2008年1月21日 (月)

『御仏にいだかれて』中宮寺門跡歌集 最後の編集委員会

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昨年、師走の暮れに日野西光尊門跡から編集委員への慰労会が催されました。昨年一月からはじまって都合十数回の編集会議を重ねて、9月に上梓した、『御仏にいだかれて』中宮寺門跡歌集の最後の会合となりました。

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北野天満宮宮司の浅井先生、冷泉様、その他なつかしいお顔が並びます。編集委員ではないのですが、お骨入り頂きました思文閣出版の長田様もほろよい機嫌のようにお見受けいたします。妙蓮さんというご門跡の愛弟子の方は野の花のように可憐なお嬢さんです。   

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私がカメラを操作していますと、すごいカメラですねえ、と興味をもたれたバーテンの若い男性もつい被写体に。最初は室内光のもの。もう一枚はストロボで撮ったもの。さて、どちらが面白いでしょうか??

宮中の歌会はじめのような和歌の節回しで、ご門跡を寿ぐご自身の歌を直立不動の姿勢で、朗々とよみあげられた92歳の浅井様。しみじみと有り難い思いに浸りました。

ご門跡様からはご染筆の色紙が編集委員へ贈られました。各人の希望の語句をお書きくださったもので、私は「拈華微笑(ねんげみしょう)」をお願いしておりました。釈尊の説法といいますより、中宮寺観世音菩薩の微笑を思い浮かべてのことでございました。

ありがとうございました。

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2007年10月13日 (土)

愛の人・漱石の真の姿を描いた マックレイン陽子新著『漱石夫妻 愛のかたち』

松岡陽子マックレインさんのご本が発売されました。朝日新聞社「朝日新書」70回目の記念すべき本です。書き下ろしもフレッシュならラッキーセブンのナンバー70もナイス!

この写真を見る

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内表紙の説明文はとっつきやすく、然も格調をもってこの本の内容を見事に表現しています。以下そのコピーを。画像は紀伊国屋書店サイトのものです。

漱石の夫婦愛、漱石の親子関係、漱石と家族観―

死後90年以上たっても読み継がれる文豪の素顔。
愛の人・漱石の真の姿が、孫娘の筆で、浮かび上がる。

第1章 漱石について聞いたこと、思ったこと(借家住まいの漱石;漱石生前の経済状態;おしゃれな漱石 ほか)
第2章 祖母鏡子の思い出(祖母という人;鏡子の戸籍上の名前はキヨ;気前のよかった祖母 ほか)
第3章 母筆子の思い出(母筆子と祖母鏡子;私の人生で一番影響を受けた人は母;母の愛 ほか)

☆筆者紹介

松岡陽子マックレイン[マツオカヨウコマックレイン]
1924年東京生まれ、父、作家松岡譲、母、夏目漱石の長女筆子。1945年津田塾専門学校(現在津田塾大学)卒。1952年ガリオア(現在フルブライト)資金で米国オレゴン大学に留学。当地で結婚、そのままオレゴン州ユージン市に残る(夫Robert、1990年に死去)。一男出生後、大学院に戻り比較文学専攻。1964年から1994年まで30年オレゴン大学アジア言語文学部で日本語、近代文学の教鞭をとる。現在オレゴン大学名誉教授。

