1914年の「あかざと黒猫」がある。
素人の絵にはちがいないがどことなく気品があってしかも猫への愛情がにじみ出ているところ、本職の画家には描けないような気がしてならない。



| | コメント (0)

2003年7月28日 (月)

百燈会の灯


 掛川市の郊外にくらみ温泉という田園地帯がある。ことし一月に行ったのがきっかけで(noteブックにも一月の下旬にしたためている)、そのご縁があって旅館のおかみさんから案内状が来た。

 その旅館の持ち山である百観音のお山に在る石仏・百観音に、灯明をあげておまつりする「百燈会」が催されるという。とくに今年はここで演奏をしたいと希望する音楽家が来て演奏するとあった。

 私は主人にそのことを話すと「行ってきたらいい。」とぶっきらぼう且つなんとかの一言。とたんに私は子どものように嬉しくなってしまった。私も一つだけお地蔵さんのような観音を寄進させていただいていたので、そのお姿を見たいし会いたかった。

 そしてその日が来た。26日に掛川へ。旅館に一泊、やはりここにも同志といったらいいだろうか、観音を寄進した方々のなかで今回参加された方が三十人位おられ、ご一緒に夕食。その後貸切バスでお山へ。おかみさんが歩きやすい運動靴を貸してくださった。

 山の石段を登る。点在する百観音へ供えられた真新しい行灯。旅館のご主人の手作りだという。私たちは次々に点灯しながら歩いていった。

 夏の宵闇のなかであかあかと百燈の灯明はもえ、ゆらめいた。
 私はいま、灯といえば寺田寅彦の漱石先生追憶の一文を思い起こすのである。この灯は街路であって灯明とはいえないだろうが、恩師をしのぶ灯として私には忘れられないものになっている。


臨終には間に合わず、わざわざ飛んで来てくれたK君の最後のしらせに、人力にゆられて早稲田まで行った。その途中で、車の前面の幌(ほろ)にはまったセルロイドの窓越しに見る街路の灯(ひ)が、妙にぼやけた星形に見え、それが不思議に物狂わしくおどり狂うように思われたのであった。
 先生からはいろいろのものを教えられた。俳句の技巧を教わったというだけではなくて、自然の美しさを自分自身の目で発見することを教わった。同じようにまた、人間の心の中の真なるものと偽なるものとを見分け、そうして真なるものを愛し偽なるものを憎むべき事を教えられた。

寺田寅彦



| | コメント (0)

2003年7月23日 (水)

ダメでなかった虎


 アメリカ大リーグの野球中継をたまにテレビで見るが、観客が静かにプレーを楽しんでいるのが好ましく思われる。野茂が開拓者となった日本人メジャリーガー達の活躍は、なんといってもこうしたおとなの環境に支えられている。

 ベースボールを野球という名に翻訳したのが子規であったとか、いやそうではなかったとか、そのためでもないけれども私はサッカーより野球のほうが好きだ。

 今のようなドームでは「野球」の名が泣くが、それでも選手の胸のすくようなプレーにはテレビ画面に釘付けになることもある。野茂、イチローをはじめとして技術面のみならず人間的に人を惹きつける。

 世界的になっているがサッカーでの観客の熱狂ぶりはすさまじいものだ。この点は日本の野球でのファンもあんまり差はないかもしれない。ことにターガースファンは際立っているようだ。

 私は「カミサマ、ホトケサマ、バースサマ」と熱狂したタイガース優勝のあの時代を思い出す。とにかく楽しかった!!
 ダメトラがダメでなかったんだと人々はどんなに勇気を与えられたことか。

 ところがその後元の木阿弥に戻ってしまったのだ。やはり…なぁと目をしょぼつかせるその横では、名門の東京ジャイアンツが威風堂々勝ちどきをあげてゆく。
 
 ところがことしは面白くなってきた。バースのような助っ人でなく、殆ど和製トラであるところが特徴だろう。メジャーで思いっ切り稼いできた伊良部の投球もいい。よい時世になったものである。

 政治とまったく同じで、相手が強くてこそよい試合になるのだから政治家も虎の強さをよくよく見習ってほしいと誰もが感じているだろう。

 スポースニュースによれば、好きな球団のトップは巨人で34%、次いで阪神の19%。ちなみに自民支持層の5割が巨人ファンで、阪神ファンは2割弱。民主支持層ではともに3割ほどだったという。

 先に書いた宵々山は、正しくは15日のことであった。
 今日の画像もやはりその日に新町通りで撮影した一枚である。



 
 

| | コメント (0)

2003年7月18日 (金)

浴衣すがたの男女


 宵々山といえば祇園祭のなかでも解放的な日である。
 宵山ほど混雑もしないだろうという思いもあって夕方に出かけるのだが、道行く人々が浴衣をきているのを見ると、あぁ、一年のうちでこんな日は滅多にないと思う。

 若い女性は洋服感覚で浴衣を着ていて、昔の浴衣すがたのようなしっとりした趣ではないが、それはそれなりにカラフルな可愛さがある。
 男性は殆どといっていいくらい洋服であるが、なかにはよく似合う浴衣姿の男性も見受けられた。

 京都で最大のメインストリートである四条通り、すべての車を通行禁止する交通規制。歩行者天国はまったく素晴らしい時間帯である。たまたまカメラのシャッターを押した時、仲のよいゆかた姿の男女が写っていた。

 カップルというのはこういう人たちだろうと私は思っていた。いたと過去形にしたのは、最近カナダの裁判所で同性同士の結婚を認める判決があったというニュースをアサヒコムで見たからだ。


 「カナダで2州目、同性の結婚認める判決 8日、バンクーバーの州最高裁前で指輪を交換するGさん(58)とB(35)さん=AP
カナディアンプレスによると、11年前から愛し合ってきた2人は「感激です。権利を求めてきた多くの人々のためにも誇りに思う」と声をそろえた。オンタリオに続き2州目の判決。」


 漱石が話題にした「両方にひげのあるなり猫の恋」の俳句を私はとっさに思い出した。
 なぜなら記事に添えられていた写真はそのことを如実に語っていたからである。
 新郎新婦ならぬカップルはともにひげをたくわえた男性であったのだ。


 漱石先生、
 この21世紀の現代に、なんとかおっしゃっていただけないでしょうか?




| | コメント (0)

2003年7月10日 (木)

祇園まつりはインターナショナル


 ごずてんのうさんて、知ってはりますか?
 天皇家の家系図みてもあらしませんえ。

 祇園祭りのご祭神はほかならぬ牛頭天皇なのであって、今ではスサノウノミコトが牛頭天皇となってるんだそうだ。神話の世界だからおっとりと聞いておくほうがいいのだろう。

 八坂神社によれば、「天照大神の弟のスサノヲノミコト(素戔嗚尊),その妻,クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)が,一説に都に流行る疫病を静めようとインドから牛頭天皇を呼び寄せ,66の鉾を神泉苑に送ったことに始まる。」という。

 そうなるとご祭神はインドにおわしたのだ。牛の頭とどういうカンケイがあるのか、こちらもおっとりと聞いて来たので今もって分からないでいる。

 ところがまだ面白いことがある。
 「八坂の名のとおり高麗から渡来した八坂氏の社と社伝にはある」と言い、また
「花街・祇園は江戸中期に門前の水茶屋から発展したもの。」ともいう。
 祇園はもともとインドの精舎の名であり、富裕な商人がブッダに帰依し寄進したものであった。

 しかし、高麗から渡来した八坂氏…、となればこれはますますもってインターナショナルではないか。私はすこし動揺していた。もっとも京都という土地は渡来人の影響が濃いのはよく知られているが、祇園祭までもがそうであるとは!

 京都町衆、日本における民主主義の歴史の一コマである祇園祭。これは京都人にとって何よりの誇りなのだ。
 去年の宵山には洋服で出かけ写真を撮ってきた私だけれども、ことしは久しぶりに浴衣を着て行ってみよう。


 今日の画像は、茶席内の鉾の飾りである。つい先日京都美術倶楽部で席主の「どうぞ撮ってください。」の声にほっとした。



| | コメント (0)

2003年7月 5日 (土)

本番 泥縄の歌


 いよいよ本番の日がやってきた。先に書いた泥縄の歌よみの本番である。それには先ず、今日という日がなんの日であるかに触れなければならない。

 裏千家十一代玄々斎精中(1810~1877)は、 幕末から明治の変動の時代に、「茶道は遊芸にあらず」とし、「忠孝五道を精励し」「貴賎衆人親疎の隔てなく交会」するものとして『茶道の源意』を書いているひとであるが、今日庵のみならずひろく茶道界に偉業を成し遂げた宗匠であった。外国人を迎えるための椅子式の茶礼を創案したのも玄々斎である。

 もとは三河領主の松平家に生まれ、10歳で裏千家十代認得斎の養子として迎えられたという。わずか10歳で実の母とも別れ他家に入った少年の胸中はいかばかりであっただろう。それを救ったのは養母となった認得斎夫人の愛情と傑出した教育であった。

 漢学をはじめとしてあらゆる学問・教養を身につけた玄々斎は17歳で裏千家十一代当主となる。今では考えられないようなことではなかろうか。よき人びとの広範な輪にも恵まれた。

 尾張徳川家、なかでも十二代の斉荘(なりたか)は、この玄々斎精中宗室に茶道を学んだ。ともに同年齢であったという。
 友人であり師弟でもあったふたりには茶道を媒介として深い信頼関係があったようだ。

 さて、こうした玄々斎精中という裏千家中興の祖と十三代十四代の歴代宗匠をおまつりし、供養する毎歳忌が今日の精中忌なのである。
 宗家において神聖な座敷である咄々斎、その八畳の間で七事式という協働の点前をご奉仕させていただく。
 いつものことながら緊張と感激の瞬間である。


