京都

2009年5月16日 (土)

冬眠から覚めたようにスライドショーを更新しました!

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2009年4月11日京都漱石の會主催の「夏目漱石ゆかりの半藤一利・松岡陽子マックレイン講演会」のスライドショーをアップしました。 じつはパソコンの故障で今はメーカーに送っているので、予備の古いノートパソコンでなんとか更新にこぎつけたのでした。写真は私のほか会員のお世話役が撮影されたものなど混じっています。講演の中身ですか?それは聴講料と交通費を払って会場に足を運ばれた方々の特権ですね。ご想像あれかし。。。

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京の町の街路樹の根元に虞美人草の花がほほえんでおりました。これからも会報「虞美人草」をいいものにしていかなければと自分に言い聞かせたわたくしでした。

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2009年2月16日 (月)

お初穂の飾りと節分茶会 いい鬼のお話 京都美術倶楽部

スライドショーをアップいたしました。重くなって時間がかかるのではないかと案じます。

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まあ、スライドショーのなかで、主客のやりとりがおわかりになりますでしょう。
ご意見があればどうぞどうぞ。

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2008年12月 4日 (木)

北野天満宮献茶祭2008年 きれいどころの上七軒副席

芸舞妓のお運びのもようを撮影して、とりあえずアップしました。

スライドショー 北野天満宮献茶祭 副席 上七軒歌舞練場 12・1

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2008年11月26日 (水)

2008年宗家宗旦忌のスライドショーで

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月遅れになりましたが、恒例の宗旦忌にお手伝いをした日のもようをアップいたしました。

スライドショー 2008年11月19 宗家・宗旦忌

写真が主です。あとは茶会記と箱書きをご覧いただくことで製作者はまあ、責めを果たすといった塩梅でよろしくお願いしま~~す。

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2000年から記録していますので、最後までゆっくりご覧いただきますよう!

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2008年7月 3日 (木)

全国の茶の湯愛好者に届けるために

ながらく戸惑いながら、ようやくネットにこの茶会の記録をとどめることにいたしました。ほぼ三カ月ぶりです。

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名品・竹舟に化身した茶の湯の男(おのこ) 桐蔭会4月

ネットに作品を出すことは、複雑な思いがございます。素直に喜んでその思いを伝えてくださる方、その反対の立場で終始批判される方…。

でも、忙しい時間をさいて作品として制作し、やはりアップすることにいたしました。

いまはただ黙って、全国の茶の湯愛好者に届けるために。

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2008年6月20日 (金)

水無月十八日 桐蔭会 淡敬会担当

待合の床から。  写真はクリックしていただくと大きくなります。

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本席の床

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こちらは自然光で撮影した草花
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2008年1月16日 (水)

神坂雪佳の光琳風つばき

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京友禅はいま難しい時代にさしかかっています。人々の和装離れと価格の高騰が悪循環のようになり、京都の町を歩くきもの姿の人々が少なくなりました。けれども、神坂雪佳の名は画家・工芸・デザインと明治から昭和にかけて京都の華ともいうべく大きい足跡を残しました。タカシマヤで昨年の二月、上品(じょうぼん)会の招待展示に寄せて貰いました時、雪佳さんの原画をもとに作られた訪問着に魅了されてしまいました。カメラにおさめた画像がございますので、三枚とも大きいサイズのまま、アップいたしましょう。クリックしてご覧くださると拡大いたします。光琳風のつばきと梅が描かれているのがお目に入るでしょう。

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神坂雪佳、本名は神坂吉隆(1866~1942)、京都で出生。

2001年には、エルメス社が発行したカタログの表紙を飾り巻頭記事となるなど、日本の画家として気を吐いています。京都・琳派の伝統に基づきながらアールヌーボーに通じるモダンな作風、いまや世界で注目をあびている多彩な人物なのです。画家、図案家としては和装のデザイン、漆器など工芸の意匠。教育者としても京都市立美術工芸学校の教師を勤め人材の育成に寄与しました。また、光悦会の創立にも関わったと聞けば、茶道美術にも当然造詣が深かったことが理解できるのです。

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いかがでございましたか。

こうした着物をお召しになってご覧になるのも…なんて無責任なことを言ってみましょう。

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2008年1月13日 (日)

京都、大会新で4連覇! 全国女子駅伝と初釜 

京都、大会新で4連覇。日曜日のテレビニュースがとびこんできました。 

「第26回全国都道府県対抗女子駅伝(日本陸連、京都新聞社主催、NHK共催)が13日、京都市右京区の西京極陸上競技場を発着点とし、左京区の京都国際会議場前で折り返す9区間42・195キロのコースで行われ、2区で首位に立った京都が3区以降独走し、2時間14分58秒の大会新記録で4年連続12度目の優勝を飾った。.
4連覇は6回-10回大会で京都が5連覇を飾って以来。」

じつは、昨日にご宗家の初釜式に参りました。そして今日は全国女子駅伝。ねずみ年に京都が大会新で4連覇!

ちょうど六年前のことを思い浮かべております。あれは、うま年でした。

2002年1月13日 初釜のことを拙サイトに書かせていただいているのですが、その時もやはり全国女子駅伝は京都優勝。幸運な巡り合いなのですね。
第20回全国都道府県対抗女子駅伝で6年ぶり8度目の優勝を遂げた京都 府チーム、といいますからその後メキメキと力をあげたようです。
喜びを全身にあらわしてゴールに入った選手のたくましくも可憐なすがた。
きのうの初釜の喜びとともに、幸先のいい今日の一日でございました。

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2008年1月 2日 (水)

失敗を悔いてはいません

みなさま、新年のご挨拶を申し上げます。

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旧冬になりますが、大徳寺利休忌の今日庵当番にあたり、淡敬会が副席をかけさせていただきました。その日水屋仕事の合間に撮影したと思っていたのですが、誤って動画モードにしていたのに気付いたのが後の祭り。アップするには画像も荒くそのまま非公開にしていたのです。ただ、あまりにもブログが殺風景ですので茶席の画像でもご覧いただきましょうか。

会記があるものの読みにくくてどんなに目がいい方でも無理というものでしょう。

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たばこ盆の火入れ、見覚えのある方がいらっしゃるのではないでしょうか。宗旦三百五十年遠忌の記念品に頂戴した大樋焼の一品でした。

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利休好みの三重棚。玄々斎はこの棚から更好棚を考案されたようですね。

長老と申し上げればしかられそうな、むらじ先輩。

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岩倉焼の菓子器

033soba 028kaiki 029iwakurayaki 030natsume席もおひらきになり、役を終えた床の花がひっそりと…。

これから道具当番の方々は荷物をかかえ帰途につくのです。

私は点前を一度いたしました。身体のリハビリになると自分で言い聞かせて。でもお客様からすれば迷惑なことかもしれません。2007年11月28日の大徳寺利休忌副席のようすでございました。

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2007年11月21日 (水)

旦少年のおもかげを偲び もえる紅葉を写しました

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スライドショーをアップしました。

11・21スライドショー大徳寺山内の紅葉 宗旦忌350年の日にhttp://wabisuke.la.coocan.jp/soutankinohi2007.html

宗旦さまには「旦少年」とよばれた時期がおありでした。旦少年へ贈るというその題名のままの漢詩が記録に残されています。
贈った方は禅の師匠である春屋和尚です。親の元を離れ小僧さんとして大徳寺に預けられた十二、三歳の旦少年に、慈愛に満ちた励ましの漢詩の内容なのです。

春屋の『一黙稿』は、淡交社から嘗て淡々斎が序文をお書きになり刊行されています。私は愛読していたその書物をどこかへしまいこんで今詳述することができずほんとうに残念に思っています。

けれども宗旦忌の日に、旦少年のおもかげを思い、協賛釜の水屋でご奉仕できることを感謝しておりました。スライドショーは解説がなくともお茶人さんがたはご存知と思います。

法堂(はっとう)。~芳春院。~本坊。~じゅ光院。高桐院。最後の不審な場所は、夕食をいただいた某所。

きものをご披露することは京友禅のPRにもなりましょうか。いま厳しいこの業界に元気を出してという老婆心でございます。きもの好きな趣味を一人でも多く増やして欲しいところです。

      

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2007年11月18日 (日)

宗旦忌 明日は350年忌 11月19日

宗旦さまの350年忌、明日11月19日は大徳寺において法要と大茶会が開催されます。

直門席は高桐院。私は明日の午後から水屋でお伝いをさせていただきます。翌20日は全国から参詣の門人の方々でたいへんな人数になることと予想されます。申し込んでも抽選に外れたと嘆かれるお声も多く聞かれます。せめて過去の記録なりとご覧頂き、ささやかなひと時をお過ごしいただければと、ブログを書くことにいたしました。

今日庵・宗旦忌2001年 2001年12月2日UP

http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/2001soutanki.html

今日庵 宗旦銀杏のもとに 2000年12月3日UP

http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/soutanityonomotoni.html

平成十五年十一月十九日
今日庵 宗旦忌   協賛席 志倶会担当

今日庵宗旦忌 そうたん狐が来たような 2003年11月 

http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/2003.soutanki.html

2001年 10月 19日
千 宗旦は利休居士の孫。1658年12月19日没。
今日庵では毎年11月19日に宗旦忌が施行される。
その由緒ある 月命日の日に つつしんでUP。

椿わびすけのゲストギャラリー 「あなたと撮った茶のある風景」 

最終回 撮影者 千宗之若宗匠

http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/guest.last.sen.html

この記録は過去にそれぞれアップしたものです。宗旦さまのこころに届きますでしょうか。

参考 禅と日本文化

http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/hpohta/fl-soutan/nenpu-soutan.htm

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2007年11月16日 (金)

スライドショー 2007年光悦会

11月11日から3日間、鷹が峰の光悦寺で、恒例の光悦会が開催されました。

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会記や席の様子などは後日にゆずります。昨夜とりあえず、写真だけアップいたしました。過去の記事も併せてご覧になれば、遠隔地の方々に雰囲気だけでもお伝えできましょうか。
光悦に関する拙文がIT新聞に掲載されたものを含めて、URLを出しておきますね。
◇ ◇ ◇
スライドショー 2006年光悦会
スライドショー光悦会  2005年
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2月3日は光悦忌
職人たちを育てた芸術村 本阿弥光悦

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2007年10月21日 (日)

ND小学校学院祭 クリスマスローズの大判写真が茶会に

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仲良しのシスターCと、私服のシスターND小学校・シスターベアトリス校長。保護者会長の方々とごいっしょに。2007/10/14

◇本日IT新聞のコラムに拙稿が掲載されています。

小学校の礼法室に飾られた「クリスマスローズ」の大型写真

http://www.news.janjan.jp/column/tsubaki/list.php

10月14日(日)、京都市内の名門私立として知られているノートルダム学院小学校の学院祭に、お招きを受けて行ってまいりました。保護者の方々も子どもたちも作法に則りお茶を飲んでいます。カトリックの小学校が日本の伝統文化をごく自然に取り入れているのが京都ならではといえましょうか。(椿伊津子)2007/10/21

記事の続きは、そちらをご覧いただくこととして、ここでは当日の写真をアップいたしましょう。最初にタイトルになっている写真は、一昨年東京で開催されたプロ写真家。関健一氏の個展で展示されていた作品です。個展の会場で関さんと並んでいるのはわびすけ。この時、何枚かの作品を購入させてもらいました。その中の1枚がこのクリスマスローズだったのです。カトリックのND学院にふさわしいと考えていたのが実際にこうして礼法室に飾られているのを見ますと、感慨ふかいものがございます。

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母性そのものシスターのまなざし。たくさんお土産をくださいました。感謝!