主な著書に『漱石の孫のアメリカ』 『アメリカの常識 日本の常識』

英語・日本語コトバくらべ―日本語教授30年の異文化摩擦
退職後の人生を愉しむアメリカ人の知恵 』など多数。

私は一気に読ませていただきました。

『漱石夫妻 愛のかたち』

興味深い写真も多くて、内容がこれまた独自の視点で新しい展開になっていると思いました。鏡子夫人への見方もひいきの引き倒しになることと全く対極にある、公正な記述でありなんといっても学究の態度であることに、感動を覚えます。(漱石夫妻の次女の恒子様の結婚を決めたのは、母親の過干渉であったこと。その悲哀など)
20代の若手の編集者の担当とお聞きして、若干の不安もなくはありませんでしたが、この出来上がりなら、「愛の人・漱石の真の姿が、孫娘の筆で、浮かび上がる。」の表紙裏のキャッチコーピーがそうだ!と真実味を帯びて頷けます。
もとはポーランドの大学に招聘されて行った講演を記事にされたそうですが、編集に若さのいい面が出ているようです。
読みやすくても決してミーハーの雰囲気ではなく、啓蒙的な高さが感じられます。
内容がこれまでよく見られる二番煎じや三番煎じの漱石本と違い、すべてオリジナルといってもいい新鮮な書き下ろしであることも値打ちがあります。
著者の陽子さんには祖父に当たる漱石先生は元よりですが、お父上の松岡譲先生の素質を受け継がれていることがこの本で分かるような気がいたしました。
表紙の帯も見合い写真の鏡子夫人と青年漱石。これでみますと美男美女のカップルにみえますね。マックレインさんがお祖母さまに生前、こんな会話をなさったとお書きになっています。
「漱石の昔のお弟子さんが訪ねて来たことがあった。彼が私に、「お祖母様にそっくりですね」と声をかけたら、祖母が、「私が若い時は陽子よりはずっと美人でしたよ」と言ったので、○○氏は苦笑しておられた。」
飾り気のない家系と申しますか。ほほえましい会話でした。
野上弥生子さんが生きていらしたらどんなにお喜びになられたでしょうか!

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2007年4月 6日 (金)

岡倉天心著 千宗室序と跋 浅野晃訳 『茶の本』 のレビューを


対訳・茶の本 (ペーパーバック)
岡倉 天心 (著),  浅野 晃 (翻訳),  千 宗室 (著)

『茶の本』は、1906年(明治39年)、ニューヨークの出版社から出版された岡倉天心の英文の著書であることを、ご存知の方は多いはずです。

天心の英文の著書には、「東洋の理想」「日本のめざめ」「茶の本」と三部あり、これらはいずれも外国の読者に向けて書かれたのでした。

ヨーロッパの各国で翻訳され高い評価を受け日本へ逆輸入された天心のエッセイですが、わけても人気が高い「茶の本」は何人もの訳者によって次々に和訳されました。

しかし、名訳として知られた角川文庫版の浅野晃訳が昭和45年に絶版となり、寂しく思っていましたところへ、講談社の英断によって再び世に出たことは喜びにたえません。(1998年3月第1刷発行)

本書は、千宗室(鵬雲斎)家元の序文・跋文をもって、原文と浅野晃訳の対訳で構成されており、岡倉天心の警醒の心を現代に伝えるに、この上ない最高の書物だということができます。

家元の序文に、天心と裏千家第11代玄々斎の共通点を解かれているのも説得力があり注目されるところです。
旧海軍の特攻隊員でもあった家元は序文の最後に次のように結語されています。

 この本の終章で、天心は千利休の死について素晴らしい一節を残している。千利休は茶の湯を大成した人物であり、私は彼の残した偉業を十五代家元として今自分が受け継いでいることを誇りに思っている。死は、と天心は言う。それを単に否定的な概念と考えるべきではない。「美しいものとともに生きたものだけが、美しく死ぬことができる。」と。利休の死から400年がたち、茶の湯の歴史を振り返り、さらに21世紀へと思いを馳せる今こそ、もう一度こ『茶の本』に目を向けたいものだ。

十五世 千 宗室

     京都にて  1989年10月  

作成日時 2007年04月06日 18:54

これはミクシイのコミュにレビューとして書いたものです。
私の管理する茶道のコミュニテイは、参加メンバーが増加して現在、6、860人になっています。
新会員が自己紹介をしてくれますが、一様に、こんな書き込みしています。

「裏千家のお茶に魅力を感じています。」
「もっともっと、知識を得たいと思います。」
「これから一生懸命」精進するつもりです。」

初心とは、本当にいいものですね。
この本のレビューが少しでもお役に立てれば望外の喜びでございます。

拙サイトに掲載している旧作に、岡倉天心について書いたものがございます。

天心が送った『猫への手紙』

天心『茶の本』について  和訳と訳注について 

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2007年1月15日 (月)

スナフキン ムーミン村 フィンランド

ミクシイのマイミク、がんばるHiromba。さんは、ドイツから愉快な情報を送ってくださる男性です。
お若くて独身、ドイツの企業でバリバリ働いていらっしゃる「オススメ物件」で~す。
え??物件??