 本番に私に与えられた花は、白京鹿の子であった。
 この花と紫の桔梗を一輪、花台から取り出して、私は竹花入れにそっと挿した。
 それから懐中していた短冊を出して歌をしたためた。

白京鹿の子 
        十歳にて今日の庵にきたまいし 
                  大いなる君 白京鹿の子 

 京鹿の子の京と、今日庵のキョウをかけて私は玄々斎への手向けの歌とさせていただいた。
 泥さんの縄はなえたのかどうか、どうも自分ではわからない。

 それでもお家元は、「みんなが玄々斎に手向けてくれてありがとう。」と、おっしゃって文台に載せた五枚の短冊を床の間に飾ってくださった。
 ただ感謝あるのみ!
 



| | コメント (0)

2003年6月28日 (土)

両方に ひげのあるなり 猫の恋


 漱石が結婚したのは新夫30歳、新婦の鏡子夫人は20歳の時である。今の女性で20歳で結婚するのは珍しいほどの早婚ということになるだろうが、当時としてはごく普通かむしろ遅いくらいであった。

 夢多き新妻に漱石は一つの宣告を下したという。
「俺は学者で勉強しなければならないのだからお前なんかにかまっては居られない。それは承知していてもらいたい。」

 鏡子夫人は『漱石の思い出』でこう語っているが、明治の女なればこそこうした夫の意向にも甘んじて耐えられたのであろう。お嬢さん育ちの花嫁には厳しい新婚生活であったようだ。

 機嫌のよい時には、俳句をやってみないかと漱石は妻に話しかけた。ある時漱石は俳句の本を読みながら転げかけて笑っている。何が可笑しいのかと夫人が訊ねるとこの句が可笑しいと言って一句を示した。

「 両方にひげのあるなり猫の恋 」

 鏡子夫人も「こちらも一つけちをつけるつもりで」、どうせ相手が猫なんですもの、両方にひげのあるのは当たり前じゃありませんかと応酬する。結局は、だからお前には俳句がわからないんだって愛想をつかされてしまいました。となった。

 いかにも表面では邪険にみえるようだけれども、そのじつ新婚家庭の和やかさとユーモアが伝わってくるヒトコマではないだろうか。思えば、当時女性が男性と同じような格好をしていること自体、なんとも不思議でおかしなものだったのだろう。

 現代なら事情は確実に変わっている。猫の場合はひげがあっても自然のままだから問題にはならないけれども、こと人間になると一口には言えない複雑な内容になるのかもしれない。

 新婚時代の漱石夫妻のこうしたエピソードに、私は明治という時代のおおらかさとあたたかさを感じてしまう。

 

 

| | コメント (0)

2003年6月24日 (火)

泥縄の歌よみ


 茶道宗家の年間行事にご先祖の供養の式がある。その時直門の弟子たちが「七事式」というものを披露するのであるが、正しくはご供養として奉納するといったものである。

 今年は夏に、出番がまわってきたようだ。問題なのはお茶を点てるだけでなく、歌を詠んで短冊に書き、朗詠しなければならないのである。目下、家庭内にもそうしたやりとりが交わされるのだが、のれんに腕押しの状態なのは、相手が相手だけにどうにもならない。

以下はいずれも某月某日のこと。

その一
「あの~、ちょっと聞いてほしいの。花を一輪活けて、その花の歌をよむってことをお茶でするんだけど、こういう歌はどうかしら…最初に歌の題名を書くのよ。」

「京鹿の子っていう花があるでしょ?」
「知らんな。」
「ん~もう~。この間まで庭に咲いてたのに。まあそれはいいけど。この花で今日こんな歌を詠んだの。

「京鹿の子   桃割れにゆいし鹿の子のくれないをおもう昔になりにけるかな。 」 

「なんだ。泥縄の歌というやつだな。」
「なに?それ。」
「そんなことも知らんのか。つまりだな、泥棒をとらえようとしてそれから縄を綯い始めるってことだろ。歌を知らんものがあわてて歌詠みになるってことだ。」


その二

「今日のお稽古では、乙女ゆりの花があってその歌を詠んだの。こんなのおかしい?
「乙女百合   あくがるる心はいまも変わらざる わが庭うちに咲く乙女ゆり。 」

返答無し。


その三、

「今日は七段花というアジサイに似た花があって、その花を歌ったの。
神戸の六甲山にあっって幻の花といわれたらしいんだけれど、あるきっかけで発見されて今では栽培もされているらしいの。なんでもシーボルトが此花のことを書いてるんですって。」

無言。

「七段花   その蒼(あお)のいろ幽かなり七段花 六甲の山に自生すらしも。 」

聞く耳もたぬ風情。


その代わり、亭主は散歩がてらにスーパーでもなかを買ってきてくれた。私は主人とともにそれでお茶を飲んだ。安物のもなかはけっこう美味しかった。
泥縄の歌詠みは出番の日が近づくにつれ亭主のことばが気になりだした。
 そろそろ賞味期限なのかもしれない。




| | コメント (0)

2003年6月19日 (木)

西部劇 と 桃太郎


 子どもの頃、桃太郎の話に親しんだ。桃太郎の勇気と強さは日本の子ども達の憧れであった。鬼が島へ三匹の家来を連れて鬼退治に行く。私の子ども時代には「成敗(せいばい)」という言葉がよく使われていた。

 けれども、その頃はなんの疑問も感じなかった。「悪者はせいばいされるもの」という考え方が学校教育であり家庭にも浸透していたように思う。桃太郎が鬼が島で鬼を成敗し金銀財宝を山のように持ち帰るところに拍手喝さいをしたものだった。

 その後、西部劇の映画に熱中したのも同じ線上にあった。野蛮な人種だからとインデアン達を白人達が侵攻し、文明の利器を使用して殺しまくった。その時も正義の御旗のような考え方に染まっていて、単純に映画を楽しんだのであった。

 後年、自分でものを考える年齢になって、なんという愚かな自分であっただろうと自己嫌悪に陥ることがしばしばであった。いったい、桃太郎とは何様なのか?それまで鬼の集団があって自分達で造りあげともかく生活していた鬼が島であろう。そこへ知恵と武力をもって侵攻し彼らが造りあげた宝を奪い取る。鬼に金棒というが、桃太郎は鬼を亡き者にし金棒を奪い取って来たのではないか。

 桃太郎は鬼が自分と同じ人種でないことに目をつけたのかもしれない。かつて日本は西洋から文化を輸入しともかく列強の仲間入りをするまでになった。ところが彼らの植民地政策をも真似ようとして大やけどをし敗れた。この場合黄色人種であることの認識が失われていたのではなかっただろうか?

 弱者の立場と強者の立場。戦争となればその差は歴然としてある。国益は大切なことである。ただ人間として恥じないものであってほしい。 
 今世界で戦争のための武器を生産することなく一切の武器使用を禁じているのは日本だけであろう。文化的には先進国家であっても殺戮兵器を公然と売買して潤っている国が殆どではないか。

 この点に関しては私は人間の良心に誠実なこの日本という国を誇りに思う。





| | コメント (0)

2003年6月11日 (水)

乙卯, 大正四年 西暦1915,


 漱石が落款に書いた乙卯とは、大正四年 西暦1915 のことであった。易のほうを調べるとじつは今日が同じ干支になるという。年であれば、1975,乙卯,昭和五十年ということになる。ただ、日というものにも干支があるそうでこれには驚いた。 

 大正四年春、それは3月末から四月にかけての京都旅行である。私はこのnoteブックランデエヴウにも水仙の画像と共にそのことを書いた。

 しかし、落款のことから干支を調べるきっかけになったのが思わぬ偶然につながったのである。今日の干支も同じく乙卯(きのと う)だ。乙は木の弟になる「きのと」。卯「う」は木性の陰になる兎だという。

 今日という日は旧暦では5月12日にあたるらしい。腐草為蛍と書かれているのは今日から蛍が出るということなのだろうか?そして入梅。私はとりたたて易を信じるわけではないが、日本の伝統を考える上でここを通り過ぎることは出来ないと思う。

 4月に鎌倉漱石の会へ行き、帰りは北鎌倉から横浜まで同道した方があって、方向オンチの私を助けてくださった。その方はこんなことを話された。

「経済学のほうでは、見えざる神の手といいますが覚えておいてください。。」
「そうなんですか。今日も見えざる神の手が…。ああ、おかげさまで。」
「ははははは」
「でも、日本経済のこの不況を神はご覧になってるのでしょうか?」
「神の手が働いていないんでしょうな。」

 頂いた名刺を見ると某大学経済学部教授とあった。たのしかったひと時の会話を今日ふっと思い出した。

 今日の画像は漱石先生のデスマスクである。
 哲学者を思わせる深い思索的は表情には慈愛が感じられ、こころに強く迫るものがる。(東北大学附属図書館)




| | コメント (0)

署名 落款(らっかん)


 アメリカの前大統領クリントンの夫人が本を出版してサイン会を催したという。ウェブのニュースでは次のように報じている。

「米上院議員のヒラリー・クリントンさんが夫のクリントン前米大統領との半生をつづった回想録「リビング・ヒストリー」が9日、全米で発売された。初版だけで100万部という「冒険」だが、発売記念のニューヨークでのサイン会には前夜から並んだ人も含め数百人が列を作り、ヒラリー人気を裏付けた。」

 その本の内容もクリントンの不倫問題が赤裸々に書かれているそうだし、何もかも度肝を抜くような話。
「初版の印税などとして、800万ドル(約9億4千万円)を受け取る契約を出版社と交わしているという」ところまで、もう日本とはケタが違っている。