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聖像の足元にノートルダム小学校の生徒の制服を着たミニチュア人形が目に飛び込んできました。学校のいたる処に細やかな愛情が感じられて、ここで学ぶ子どもたちは恵まれているなぁ~と実感したのでした。

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2007年9月 9日 (日)

2007年9月7日裏千家無限忌 副席

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ご夫婦の忌日がまったく同じというのは、世の中にはあまり多いことではありません。9月7日にお二人のご遺徳を偲ぶ一会にことしもご奉仕をさせていただきました。

無限忌とは、裏千家第十四代碩叟宗室、淡々斎の名で親しまれているお方です。1893年(癸巳,明治二十六年)にご出生、1964年(甲辰,昭和三十九年)9月7日に逝去。伝道に行かれた北海道で急死されました。享年70歳。

無限斎の斎号と碩叟の号は大徳寺の瑞巖老師が授けられたものです。淡々斎の著書『風興集』には、その間の謂れが詳細に書かれています。瑞巖老師は無限斎のことを「人中の英」と讃えておられるのです。

淡々斎は学問を重要なものとして学び尊んだ方です。今は学者といえばサブカルチャー的な言動をされる風潮がありますが、本来はそうしたものではなく本格的な学者を尊敬されました。淡交社刊『茶道古典全集』はその偉業を余すところなく伝えていると思います。

嘉代子夫人は仙台のご出身。美貌に加え才気と母性的な心配りで人々を魅了された方でした。その夫人の法名清香院様は後年、最愛の夫君の後を追うように同じ9月7日に逝去されたのでした。ことしもその法要が聚光院にて厳かに執り行われました。

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床は円能斎一行 清風拂名月(せいふうめいげつをはらう)。円能斎は無限斎の父君。

淡々斎好みの円意棚 歌と在判が天板裏にあり。秀斎造。 

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ものごとに 障らぬものは 円かなる おのがまことの 意(こころ)よりこそ

私ども直門は、大徳寺における無限忌の副席を例年のごとくご奉仕。三玄院の茶席のもようを水屋仕事の合間に撮りましたが、カメラの故障でうまくいきませんでした。多少見られるものだけアップしてみました。

道具は当番持ちよりです。高価なものを見せてもらうのですから勝手な批評は避けたい処ですが…。私の感じたことは、風炉の雲華面取りの色彩がちょっと目立ち過ぎているようで、全体の印象から惜しいと思いました。難しいですねえ。

花入は淡々斎好、無心籠。

水指は古膳所(こぜぜ)、渋く味わいのあるものでした。

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棗は秋の野棗、八代宗哲の作。これは利休好。

茶杓 淡々斎 銘 初雁、風情のある茶杓でした。

茶碗 淡々斎歌銘 「松風」 覚入造

茶杓の銘と同じ「初雁」のお菓子が今日庵席で出されておりました。末富製。黒砂糖にくずで作られ中に白い百合根の一片が入っているものです。御所前の松屋ときわが有名なお菓子でしたが、最近はお目にかかれません。

いずれ『淡交』に掲載されることですから、どうぞそちらをお待ちくださいませ。

スライドショー 2006年8月7日 無限斎宗匠毎歳忌 清香院さま27回忌法要 副席

 

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2007年9月7日裏千家無限忌 副席

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ご夫婦の忌日がまったく同じというのは、世の中にはあまり多いことではありません。9月7日にお二人のご遺徳を偲ぶ一会にことしもご奉仕をさせていただきました。

無限忌とは、裏千家第十四代碩叟宗室、淡々斎の名で親しまれているお方です。1893年(癸巳,明治二十六年)にご出生、1964年(甲辰,昭和三十九年)9月7日に逝去。伝道に行かれた北海道で急死されました。享年70歳。

無限斎の斎号と碩叟の号は大徳寺の瑞巖老師が授けられたものです。淡々斎の著書『風興集』には、その間の謂れが詳細に書かれています。瑞巖老師は無限斎のことを「人中の英」と讃えておられるのです。

淡々斎は学問を重要なものとして学び尊んだ方です。今は学者といえばサブカルチャー的な言動をされる風潮がありますが、本来はそうしたものではなく本格的な学者を尊敬されました。淡交社刊『茶道古典全集』はその偉業を余すところなく伝えていると思います。

嘉代子夫人は仙台のご出身。美貌に加え才気と母性的な心配りで人々を魅了された方でした。その夫人の法名清香院様は後年、最愛の夫君の後を追うように同じ9月7日に逝去されたのでした。ことしもその法要が聚光院にて厳かに執り行われました。

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床は円能斎一行 清風拂名月(せいふうめいげつをはらう)。円能斎は無限斎の父君。

淡々斎好みの円意棚 歌と在判が天板裏にあり。秀斎造。 

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ものごとに 障らぬものは 円かなる おのがまことの 意(こころ)よりこそ

私ども直門は、大徳寺における無限忌の副席を例年のごとくご奉仕。三玄院の茶席のもようを水屋仕事の合間に撮りましたが、カメラの故障でうまくいきませんでした。多少見られるものだけアップしてみました。

道具は当番持ちよりです。高価なものを見せてもらうのですから勝手な批評は避けたい処ですが…。私の感じたことは、風炉の雲華面取りの色彩がちょっと目立ち過ぎているようで、全体の印象から惜しいと思いました。難しいですねえ。

花入は淡々斎好、無心籠。

水指は古膳所(こぜぜ)、渋く味わいのあるものでした。

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棗は秋の野棗、八代宗哲の作。これは利休好。

茶杓 淡々斎 銘 初雁、風情のある茶杓でした。

茶碗 淡々斎歌銘 「松風」 覚入造

茶杓の銘と同じ「初雁」のお菓子が今日庵席で出されておりました。末富製。黒砂糖にくずで作られ中に白い百合根の一片が入っているものです。御所前の松屋ときわが有名なお菓子でしたが、最近はお目にかかれません。

いずれ『淡交』に掲載されることですから、どうぞそちらをお待ちくださいませ。

スライドショー 2006年8月7日 無限斎宗匠毎歳忌 清香院さま27回忌法要 副席

 

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2007年8月23日 (木)

中宮寺門跡の記念歌集 『御仏にいだかれて』

編集委員の末席に加えていただきましてより、いくたびか編集会議を重ねて参りました。そしてついに最後の編集委員会がこの18日に開催されました。場所は京都市内の或るホテル。中宮寺様を中心に出版社の方と5名の編集委員。総勢8名。

この後晩餐のおもてなしに預かりました。写真は男性抜きの三人となって。左、冷泉夫人、右わびすけ。真ん中はいわずと知れたやんごとなきご主人公でございます。

R1010625hensyukaigiato1  『御仏にいだかれて』

この歌集は、日野西光尊門跡の喜寿を記念して、長い間詠んでこられました和歌の詠草を集め、尼公の伝記ともいえる内容になっております。

題名からすべてご門跡のご意向を受けて、5人の編集委員が審議したのちに決定したものです。編集員の方々は私を除いてその道の錚々たるオーソリティ。歌集にとどまらず発起人から、挨拶をどなたに依頼するか、祝賀会の会場はなどの実行委員会の様相を呈しました。

R1010623nikouto 光尊さまは、向陽会の歌人でいらっしゃいます。

そもそも明治天皇の思し召しによって始められ、そのご下賜金で運営されてきたという和歌の会・向陽会。

ご門跡は次のようにおよみになりました。

百二十年 受け継がれたる 向陽会 その一しゃく(歯へんに句)に居る 身の幸思ふ

また、本の題名のご染筆は、有馬頼底様。相国寺派管長。平和運動でも有名な方です。仮名をお書きになるといかにも優しい筆跡で、あらっと意外な感じを受けました。

この表紙は、龍村織物特製で、ご門跡が特注された「国宝・中宮寺天寿国曼荼羅」の絹布です。龍村織物の担当の方も何度か編集会議にいらして協議を重ねたのでした。色調といい、文様といい、香気ただよう表紙になっております。お歌はごく自然な歌風です。その上、年譜とあとがきのご文章が切々と心に響きます。

どなたでもお手にとっていただくことが出来ます。自費出版ですので購入されたい方は、中宮寺へ申し込んでいただきますよう。巻末の内ポケットにはCDが入っております。税込み6300円。

さて、編集委員の方々のご紹介を。

浅井与四郎氏、 向陽会の師範。北野天満宮・宮司さん。 

冷泉美智子氏、向陽会会長の令夫人。和歌の名手との評価たかい麗人。

出雲路敬直氏、歴史学者、下御霊神社宮司さん。

辻弘達氏、医学博士。表千家茶人。

わびすけ、ご存知 猫好き、茶好き、ソーセキ好き。貧相な手抜き主婦。

さて、出版社は京都に本社があります思文閣出版。専務の長田岳士氏がお世話くださいました。思文閣出版は古美術・思文閣の別経営の会社です。この度の縁はと申しますと、一昨年の私が担当させていただきました中宮寺・山吹茶会であったように思います。

裏千家・坐忘斎家元のお献茶が行われた際、忝くも添え釜を懸けさせていただきました。。私の力などはちっぽけですべて皆さまのご協力によってできたように記憶しております。中でもかつて、茶道の指導をしていた関係で、思文閣社主の田中周二氏がご家族と社員へとかなり茶券を買い求められ茶会の当日、夫人とお嬢さんたちと駈け付けてくださいました。

その時の感想文を氏は後日、送ってこられました。企業人としては自分で著書も出されているだけに達意の文章です。個人的には面映いのですが。

 拙サイト掲載 京のあきんど 思文閣 田中周二

◇◇◇

椿先生との出会い                                      

            田中 周二(株)思文閣代表取締役会長

人生に於いて一期一会との言葉がありますように、椿先生との出会いがその後の生き方に多くの影響を頂いたように思っている今日です。

(中略)

話は少し戻りますが、先年久しぶりにお見えになり、何か夏目漱石の書いた作品がありますかと申されたので、書の掛け物をお見せいたしましたところ、気に入っていただきました。

ことし平成十六年四月二十一日と二十二日に奈良の中宮寺に於いて、お茶会をされるお手紙を頂きました。家内と一緒に二日目の日に参りましたところ、中宮寺山吹茶会 椿わびすけ席に案内されました。大書院正面の床の間は、裏千家当代・坐忘斎家元の書かれたものでございました。待合には、漱石の軸が掛けてありました。先生に聞きますと、漱石の書に柳の語句がありましたので、四月にあわせて掛けられたとのことでした。


普通お茶席には文人の軸は使われませんが、今までにない新しい試みとしてお使いになった椿先生の出色です。



中宮寺・本殿の落ち着いた部屋で椿先生みずからのおもてなしでいただいた一服は、俗の世界におります私に断ち切ったひとときの心休まる静かな時間でありました。

久方ぶりに心洗われる中宮寺だったと家路に着きました。



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2007年8月 7日 (火)

八朔(はっさく)のご挨拶 裏千家家元のお言葉

茶道宗家での体験を書くことにいつも躊躇している私です。

でもそれを待って下さっている読者の方々も確かにいらっしゃいますので、今日は少し触れたいと思います。八朔と申しますと柑橘類の果物を思い浮かべる方が殆どでしょう。

それとテレビなどで京都祇園・甲部歌舞練場のおっしょさん、井上流家元へ舞妓や芸妓があらたまって挨拶に行く日と仰る方々も多いのではないでしょうか?