いえね、お嫁さんにヤマトナデシコがふさわしいと私は睨んでいるのですが、そんな方がいらしたら是非お世話したいですねぇ。あら、差し出がましいいですか。 ごめんなさい。

 318514816_128s_1 引用
「イラスト左、スヌスムムリク。 え?誰だって? スヌスムムリクだ。スナフキンとも日本では呼ばれている。 スナフキン(Snufkin)は独自の名を持っているように見えるが、スナフキンという名は英語名の転用であり、原語ではスヌスムムリク(Snusmumrik)。ムーミン谷の他の住人同様に、やはり名前には、種族名(ムムリク)がついてくる。 」
http://www.akatsukinishisu.net/itazuragaki/id/moomintroll

ここからはわびすけの話。
私は、ムーミンのファンというほど詳しくないのですが、ムーミンママには関心をもっていました。
じつは、こんな記事を書いているのです。

11・18「ムーミンママ」 フィンランドのタルヤ・ハロネン大統領

『ムーミン』とは、フィンランドの児童文学作家・トーベ・ヤンソンの人気作品ですが、妖精にも似た男の子・ムーミンのママとはどんな性格なのでしょうか。

 家庭的でおおらか。訪問者があればいつも手作りの料理でもてなす……優しくて洞察力のある賢いママ。

そのムーミンママの名を、タルヤ・ハロネンフィンランド大統領につけて親しんでいるフィンランドの人々に敬愛とあこがれのような気持ちを私は今も持っています。

2・12凍った海を散歩するフィンランドの人々と ハロネン大統領再選




さて、マイミクのがんばるHiromba。さんの情報をそのままここにお伝えいたしましょう。

「原語ではSnusmumrikは、「いつも口にスヌースをいれているやつ」という意味だとか。スヌースはスウェーデン版かぎタバコ。スウェーデン人の営業マンが良く口に入れていた。副流煙が無い為、他人と環境にも優しい。

英語でSnuffが「かぎ煙草を吸う」という意味なので、英語訳した人はそんなところからスナフキン(Snufkin)と名付けたのだろう。日本のムーミンは、スウェーデン言語からではなく、英語からの翻訳と思われる。

ちなみに、スナフキンとミイ、ミムラの姉さんは母が同じ。
ミイとミムラの姉さんは全姉妹。スナフキンは二人の異父弟という複雑な家庭環境に育っている。

スナフキン度チェック
http://www.ne.jp/asahi/sin-1/music/suna/sunado.htm

「スナフキン占い」
http://www.ne.jp/asahi/sin-1/music/suna/uranai.htm



著者のトゥーウ゛ェ・ヤンソンさんは、よくインタビューで「スナフキンのモデルはだれですか?」と聞かれ、こう答えたそうです。
「スナフキンのように自由で、何も怖がらずに、やりたいと思ったとおりにできたらどんなにいいかしら」

おそらくスナフキンのモデルは、人間の誰もが求める自由のこころなのかも知れませんね。

わびすけも占いをやってみました。キャラクターは出ました。ちょっとマユツバ???

>「言わずと知れたムーミンです。弱いものに優しく、いたわる心を持っています。あなたはとても人の気持ちを大事にできる人です。自然と周りに人が集まってくるでしょう。」

褒めすぎ、ホメコロシに近いですわ、、、。

>【結果】あなたのスナフキン度は 66%でした。
あなたのスナフキン度は高めです。今の生活を捨てられればスナフキンになれるでしょう。

今の生活を捨てられれば、ってですかぁ~~。それ、ひどいですよ。うちの宿六さんもいてはりますしな。ま、スナフキンになれなくってもよろしおす(*^_^*)。

みなさまも、お正月のすごろくの続きに、試してごらんになりませんか?