 こちらはチマチマした実話になるけれども、私は作家の出版記念のサイン会に並んでサインをしてもらったことが2、3度 あった。歴史小説の女流作家は某ホテルで。余りにも有名な尼僧の作家はデパート7階の催し会場だった。後者は買い物の時たまたま出くわしたのだ。

 ハードカバーの扉のページに毛筆ペンで署名する手つきは手馴れたものだった。歴史小説のほうは出版社の部長さんが落款の印を押す役目であった。売り上げに貢献するこうした読者サービスも現代はますます盛んになってきた。

 漱石の署名は風格があることで定評がある。印の篆刻(てんこく)まで吟味し、署名の筆跡にはたいへん気を遣った。彼が京都の宿に滞在し、京都という字を入れた落款を、今日の画像とさせていただきたい。
日付からこれがいつ頃のものか専門家には分かっていると思う。





| | コメント (0)

2003年6月 4日 (水)

修学旅行の生徒からもらったお土産


「こんにちは!どちらから?」
 修学旅行の生徒たちが先日大徳寺の境内を歩いていたので、すれ違いざまに声をかけた。女子中学生の3人連れだった。
 「私たち、静岡からです。」
 「静岡?いいところねえ。あたたかくって。」

 彼女たちはくったくなく笑った。少しはにかんだような笑顔が可愛らしかった。一人が手提げ鞄の中から何かを取り出して私に手渡そうとした。
 「あの、これ使ってください。」

 15センチ四方のクリーム色の紙袋だ。見ると「ビタミンいっぱい さがら茶」と書いたシールが貼ってあった。時代劇に出るような「茶々丸くん」というキャラクターが茶とかかれた大きな湯飲みを差し出しているイラストがある。

 「あら、頂いていいの?ありがとう。」
 私はうれしくなって礼を言った。これまで修学旅行の子ども達に出会った時私はいつも話しかけるのが常であった。みんなでお茶を飲みなさいと小遣いを上げたことだってある。「京のぶぶづけ」の噂が有名になりすべての京都人をそう思われてはかなわないという気持ちだった。

 次の日の朝、主人の前で私はきのうもらったばかりのサンプルのお茶を急須に入れた。丁度2回分の煎茶が入っていた。袋の裏には「静岡県相良町茶業振興協議会」の名と電話番号が印刷されていた。その新茶を飲みながら主人は言った。

 「…そうか。親が勤めているのかもしれんな。旅先で世話になった礼にもと親が持たせてやったのかもしれん。まあ親孝行の子どもじゃぁないか。」
 「おいしいお茶だこと!あとで電話して注文してみようかしら。」
 
 もしもし、と私は電話口でいきさつを話した。担当の方(男性)のおっしゃるには、この土地に約900人の中学3年生がいるので、町の宣伝のために1個づつ修学旅行地へ持って行ってもらっている。それでよくお礼の電話も貰っています、と。

 価格は100グラム千円だという。近くの茶店で買うお茶と同じ値段だけれどこちらのほうが美味しいようにと私は思った。静岡の煎茶は宇治と製法が異なり深蒸しだということである。そのうち注文するかもしれない。

 漱石は茶の中では玉露が好きであったことは有名である。抹茶はどうもご縁がなかったようだ。『草枕』にはその一節がある。
 画像はなでしこと紅額(ベニガク)、あの子たちに重ねてみた。




| | コメント (0)

2003年5月28日 (水)

ジョージ ラウターシュテイン


 George Lauterstein この名前を自己流でカタカナになおすとタイトルのようになってしまった。
ジョージ。これでは間違ってますか?
直接ごご本人にお聞きしたいと思いながら、それもできないままにあなたは急に逝ってしまわれた。

 拙サイトゲストギャラリー「あなたの撮った茶のある風景」を作成するにあたり、ネットで知り合った写真家の方々に声をかけてご協力いただいくのが常であった。

 先に登場されたBさんがアメリカ人で親日家の写真家がいるからと仲介の労をとってくださった。それがジョージだったのである。こちらは写真のイロハも知らないしろうとだ。こんな私で果たして承諾されるだろうかと半ば諦めていた。

 ところが、彼は意外にも私のサイトがお気に召したようで、わざわざスイスにとんでいって撮りおろし写真を送ってくださったのだ。
 第1回2001年2月3日 、第2回 2001年4月22日。私は感激のうちに自分の手で編集しUPしたのであった。

 この時、一期一会の心というものを無言のうちに私は教えられた。茶を知らなくても彼は立派な侘びの人だと思った。ギャラリーに出展された後彼からのメールは度々、「あなたに我々は感謝します!」と書かれていた。彼の最愛のチェリール夫人がいつも蔭で私たちの交際を支えてくださった。

 今日の画像は彼の撮影になる「水と岩石」である。私はこの別館漱石サイトができた時、彼に「石と水のペンネームをもつ日本の作家にふさわしい画像を送っていただけませんか?」と厚かましくお願いしたことがあった。

 彼はトップページの漱石を見て「どうして私が彼の為に協力しなければならないのか!」とおかんむりだった。ああ、私の言葉足らずだった。あわてて「彼は1867年に生まれ、1916年に死んだ日本の文豪である。」とメールしたら、「すまない。私は大変な誤解をしていた。私を許してほしい。」とのお返事。

 チェリール夫人は私たちのメールのやりとりをにこにこと見ておられたようだ。お二人とも爽快なテキサス魂といえばいいだろうか。テキサスの人里はなれた山中に住んで、東洋の高士ともいうべき清貧の生活をしておられたジョージ夫妻。

 いまはジョージのご冥福をお祈りするばかりである。


| | コメント (0)

2003年5月20日 (火)

18歳 の 詩人


 最近インターネットによる衝撃的な事件がマスコミで盛んにとり上げられている。ネットで知り合った若者が集団自殺を決行するという。信号無視でもみんなで渡れば怖くないのあの心理であろうか。一昔前までは考えられなかったことである。

 諸刃の剣ということは昔からいわれる例えであるが、暗い面だけでなく明の側面をも公正に強調されるべきであろう。
 ネットのよさということの恩恵を私は充分に受けているし最近はそれを一層身に沁みて感じるのだ。

 一昨日(17日)、ひとりの若者の詩を読み感銘した自分であった。その年頃に私も詩のようなものを書いた記憶がある。けれども言葉の深さ、骨格の確かさにおいて到底比較できるものではないと思った。詩は作者の生のありようである。

 18歳の若者はハンドルネームをちょりという。ネットで活動する以前に彼は実生活で自分を表現した。家出、ガソリンスタンドやちらし広告を配るアルバイト、一時、高校生であることを休止して暫く安アパートで自活した。そして彼は詩を書いた。ギターを弾き、作曲をした。仲間と共に路上で演奏活動をした。

 これは現代の多くの若者がやりたいと思う夢であるのかもしれない。エリートの道をのみ目指す向きにははみ出し者だとする見方もあろう。帰るべき家があるから出来るのだとする声も聞かれよう。ただ、彼には確たるバックボーンがあるのではないかと私は思う。

 詩をもって人々に愛される文化としたい…。人間は本来平等だという夢…。そうして新たにこの道を踏み出したことの迷いと決断、それは生易しいものではなかったであろうと思われる。

 「あるく」というかなり長編の詩がある。
 この詩のなかに大叔父とある。その方がほかならぬ昭和天皇であること。この詩を読むにつれて読者はそのことを理解するのだ。作者は皇室のお血筋なのである。

 ちょりさん、本名 S.Akifumiさん。拙サイトと相互リンクのお付き合いがはじまったばかり。私の「最新情報」でご紹介したところ、彼は日記で心に沁みる文章を書いてくださった。
 詩篇とともに、味わいのある彼の日記も私は楽しみに拝読している。

Paprett(パオレ)  http://mypage.naver.co.jp/paorett/

† 日々、祝え。
blanket
DiaryINDEX|past 替えのきく僕はいらない。

2003年05月18日(日) つづいていくこと 。




| | コメント (0)

2003年5月14日 (水)

円覚寺と 『千羽鶴』のこと


 川端康成の『千羽鶴』を読んだのは娘時代であった。最初、円覚寺が舞台になっており茶の師匠や茶室にまつわる話に興味をそそられた。その内映画も見た記憶がある。私はまだ円覚寺の佛日庵がどういうところなのかを知らなかったが、千羽鶴の風呂敷包みをかかえた令嬢や志野茶碗の描写などは品の良い絵画を見るように思った。

 けれども私は今もってこの作品に出て来る登場人物はどうも好きでない。菊冶という主人公は漱石がいうところの高等遊民であるが、亡父の複数の愛人、その母子ともいとも簡単に深い仲になる。そうした行為を繰り返してもなんら苦しむことがない。

 また女性たちも男を虜にするさがには恵まれているようだけれど、精神的なかがやきを感じさせるであろうか。愛人でいることを職業にしていることの後ろめたさ、その陰影が昇華されたものとなっているだろうか?