でも、別名田の実の節句ともいわれるように、この頃は早稲が実ります。稲の穂が実るので、初穂をお世話になる人にに贈る風習が生まれたようです。この「たのみ」が「頼み」になり、「お頼み申す。」 ということになったといいます。そこで上つ方の間でも、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味で挨拶に行くのですね。

暦の専門家でいらっしゃるかわうそさんは八朔の歴史を次のように仰っています。

徳川家康天正18年8月1日(グレゴリオ暦1590年8月30日)に初めて公式に江戸城に入城したとされることから、江戸幕府はこの日を正月に次ぐ祝日としていた。

今明治改暦以降は、新暦8月1日月遅れ9月1日に行われるようになった。」

私は念のために、8月1日が旧暦ではいつになるかと探して見ました。↑↓

  • 2007年  09月 11日 (友引)

ということですので、本来の八朔はもっと先で今より涼しい頃でしょうね。それと暑いさなかは、三伏(さんぷく)の候といい、夏の勢いが大変盛んで秋の気を伏する(降伏する)ということのようです。旧暦ならきのう今日はまだ三伏の中ではないかと思います。

前置きがくどくどと長くなってしまいました。えっ、お家元の話はどうなったんだ?とおっしゃるのですかぁ~~。はい。風が通る家が従来の日本の家屋であった、というお話が中心でした。

「これまでの旧い住居を新しく建て直したが、小川通りの佇まいに合ったものにしたと思っていた。しかし、家の中を以前のように風が通らないんです。見た目には昔風の家でも、エアコンを設置した建築は、すでに自然の風は通り抜けてはくれない。」

そう仰ってお家元は時代の流れというものの難しさを話されたのです。そして更に茶会の箱書きについて、「自分は今後特別なものを除いて箱書きを断ることにした」と。それは、ものの価値でなく肩書きで物を見、判断する茶人のありようを厳しく指摘されたのでした。

新しくものを創るばかりが道ではありません。利休さまがわび茶を伝えられた千家の茶道の正統を行かんとされる坐忘斎家元の静かな気迫を、私どもはしみじみと感じさせていただきました。

茶の湯には梅寒菊に 黄ばみ落ち 青竹枯れ木 暁の霜

利休百首

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2007年7月30日 (月)

えり善で、漱石が半襟を選んだのは妻の為だったことが判明

今日のIT新聞に、拙記事が掲載されています。先に書きました襟善の半襟の続編にあたるものです。きのう、参議院選挙の投票に行ったあとで、最終原稿を入稿したのでした。

7月30日 tsubakiコラム 京都の取材から書かれた漱石の『虞美人草』と『門』

なにか適当な画像はないかと探しましたが、あまりみつからないのです。

ご存知のように石は本の装丁にずいぶん気を遣いました。『こころ』では自分で装丁を手がけたほか、画壇の一流作家に依頼して見事な絵を表紙にしています。『道草』と『虞美人草』の表紙を出して見ましょうか。

Gubijinsounatume1 今は記事のお知らせのみでございます。

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えり善で、漱石が半襟を選んだのは妻の為だったことが判明

今日のIT新聞に、拙記事が掲載されています。先に書きました襟善の半襟の続編にあたるものです。きのう、参議院選挙の投票に行ったあとで、最終原稿を入稿したのでした。

7月30日 tsubakiコラム 京都の取材から書かれた漱石の『虞美人草』と『門』

なにか適当な画像はないかと探しましたが、あまりみつからないのです。

ご存知のように石は本の装丁にずいぶん気を遣いました。『こころ』では自分で装丁を手がけたほか、画壇の一流作家に依頼して見事な絵を表紙にしています。『道草』と『虞美人草』の表紙を出して見ましょうか。

Gubijinsounatume1 今は記事のお知らせのみでございます。

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2007年7月26日 (木)

生涯ひとりだけの妻と添い遂げた漱石の節操

今日、インターネット新聞のトップページ記事の一つに掲載されたのが、

コラム古都つれづれ 07/26 漱石が京都で買い求めた高価な半襟

こちらに書いたものに、新しく『虞美人草』の資料なども入れて加筆いたしました。
Sosekiga11 漱石は取材した後に、実際にその品物を買い求め、家族に着けさせているのですね

先ほど、えり善の部長さんからお電話をいただきました。
私は、現在刺繍入りの半襟を扱っていらっしゃるかとお聞きしましたら、次のようにお答えが返ってまいりました。

「せんだって、お嬢さん用にと親御さまから特注がありました時は、手縫いの刺繍入りの半襟が30万円でございました。ただ、あまり値が張りますので大抵はミシン刺繍にする場合が多いのでございます」

そうでしたか。やはり…。

ところで、漱石は奥さんだけでなくお嬢さんにも買ったということが考えられるのです。

「じつは、明治4t5年から大正にかけて売れ残った半襟が150点ばかり保存しております。当時、残った品の値段ですが、一枚5円が最高のようです。」

なるほど、では、漱石が買ったのは半襟2・3枚と帯揚げだったのかもしれませんね。

まあ、勝手な推測をしてしまいました。

漱石先生、かんにんしておくれやす~~。


☆皆さまにお願い!!!
記事の最後にある、「この記事が気に入ったらクリック!」に、ぜひ応援のクリックを!

原稿は無料で書いていますがクリック次第でいいことがあるようです(笑)。
◇更紗の唐紙、 『漱石山房の秋と冬』の中で漱石自身が絵にしています。
http://homepage1.nifty.com/xkyou/akutagawa.sosekisanbo.html

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2007年7月24日 (火)

えり善 漱石が京都で買い求めた高価な半襟

店舗新装につき大売出し 半襟で有名なあの店どっせ。
京都 四条 えり善
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祇園祭には ヒオウギがつきもの。
夏目漱石先生て、明治42(1909)年10月、漱石は2日間だけ大阪から京都に立ち寄った際、わざわざ四条の襟善に買い物に行っているのです。 それも案内なしでひとり当初から予定していたフシがあります。

半襟と帯揚げを買って18円払っています。日記には「十八円程とられる。」と書いていますから内心は値の高さにおどろいたようです。
R1010587misejimai1さらに更紗の布を物色します。漱石は更紗を好んでおり、漱石山房にも更紗を壁かけにしていたのを見てもその好みが伺えます。

けれども、買い物はここまで。漱石は「女房が気に食はんのでやめた。」ということになったのです。女房が気に食わんといっていることがひっかるじゃぁありませんか。奥さんの土産に高い半襟と帯揚げを買い求めたのはいいとしても。
宵々山の日、祇園祭に出かけたついでに四条のえり善本店へ寄ってみました。私もある品を探していましたので専務のNさんがやって来ていろいろ話されます。

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「あの~~、明治42年頃のことはおわかりではございませんよね?」

「手前どもの店のことでしたなら」

「ええ、その頃お店の奥さんが店に出てらしたとか、今で云う店員さんで女性の方は出てはりましたか?」

「手前どもの店は番頭がでておりまして、女性が出ることはありませんです。何かありましたか」

「じつは、女房が気に食はんのでやめた、と日記に書いている文豪がいるものですから」

「はははは、漱石さんのことですな。あれは漱石の奥さんのことですわ」

「あら、そうでしたか」

なるほど。昔の大だなには番頭がいて主人の奥さんが出る幕はなかったようです。

いや、もしかしたら鏡子夫人のことではないかもしれない、なんて思った私がおかしいのでしょう(笑)。

夫人のことについて現代人のような愛情表現をしない明治の男だった漱石は、愛人のいない文士としても珍しい存在でした。気鬱の病のためにある時は離婚を言い渡したり、さんざん当たり散らすことはあっても、生涯ひとりの妻だけを守った節操のある夫だったと私は思います。
それでは当時の18円というものがどれほどの貨幣価値があるかを、明治40年代の物価をもとに見てみましょうか。
適当なのがみつかりませんが、約10年後の授業料なら以下の通りです。




東京理科大

◇1919年(大正8年)
 *授業料月額3円50銭に改定
  授業料を月額3円50銭に改定。前年、米価が暴騰して各地で米騒動が起きるなど物価は不安定になっていた。これより前の12年、東京大学の授業料は年額35円、早大年額50円。慶大年額48円(いずれも文系)だった。

☆ 明治40年に逆算して、東京大学の授業料は月額約3円。早大月額約4円。慶大月額4円。


漱石が買った半襟と帯揚げは、たしかに高価ではありましたねえ。
きっと刺繍入りの立派なものだったに違いありません。

帝大出の漱石の給料も書いておきましょう。

明治28年 松山中学英語教師 月給80円。(校長は50円でしたから破格の高給でした) 

明治40年 朝日新聞社入社 月給200円。



店のPR

「京都の「ゑり善」は、半襟の専門店として、400年以上も昔の天正12年に創業。次第に高級呉服、和装小物も扱い、上流階級婦人方に愛される店として地位を築く。京都本店のほか、銀座、名古屋の計3店舗。名古屋店も。」

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2007年7月20日 (金)

祇園さんの献茶式 裏千家家元ご奉仕

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なぎなた鉾よいよい山に撮影。

七月十六日の八坂神社の献茶式は、隔年ごとに表千家と裏千家が交代でご奉仕されています。ことしは坐忘斎・今日庵家元のお献茶の年ですので前から心待ちにしておりました。

茶券と普通はいいますところ、ここは神撰料と印刷されています。その券は九席あって一万円。お裏と表。親戚付き合いの協力と申しましょうか。

一力、中村楼、美濃幸、と老舗の料亭が茶席会場になるという贅沢さに、コンチキチンの音色がいやが上にも胸の高なりを誘うのです。全国から祇園祭の献茶式に参集した方々その数800人。

ことしは値上がりしたというものの、昨年までは大変お求め安い神撰料でした。ただし点心はありません。和菓子とお茶でまんぷくになりまっしゃろ~~。お値打ちの大茶会だったと思います。

ちなみに詳細を書いておきますと以下のようになります。

○拝服席     今日庵担当(常磐新殿2階)
○副席       三互会担当(常磐殿)、幽静会担当(中村楼)、大中会担当(美濃幸)
○協賛席     今日庵担当(瑶池軒)、淡交会京都支部担当(中村楼階下)、清園会担当(清々館)、菓匠会担当(常磐新殿階下)、而妙会担当(万亭)



なにしろ800人もの客数なんですよ。今日庵席のお世話役の方にそっとお伺いしましたら、約20回とのことでした。大広間ですから40人として一日に20回別の客におもてなしをすることになりますね。

午前9時からの献茶式は、会場外の型テレビにて多くの参拝客はお家元の点前に見入っておりました。後でほんとうに美しい手だったと、お点前のことを囁きあっている声が耳に入りました。


今日庵席に行列で入りますと、業躰さんが私を引き止め、煙草盆の前に連れて行かれました。年の順番かなと諦めてましたら、茶道口からお家元がにこやかにお出ましになりました。

「正客のTさんはじめ、皆さん…」と、席主としての丁重なご挨拶。ソフトなお声は声帯を痛めていらっしゃるように先日お聞きしたばかり。でも、もうそんなに良くなられたとは…。

「新潟では、震度6強という大地震があったと今、聴きました。ご家族の方か知り合いの方がおられる方はどんなにかご心配のことと思います。」

冒頭にこのお言葉がありました。こういう気配りをなさるのがお家元なのですね。いつもそうした心を感得させていただきます。その次に祇園祭の天候から席の道具組みなど平易な語り…。

「今日の軸はあまり出していない玄々斎です。玄々斎は字がうまいですなぁ~。」

「楽事万々歳」 五字一行。じつに雄大な墨痕淋漓とした書体でした。

待合に宗旦の消息。「読めぬ宗旦」通りの難解な文字でした。ただ、六月二日の日付の字はハッキリ読み取れましたが。これの日付には深いわけがあるのです。旧暦の六月二日を新暦に読めば祇園社の祭礼の初日になるとお聞きいたしました。ゆっくり時間をかけて解読したいものです

私はすばらしいと思いました。ことしもこれらのお道具にまたお目にかかることが叶いました、と参拝客は一瞬、生きた歴代の方々をまのあたりにするのでしょう。これぞ、茶会の醍醐味と申しましょうか。

メインの今日庵席で、正客の座に引っ張っていかれたのは、こんなはずじゃなかったです~~。お家元のご挨拶でTさんとよびかけられたヒトは、平生の行いはあんまり褒められたモノデナイ。痛み入りました。

お家元との会話。
「今日の菓子は行者餅です。疫病除けにどうぞ召し上がってください。」

「ありがとうございます。でも折角のお守りですからこれはお土産に持って帰ります。」

「そういうこともあるかと思って、紙はそのまま外さないでおきました。」

菓子鉢に透明なセロハン紙に巻かれたままの行者餅。
こうした心くばりのあることをあらためて嬉しく教えていただきました。


その他の席は、中村楼の幽静会・淡交会京都支部。
みなさん、お世話さまでございました。いずれのお席もお茶をいただき、ほっこりと一息つきました。

一力の大書院では、表千家の茶席。ここでも何かのせいで上に追いやられ、長板二つ置きのお点前を半畳隔ててまん前に坐って拝見。舞妓さんの可愛いお運びでお茶をいただきました。

男性の半東さんと少しお話いたしました。

「夏目漱石が明治40年と大正4年にこの一力の「大石忌」に来ています。舞妓やお茶などに接してたいへん驚いたように文献に書かれてますね。」

「そうでしたか。舞妓の出る部屋はこの部屋だけなのです。」

それではこの広間で漱石が居て、ものごとを見聞したということになります。なるほど。

なお、屋号の万亭が一力と呼ばれるのは万の字が一と力で出来ているという所以です。


帰る道順は万亭の土蔵を前にして、庭の緑がさわやかな廻り縁を歩いて例の大きい暖簾「一力」をくぐって外界へ出ました。財政難から今の所有者は、新興の回転寿し屋になっているという説あり。とにかく真偽のほどはわかりませんが、これだけの伝統ある構えを維持するのは大変なことなのです。