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2006年8月26日 (土)

大ベストセラー えんぴつで奥の細道

『えんぴつで 奥の細道』という本が売れに売れています。

31654534_2 大迫閑歩/書 伊藤洋/監修 、ポプラ社 、2006年1月発行 1 ,470円(税込)

キャッチフレーズ

ひと文字、ひと文字、少しずつ。
芭蕉のことばを書き写してみませんか。
出会いと別れ、名句の数々。
なぞればあなたの旅が始まります。

江戸から大垣までを全五〇章に再構成(『奥の細道』全文収録)。
全文書き下ろし、ひと文字アドバイス付。


元禄二年(一六八九)の早春に出立、
日光、平泉を巡って日本海に出、
金沢を経て大垣にいたるまでの
一六〇日の大行脚。

芭蕉がもっとも強く心血を注いだ散文
『奥の細道』を深く味わう、
まったく新しいテキストブック。


はい。次の写真は、監修者の伊藤洋先生の署名なんです。ありがたいメル友のお一人と申し上げては失礼でしょうか。たったいま本の扉に書かれているサインを撮影したばかりです。
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みなさま、お読みになれました?

じつは私はこの中の一字がどうもわからなくて、伊藤洋さんに問い合わせました。

「わかりにくい字ですが、探れ、と読んでいいのでしょうか?」

すると今日、メールが来ました。なんていい気のいい方でしょう。

「不明個所は「探れ」です.芭蕉から頂いたものですので種明かしを致しますと・・・

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/tanbai.htm

というわけです.

早筆のまま

 伊藤 洋(Hiroshi ITOH)」


そのご本尊の芭蕉の俳句は、伊藤さんの解説で教えて頂くことができます。

打ち寄りて花入探れ梅椿

 句や和歌を詠むために、山野に出て早春の梅や椿やわびすけの香を探す風流を探梅という。ここは室内ゆえ、花入れに梅や椿が生けてある。皆が探梅をして、花入れに鼻を差し入れてこれを探すというのは如何なものであろうか?というのだが、もとよりふざけた話。


*~*~*~*~


ああ、そういうことでございましたか。
ぶしつけにお尋ねいたましたが、私としては種あかしをしていただきましたこと。思いがけず心があたたかくなってうれしかったです。

この本はなんといっても企画された出版社の女性役員さんでしたか、その方の発想が秀逸だったというべきでしょう。
そして書道家の人選も、監修者の人選も最高だったのではないでしょうか。

定価が安く抑えられているのも、芭蕉が著作権というものの縛りがないこと。死後50年を過ぎたら著作権は消滅しますから、まあ、いろんな意味で好条件が重なったのでしょうね。

これから私もえんぴつで、この本を頼りにひととき旅に出ようと思います。
芭蕉の句の名解説は、工学博士で芭蕉研究家でもあり、インターネットを駆使される好漢!
とまあ、一応こんなことを書いてお祝いとさせていただきましょう。

こんなすてきな楽しみがあるこの国…、またこころがときめくのです。

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2006年8月19日 (土)

『現場に神宿る』百年後に真の評価を受ける人・中坊公平さん

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 1929年京都に生まれ、地元の京都大学に学び、弁護士となった中坊公平さん。大阪を拠点に活動し、これまで約400件以上の裁判を担当し事件の殆どを勝ち取ってきたという、驚くべき法曹家なのですね。

 中坊さんの庶民的で飾り気のない風貌、3年前まではテレビや新聞のインタービューにもよく登場されていましたし、そのお人柄も国民的な人気がありました。

 しかし、或る事件により2002年に出版された著書を最後に、中坊さんの名を見ることはなかったのですが、思いがけず今年2006年7月5日発行のこの書物を手にして、私は感慨深いものがありました。

 本の題名は『現場に神宿る』。著者が中坊公平+松和会、とあります。「千日デパートビル火災/被災テナントの闘い」という、そのサブタイトルが表している通り、中小企業とも零細企業ともいわれる商人達(松和会)が、弁護士と心を合わせ団結して闘い勝ちとった18年6ヶ月の間の記録なのです。

 強きをくじき弱きを助ける、ことをモットーとした弁護士。これまでの活動記録を総括しますと次のようになります。

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1 1960年―H鉄工和議申立て事件
2 1962年―「M市場」立ち退き補償事件
3 1967年―貸金返還請求及び暴行事件
4 1970年―タクシー運転手ドライアイス窒息死事件
5 1973年―森永ヒ素ミルク中毒事件
6 1982年―小説のモデル名誉毀損事件
7 1982年―自転車空気入れの欠陥による失明事件
8 1983年―実刑服役者の新聞社に対する謝罪広告請求控訴事件
9 1985年―看護学校生の呉服類購入契約事件
10 1985年―金のペーパー商法・豊田商事事件
11 1987年―ホテルの名称使用差止め事件
12 1992年―グリコ・森永脅迫犯模倣事件
13 1993年―産業廃棄物の不法投棄・豊島事件
14 1996年―不良債権・住専処理事件
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(中坊公平『私の事件簿』目次より)