 茶の世界で手練手管で成功をおさめた胸に黒あざのある女性。それに対して成功とは無縁のところで生きているはかなくも美しい女性。

 川端が「名品」とした志野茶碗、そして名品にたとえた愛人。
しかし、その茶碗を投げ打つ場面がひとつの見どころであろう。世俗的な茶道界の現実を作者はこの場面で表現し、自らのメッセージとしたのであった。茶人の執念ともいう醜の部分を描き、再生への想いを彼はこの1点に凝縮した。

 この点を、あまり批評家が触れていないのではないかと私は思う。たしかに突飛で無駄と思われる行為であろう。

 ただ、この世には無駄なものがあっていいことがある。その行為がなんの意味もないと思われることでもあっていい。大岡昇平の後、伊豆利彦氏と政府の顕彰をあえて受けない人もある。漱石、百閒の気質はもとよりのことである。

 主人の叔父である僧堂師家のH老師は90歳であるが軍人恩給を一切受けていない。自ら拒否したのだという。自分らと共に最前線で戦って死んだ兵隊達を思うとそんな金は受け取れないという。
貰わなかったら役人が使うだけではありませんかと私は申し上げた。

 うむ、それでもいいのだ…と、静かに叔父はこたえた。
そういえば、叔父の年祝いも主人の年祝いもうちではしないまま通り過ぎてきた。



| | コメント (0)

2003年5月 6日 (火)

風かおる 鎌倉漱石の会


 みどりの日の4月29日、私は鎌倉漱石の会へ出席するため前日から北鎌倉へ滞在していた。正確にいえば28日午後に東慶寺へ、閑棲の井上禅定さまとの面語。水月堂のほか茶室寒雲亭も見せていただき、室内撮影厳禁であるはずのところをカメラにおさめた。

 それから墓苑にお参りしたいという私に禅定さまは竹杖を持ち出して自ら広大な墓地に案内してくださった。山と谷のなかに造られた墓苑は呆然とするほど清浄でうつくしかった。林立する杉の木は釈宗演の後継者・古川尭道老師が明治に植えたのだという。

 私の参禅の師であったT老師は尭道老師のもとで修行した人であり禅定師とは兄弟弟子にあたる。二人でゆっくりと歩きながら古い記憶を辿り懐旧の情にひたるのであった。その一部分は「東慶寺墓苑を井上禅定師と」と題してUPした。

 夕刻には、七里が浜の宿舎へ移動し一泊。窓からのぞむ夕日、翌朝の海の景色もけっこうであった。早朝に東京を発ってこの宿を訪ねてくださったミモザさんと食堂でバイキングの朝食。それから又この前の時のように私を帰源院まで引っ張って行ってくださった。

 午前11時、待ちに待った漱石の会講演は伊豆利彦氏。演題「『道草』とその前後」出席者は帰源院の本堂に入りきらず庭に置かれた椅子にて熱心に聴講されている。出席者数340名の盛況。

 伊豆氏の話し振りはごく日常的なくだけた調子であったが、内容は漱石文学の核心にふれるもので後々まで考えさせられるものであった。拙サイトの掲示板でいっとき話題になったが、『道草』は伝記であり主人公即漱石だとする従来の見方に対して伊豆氏は明快に所論を述べられた。

 「だろう。」というのは漱石ではない。話者が書いている。話者と漱石とは別。姉の目、細君の眼、学生の目、漱石がその声色をつかう。虚構の中に人間を平等に見た。

 伊豆氏は<その後>として『点頭録』を挙げられた。今まであまり顧みられなかったこの一編は氏が早くから注目されていたものであった。そのため私は青空文庫に入力をお願いしたところ、熱心な工作員の方々のご尽力で現在では漱石作品にデータ化されている。

 風かおるこのよき日、本来なら勲3等の叙勲を受けるはずのところ、伊豆氏は辞退されたのだという。たしか大岡昇平氏もそうだったなあと私はどこか明るい気持ちになった。
日本はやはり自由のあるよい国である。

| | コメント (0)

2003年4月17日 (木)

津田青楓の兄 西川一草亭


 『侘助椿 』という薄田泣菫の随筆がある。このなかに漱石とは深いつながりのある津田青楓、その人の兄にあたる一草亭のことが出てくるのがおもしろい。泣菫の筆は淡々として且つ陰影がある。


「侘助(わびすけ)。侘助椿だ。―友人西川一草亭(いっさうてい)氏が、私が長い間身体の加減が悪く、この二、三年門外へは一歩も踏(ふ)み出したことのない境涯を憐れんで、病間のなぐさめにもと、わざわざ届けてくれた花なのだ。」

 泣菫は、元来この花を朝鮮から持ち帰ったのは加藤清正だとする当時の風評をまともには受け取らない。世人の軽はずみな噂だろうくらいに見ている。けれども信ずべき説として次のように書いている。

「この椿が侘助といふ名で呼ばれるやうになつたのについては、一草亭氏の言ふところが最も当を得てゐる。それによると、利休と同じ時代に泉州堺に笠原七郎兵衛、法名吸松斎宗全といふ茶人があつて、後に還俗(げんぞく)侘助といつたが、この茶人がひどくこの花を愛玩したところから、いつとなく侘助といふ名で呼ばれるやうになつたといふのだ。」

  
 一草亭は茶道の専門家であると共に華道人であった。昭和6年に『瓶史』という挿花の季刊誌を創刊。花に限定せず、西田直二郎、和辻哲郎、志賀直哉、谷川徹三などのメンバーが集う文化サロンを運営していた。彼は自ら茶人でありながら茶人の高慢を厳しく批判した。

 「兎に角人間が、お互いに自分の地位の高い低いとか、貧乏とか金持ちとか、そういう優劣、勝敗の念を離れて、只一個の人間としてーーー茶を飲んで、ああ愉快だと思えば、それで茶の目的は終わるだろうと思います。」

 漱石は西川一草亭と津田青楓兄弟の上に正直で真摯な性格を見、それを愛したのであろう。
    
  牡丹切って一草亭を待つ日かな  漱石

 
 今日の画像は津田青楓が描いた晩年の漱石の肖像である。昭和29年発行『文芸』の表紙をスキャンしたもの。これほど年輪を感じさせる画像は他にないのではあるまいか。



| | コメント (0)

2003年4月15日 (火)

人の心は昔のままでした


 北朝鮮による拉致被害者の曽我ひとみさんが14日記者会見で読み上げた文は、聞く者の心をゆさぶらずにはおかないものであった。政治的には対立状態の両国であり、解決に向けて今後どうなっていくのか不安
だが、ひとみさんの一言が救いを感じさせて嬉しかった。

「月日は長く長くすぎていたけれど、人の心は昔のままでした。本当に帰ってこられてよかった。」

 日本人は古来変わらぬ心を尊ぶような民族ではなかろうか。自分の思想や言動をを百八十度転換して恥じることのない人物を、あれは「変節の士」だと言って断をくだす。若い世代にはこうした思いはもうないかも知れないが、今の世にもあってほしい良識だと私は思う。

 イラク戦争でフセイン大統領の銅像がひきずり下ろされた時寄ってたかって足蹴にしたイラク民衆の映像がテレビで流された。プロパガンダの怖ろしさと共に人心の怖ろしさ哀れを感じさせた。

 日本の敗戦時には全く見られなかった光景であろう。敗戦の民は苦難に耐えてなお自他への敬愛の心を持ち続けたのではなかっただろうか。日本人は12歳の少年だとマッカーサーは傲慢に言ったが自らは左遷され日本を去った。

 政治はまさに食うか食われるか弱肉強食の世界のようだ。ペルーのフジモリ大統領の場合を考えると複雑な思いがする。天文学的数字であったペルーのかつての財政赤字を奇跡的に救ったフジモリ氏。氏あるが故に経済援助を惜しまなかった日本政府。ところが政敵によって失脚するや一転して犯罪者の汚名。

 人心の移ろいやすさ、過激で酷薄な国民性という感を植えつけてしまったペルー。こうした余りにも露骨な変心を思うとき、この世を「火宅」と説いた仏典のことばが身にしむ。
 
 しかし、日本人の美意識である「もののあわれ」はどうなのだろう。今もなおこの国と人々の誇り得る貴重な財産のように、私には思えてならない。

 今日の画像は京都市の花に指定されているしだれ桜、木のてっぺんのほんの一部をカットしてお茶を濁した。



| | コメント (0)

2003年4月 4日 (金)

月をみる 月を指す 指


 中国古典によく出てくる「寒山拾得」の画題、漱石はそれを「無題」として1913年(大正2)に描いている。この絵は漱石も気に入っていたようで漱石山房の壁にかかっていたという。

 拾得はさる名僧に拾われた乞食であった。寺では常に箒をもって作務をし、その拾得から残飯をもらう寒山は巻紙に筆をもつ詩人となった。この絵は寒山が月を指し示し月の光のもとに歓喜するふたりの姿が素朴な筆致で描かれている。

 「画でも書でも自分の部屋にかけるものは自分でかいたものが一番いい。」と漱石はいったと伝えられる。巧拙の問題でなく端的にこころが滲み出ているものがいいのだ。寒山拾得の求めたものはただ月である。しかし俗世間ではそれを指し示す人の指が重要視される。

 漱石の学位返上問題は当時さまざまな批判を受けた。漱石自身は学位によって学問の世界に世俗の価値判断が起きることを憂慮したのであろう。自分はただの夏目なにがしでありたいと彼は望んだ。

 漱石のような偉大な学者では決してないけれども、私は主人の性格もこうしたところにあるような気がしている。定年退職に際して勤務した大学の哲学会から記念の会報を出して頂いた。そして私はそれを見たとき心外でならなかった。主人の経歴に京都大学から授与された論文博士の事実も、大学院文学研究科長を歴任した記録もまったく記載されていない。主人に尋ねると、「わしは学生をちゃんと教えることだけが大事だ。」と言う。

 お付き合いのある教授の方ににメールで問い合わせたところ、「先生からご提出いただいた履歴書・研究業績書に基づいて、略年譜を作成され」「幹事の先生(新米の方でした)にすべて委託されたのは今回、先生が初めてでありました。」「しかしご指摘のあった点は、ごもっともなことで」とお詫びの文言。