もう一席は、美濃幸で行われておりました。やはり広間二間続きで点前座は長板の二つ板置き。どちらも平水指が夏の風情ですね。半東は男性。点前は女性。正客に勧めてなって頂いた方は淡交会青年部で大活躍の太田さん。男性ですが麻の縦じまの和服を着用しておられました。なかなかいいものでした。

涼やかな菓子なども嬉しいもてなしですが、客の着物も夏らしく奄美大島の香りがただよう「草のきもの」で、一座の雰囲気をごいっしょに楽しんだひとときでした。



この日記は17日に非公開でUPしていたものですが、PCの不調でそのままになっていました。

祇園祭は過去ログにも載せておりますのでそちらもどうぞ!

http://rendezvou.exblog.jp/3855066

http://rendezvou.exblog.jp/3813812

http://rendezvou.exblog.jp/3790780

http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/heiwa.html

http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/zaihu.html

http://tubakiwabisuke.cool.ne.jp/gionmaturi2003.html

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2007年7月11日 (水)

夏目漱石の縁(えにし) 祇園と多佳女

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写真はクリックすると大きくなります。いずれも筆者撮影。

白川沿いの元茶屋・大友が在った場所に建つ多佳女の記念歌碑。「かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕の下を 水の流るる  

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お池大橋西詰めにある緑地帯、もと旅館・北大嘉の在った場所という漱石句碑。京都市管理。立て札もなく、京都市民の多くが気づかないままの状態です。

元大手の新聞記者でいらしたYさんからお便りがまいりました。

「多佳女さんのこと初めてうかがいました。北野の観梅に誘った祇園の女性に断られて落ち込んだ漱石の話はどこかで読みました。「虞美人草」をもう一度読み返してみます。」

 Yさんはこのtsubakiコラム、先の拙稿をご覧の上ご感想をお寄せくださったようでした。漱石と祇園ということは、担当でない分野であまり知られていない内容であったのかもしれません。

 多佳女と漱石についてはかなり多くの論評がなされています。
「漱石は花街に無理解な人間だ。」「漱石という人間は京都にしっくり来ない。」「お茶屋・廓と漱石とはイメージが合わない。」

 さあ、真実はどうなのでしょうか。漱石が祇園を訪れたのは何時だったか?多佳女を知り付き合うようになったそもそものいきさつは?
 漱石が多佳の「梅見」の件で立腹したこと、その時代背景も考えながら私は漱石が多佳に何を語ろうとしたかに触れたいと思います。

祇園・一力の大石忌

 漱石がはじめて祇園にきたのは明治四十年。兄事する狩野亨吉の住む下鴨の家へ逗留した漱石のもとへ、高浜虚子がやってきて祇園に誘い出したのでした。

 万亭(一力)の大石(内蔵助)忌が行われている時で、漱石は13、4歳の二人の舞妓とひと時を過ごしています。虚子の文によれば漱石は父親のような眼差しで接したようです。

 大正四年春、今度は西川一草亭の案内で再び漱石は祇園を訪れます。やはり一力の大石忌です。一草亭はその時の漱石を次のように述べています。

「祇園の一力に大石忌があったので、それを見に行った。古風な座敷に並べた遺墨を見て、舞子の運んでくるお茶をよばれたり、庭で蕎麦をよばれたりした。帰りに「こんな茶を」よんだり、そばを食はせたり、懸物を見せて入場料を取らないのかね。京都といふ処は実に不思議な土地だ」といって驚いて居られた。」

 東京では到底あり得ないことが京都では行われている…。漱石にはなんとも不思議な光景に映ったと見えます。けれどもこうしたもてなしが受けられたのは、訳がありました。一力の女将はお茶屋「大友(だいとも)」の姉娘であり、そうしてその妹娘であったのがお多佳さんだったのです。

 津田青楓画伯の実兄・西川一草亭という案内人によって、漱石は賀茂川べりの旅館・北大嘉に滞在し、川向こうのお茶屋「 大友」の女将である多佳女と付き合うことになります。

漱石が多佳女に出会う

 漱石が多佳女に出会った時、漱石は48歳。多佳は36歳でした。しかし、これより約10年前に多佳は芸妓を止め、浅井忠から依頼されて、浅井の経営する陶器店「九雲堂」を手伝っていた時代があります。多佳はその店で自ら絵付けをして出来た湯飲みを漱石へ人づてに贈っているのですが、漱石のほうでは自分の愛読者たちが当時から京都にいることを日記に書いています。

 浅井忠は漱石の英国留学時代に付き合いのあった洋画家であり、多佳と漱石とは全くの無縁の間柄ではなかったといえましょう。そのえにしが急に接近したのはこの大正4年の京都旅行でした。旅のきっかけは、鏡子夫人が津田青楓へ漱石を保養がてらに連れ出してほしいとこっそり依頼したのでしたが。

 鏡子夫人は、夫の持病であった胃病の好転をねがって、ゆったりとした京都旅行をして来てほしいと津田に話したことを、漱石はもとより知る由もありませんでした。
 
 漱石が日本画を描くに当たってよい相談相手になり、漱石の心酔者であった津田青楓が故郷である京都に住居を移したこともあって、漱石の保養を兼ねた旅が実現しました。

 この当時は、多佳は母の経営するお茶屋「大友」を継ぎ女将となっていました。かねてからひそかに尊敬し愛読していた文豪の上洛です。津田の仲介により漱石が宿にしていた北大嘉で、多佳へ声がかかった幸運を多佳は感激したのです。

 そもそもの出会いがいわゆる遊里の芸妓と旦那客といった関係でなく、漱石は終始おなじ人間として親しみ深い態度で接しています。その後。漱石はひどく体調を崩し大友に二晩も寝込む事態になります。多佳がかいがいしく看病し、病気が落ち着くのを待って漱石は京都を離れました。都合29日間の京都旅行でした。

多佳女に与えた俳句

 大正4年3月下旬、祇園のお茶屋「大友」の磯田多佳女に与えた色紙。

「  木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに

   春の川を隔てて男女哉   漱石    」

 この句には、なにか天の川を隔てて男が女を想うロマンがあると見る向きもあるようです。たしかにどこか甘美なひびきがありましょう。また一方、漱石は男と女の間にある隔て、心理的な溝の存在を示唆しているのだとする見方もあります。

 そのどちらの見方も真実と思います。漱石の作品は読者がそれぞれに受け取ることを想定して書かれており、作者の主張を一色に表現していないからです。後者の見解は、この句が書かれた時、漱石は多佳女が梅見の約束を守らなかった時に作った句であるがゆえに、その心の間隙を詠んだものと見るのです。

 私は、漱石に立腹することがあったにせよ、ここ京都の地で親身になって世話をしてくれた祇園の女将であるお多佳さんに、感謝のきもちでこの句を書いて与えたのだと強く感じるのです。そこに文豪・漱石の真面目(しんめんぼく)を見る思いです。

風流・閑適を愛した漱石

「明窓浄机、これが私の趣味であろう、閑適を愛するのである」
大正3年3月、朝日新聞『文士の生活』の一節。

 
「あらゆる芸術の士は人の世を長閑にし、
人の心を豊かにするが故に尊い。
住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、
有難い世界をありのままに写すのが詩である、画である。」
『草枕』

 漱石のこの京都旅行について、鏡子夫人は『漱石の思ひ出』にこう述べています。漱石が寝込む前のことです。
「今まで西川さんや何かに何くれととなく御厄介になった、そのお礼心にどこかで一夕お招きしたいといふので、お多佳さんのお家で舞妓の踊りでもといふ段取りをつけて、それには金が少し足りそうにないので、すぐ百円ばかり送ってくれろと申して来ましたのでそれを送りました。」

 鏡子夫人は、漱石亡き後も京都にくれば必ずお多佳さんを訪ね、付き合いは長く続いたようでした。

磯田多佳のこと

 祇園は京都では独特な読み方で花街(かがい)という古風な地域です。伝統の礼儀正しいしきたりが今も守り続けられているのは、五花街の中でも祇園甲部が一番といわれています。
 
 都をどりは祇園甲部歌舞練場で開催される祇園甲部の舞(まい)の会です。明治5年(1872年)に京都博覧会の際に創演され、時の京都府槇村知事が歌の作詞を書き、井上流家元、井上八千代が振付した京都をあげての町興しでした。東京遷都のショックから立直るための大イベントだったのかもしれません。

 今なお、都の誇りを掲げる伝承がここに生きている祇園町。その祇園甲部にあって文芸芸妓とうたわれ、著名な文人たちの集う文芸サロンとなっていたお茶屋「大友(だいとも)」の女将であった多佳女…。

 磯村たかは、明治十二年(1879)、 祇園新橋のお茶屋の二女として出生。父親は下級武士の出で、芸妓であった母親の名はとも。その名前をとって屋号が出来たようです。茶屋といっても暗い環境ではなく平穏な家庭に育っています。美しい芸妓の姉は万亭(一力)に嫁ぎましたが、多佳は三味線の弾き手となり、和歌や絵を熱心に学びました。

 蓮月尼の門人であった歌の師上田重子についていましたが、多佳を養女にと望まれた程、歌の才にも恵まれていたのでした。若き日にはこうつぶやいたそうです。

「一に器量、二に芸…といわはりますけど、祇園の女は器量だけやない思いますんや。」

 しかし、花街の芸妓という期間は多佳が23歳ころまでで、すぐに母の経営になる「大友」を継いで女将となっています。それゆえ自由に行動できた面があり、他の芸妓と同じには語ることは出来ないのです。

 和歌とともに、俳句も学んだ多佳はつぎの作品を遺しています。

散る花の それたにあるを 中々に ととめかねたる 人いかにせむ

梅咲くや わすれられて はや二年越し

だまさるる 身はおもしろし 宵の春

死ぬといふ 女のくせや ほととぎす

 歌にも句にもはかなさが漂い、花柳界に生きる哀愁と達観すら感じられるのではないでしょうか。着るものも地味で縦じまの紬のきものを好んでよく着ていたといいます。

 多佳は終生、雨の日と紫陽花の花を好んだといいます。巽橋のかかる白川辺の元あった「大友」の庭には紫陽花が植えられていた由。そして、昭和二十年(1945)5月に多佳は養子又一郎の家で静かにみまかったのです。

 やはりこの日も雨が降り、紫陽花の花がうつくしく咲いていたと、『祇園の女 文芸芸妓磯田多佳』の著者、杉田博明氏は書かれています。

 それでは、お多佳さんに贈られた文人客の手向けの歌をここに。

あじさいの 花に心を 残しけん 人のゆくへも しら川の水
・・・・谷崎潤一郎

年ごとに 君がこのめる 紫陽花の 花は咲けども 多佳女世になし
・・・・吉井 勇

参考文献
岩波『漱石全集』より『日記・断片』『書簡』『漱石言行録』。
夏目鏡子『漱石の思ひ出』。西川一草亭『瓶史』。杉田博明『祇園の女 文芸芸妓磯田多佳』

◇ 

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tsubakiコラム
2006/06/17 京都 東山区 祗園町 南側

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2007年7月10日 (火)

京都美術倶楽部・松庵茶会七月例会 祇園まつりで

七月九日、京都美術倶楽部・松庵茶会が開催されました。今月の担当は山本松濤庵。山本さんは美術倶楽部では比較的新しい方ですが、先代から数寄者のような道具屋として知られた存在でした。自由を楽しむようなひょうひょうとした人柄がこの席にも感じられました。

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來章画。主のことば、 余白が多うてちょっとしか描かんでも昔はそれでよかったんでしょうかな。

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神鈴。

唐獅子の香合。やさか神社をまもる狛犬、獅子と一対ということで今日は獅子を。

とうろうやま カマキリ。これは名工といわれている〇〇が作っています。床脇に。

籠行李蓋の煙草盆。青貝入りの煙管。

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カメラの手ぶれがひどく、ぼけてしまってすみません。関白近衛公の詠草。最後あたりに「山」「本」の字があり。それが特に気に入ってますと、にこにこ顔の席主・山本さん。なるほどなるほど。

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南蛮の渋い水指はいい味でした。蓋裏にも工夫がみえました。菓子器はバカラの金縁が替えに出ており、主なる器は江戸切り子で痛いほどの良品。薄茶器の涼味ある色彩も面白いと思いました。

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全体は華美にならず、しっとりとして祇園祭の趣向がそこはかとなく漂う取り合わせでした。

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2007年7月 7日 (土)

精中忌 お参りの皆さま有難うございます

平成19年7月5日、裏千家今日庵・精中忌の行事には、直門の志倶会がことしも添え釜をかけさせて頂きました。紫明通りにある茶道研修ビルの2階に早朝から準備に。茶席を整え、9時前には全国から参集された同門のみなさま方をお迎えいたしました。

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2007年7月 5日 (木)

今日の精中忌の画像がもう裏千家HPにUPされて

popyuさんという北海道の若い友人から先ほどメールが来ました。
なんと、今日の精中忌の画像が、裏千家ホームページにアップされているというお知らせです。
ええっ! なんと迅速な対応でしょうか!

http://www.urasenke.or.jp/textm/headq/soke/koyomi/seichukih19/seichukih19.html

咄々斎では、手向けの七事式(唱和之式、仙遊之式、三友之式)が行われ、参列者は順次拝見。対流軒には七夕にちなんだ乞巧奠が飾られ、法要に取り合わせられた道具が展観されました。

http://www.urasenke.or.jp/textm/headq/soke/koyomi/seichukih19/seichukih19-09.html

手向けの七事式(唱和之式)

お分かりになりますでしょうか?