 今回、著者である中坊さんともう一方の著者である、千日デパートビル火災時のテナント業者36人の「松和会」。
 この裁判記録を読むと建研という権威ある公的機関の報告書にもデータのミスがあり、裁判官も弁護士も不完全な対応があったことが解ります。弁護士は現場に行き、商人達から学び共に勉強し前進します。

 「あとがきにかえて」を書いたのは松和会現代表の明地東三さん。まことにふさわしい後書きでよかったと思いました。「はじめに」は中坊さんの訥々(とつとつ)とした語りが、近江商人の「三方よし」という言葉を引き合いに、「売り手よし、買い手よし、世間よし」という伝統的な経営理念とモラルが説かれ、楽しいものになっています。

 この本の中で「中坊公平の回想」が4回出てきますがじつに親しみやすいいい文章です。これからみれば、迫力ある大作『現場に神宿る』の全体から受ける印象は、若手の弁護士さん達の代筆ではないだろうかと失礼な想像をしていました。お許しくださいませ。

 私は、中坊公平という方は100年後に真の評価がなされる人物だと考えます。現代の日本人と社会が失ったかにみえるもの、公正と正義。それを全人格をもって追求し、表現した体現者ではないだろうかと……。同じ京都市民である自分がなにかしら力を与えられるようにも感じられるのです。

 人と人との絆が分断されてきている世の中を厳しく指摘されます。小泉構造改革への批判のあとに、「実は日本人の一人ひとりが『自立』『自律』『連帯』というところからだんだんはなれていってしまったということです。」

 それを救う処方箋は、次のように述べられています。
 「アメリカ型の資本主義ではない、「三方よし」の商い、企業活動を大切にし、その方向に進んでいくことです。」

 210ページに「偲ぶ会」のことが書かれています。「京都市の聖護院の敷地に建つ旅館『御殿荘』」
 「中坊公平が経営するこの旅館は、裁判の時に何度も弁護団会議や合宿の場として提供された場所である。二〇〇五(平成17)年八月二七日、まだまだ残暑厳しい晩夏の日に、その思い出深い一室で松和会の「偲ぶ会」が開かれた。
 ドリームとの裁判中に松和会の会長をつとめていた桑増秀が、ほんの二ヵ月前の六月にガンでこの世を去ったのだ。」

 ご存知でない方のために申し添えますと、中坊さんはお若い時分から弁護士の収入を蓄えてこの由緒ある旅館の古い建物を購入。大改装のあと、今では良心的な有名旅館として全国の顧客に愛されている、旅館経営者なのです。

 修学旅行の生徒達が来るので二流か三流という声もありますが、そこはオーナーの確固たる信念があっての決断でしょう。比較的安くてサービスがいい、そして安心だ、という先生たちの声が圧倒的と私は聞いております。

 つまり、中坊さんは資本主義のなかでの資本家であるということ。従来の伝統を否定し、革命、改革を言うような人権派とは一線をひく方なのですね。京都を愛し、よき伝統を生かし、子どもたちにそれを伝えたい。その信念があって、共存共栄の経営が成功しているのです。ホテル経営が不振で喘いでいる中で、旅館『御殿荘』はいつも盛況、こちらでもたいしたものと思います。

 かつて政府からその行動力を買われ、住宅金融債権管理機構社長となられたのがつまづきの元でした。体制派として弱者を弾圧するという指弾を受けるに至ったからです。しかし、弁護士を廃業しても中坊さんは何も困ることはありません。困るのは誰か……。菊池寛賞等受賞の輝かしい経歴も、本人にはなんのことはなく小さな思い出に過ぎないのではないでしょうか。

 中坊さんには、弱くても心正しき人の友が数限りなく存在します。そのことを私はこの本からしみじみと感じたのでした。

 裁判のあり方、闘うための真剣な学び、人々との和。専門的な知識がわかりやすく書かれているこの良書を、1人でも多くの方々に読んでいただきたいと思います。

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