 こうした割り切れない思いをもつ愚妻に主人はむしろ怒りを覚えるかもしれない。けれども世事の名誉には無頓着でただ月に向かって歓喜する寒山拾得の境涯を私はひそかに主人と重ね合わせてしまう。先に頂いたメールにはさらに次のことが書かれていた。

「先生の歓送会を計画・準備をされた幹事の方は、先生のご欠席ということでがっかりして肩を落として予約をキャンセルされ、本当にお気の毒でした。」

 いっこく者という言葉は現代でも死語になってはいないようだ。

| | コメント (2)

2003年3月27日 (木)

猫の舞踏


 カメリアジャポニカとは椿の学名である。原産地は日本ということになっているが諸説があって確かなことはわからない。一昨日テレビのチャンネルを回したら、ヨーロッパの国々で昔日本からやってきた椿が大木になり、公共の場でそれは大事にされている様子が放映されていた。なかでも紅の藪椿がうつくしかった。

「カメリアジャポニカは私たちに光を与えてくれます。」と語った実直そうな一市民の男性がうつった。それに引き換え日本の女性タレントは古木の椿のことを「いいな、おばあちゃんは」などと口にした。外国では自分の祖母にしかこうした言い方はしないのではないか。聞いていてもいかにも蓮っ葉な感じがした。

 スペインのホセ・ガルシアさんはカメリアジャポニカの研究家で自宅に長年椿の木々を栽培されている。ネットのお付き合いで相互リンクをお願いすることになった。その時ホセさんは「あなたのバナーは私が作るから」といわれそのバナーが送られてきた。

 スペインの有名な陶器人形リヤドロの作品のようだ。カップルの猫がエレガントにダンスをしている。彼はあなのイメージで作ったがこれでいいだろうか?と私に問い合わせてきた。私はワンダフル!と答えた。

 拙サイトの英語版の表紙はわが家の飼い猫の写真を掲載しているが、これは漱石『我輩は猫である』の黒猫とは似ても似つかない軟弱な風貌だ。その為かどうやらホセさんには猫が私のイメージになってしまったらしい。

 スペインの舞踏は情熱的だが、こちらの猫はなんとなくもクラシックな感じだから今度は私が彼に問い合わせてみた。
「これらの猫が踊っているのはワルツでしょうか?ポルカでしょうか?」。それに対してホセさんはまことに誠実に返答された。
「私は猫が踊っているのがワルツだあるか、ポルカであるか、詳しく承知していないことをお知らせする。」

 画像はそのバナーであるがこれだけ大きいバナーを彼は自分のサイトへ貼ってくださっているのだ。原寸大のままでUPする。



| | コメント (0)

2003年3月19日 (水)

生誕記念菓子 漱石ごのみ


 掲示板「夏目漱石が好きなかたへ」の中でご披露させていただいた松岡陽子マックレインさまのメールには、源吉兆庵という菓子屋についての記述があった。ここに再掲する。


 一月に私は東京の若い友人夫婦から大変面白いお菓子を頂きました。彼等は偶然それを銀座で見つけて送って下さったそうです。お店の名前は源吉兆庵(みなもときっちょうあん)、本店は鎌倉とか、 店主がよほど文学好きなのでしょう、生誕記念菓子というのを毎月作るそうです。
 
 一月は漱石で、ともかく、「夏目漱石ごのみ」という一月のお菓子の包装が大変凝っていているのです。箱自身が漱石の本になっていて、中身は彼が好きだった羊羹とお団子、それも凝った箱に入っています。お団子は「吾輩は猫である」の初版本の箱、羊羹は漱石の原稿がコピーされた箱という調子です。

 そのお店にサイトもあるそうですから、ご覧になったら面白いかもしれません。こんな凝ったことは日本以外では考えられません。


 陽子さまのお勧めに従い私は店のサイトを検索で探し、早速注文したのだった。ただ月代わりの3月は樋口一葉であり、注文できたのはその菓子になったが、漱石の箱だけはサービスに同封されて送られてきた。

 なるほどこれはおもしろい!箱の表紙には漱石がイギリス留学時代に描いた絵葉書で、中に入っているのは『我輩は猫である』の初版本、中村不折が描いたあのユーモラスな挿し絵。もう一つは鏡子夫人へ宛てた留学中の漱石の手紙である。

 菓子の味はさておき、このような趣向はファンにとってはたまらないものだ。私は今回漱石ならぬ一葉ごのみの菓子、栗饅頭と変わりカステラで漱石が好きだったお煎茶を飲んだ。値段が高いのも致し方ないと思いながらそのいっときを楽しんだ。

菓子箱を撮ってみたがいかがであろうか?


| | コメント (0)

2003年3月10日 (月)

『道草』の装丁


 『こころ』の装丁には漱石の美意識が十二分に発揮されている。その審美眼は「気品」があってしかもやさしい雰囲気がただよっている。鏡子夫人からシナ趣味ときめつけられた漱石だけれど、たしかに漱石は漢学・絵画等中国の古典を学びそれを自分のものにしている。

 岩波から初版復刻版が出た折購入していたこの『道草』、その装丁をデジカメで写してみた。京都の津田青楓が描いたもので春をおもわせるはんなりとした表紙である。花々のなかにいる青い鳥もうつくしい。

 漱石は『こころ』では、荀子の文を引用してみずから装丁を手がけ内容を表現しているが、孔子ではなく荀子であるところが注目される。これは性悪説を採っているからだ、と私は叔父の老師から教えられた。

 表紙の装丁にはいずれもそうした心配りが出ていると思う。そして、絵の上では師匠であった青楓も当然漱石の意図を知らなかったとは思えない。道草の装丁のなんとやわらかく安らかであることか。青い鳥が身辺にいる描写もほっとするものがある。

 漱石の二男でいらした夏目伸六氏は、父君の幼年時代母千枝の出生を書いた記述は鏡子夫人のも松岡さんのにも間違いがあると『父、夏目漱石』のなかで述べている。
親戚のことを直接聞いたのちに新たに公表された伸六氏の誠実さを私は感じた。

 また大岡昇平の『小説家夏目漱石』、伊豆利彦氏の『夏目漱石』は共感をもって読み直させていただいた。大岡氏によると『道草』は個人的な伝記としてより小説として捉えておられる。私がいぜんから感じていたことでもあり、私小説を超えた作品であることが素晴らしい。

 そしてその大岡氏はとりわけ伊豆氏の論文を賞賛されているのであった。出来ることなら多くの方々に、伊豆利彦著『夏目漱石』を読んで頂きたいと私は思う。




 

| | コメント (0)

2003年3月 4日 (火)

ナンテン 弥生の雪 2


 
ところが長兄次兄が亡くなり三兄はぐうたらでものにならない。長兄の「漱石を準養子にする」という遺言があったことも父が漱石の復籍に乗り出した要因でもあった。復籍の条件となったかの有名な「書類」は現存している。

 漱石が夫婦喧嘩の地獄絵巻の中から救い出され、実家に引き取られたのは多分10歳の時であったであろう。と、松岡氏は書いている。
 日本にとって家というものが最も重大であり、人々もその制度を厳守していた明治時代である。

 私は何よりもこの事実から目をそらすべきではないと考える。
 松岡譲といえば、その著書『敦煌』においてもきわめて正確な記述だと高い評価を受けている作家である。作家というよりもむしろ学究といったタイプの方ではなかっただろうか。

| | コメント (0)

ナンテン 弥生の雪 1


 先日来の暖かさに春の到来とばかり思っていたら今朝は雪。ナンテンに弥生の雪が積もっていた。難を転じるともいう南天、野鳥たちはまもなくこの実をついばみにやってくるだろう。

 難ということは人の世につき物である。昔から「人の不幸は蜜の味」ともいうが、とかく他の幸せよりも他の落ち度を探しそこから尾ひれをつけて話を作りたがる。そうしたことが歴史上どれくらい繰り返されたことか。

 松岡譲の『夏目漱石』(昭和28年初版発行・河出書房)は、漱石の幼年時代から綿密に調べた評伝であるが、客観的でなるほどと納得できる内容だ。

 養父となっていた塩原は若年の頃夏目の父に書生同様に養われているうち、見どころがある青年だといふので、仲人に立って同じく家に奉公していたやすを嫁がせ、そうして新宿の名主の株を買ってやって取りたてたのだという。

 塩原は子のないのを幸ひ、夏目の家ではいわば厄介者の末っ子を引き取って、一つには主家に対する恩返しをし、又自分の家をも引きたてようとしたらしい。明治の新制度が敷かれると共に、夏目直克の肝いりで浅草の戸長(区長)になった。漱石5歳か6歳のはじめころ塩原は漱石を自分の長男として戸籍に登録し、それが後半思わぬ面倒の種となった。

 「養父母」の章に、塩原夫婦の騒動が明らかにされている。とうとう仲人の夏目の父のもとまで夫婦喧嘩が持ち出されて別れ話になり、子供の教育上もよろしくないといふので、結局父が養母と漱石を引き取ることになった。

 少年は浅草の戸田学校で最初の初学教育を受けることになった。塩原は新築した自分の家へ移ったが付属の借家は漱石名義になっていた。
実家に引き取られても少年は依然として塩原姓であり、夏目金之助ではなかった。

 漱石が夏目に復籍したのはそれから10年後彼が22歳の折で大学予備門の学生時代である。漱石は塩原の長男として戸籍に登録された為に、子のない同家から簡単に籍を抜くことは出来なっかった。

 塩原も落ち目になっていたので、先々の欲にかかり、いずれ実家で教育させておいて、後で当然取ってしまへばいいと考え、決して籍を渡そうとはしない。
 
 

| | コメント (0)

2003年3月 2日 (日)