正客、中宮寺門跡・日野西光尊さん。
次客、大年増というもはばかれる誰かさん。

亭主役、大阪のかっぷくのいい男性茶人。
他のおふたりは柱のかげに…。おきれいな方ほどひっそりと。

唱和之式(しょうわのしき)は、裏千家14代無限斎(淡々斎)の制定された式です。精中忌は、精中・円能・無限忌というお三方の遠忌になるものなのです。私どもは一番先にこの唱和之式に出させていただきました。

花寄せのあと香をまわし濃茶、薄茶と点茶。その後にそれぞれ自分の入れた花を歌題にして和歌を詠み短冊にしたため、一人づつ朗詠いたしました。

正客の詠草。

歌題 桔梗(ききょう)

ありがたき精中忌の会(え)に 集ひより  ききょう供(そな)ふる今日ぞうれしき  光尊 

次客

歌題 撫子(なでしこ)

巴里に住む君のつくりし 茶の庵(いほ)に くれなひにほふ なでしこのはな  宗津

他の方々のお歌は、ここにしたためることが叶いません。自分の分はお恥ずかしいものながらご正客のあとにつづかせていただきました。

なお、私どもが担当いたしました副席のもようは別に撮影しておりますので、写真を後ほどアップいたしましょう。

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2007年7月 3日 (火)

桐蔭会7月 京都美術倶楽部青年会の祇園まつり

空梅雨のなか、東山七条へ。
桐蔭会7月2日、今回の当番は京都美術倶楽部青年会です。
理事長はご存知、善田昌運堂さんのご長男。誰に対しても礼儀正しく好感のもてる青年と思います。本席でご正客は釜師の宮崎寒雉さん。次客アメリカから陶芸のリチャードさん。ゆったりと坐れたいいお席でした。点心席でそっと撮らせていただいたスナップをご披露いたしましょうか。

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2007年6月26日 (火)

あじさいの雨 多佳女のこと

  • 生きものに感謝「放生会」 (京都市) …大橋昭博さん撮影(京都府)
写真 京都・祗園で6月3日に行われた放生会(ほうじょうえ)。舞妓らが金魚を川に放流生きものへの感謝の心を示す。(yomiuri)

リンクさせて頂きました画像は、かつて「大友」のあった付近。白川、巽橋の動画です。感謝!

http://www.yomiuri.co.jp/vbox/index/list/toukou103.htm

http://megalodon.jp/?url=http://www.yomiuri.co.jp/vbox/index/list/toukou103.htm&date=20070625000832

祇園は京都では独特な読み方で花街(かがい)という古風な地域です。伝統の礼儀正しいしきたりが今も守り続けられているのは、五花街の中でも祇園甲部が一番といわれています。

都をどりは祇園甲部歌舞練場で開催される祇園甲部の舞(まい)の会です。明治5年(1872年)に京都博覧会の際に創演され、時の京都府槇村知事が歌の作詞を書き、井上流家元、井上八千代が振付した京都をあげての町興しでした。東京遷都のショックから立直るための大イベントだったのかもしれません。

今なお、都の誇りを掲げる伝承がここに生きている祇園町。その祇園甲部にあって文芸芸妓とうたわれ、著名な文人たちの集う文芸サロンとなっていたお茶屋「大友(だいとも)」の女将であった多佳女…。

磯村たかは、明治十二年(1879)、 祇園新橋のお茶屋の二女として出生。父親は下級武士の出で、芸妓であった母親の名はとも。その名前をとって屋号が出来たようです。茶屋といっても暗い環境ではなく平穏な家庭に育っています。美しい芸妓の姉は万亭(一力)に嫁ぎましたが、多佳は三味線の弾き手となり、和歌や絵を熱心に学びました。

蓮月尼の門人であった歌の師上田重子についていましたが、多佳を養女にと望まれた程、歌の才にも恵まれていたのでした。文学と絵画に知識を深めて行ったことも文人客を喜ばせることになりました。

花柳界のなかで、器量のいい芸妓ではなかったとしても、誠実な愛をもって生きたひとりの才ある女性としていつまでも人々の心に生き続ける多佳女。若き日にこうつぶやいたそうです。

「一に器量、二に芸…といわはりますけど、祇園の女は器量だけやない思いますんや。」

私はをんなのたおやかさ、芯の強さ、清冽なものを水の音さえ聞くように感じました。

その多佳は終生、雨の日と紫陽花の花を好んだといいます。巽橋のかかる白川辺の元あった「大友」の庭には紫陽花が植えられていた由。そして、昭和二十年(1945)5月に多佳は養子又一郎の家で静かにみまかったのです。

やはりこの日も雨が降り、紫陽花の花がうつくしく咲いていたと、『祇園の女 文芸芸妓磯田多佳』の著者、杉田博明氏は書かれています。

それでは、お多佳さんに贈られた文人客の手向けの歌をここに。

あじさいの 花に心を 残しけん 人のゆくへも しら川の水・・・・谷崎潤一郎

年ごとに 君がこのめる 紫陽花の 花は咲けども 多佳女世になし・・・・吉井 勇

◇ 

2006/06/17 京都 東山区 祗園町 南側

IT新聞tsubakiコラムに掲載された拙記事です。

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2007年6月19日 (火)

京都の風流を愛した漱石

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昭和41年11月9日句碑建立。除幕式は翌年の 昭和42年4月9日に。

しばらくお休みしていたIT新聞のコラムに、今日以下の記事が掲載されました。

京都の風流を愛した漱石 祇園の多佳女の看病に癒された日々

磯村多佳は、明治43年7月発行の『新小説』の「代表的婦人」という欄に、上村松園、鳩山春子、福田英子、平塚明子、などの各方面で活躍中の女性の紹介記事があり、多佳女の名前はその中に見えるのです。

新橋縄手東入妓楼「大友(だいとも)」に生まれた多佳女は、祇園一力の女将おさだの実の妹で幼少のころから読書を好み、歌と俳句を学び絵は浅井忠に師事。一時文芸芸妓の名が高かったといいいます。

この続きは今夜にでも書くことにして…。

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2007年6月16日 (土)

鴨川の畔に建つ漱石の句碑はこのようにして

漱石と京都

明治二十五年 夏

子規と京都に遊ぶ

明治四十年 春

朝日新聞社入社のため上洛 狩野亮吉邸に泊す

虚子と遊び「虞美人草」等の取材を得 後 春はものゝ句になり易し京の町 の句もあり

大正四年 春

旅亭 大嘉(この付近)に泊し 一草亭 青楓らと仕事の疲れを医す

漱石病み 祇園の磯田多佳ら看病のことあり

句碑の 春の川を隔てて男女哉 は三月 多佳におくった句である。

昭和四十二年四月九日 

以上の銘文は京都漱石句碑の会が、漱石を敬慕する有志の方々の浄財をもって建立した句碑の事由をしるしたものです。鎌倉漱石の会を創始し代表であった鎌倉在住の内田貢氏が京都にもと考えられ実現したのでした。

昭和42年2月9日(旧暦では1月5日)は、漱石生誕100年になるのでした。けれども除幕式は2ヶ月後の昭和42年4月9日、漱石生誕100年を記念碑として行われました。
京都にて漱石句碑除幕式。
(京都滞留の宿屋跡の句碑。京都市御池通東端川畔
大正4年3月下旬、祇園のお茶屋「大友」の磯田多佳女に与えた色紙。
「     木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに
    春の川を隔てて男女哉   漱石       」

発起人は漱石ファンの篤志家18名。

秋山、阿部、石村、磯田、今来、内田、金子、北山、小石、小林、高山、津田、中島、西川、三浦、山口華、山口昌、山本、の諸氏でした。

当時、高山市長のお名前もみえています。地元の京都を主として全国から集まった篤志家の寄付金で建立された比叡山の形の八瀬・真黒石の句碑。京都を代表する発起人の中島氏は祇園甲部の取締役でした。

北山氏の司会、鎌倉円覚寺帰源院富澤住職による禅式の「開碑香語」。多佳女のお孫さんの磯田日出子嬢の序幕。小林氏の「春の川」句朗読。内田氏の経過報告。京都市文化観光局長の石堂氏の祝辞もありました。

この日は春雨のなかに句碑はしっとりと、黒く自然石のかがやきをもって漱石生誕100年顕彰が行われた一日であったといいます。

その後、この句碑は京都漱石句碑の会から京都市に寄付されました。私は市の観光課に問い合わせたところ、つい先日以下の回答がありました。

「京都女子大学、堀井氏により、平成9年3月10日、京都市へ寄付の申し出があり。寄付受納、4月10日。」

ところが、当時はあった駒札も今はなく、管理も手がまわらないのでしょうか。京都市民が殆ど漱石句碑を知らない、気づかないといった現状なのです。

たいへん残念なことと思います。

これをお読みくださったみなさまは如何お感じになりますでしょうか?

なお、句碑の銘板には、書かれていないところがあります。 明治四十二年(一九〇九)十月、漱石は二日間だけ大阪から京都に立ち寄っています。

10月15日、朝鮮(満韓ところどころ取材)から船で下関港。下関発京都行きの一等寝台で大阪へ向かう。人力車で大阪朝日新聞社に行き、夕方京都へ。三条小橋西の万屋に宿泊。翌16日は嵯峨や北野天満宮などを見る。

面白いのは、電車で四条の襟善(えりぜん)に行って買い物をしているのです。その買い物とは半襟と帯揚げなどでした。鏡子夫人やお嬢さんがたへのお土産だったのでしょうか。漱石のやさしさが感じられます。そしてこの夜、東京に発っています。

参考文献

小林孚俊氏の私家版『漱石と多佳女』(昭和61年4月9日)

内田貢氏の「夏目漱石と帰源院」

荒正人氏「増補改訂・漱石研究年表」

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2007年6月 9日 (土)

栄西禅師へのお献茶 副席をかける喜び

6月5日は 恒例の建仁寺献茶式。開山栄西禅師の年忌法要。裏千家家元のお献茶があり、ことしも副席をかけさせていただいた淡敬会でした。ご参拝のみなさまへご奉仕できることの喜びを頂きました。

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法堂沓(はっとうくつ)。 正式な法衣を着用する時の唐様沓(靴)です。
高位の僧のみに履くことが許されているとか…。禅宗で襪子(しとうず)の上から履くと聞きますが、さて、襪子(しとうず)とは? 指の分かれてない足袋のご先祖で、べっすともいうようです。
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水指 鉄鉢 東大寺伝来
拡大画像です。盛阿弥作 棗の底には、直書あり。さてどなたの?
はい。一燈さんですよ。覚々斎の箱書きもございます。


兄と 弟と ということで私が説明しているものを少し…。


兄と弟が ここに いてはりました。はい、竺叟(ちくそう)さんと一燈さん。裏千家八代叉玄斎一燈宗室のお兄さんがこの竺叟(ちくそう)さんです。実はこのご兄弟、表千家からご養子にこられたお方のようです。

表千家・如心斎の二番目の弟が、裏千家七代竺叟宗乾。25歳の若さで急逝。そして三番目の弟が裏千家八代叉玄斎一燈(ゆうげんさいいっとう)。

このご兄弟の合作ともいうべきものは、今日のこの一会にご覧頂けます。花入れと箱書き。そしてさらに、棗と箱の書付。

極めつけに覚々斎の外箱が出てまいります。裏千家八代一燈と表千家六代覚々斎。
この方は如心斎の父。おなじく竺叟一燈兄弟にも父に当たる方のようですね。

養子といいますと昔、「こぬか三合養子に行くな」とかいわれたもんですけど、こんな立派なご養子はんがいてはったもんと深く感じ入ります。

なお「如心斎と一燈は兄弟であるとともに、利休の伝統を守る二つの千家を担う人であった。」と筆記された表千家関係の貴重なウェブサイトをみつけました。
「如心斎と一燈」をどうぞクリックしてくださいますよう!

http://www.geocities.co.jp/Foodpia/1095/cha/ittonyosin.html
お時間のない方にはここでその一部を引用させて頂きましょうか。


「 兄の如心斎が弟の一燈宗室のところへ茶に行ったときのこと。一燈に請われるまま、
如心斎は炭をついだ。同席していた水雲という一燈の弟子が見ていて、如心斎が帰るや
こんなことを一燈に言う。「如心斎という方は花は上手ですけれど、炭は下手ですね。」
一燈は笑って答えた。「そんなことはないよ。私は花はまずまずやるほうだが、炭は下手だ。
だからそれを隠すのに炭点前にアヤをつけるのさ。
兄が炭点前を何なく平々凡々にやってのけるのにはとても及ばないよ。」
 一燈宗室の言葉に謙遜の意味が含まれるのは言うまでもないが、
茶の湯にとって当たり前にすっと済ませることは一番難しく、一番大切なことである。」



ひとまず写真だけをアップしておきました。。。




2001年6月 建仁寺開山忌 献茶式・茶会


2003年6月 建仁寺献茶式  四代目の家系 或る業躰家

2004年6月 家元とヤブレガサ 建仁寺献茶式の日

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2007年5月30日 (水)

大徳寺利休忌 今日庵当番 淡敬会席

ことし5月28日、大徳寺聚光院(じゅこういん)にて、利休居士の月命日法要。そして追善の釜が裏千家の当番。今日庵席に添えて直門の淡敬会がお釜を懸けさせていただきました。


三玄院北門のまだ開かれていない門扉に、「在釜」の小旗。7時台でもすでに遠隔地からおまいりの方々が佇んでおられました。


無量寿塔。同門の物故者すべての方々の 供養のために。


大徳寺 玉舟筆 南山雲起北山雨下

くずやき 鶴屋吉信製


玄々斎 しぼ竹 尺八 銘鳳篝(ほうしょう)。 花 山法師。

山法師の花がぼけてしまいました。すみません。竹の質感なりとご覧いただけますでしょうか。

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長板二つ置き 水指 染付 花鳥
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認得斎在判 黒雪吹  茶杓 円能斎作 銘 昔語(むかしがたり)


関連ページ 

2003・5・28 道 愛 ひと そして 茶 初夏の大徳寺利休忌


2001・5・28 大徳寺利休居士月忌茶会

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2007年5月19日 (土)

裏千家・桐蔭会5月 葵まつりの趣向

2007年(平成19年)5月18日 桐蔭会6月例会 担当 大橋宗乃様

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桐蔭席広間 点心席

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風炉先

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硯箱

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熊谷草  花入 箙(えびら)

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土佐絵。

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席主 自筆の会記。

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大宗匠が突然お出ましに。

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大宗匠は、客へご挨拶を返されます。ブルーのおきものは席主の大橋宗乃さん。

本席を終えた一同、広間の点心席へ移動して食事中のことでございました。うれしいハプニングに皆さま顔が紅潮したようでした。

ちなみに本席のご正客は戸田勝久氏(業躰先生)。のんこうの黒茶碗でいただかれました。私にはとんぼの絵が描かれた小ぶりの天目型茶碗。仁清の作でした。勝虫ってとんぼのことなんですね。もう初夏なんです。

掛け物は後西天皇のお歌。重美の由。お歌は次のように読めました。

うすく濃く垣根ににふほふなでしこの花の色にぞ露もおきける

ご震翰に合わせて時代蒔絵の香合も菊の文様。菓子器も六閑斎好、菊置上、長入造。

菊と葵と、今回の取り合わせは正式には加茂祭り。葵祭りといいならわされていますがこの祭りの由緒がすべての道具組にみられます。待ち合と点心席の床は、土佐派の加茂神社の絵。この表具の一文字が珍しい葵の紋。

そして家元が宗乃さんに贈られた茶杓が、「赤心(せきしん)」。
赤心、赤き心とは偽りのない無垢な心、まごころをいうと辞書にはあります。
生涯茶のこころをもって生きることを願い、大橋茶寮「主貧庵」を守り運営されてきた方へ、お家元からのねぎらいの贈り物なのだと思います。

京都の祭りをこれほどまでに、名品で表現されたものです。お席主は東京のお方であり、名誉師範を昨年の利休忌に拝受されたこの道の功労者でいらっしゃいます。

その方がおっしゃる言葉がふるっていました。

「こちらは田舎者でございますので、、、、。」

あの~、江戸は田舎なのでしょうか???どうも昔、或る京の人間がもの申したという言葉がいまだに尾をひいているのではないかと…。

「ま、東京はできてから100年あまりでっっしゃろ。こちらは2000年、、、。」

と言ったとか言わなかったとか。困りますなあ。京都人はそんなに思い上がっていないと思いますけれども。

今日のおもてなしを心から感謝申し上げます。

拙サイト 2005年3月 いのちをかけた茶人 守貧庵のあるじ 大橋宗乃さん

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2007年4月14日 (土)

ご宗家でもったいないお稽古 稀有なこと

今日の稽古は、年に一度あるかないかの稀有なものでした。
裏千家ご宗家には午前8時半に着いたのですが、出席者は2名のみ。

淡交会の地区大会が近県で開催され、皆そちらへ行ったようでした。組織の一員であれば参加するほうが真っ当でしょう。でも稽古のために指導者が来られ、水屋の用意もできていたのですからこの好機を有難くお受けいたしました。

指導は86歳になられる寺西名誉教授。先々代の淡々斎宗匠に心酔されその教えを受け継がれたお方です。時代の潮流には離れたところにいらっしゃいますが、確たる信念に基づいたご指導は貴重です。孤高の風格といえばいいでしょうか。

参照 裏千家ホームページ 今日庵 茶室・茶庭

稽古場は、由緒正しい名席・抛筌斎(ほうせんさい)です。

最初に、初炭。透木(すきぎ)釜のあつかい。

香合は稽古場に新しくおりたお道具で、黄交趾の型物香合、笠牛を使わせていただきました。
「家元が出してこられたんや。即全だ。」

一面の菜の花畑のなかに寝そべって、黄色に染まった牛のようにも見えました。可愛い目をしています。

拝見のとき、香銘を当てずっぽうに申しますとそれが正解だったようです。
「坐忘斎家元のお好みで紫宝(しほう)。 薫玉堂(くんぎょくどう)でございます。」

本願寺の前にあるお香屋さんで、どちらかといいますと仏事用のような香りです。修行の香りと言い換えてもいいかもしれません。

とかく順序を忘れている私を丁寧にわかりやすく指示を与えてくださいます。

炭点前が終わり、次は東京から来られた若手の会員さんの番です。



唐物の点前がはじまりました。

縁高にはきんとんのお菓子。
虎屋の遠桜(とおざくら)。紅白のそぼろが遠く野山のさくらを思わせるきんとん。

濃茶は私ひとり一碗を頂戴しました。練りかげんもけっこうでした。
茶銘は、雲門の昔。詰めは一保堂。

唐物茶入れの蓋について、これまで聞いたことのないご意見を伺いました。

「瓶子(へいじ)蓋は、唐物の点前には向かない。掬い蓋のほうがよい。茶杓が乗り易い。」

「へいじ蓋は盆点てのように、盆の上に置く茶入れの場合に使用するもの。畳の上に置く茶入れの場合は唐物でも掬い蓋がふさわしい。」

寺西先生のお話は続きました。
「唐物茶入は替え蓋がついているものがあるのは、こうした場合に使う。」
こうしたご意見は古くから伝承されたものと思われます。ただ、現在の稽古では主流となっていないようですね。でも、それはそれとして傾聴すべき貴重なお話だと私は思いました。




行の茶杓について。

竹の止め節を入念に見ると、どのようになっているかわかるでしょうか?
節には二つの山があります。その中を割って切るのが止め節の茶杓だ、とお聞きいたしました。

稽古用のものは節がそのまま残っているものでした。これは切り方が間違っていると仰っておりました。

先生は、玄々斎と淡々斎の「止め節の茶杓」を二つ所蔵されているという実績がおありなのです。淡々斎の箱書きには、「草の真削り」と書かれているというお話でした。以前、わざわざ私たちに見せていただいた記憶がございます。

行の茶杓はこんなものだと思い込んでいるのが普通です。
でも、唐物の点前を通して、道具がどのようにして使われるようになったかを考えてみることも、大事ではないかと思いました。

混乱するから点前は一つの指導でよい、という見方もございましょう。
さまざまな指導を大きく包含するのが、裏千家茶道の特質だということではないでしょうか。



先生のお勧めでもう一点前、お稽古を見ていただきました。
台天目、ミス続出でしたがお茶を点てて、客になられた東京人Kさんに飲んでいただきました。

私は今日のご指導を、心からありがたく感謝して受け取りました。

今日庵最長老の寺西宗二業躰。先生のますますのご健康をお祈り申し上げます。
◇◇◇

拙サイト
2003年UP 今日庵名誉教授の方々

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2007年4月 9日 (月)

ご対面!です 炉・流し点ての点前

今日はご宗家の槍の間でお稽古をさせていただきました。指導は阿部業躰先生。

壁床に坐忘斎家元の横もの。「臥月眠雲」掛け花入に利休梅。雪柳。

ここは淡々斎がいらした頃、時計の間と呼ばれていたそうです。当時古い時計が柱に掛かりそれを見物に来る人があったとか。時代とともにどの家々にも時計が普及し珍しくなくなって、その呼び名もなくなったのでしょう。

盆香合、茶碗荘(かざり)、と点前がありまして客はふたり。私は正客で濃茶をいただきました。縁高(ふちだか)に「水かがみ」という銘のじょうよう饅頭。俵屋製。お茶は小山園。

「臥月眠雲」とは禅の言葉でしょうね。月に臥し、雲に眠る。ではそのこころは? 「野宿同然に月に照らされて臥し、夜霧に包まれて眠る」それは、「乏しくきぴしい条件に耐えて修行にはげむ」こと。これは 芳賀幸四郎氏の解説なのですが、分かりやすいと思います。

阿部先生との会話。

「先生、このお軸ですが、お家元の眠という字のつくり。最近お書きになる花押(かおう)によく似てるような気がします。」と申しますと、「さあ、どうでしょうか。」と。

まあ、私の推測に過ぎないのですが、なにごとも出典というものがございますね。花押にもきっとあると思います。前のお花押は忍び達磨のような感じでしたが、この度のは打って変わってスマートです。 私は、眠の字に、利休さまの実子である眠翁道安(みんおうどうあん)を思い浮かべます。

閑話休題。

客が済むと、点前の順番でした。私は流し点てをお願いして客お二人。小ぶりの瀬戸水指。休雪の萩茶碗。利休型中棗。茶杓は淡々斎の形のものを選びました。建水に竹蓋置き。柄杓。干菓子は稚児ざくらにわらび。水屋詰めの若手が準備してくださいました。

順序。

水指を炉の右、カン付中央にあわせるようにして置く。棗と茶碗をもって点前畳正面から居前に向きを変え、通常水指がある時と同じようにナナメに炉に流して置く。 建水をもち、炉正面に坐る。