水仙


 先月、今日庵家元の弟君・伊住宗匠が急逝され大徳寺で本葬が行われた。約6千人の会葬者があったと京都新聞は報じていた。密葬のもようは拙サイト「伊住宗晃宗匠遺影」でお伝えしたが、後日の本葬の際には焼香でなく一同が献花をさせて頂いたことに触れておきたい。

 献花には昔からある水仙が用意されていた。ラッパ咲きの西洋水仙でなく日本のそれはまことに清楚であった。噂によれば京都中の花屋から水仙が集められたのだという。ランでなくこの花が選ばれたことに私は感じ入った。

 毎月ついたちは宗家に参上する日である。今日、坐忘斎家元の切々としたお話を私たちは拝聴した。みな涙し目頭を押さえていた。家元が話された中に思いがけず水仙の花についてのエピソードがあった。

 「弟は健康優良児で私は腺病質のこどもでした。そのまま成長しましたが必ず先に逝くのは私だと信じていました。ある時私は弟に言いました。
「もし自分が死んだ時は後を頼むぞ。葬式には派手なランなんかでなく、水仙にしてくれ!」
じつは、先日の葬式の献花は私の死んだ時の為に私が望んでいた花だったのです。」
 そして家元はしみじみと、「私は今、弟の分まで生きようと思っています。」と結ばれた。
 

 漱石が描いた水仙の花、これも昔ながらの日本水仙である。京都に宿をとった時にこれを描いたという。大正四年六月には俳画展覧会出品の誘いを断り、そのいいぐさに「今は下らない事で朝のうちを過ごしています。」と「道草」執筆中の旨を俳人の青木月斗に告げている。

 茶道ではこうした籠花入れは夏季に使用するがこれは正確には「宗全籠」といって茶人の名をとってつけられた花入れである。

 漱石は京の宿で見たさまを「小さなきれに籠の中に投げ込んだ水仙を描いた」と津田青楓のもとに書き送ったという。


 

| | コメント (0)

2003年2月27日 (木)

白雲自去来


 昭和五十年九月二十五日発行の『別冊太陽』は、日本のこころ32として夏目漱石を特集している。この頃は出版社の誇りが感じられる入魂の紙面造りで特別付録がまたふるっていた。

 漱石自筆書画は三枚とも和紙で印刷もよい。漱石自筆原稿「ケーベル先生の告別(複製)」もしっかりした和紙を使用している。台紙原稿用紙とも漱石山房の写しであるのがうれしい。紅野敏郎氏の解説が小さくついているが、その中の一節に心惹かれた。

 漱石は、二度までケーベルについて、小宮豊隆の言葉に従えば、「円味と気品としをりとさび」とから組み立てられた文章を書いた。この生原稿を見ていると、「さようなら御機嫌よう」という言葉が、なんと落ちついた、生きた日本語として使われていることか。別れても、地球上の何処にいても、心はつながっている、という感が深い。「天然自然」という言葉も加筆されているが、この生原稿の加筆自体、漱石らしい味が出ている。ケーベルの生活の古典的な静謐、それは晩年の漱石の実生活における願望の一つといい得るものだ。

 解説も名文である。こうした雑誌の定価が当時2千円だった。とすると今は代価に値する雑誌がどれくらいあるのだろう?

 今日の画像は「雲去来」の三字である。この語は禅語の「青山元不動 白雲自去来」から採られたものと思われる。私自身この語にはどんなに励まされたかわからない。

 二十代のころ病弱だった私は大手術を受けたことがあった。禅の恩師はその時この語を短冊に書いて贈って下さった。青山元不動白雲自去来 (青山もと動ぜず 白雲おのずから去来す)

 その時の私は、この語の上に日本の古歌をひとり重ねていた。

 晴れてよし曇りてもよし 富士の山 もとのすがたは 変わらざりけり

 

| | コメント (0)

2003年2月23日 (日)

二宮金次郎の石像


 内村鑑三が著書『代表的日本人』のなかで、19世紀末欧米諸国に対し「日本人の中にも、これほどの素晴らしい人物がいる」と苦難の時代を救った偉人として書いているのが、二宮金次郎だ。

日本の公立小学校では殆ど二宮金次郎の石像が建てられていた。私は子ども心に「働きながら勉強したエライ人」ということ位にしか知らなかったが、学校の校庭にあるその像には畏れ多い気持ちは抱いていた。けれども昭和も後半から平成へと移り、学校はあれよあれよという間に変わってしまった。

昨日は雨だった。午後から室町蛸薬師にある京都市芸術センターに行った。ここはもと京都市立明倫小学校。呉服商の建ち並ぶ町で明治はじめ頃竣工したという歴史ある小学校であった。けれども児童数の減少で先年閉校の憂き目に会った。それが市民に役立つようにと芸術センターとして改装、現在大いに活用されている。

私は内心、日本の小学校でこれほど贅沢で立派な木造建築を造った処はなかっただろうと思った。さすが豪商の多かった室町だ。地域の多大の寄付があったに違いない。庭にある石すら選び抜かれた銘石だし、子供向きではないにしても情操教育にはまことにすばらしい。本物をみる目が養われるだろう。

最初門を入って暫く行くとなつかしいものに出会った。薪を背負った二宮金次郎が手には本を広げている。今も変わらずにあるのだなあ、と私はしばし立ち止まっていた。写真を撮ろうと近づいてみると本の上になんと十円銅貨がたくさん置かれているではないか!神社仏閣のお賽銭のつもりだろうか・・・。それを置いた人は善意かも知れないがやはりここは学校ではないと思った。

いや、ひょっとすると、今の日本の学校、児童生徒学生、家庭環境、教育に関する社会ぜんたいの、すがたなのかも?

「毎晩独学で勉強していた金次郎。夜間読書をするために必要な明かりの原料を得るため、荒地に自分で菜種を植え、たった一握りの菜種から7~8升の菜種油を得た」ことから「積少為大:せきしょういだい」を説き、農民と地域住民へ献身した金次郎!

もう一度ここから出直す、それは昔物語に過ぎないのだろうか。しかし日本の将来をみて今一度自分の事として考えてみるのは、いかがであろうか。


| | コメント (0)

2003年2月16日 (日)

アメリカの人種差別


 昨夜NHKテレビでたしか開局五十年記念番組と書いてあったと思うが、『アフリカの蹄』という長時間ドラマを前編・後編と引き込まれるように見た。
 帚木蓬生原作。これまで関心をもちながら読んだことのない作家だったが現役の精神科医で山本周五郎賞を受けている経歴から、正義感のある作風だろうとは感じていた。

 見るとこのドラマはたいへん迫力がありアメリカの人種差別の根強さをうまく描いていた。若き日本人医師が大学の組織から出て黒人居住地で天然痘と極右の謀略と戦う。ストーリーは主人公の役柄と男優にも恵まれ、久しぶりにさわやかな後味であった。

 アメリカの人種差別は根が深い。黒人に限らず原子爆弾をドイツには落とさず黄色人種の日本へ落とした厳しい事実もある。ただ、このドラマも最後にはアメリカの良識が悪をやっつけることになっているので、救いがある。その為「このドラマは事実ではなくフィクションです。」などと断り書きを入れずとも済んだのだろう。今イラク問題が危機的状況でありなんらかのメッセージなのかも知れない。

 松岡陽子マックレインさんから昨秋、私はカードを頂いた。アメリカ在住50年の記念パーテイをされたこと。オレゴン大学から表彰を受けられたこと。その写真などをスキャンして特別ページを作成しなければと思っているものの、なかなか時間が取れないでいる。

 ユージンと大きく書かれているカード。オレゴン州ユージン市に在住されてからの50年記念、漱石先生のお孫さんはこの地で立派に種をまく人となられたのである。

 陽子さんの一粒種、ハンサムなご子息は医師だと伺っている。どこかお祖父様の漱石に似ていらっしゃる。
 私は陽子さんを通して、アメリカの良き一面を見る思いだ。

| | コメント (0)

2003年2月10日 (月)

「禅堂風景図」


井上禅定さまの特別寄稿『鈴木大拙と夏目漱石のこと』を自分の手で編集させて頂きながら、漱石が書いた禅堂の絵のことが気になって仕方がなかった。

あの絵を原稿のなかに挿入したほうがいいか、考えては行きつ戻りつした。結局この場に掲載することであちらのページは原稿を生かす意味で背景画像の睡蓮を使用することにしたのだった。

作者の死後五十年経てば著作権は消滅するという。この点は公共性ということで社会に還元されるのだろう。私などにもたいへんな恩恵を受けている。

絵というのは、「禅堂風景図」と題した彩色画で大正二年ころの作品である。禅定さまが本文でお書きになっているように、漱石が鎌倉へ行き円覚寺山内帰源院に投宿し釈宗演老師に参禅したのは、明治二十七年暮れから正月七日までであった。

この時の参禅の体験がなければこうした絵は描けなかったであろうと思われる。中国の禅堂でキョクロクに坐った老師は払子(ホッス)を手にしているがその目は厳しい。若い修行僧は真剣なまなざしであるがどこかたじろいでいる風だ。

敷き瓦の堂内といい、中国様式の雰囲気がなかなかよく描かれていると思う。大正五年の正月『点頭録』に「趙州の初発心」を祈りにも似た想いで書き綴っている漱石は、二十年近い昔の体験を常にあたためていたのではなかろうか。



| | コメント (0)

2003年1月28日 (火)

掛川の温泉宿


掛川の温泉宿に家族と旅をしてきた。掛川は静岡県にある小さい城下町である。静岡市は先の大戦で中心地は殆ど焼失したが、掛川は全く戦災に遭っていない。私はなんの知識も無いままに、ただ静かな温泉宿でゆったりと心身の湯浴みをしたいという思いで宿に電話をしたのだった。