ここが流し点ての居前とする。蓋置きは水指前に。柄杓は蓋置きにまっすぐに引く。釜に入れたら炉縁外隅ねらいで置く。 茶を入れ茶を点てる。二人の客に茶を呈し、客からお仕舞いの声がかからなかったのでもう一碗点てる。正客はお仕舞いをの挨拶をせず、主に茶をすすめるように計らう。 亭主相伴ということになり、正客は菓子器をもって水指横に置く。

主は正客の「どうぞご自服で」の挨拶に応えてから、水を一杓釜にさしておく。一呼吸。 主は客付(炉ぶち右外隅を膝中央に)に向く。菓子器を押し頂いて正客の配慮に感謝し、菓子は遠慮する。菓子器の向きを変えておく。この時は茶碗が定坐に出されている。

その茶碗をとって主は客付にて膝前に置き、茶をいただく。 この後、流し点ての場合は、主は客にまた茶をすすめ、客もそれを受けてゆったりとした時間をすごすことも可能。

拝見の声にて、棗を炉ぶちと水指の間、外炉ぶちと水指の間2等分した位置に置き、その下に茶杓を置く。

まとめ。

◆ 流し点ては炉で行う点前が古くから考案され、行われていた。

◆ 風炉の流し点ては炉・流し点てから円能斎があらたに考案されたもの。

◆ 点前はすべて風炉が基本で炉はのちに出来たものだが、例外はこの流し点てである。

◆亭主相伴は通常の場合、亭主が茶を飲むことで終了となるが、流し点てのみ、再度客にすすめることができる。

◆ 主客が真正面から向き合うのは流し点てのみ。居前のあり方として親しみがある。

◆ これは基本が出来ている、いわば巧者の点前である。

以上、習ったことをメモしてみました。間違いを書いているかもしれません。意のあるところを汲んでいただければ幸いです。

「このお点前は、主客が真正面から向き合う、気の合う人にはとてもいいお点前ですね。」

「うん、昔は、見合いにいいと言ってた。今は言いませんが…。」

「そうだったのですか。今ならテレビでいうみたいです。ご対面!って」

そうそう、お茶杓の問いに答えて私はこんな風に申しましたよ。

茶杓は、淡々斎の「ともどち」でございます。

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2007年3月30日 (金)

2007年裏千家利休忌 副席

3月28日 裏千家利休忌。 ことしも副席のお手伝いに参りました。水屋で茶筅振りをしておりましたが合間にカメラでパチリ。先ずは茶道研修ビルの稽古場席、床の花から。

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花入れ 六閑斎(りっかんさい)在判 銘 春風 亀波蒔絵 箱不見斎 「泰叟二重」

花 花梨(カリン) 五色散り椿

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掛け物 坐忘斎家元 点茶三昧 忘名利。

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   香合 堆黒(唐物)

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水指  仁清

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花の相談

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寄付 床 近藤悠三陶板

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拝見の説明

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茶道会館へ 点心席がございます

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2007年3月21日 (水)

お彼岸の中日 おしょうじん  大魚と猫

ロイヤルコペンハーゲン 北欧の名門陶器として日本人にたいへん人気があります。もとは中国の染付けを学んで製作したものですが、王国の伝統と気品をもって独自の美を創り出しました。









タカシマヤで釘付けになったのは、大魚の作品です。色彩も形も見ていて飽きません。
折りしもお彼岸の中日です。

彼の岸まで力強く泳ぎきるかのような、北欧の大魚。
係りの方に撮影の許可を申し入れましたら、すぐ上司の方に聞きにいかれました。

笑顔で、「どうぞ、どうぞ。とっても嬉しいです。男性の方からお褒めの言葉をいただきましたが、女性の方は初めてですから。」とのこと。ありがとうございます!

猫はいない…、とつぶやきましたら、こちらにいますと、フランスのコーナーに案内してくださいました。タカシマヤのスタッフは本当に感じがいいですね。

ラリック作



猫に場所を移動してもらいました。

コペンハーゲンには魚はいても猫がいない。こんな大きい魚なら猫のほうが逃げていくでしょうね。でも、この魚はまことに由緒正しく、日本の皇室にも贈呈され大切に保管されているのでした。


宮内庁三の丸尚蔵館 ( 宮内庁ホームページより)
第36回展
展示作品リスト

平成17年1月8日(土)~2月27日(日)
January 8(sat.)-February 27(sun.), 2005

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ジャンヌ・グリュー(原型)、
ロイヤル・コペンハーゲン磁器製作所
ブルー・フィッシュ (原題:Blue Fish-Coelacanth) 
1971年頃 
陶磁
昭和46年(1971)昭和天皇 香淳皇后ロイヤル・コペンハーゲン磁器製作所を ご訪問の折、同所より

Blue Fish
Royal Copenhagen Porcelain Manufactory,
original design by Jeanne Grut   ca.1971; porcelain
1971, gift of Royal Copenhagen Porcelain Manufactory on visit there by Emperor Showa and Empress Kojun



ロイヤルコペンハーゲン社の解説によれば次のようになります。 

『おおよそ3億5000万年前より生息していたと言われる「シーラカンス」は、化石の上のものとして、数千年前に恐竜と共に死滅したとされていました。しかし、1938年12月に南アフリカ東海岸でグーセン船長の魚網にかかった1尾がシーラカンスそのものでした。このシーラカンスは、学名を「ラティメリア・チャルムナイ・スミス」とつけられました。その名は、グーセン船長からラティマー女史、さらにスミス博士へと幻の魚を現実のものにしていった人達と捕獲場所チャルムナ河口沖に因んでいます。東アフリカ沖のコモロ諸島の人々の間では、古くからこれを「ゴンベッサ(幸運)」と呼び、幸福をもたらす縁起の良い魚だとの言い伝えがあります。彫塑家ジャンヌ・グリューは、このシーラカンスから強烈な印象を受け、青の釉(うわぐすり)を用いた陶器でこれを表現し、「ブルーフィッシュ」として発表しました。この作品は、素晴らしい未知のものに対するロマンを呼び起こします。1972年(昭和47)秋、昭和天皇・皇后陛下が訪欧された際、ロイヤル・コペンハーゲン社を見学され、記念としてこの「ブルーフィッシュ」と同じものが陛下に献上されました』。




タカシマヤ・美術コーナーには、ガラスの猫がいました。れっきとしたフランス猫!

☆ ルネ・ラリック

アール・ヌーヴォー、アール・デコの両時代にわたって活躍した作家ですからご存知の方も多いでしょう。

ルネ・ラリック
ルネ・ラリック(René Lalique、 1860年4月6日 - 1945年5月5日)は、19世紀~20世紀のフランスのガラス工芸家、宝飾(ジュエリー)デザイナー。 出典: (Wikipedia)

「前半生はアール・ヌーヴォー様式の宝飾(ジュエリー)デザイナーとして活躍し、その分野で名声を得ていた。宝飾デザイナー時代から、ガラスをパーツに用いていたが、ガラス工場の経営者に転進するのは50歳を過ぎてからである。」

また、ルネ・ラリック と日本との結びつきをみてみましょう。

Link 箱根ラリック美術館


「ルネ・ラリック(1860-1945、フランス)が工芸作家として様々な技術や意匠を吸収していった19世紀後半、「ジャポニスム」と呼ばれる日本美術の影響が、フランスをはじめとするヨーロッパ各国を席巻していました。ラリックもまたジャポニスムから多くを学び取り、日本風のモチーフを使用するだけではなく、構図・視点などにも日本美術の妙を取りいれました。」

東京都庭園美術館(朝香宮[あさかのみや]邸)

この建物は1920年代から1930年代にかけてヨーロッパの装飾美術を席巻したアール・デコ様式を 現在に伝えるものです。フランス人デザイナーが、主要部分を設計、内部装飾もフランスをはじめとする 外国から輸入されたものが多用されています。

ルネ・ラリックは、朝香宮邸においては正面玄関ガラス・レリーフ扉、大客室と大食堂のシャンデリアを制作しています。


1925年のアール・デコの博覧会において、彼は自身のパビリオンをもち、その傍らに記念碑的なガラスの噴水を制作するなど、アール・デコのガラス工芸家としても活躍したのです。

お彼岸の中日、わが家ではおしょうじんの献立です。精進と漢字変換が出るまでに時間がかかりました。
だって、「和尚人」って出たのですもの。たった一日だけで和尚人になれますでしょうか???

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2007年3月16日 (金)

京都市指定 天然記念物 総見院のワビスケ

信長の墓所・総見院に咲きつづけるワビスケは、 京都市指定天然記念物です。(北区紫野大徳寺町) 昭和58.6.1指定。1本 樹高6.4m。「豊公遺愛わびすけ」との伝承があるのです。
椿の品種ワビスケとしては日本で最古の木といわれています。

















大徳寺山内の石畳の道をゆっくりと歩く人々。

しばらく行きますと、若松…が見えました。 土塀にひっそりと添うように佇んでいるひともとの若松に、「がんばってね」と声をかけたくなりました。それから松の巨木の根っこに、しばし足を留めました。何百年か無言でここに生き続けている松ノ木です。

総見院のワビスケの木も、これからもずっと長寿であって ほしいものです。

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2007年3月 2日 (金)

西川一草亭 去風流挿花 漱石との交流

西川一草亭(一八七八~一九三八)
去風流七代目家元。昭和13年(1938)一草亭歿、61才。


女性としてはよき家庭を築いた良妻賢母。知識人としても美術評論が抜きん出ていた白洲正子さん。彼女は生け花を習ったことはないそうですが、花について次のように言及されています。

[私はいけ花を習ったことはない。
しいて先生があるとすれば、好きで集めた器の類と。
西川一草亭の編纂による「瓶史」とよぶ冊子かもしれない。

「瓶史」から学んだのは、
いけ花は一種の総合芸術であるということだった。
花は花だけで孤立するものではなく、
周囲の環境と生活の中にとけこんで
はじめて生きるという意味である。

もうひとつの先生は器である(中略)
花は器にしたがって生けていれば自然と形になるということを自得した。」




西川一草亭の令孫、華道去風流九代家元・西川一橙氏。
わびすけの所蔵する竹花入れ、一草亭好みの尺八に挿花をお願いいたしました。




夏目漱石が一草亭のために書いた画賛。

  牡丹剪って一草亭を待つ日かな  漱石

●2003/04/17 Thu 21:53 津田青楓の兄 西川一草亭

この拙文を書いたとき、いつか「去風洞」家元を訪問したいものと考えておりました。4年経って漸く実現したというのは、なにごともスローモーな私めでございます。

漱石の画賛の軸の箱書きは、いうまでもなく一草亭ご本人です。すばらしい筆跡をカメラに収めることができました。

椿のデザインは一草亭のオリジナル。来客の時だけこのテーブルセンターをお出しになるとか。光栄です。





漱石が京都に来て、西川一草亭の自宅を訪ねた記録が残されています。

「去風洞といふ門札をくゞる。奥まりたる小路の行き当り、左に玄関。沓脱。水打ちて庭樹幽遠、寒き事移し、床に方視の六歌仙の下絵らしきもの。花屏風。壁に去風洞の記をかく。黙雷の華蔵世界。一草亭中人。…… 料理 鯉の名物松清。鯉こく、鯉のあめ煮。鯛の刺身、鯛のうま煮。海老の汁。茶事をならはず勝手に食く。箸の置き方、それを膳の中に落す音を聞いて主人が膳を引きにくるのだといふ話を聞く。最初に飯一膳、それから酒といふ順序。…」。

茶事の様式で漱石は出された懐石を口にします。はじめての体験でひどく窮屈だったようです。このあと、漱石はずいぶん失礼なことを一草亭に言うのですが、それでも二人の間には妙に惹き合うものがありました。



私は一草亭のお孫さんである一橙氏とは初対面でしたが、「去風洞」家元のた佇まい、九代家元のお人柄に触れ感深く存じました。この家風は自然のすがたの花木を大切にされ、いわゆるアート的なものとは一味違うのです。

ウグイスカグラの花が小さく咲いた枝。それと本阿弥椿を一輪、お入れになりました。
それぞれが生き生きとうつくしく添い、竹花入れに調和しておりました。椿の葉のなんと見事に映えていたことか。