丁度シーズンオフだし雨も上がるから早く来たほうがいい、といわれすぐ予約した。新幹線はひかり号からこだまに乗り換え掛川駅で下車。気になる天候は曇りだ。温泉宿は市中とはいえ奥深くの山村にありバスは数本しかない。一時間待ちになるので掛川城周辺を見物する。ところが行く先々見るものすべてが面白いのだ。

城に行く途中に銀行があったが両替所と書かれ昔の雰囲気をかもし出す和風の建物だ。壁には城主の山之内一豊の像が浮かび上がっている。通り自体そんな建物がずらりと並んでいる。行政がよくここまで住民を引っ張ったものだと内心私は感嘆する。掛川城は新しく再建された木造のよい城であった。

その他の見物を終えバスが延々と続く田園の中の道を走った。終点に目指す温泉宿があった。紅梅の古木が畑にあり米搗き水車があり大根が点々と植わっている。山々はかなたにかすんでいる。どこまでもひなびた景色であるのがうれしかった。しかし宿は実に行き届いたもてなしで食事もよく女将の方言はやさしく親しく響いた。

不況のせいで客は私どもとあと一家族だけ、広い浴場は朝6時から夜11時まで使用でき、常に温泉がこんこんと湧いている。

「いいところですねえ。聞けばアメリカのユージン市と姉妹都市なんですって?」
「そうだよ。姉妹都市になった時、夏目漱石の孫の有名な先生を市長が招いて講演してもらっただよ。」
「ええーっ、マックレイン陽子さんが!」
私は思わず大きい声を上げてしまった。なんという不思議なめぐり合わせだろうか。

その夜は雨が静かに降り、窓を開けると寒気が入ってきた。
私は漱石が書いたあの良寛を思わせる書を思い浮かべていた。
彼の書の中でももっとも私が好きな書風である。最晩年の作であろうか。
夜静庭寒ーーー清らかな四字である。

| | コメント (0)

2003年1月19日 (日)

和菓子の店 東西考


文人墨客と呼ばれる人々は和菓子とは縁の深いものである。漱石の場合は藤むらの羊羹であった。私も藤むらの羊羹はその色といい甘さを控えた味といい好きな羊羹であった。京都から出た虎屋の羊羹は今では東京風の濃い味になっているが、その点東京の藤むらはむしろ京都の味といっていいような味の深い羊羹であった。しかし現在休業中とか、淋しい限りである。

昨日、京都文化博物館別館で「ロアレル賞連続ワークショップ2003 京都」「空間の色ーアートの可能性とその根源」と銘うった催しがあった。色をめぐる科学者と芸術家の対話と実演を特色とする内容で、東京から今回は舞台を京都に移しての講演会&対話集会であった。京菓子の「老松」主人の大田氏が熱弁をふるわれた話もよかった。質疑応答の時、私はふっと思いつくままこんな発言をした。

「京菓子の場合は地元の人々が何よりもそれを支えています。夏目漱石は藤むらの羊羹を愛しましたがその店は今では絶えてしまってますね。あの羊羹の色・味ともに消えたことは残念でなりません。東京では支える人々がいないとは。」

私は、漱石のためにももう一度あの由緒ある店の復活を願うのである。


「いやー珍客だね。僕のような狎客(こうかく)になると苦沙弥(くしゃみ)はとかく粗略にしたがっていかん。何でも苦沙弥のうちへは十年に一遍くらいくるに限る。この菓子はいつもより上等じゃないか」と藤村(ふじむら)の羊羹(ようかん)を無雑作(むぞうさ)に頬張(ほおば)る。 『吾輩は猫である』 四


宝暦年間(1751-63)に本郷4丁目に店を出した和菓子の老舗。黄味時雨や羊羹、田舎饅頭で名高い。夏目漱石が愛好した他、森鴎外も雁』の中でお常にここの田舎饅頭を買いに行かせている。本郷3丁目脇(文京区本郷3-34-6)で営業していたが、現在休業中。

| | コメント (0)

2003年1月14日 (火)

学究の立場


漱石研究においても優れた業績を残していらっしゃる伊豆利彦氏、私は氏に多くのものを学ばせて頂いているが、先日、主人の著書について次のようなメールを下さった。

ご主人様のご著書ありがとうございました。
仏教は世界でもっともすぐれた宗教だと思っています。
その仏教学の学者としてすぐれた研究をなさっていらっしゃる方の、宮沢賢治論を、一部ですが興味を持って読ませていただきました。
<現象としての自己>についてのご指摘は、私があてずっぽうに考えていたことを、学問的な裏づけをもって書いてくださっているのをうれしく思いました。
ゆっくり読ませていただきたいと思います。

主人の書く専門書は私には難解で到底わからない。そのため数年前に私は主人に頼んだのだ。「私にもわかるものをぜひ書いてみて!」。そんな願いを主人は聞いてくれ、宮沢賢治について書いてくれたのだった。それは大手出版社から新書として出たものの2万部を売り切ったところで絶版になってしまった。

私はキリスト教信者の伊豆氏がこのような理解をもって主人の書き物を読んで下さったことに感謝した。そしてさらにご自身の著書『夏目漱石』をご恵贈くださった。ネットとはなんと思いがけないお付き合いが生まれるのだろう。じっくりと繰り返し読んでゆきたい。

主人が昨年の夏、敦煌へ学術調査のため旅した時の画像を同行の方から頂いているので、今日はその一枚を挿入する。砂漠地帯をラクダに乗っている老学究。昔から見栄えしないのが気楽なものである。

| | コメント (0)

2003年1月 9日 (木)

愛子さま


皇室のニュースでは皇太子ご夫妻のお子様の愛子さまが大人気である。笑顔もしぐさもたまらない位愛らしい。一般に産まれた女児の名前に「愛子」の名が急増しているというのも頷けよう。古くからの「和顔愛語」という四文字は自分でも大切にしてきたものだ

けれど、もう一人、漱石の第四女に愛子さまがいらっしゃる。
随筆『永日小品』の「猫の墓」に出て来る最後の一節は読み返す毎に哀切である。

この方は父漱石にもっとも可愛がられたようだ。道草」の連載がはじまった頃鏡子夫人は次のように書いている。「4番目の愛子というその頃十か十一かだった娘が、或る時夏目に申します。
「お父さんたら、伯父さんのことや人のことばかり書かないで、もう少し頭を働かせなさい。」
夏目は笑いながら、
「この奴、生意気なことをいう。そんなことをいうと、こん度はお前のことを書いてやるよ。」
などとからかっておりましたが、、、、。」

愛子さまは後に、末娘から見た父漱石の素顔と題したエッセイで、父へのかぎりない尊敬をこめて臨終のさまをこう綴ってている。漱石が描いた「達磨渡江図」について。

「暗い夜に、手も足もない達磨がただ一人小舟に乗って、どこから来てどこへ行くのか?流れのままに身を任せて行く、そんな絵であった。自画、自意識を捨て、天意のままに生きているこの達磨の絵、これこそ彼の理想ではなかったか?
 晩年父が達せんとして達し得なかった境地がここにあったのではないか。自然に逆らわず、あるがままの姿で生きて行く。そうした澄み切った心境こそ晩年の父漱石があこがれていた境地ではなかったろうか。父の「泣いてもいいんだよ」と言ってくれた死際の言葉と、この絵とは、なにか相通ずるものがあるように思えてならない。かわいがっていた子供が、自分の死を悲しんで泣いている、漱石はこの末娘が泣くのがつらくていやなのだ。しかし、「なくのはおよし」と言う代わりに、「お前の気がすむならそうおし、お父さまはかまわないのだ」父は臨終の苦しみの内にさえ、己を去り、娘の涙を自然のままに流させてやりたいと願ってくれたのではないだろうか。」


| | コメント (0)

2003年1月 6日 (月)

日記の功罪


漱石はよく日記を書いた。樋口一葉も日記で評価を高めた。永井荷風の日記も時代を超えて愛読されている。読者というのは私小説的な読み方をしていて作家の素顔をそこに見るようだ。けれども、漱石は日記を残したことで「はた迷惑」をかけた側面は否定できない。

鏡子夫人の『漱石の思い出』に、次のような一節がある。明治三六年、37歳の頃と思われる。
「二一 離縁の手紙
 この頃こういふあたまでつけた日記があったのですが、今見当たりません。一体よく日記を書いては後で破って捨てる人でしたから、これも大方捨てたものでしょう。(後略)」

その日記は夫人の死後、公開されたという。これを見た人たちはこぞって漱石夫婦の不仲説を信じ、悪妻呼ばわりをしたのであった。

しかしご長男の夏目純一氏は、「親父の弟子たちは、こんな親父の気違いじみたことは一切認めようとはせず、悪いことは、すべて母のせいにし悪妻にしてしまった。しかし、後年、母の口ぶりから察するに、母は心の底から親父を尊敬し信頼していたようだ。母の口から親父にたいして愚痴らしい言葉を聞いたことは、絶えてなかった。」と語っている。

私は女性として、鏡子夫人はその並々ならぬ覚悟といい見上げた女傑のような方だと思う。他人がなんと言おうと夫に連れ添い遂げた強い信念と深い愛情!明治のあの時代に漱石を私人ではなく公人として考え、死後の解剖を決意されたこと一つをとっても、並の人物ではない。まことに漱石は伴侶に恵まれた方ではなかっただろうか。

昨日が漱石の誕生日であったことから、今日の画像は、夏目漱石筆「人物図自画賛」「 居眠るや 黄雀(クワウジャク)堂に入る小春 」
この句は明治29年12月の「正岡子規へ送りたる句稿 その二十一」
にある。雛僧ともよびたい人物が無邪気に寝入っているところである。

| | コメント (0)

2002年12月31日 (火)

一日でも長くこの世に


若い時分には夢があった。夢と現実の狭間でなやみもした。それが人間の辿る道だと自分に言いきかせた。同じように見える日々を繰り返しながら失敗しながら、そうして今、人生の晩年を迎えている。

主人の叔父である曹洞宗の師家・白山老師に先だってお電話で話したことがある。叔父は年が明ければ90歳になられる方である。

「私、このごろ希望といいますとごくちっぽけなものになってますの。主人と一日でも長くこの世に生きたい・・・なんてそんなことを思ってます。」
「それでいいのではないかな。一日を清らかに生きられたら、それは・・・それはいいことでょうね。」

受話器を置いた後で、私はその言葉を反芻してみる。いやいや、そのような境地には遠い自分だ。まだまだ片付けなければならないことがわんさとある。部屋の中のこの散らかりようはどうだ。ハウスキーパーとしてはまったく失格だ。それに何より美味しいものには思わず口元がゆるむではないか。
そんなことも忘れて、あのようなことを叔父に話した自分に苦笑を禁じえない自分がいる。

40から50を過ぎた男の顔は領収書。女の顔は請求書。こうした格言のようなものを何かで読んだことがあった。なるほどと妙に感心したのだった。
いま、請求書でなく私の領収書にはマイナスがくっきりと書かれている。求めた道の夢と、実現したこととはあまりにも遠い。

そうしてやはり思うことは、一日でも長くこの世に生きていきたい・・・いっしょに・・と。
誰しもが思うであろうことを思ってしまう。


注 上の画像は白山老師の書。信者の方が銅版に彫られたもので、語は「七佛通戒之偈」(しちぶつつうかいのげ)

諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸佛教 ( もろもろの悪を作すことなく もろもろの善を奉じおこない みづから心を浄くす これが諸仏の 教えである )

| | コメント (2)

2002年12月25日 (水)

花束を贈って下さった学生さん


先の花束をそのまま部屋のなかに飾っておいたら暖房でしおれてしまった。それで束を解いて水切りをしてから古い海鼠(なまこ)の壷に入れてみた。まもなくシャンと生きかえったので、玄関の供待ちの隅へ置いて写真を撮った。

私は主人にそれとなく尋ねた。「カードにお隣の国の人と思える苗字が書いてあったけれど、ほら、金さんって?」「ああ、そうか、日本人の女子学生で最近同級生の男と結婚したのだ。」
なんだか新しい時代になったような感じだった。オープンに誇りをもって、外国人の夫の姓を名乗る。覚悟のある女性だと私は思った。

いま日韓、日朝間には越えがたい難問が山積している。政治はそうであっても若い人たちの間に純真な情熱があり、国家を超えて共によりよき人生を創っていこうとしている。某新興宗教の企画による国際結婚でなく、それこそ漱石が言う「自己本位」の結婚であるならば、私はすばらしいことだと思う。

昨日、アメリカから大型封筒の手紙が届いた。プロ写真家のジョージさんかと思ったら差出人はマックレイン松岡陽子さん!。ご両親と一緒に写られた幼児期の写真や、国際結婚でアメリカに住み、オレゴン大学から表彰を受けられた記念パーテイ。名誉教授としてのいくつかの写真等々、ほんとうに若々しいお手紙である。ご子息の風貌はやはり東洋人の血が入っていらっしゃる。

いずれ来年、拙サイトでご紹介させていただこうと思っている。

| | コメント (0)

2002年12月23日 (月)

最終・・・講義


明治前後に生まれた人なら人生50年といってもおかしくないが、今では日本は男女とも世界の長寿国だ。老夫婦には違いない自分たちであるが、私はきのう今日、ジーンとこたえた日であった。昨日の朝、主人が「学校に行ってくる」と言った。授業のある日ではないのにと思いながら黙って見送った。夕方帰宅した主人は大きな花束を抱えている。「学生たちがくれた。今日が最終講義だったんだ。」

あまりにも淡々としている主人、私は自分が恥ずかしかった。現代のというよりどちらかといえば漱石の生きた時代の雰囲気をもっている男である。自分の仕事について妻には立ち入らせないし職場の話は殆どしない。定年退職するまでに一度だけでも主人の大学研究室に行ってみたいと頼んだこともあったが、笑って拒絶されてしまった。しかし今日が最終講義の日だったとは、それも知らず、ああこの一日、自分は何をしていたのか。

世間では不倫ということが往々にして取り沙汰される。男性が生涯にわたって一人の妻を裏切らずに生きて来たということはさほど多いことではないだろう。文学において女と酒はつき物であったが、漱石先生は違っていた。「第一義」を「誠」においた人であった。そしてこうした言葉を口にするのはおこがましいことと思うが、私の主人もそのような男である。悪妻からすれば来世も共にという想いがあるが、これは又やんわりと笑って拒絶されることだろう。

主人の研究は退職後も継続される。常に心変わることなく地道に2000年前の文献を探求し構築してゆく・・・。学生たちの祝福のカードを読ませてもらいつつ私は幸せにひたっていた。

| | コメント (0)

2002年12月22日 (日)

閑談賓主なし

先に「閑座無賓主」と記入したのは間違いで、「閑談無賓主」と訂正させていただきます。失礼いたしました。また、画像掲示板に極という漢字を挿入できずこちらもミスでした。

| | コメント (0)

兜門(かぶともん)をマックレインさんがくぐる


 ことし4月9日、前日にあたかじめ打ち合わせていた通り、マックレイン陽子さんを裏千家今日庵にご案内した。午後3時まえ宗家から少し離れた処でタクシーを降り二人で歩いていった。陽子さんは少し緊張なさっている。以前いただいた何通かのメールに夫々こう書かれてあったのを私は思い出した。

「私は戦前、戦時、戦後の、日本が経済的、文化的に最も貧しかったただ中を日本で過し、御茶、御花の御稽古ごと一つしたこともない無粋な女で、裏千家の御宗家など、とてもお恥ずかしくて伺わせて頂ける人間ではありません。」

「裏千家を訪問させていただくとき、スラックスを履いていてもよろしゅうございますか。それともきちんとした洋服を着たほうがよろしいでしょうか。ただでさえ御茶の御作法を知らない人間で、これ以上失礼に当たることはしたくないと思っておりますので、何でも正直におっしゃってくださいませ。」

大丈夫です、と私は申し上げた。
・・・厳粛な面持ちで兜門をくぐられる遠来の客。露地という名の茶庭の踏み石をしめやかに歩かれる。それでいてあどけない童女のような笑顔。

 私たちが招き入れられた又新(ゆうしん)という立礼席の茶室で、お茶をいただいていると暫くして若宗匠のお出ましになった。文学者としては日本ペンクラブ会員でもある若宗匠。漱石の孫・マックレイン松岡陽子さんとそれは又なんという和やかで楽しい会話であったことか!

 その忘れられない語らいはそっとしておこう。後日オレゴンに帰国された陽子さんのメールには次のような一節があった。
「若宗匠との御写真とてもよく写っていて嬉しいです。本当に楽しい日でした。彼はご自分の分野だけに優れていらっしゃるだけでなく、プロの写真家ですっかり感心してしまいました?本当のあーテイストでいらっしゃるのですね。」

 若宗匠は今日、第十六世今日庵家元の継承宣誓式を宗家利休堂において行われる。もう若の名は無い。その思い出にと私は拙サイトの表紙に、記念の筆跡をUPした。ことし3月、私が筆者となった七事式の会記である。「閑談無賓主」の語と花押が若宗匠の筆になるものである。



| | コメント (0)

2002年12月17日 (火)

雑司が谷へ 二度目の墓参


昨年の秋にはじめて漱石の墓所のある雑司が谷へ行った。その時は一人タクシーを拾い、運転手に行先を告げると「霊園ですな。」と彼は地図を広げながらともかく目的地に着いたのだった。しかし、今回はミモザさんが一切の世話をやいてくださった。鎌倉漱石の会がある12月8日、その前夜から私は東京巣鴨のミモザさんのお宅に逗留していた。翌朝9時に彼女と雑司が谷へ墓参のため、都電に乗ったのだ。都心でない空間があってほっとする。
漱石の墓は既成の墓の形態ではなく安楽椅子をかたちどった設計である。これまで多くの方からこの墓については不評悪評を聞いていたけれども、昨年はじめて私はこのお墓に接し遺族の方々の想いがここに結実したように感じたのだった。この世で心身の病に苦しみ煩悶した漱石先生。あの世ではせめてご夫婦で安楽椅子にやすらいで頂く・・・。

私は昨年、松岡陽子マックレインさんからメールでご教示いただいていたことをここで皆さまへお分かちしたいと思う。

2002/11/11 メール
伊津子様

以下亡父、松岡譲の『夏目漱石』の最終ページからの引用(河出書房、市民文庫、昭和二十八年版):

 {十二月}二十八日に雑司が谷の墓地に愛子ひな子の遺骨にとなりして埋葬された。一周期の時新しく広い墓地にかへ、墓を建てて改葬された。墓は未亡人の妹婿鈴木禎次の設計になり、新様式の石塔である。字は漱石の親友菅虎雄の筆になった。この墓地も落合火葬場とともに彼の作品の中に描かれた有縁の地であるのである。墓地は『こころ』に、火葬場は『彼岸過迄』に)
・・・・・・・・・・
 鈴木禎次は名古屋の松坂屋を設計した建築家、大震災ですべての建物が壊れたとき、松坂屋だけが残り、優秀な建築家として名をなしたと母が言っていたのを覚えています。祖母のすぐ下の妹の主人。

マックレイン陽子

| | コメント (0)