茶花ですと、つもって生ける。よく「つもり花」と申しますね。雰囲気は共通するものがございます。しかし、こちらは茶室に限定された部屋ではなく、書院風な感じがあり生活に自然をより美しく取り入れるといった風趣です。

風流一生涯、とは一草亭が死に際して書いた絶筆だったとお聞きいたしました。挿花を教えて月謝をいただくことすらこころよしとしなかった清貧の家風が続いていたようです。決して裕福ではなかった一草亭ですが、漱石との交流、弟である津田青楓が漱石の日本画に影響を与えたことを思うのです。

超俗のなにかがそこに生きていた、今も去風洞にはそうした伝統があるように、私は感じるのでした。

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2007年2月27日 (火)

まもなく利休さまの祥月命日

2月28日は、利休居士の命日になります。
大徳寺聚光院で法要が行われその後、追善の釜が懸けられます。去年は今日庵の当番で、淡敬会は三玄院で一席ご奉仕させていただきました。


裏千家ホームページにその日のようすが掲載されております。
18年02月28日 利休居士毎歳忌

利休忌・淡敬会席(三玄院)
ご宗家の皆さまをお迎えして、点前をさせていただきましたわびすけの光栄。忝いことでございました。

◇ ◇ ◇

先日、研究会での阿部先生のお話を、ここで待っていらっしゃる方々が多いと思います。
会場から質問があり「八炉」について解説されました。

☆除夜に丸ぎっちょを8本くらいよく熾っているものを炉の中に入れ灰をかけ埋め火とする。

☆利休堂は、三畳中板の茶室になっている。炉は本勝手出炉である。

☆除夜の埋め火をその炉に移して、梅の井から午前4時に汲み上げた若水を釜に入れ準備をする。

☆家元が台天目の点前をされる。利休居士に供えられた後、大宗匠へすすめられる。
大宗匠は家元からどうぞと仰せになる。ご一族が順服される。

…というように私は記憶しますが、間違っているでしょうか。

利休御祖堂はにじり口があり、小間の名席であることを是非知っておいていただきたいのです。
利休さまの等身大の立造と、宗旦さまの小さい坐像がおわします。

ここで、私は準教授、教授、正教授の親授式をしていただいた日のことを忘れません。
当時の鵬雲斎家元と坐忘斎若宗匠がお坐りになり、直接手渡しをしていただきました。御祖堂は厳粛にして澄み切った空気が張りつめ、感激に心ふるえるのでした。

利休忌。名誉師範を拝受される方々はこの日に、最上の栄誉に浴されるのです。
目安としては80歳前後の、裏千家茶道に貢献ある先生方。
おめでとうございます。

JanJan コラム 古都つれづれ 大徳寺・千利休居士の毎歳忌

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2007年2月24日 (土)

裏千家 利休御祖堂 元日には大福茶の点前が

この写真を撮ったのは数年前のことでした。結界が置かれているのは入室禁止のおしるしなのです。

裏千家ホームページに、わかりやすく「茶室案内」が出ておりますので、ご参照頂きますよう。
裏千家宗家 利休御祖堂
 

つぎに畏れ多くも2002年の春、許諾を得ておん祖堂のなかを撮影。




普段は入れない聖域に、特別にカメラを持ってお参りさせていただきました。

漱石の孫・マックレイン陽子先生をご案内して利休堂の見学を許された日のこと。今思い出してもまことに勿体ないことでございました。

2002年春 Mrs.松岡陽子マックレインの京都

先日の淡交会・研究会で、阿部業躰のお話がこの重要な「利休御祖堂」のことだったのです。

少しづつ書き足していこうと思います。

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2007年2月 3日 (土)

2月3日は光悦忌 職人を愛し国を愛した信の人

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旧年 光悦寺本堂にて筆者撮影

光悦忌
書家・工芸家の本阿彌光悦の1637(寛永14)年の忌日。


 2月3日は、本阿弥光悦(1558-1637年)の忌日です。寛永14年丁丑2月3日。壽80歳。

 洛北・鷹が峰の光悦寺は光悦の死後に建てられたものです。日蓮宗、大虚山光悦寺は、鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰、鷹峰三山の南麓にあります。

 『本阿弥行状記』によれば、光悦にこの地を与えようと考えそれを命じたのは家康でありました。

 或る時、「光悦はどうしているか」と伊賀守にお尋ねになり、存命なれど、異風者にて、京都に居あき申候間、辺土に住居仕り度よしと申上げた。

 権現様(家康)は次のように仰せられた。
「 近江丹波などより京都への道用心あしき、辻切追いはぎをする所あるべし、左様の所をひろびろと取らせ候へ、在所も取立べきもの也との上意なり」

 京の町衆であり既に卓越した作家であったものの、開拓できる別天地を求めていた光悦にとって、家康の命による鷹ヶ峰一帯の賜物は願ってもないことでありました。辻切追いはぎが出る所であろうと、彼は雄大な自然に恵まれたこの地を愛しました。

 光悦一属はここに集団移住をし、芸術村を作ったのですが、彼の才能は芸術にとどまらず、経営、経済という方面で近代化に大きく貢献したことを、私は思うのです。
 光悦の真価はここにあるような気がします。

 光悦が慈悲心厚く、正義感の強い人物であったのは、数々のエピソードからもうかがうことが出来ます。

参考
續近世畸人傳卷之二
http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/str_07.htm

【凡そ藝のみにあらず、經濟の才もありて、鷹峰の邊に金掘るべき山を考へ、五ヶ所を得て、人民多くその益を蒙る。もとより心ばせ正しき人にてありし。

 その一事は、七月十四日にある町家へ行きたるに、常に同じく家職を營みてありしかば、悦あやしみて、「今日は貴賤となく金錢の出納に閙いそがしき日なり。なぞ斯く常にかはらぬぞ。」といふに、あるじ、「町家には利用を計るをむねとし候さぶらふ。

 今日與ふべきものを五日過ぎて與ふれば、何計りの利を得ることにさぶらふ故に、今日は心いそぎも侍らず。」といひしに、悦答へもせず、家の内の者共の面を一人一人にらまへて、「よき畜生めら。」と云ひ捨てゝ出で、それよりは再び來らざりしとなり。】(引用)


 光悦が激怒したのは、他の雇用主が金を惜しんで、職人たちに給与を遅らせたことでした。倫理に基づいた經濟こそ、彼の求めた世界であったのです。

 法華信徒の光悦は、理想の共同体をねがい、日夜読経三昧に入っていたと伝えられます。

 光悦村は寛政11年(1799)家数が168軒・人数383人であったと記録されているのです。


【寛永年間洛北鷹峰を悦に賜はりしより、此處をひらきて、人家を設けたるに、若狹・丹波の通路なる故に、往來しげくなり、此の邊に山賊などいふもの絶えたり。是れより先きは、かうやうの惡黨かくれ住みて、人を犯す事多かりしとぞ】(引用)




「寛永の三筆」のひとりとして名高いことはよくご存知でいらっしゃいましょう。

  元和元年(1615年)、光悦は徳川家康から鷹ヶ峯一帯の地を与えられたことを機として、光悦の一族をはじめ町衆の人々と共に移住し、芸術村を築きました。ここには長屋が立ち並び、職人たちが養成され、刀剣、陶芸・漆芸・書画・などが制作されました。

 光悦は熱烈な法華の信徒であり、真摯な行者でありました。彼の信仰は個人的な芸術を打ち立てることよりも、京都町衆、職人たちを光悦村に集め、育て、生活の糧となすよう組織を作ったことにあります。

 陶芸・漆芸・書画・和歌など、卓越した作品を多く世に遺しました。芸術文化のリーダーとしては相協力し、嵯峨本の出版事業にも寄与しました。

 「私式の信心は、只国恩を忘れず、心の正直に悪魔のささぬ様にと信心仕候」と光悦は述べています。

 国を愛し、心の正直なるをモットーとし、人に布施をなし喜捨したという光悦。彼は現代の学校経営者たちの数字に明け暮れるさまを、どのように見ることでしょうか。


昨秋、お参りした光悦の墓には、白菊の花が供えられていました。


IT新聞掲載記事

職人を育てた芸術村 本阿弥光悦

拙サイト関連ページ

スライドショー2004年 京都・鷹ヶ峰 光悦会

スライドショー  光悦会 2005年

スライドショー  2006年 光悦会

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2007年1月25日 (木)

きのうは 宗家・稽古はじめ 今日は初天神

茶の湯には 梅 寒菊に 黄ばみ落ち 青竹 枯れ木 暁の 霜 
                                     ー利休道歌ー

この利休道歌をさらっとお書きになったのは、裏千家九代不見斎。その掛け物がかかっていたのは裏千家で貴人座がある抛筌斎(ほうせんさい)でした。


今日庵 茶室・茶庭(裏千家ホームページ)

1月24日は、ご宗家における初稽古が行われました。志倶会という直門の会員だけに許される稽古日で、私どもはみな紋付を着て厳粛な面持ちで兜門(かぶともん)をくぐります。

咄々斎(とつとつさい)の床を背に、鵬雲斎大宗匠、坐忘斎家元のお二方が着座されますと、稽古始のご挨拶がありました。



お家元はこの利休道歌「茶の湯には 梅 寒菊に、、、、」 と朗詠されてから、「私がもっとも好きな歌です。」とお話になりました。

侘びの境地が見事に表現されているこの歌に続いて、「人生にリハーサルはない、その都度その都度がみな本番なんです。一期一会(いちごいちえ)です。」
「今日の稽古もそうした心構えであって欲しい。単なる稽古ではなく、再び来ることのない日であることをおもい、一期一会の修道として。」と、いうご指導に身の引き締まる思いがいたしました。

また、知人の方が「一番になろうと思ったことはないが、僕は一流の人間になりたいと思う。そのために伝統文化の茶道の稽古をすることにした。」とのエピソードも、心なごむものがございました。

いえいえ、けっしてこちらが一流だなんて思い上がってはおりませんです。ただ、日本が世界に誇りうる「侘び」の美とその理念を、身近に感得できることを仕合せだとしみじみ思うのです。
勿体ないことに、咄々斎で七事式のお稽古が許され、私は茶通箱で仕舞い花をさせていただきました。
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今日の25日は北野天満宮の初天神でした。午後からお参りかたがた行ってまいりました。目的は植え木市なんです。昨年の初天神で買い物をした植木屋さんを探しました。やっぱり、前と同じ奥まった場所にいてはりました。大阪から来ているとか。

「去年もらいました玉之浦がきれいに咲いたんですが、夏に枯れてしまいまして。」

「そうでしたか、残念でしたなぁ。玉之浦ならここにもありますよ。」

「ほんとや。いい木ですね。もらいますわ。」ということで、次から次から欲しい木が増えていき、結局4本の苗木を買うことになったんです。全部、椿の木です。

玉之浦。曙椿。(庭にあった木が枯れそうになっているので)。五色散り椿。千羽鶴椿。

「今の皇后さまがお好きな花がこの椿ですよ。」とすすめれた木が千羽鶴という名の椿でした。
純白のようでうっすらピンクがかかっている清楚な小輪の花です。ワビスケ系とも違う中部地方のツバキのようです。

千羽鶴という椿の花すのつりさんのHPより。

京椿 五色八重散り椿。
京都の法然院、本堂北側の中庭にある、五色八重散り椿です。(この木の末裔でしょうか。)


ああ~~、けっこう値のはる苗木でした。千羽鶴のほうは苗木というよりしっかりした木です。でもなんだか庭に植えたいという気持ちになってオバチャンと交渉の結果、全部で千羽鶴一本の値にしとくよ、ということになりました。財布の中は空っぽになり、その代わり植木をかかえて家路をたどるわびすけでした(*^。^*)。


これって、じつは自分への前祝いだったのですよ。
そうなんです。7月から一年間原稿料をいただくことになったので、先ずは椿の木でお祝いってわけです。



『なごみ』編集部の方からは、FAXと電話でさっそく仕事の打ち合わせ。私の担当は20代の男性編集者Eさん。フレッシュマンといえば新入社員をいう言葉でしょうが対応がキビキビされていてしかもフレッシュ!

コラムのタイトルとして三つほど候補が書かれていました。Eさんが考えられたのでしょう。
FAXでは最後の候補がなんともおかしいのですよ。

電話
「小社の「ご連載依頼内容書」をFAXでお送りしましたがお読み頂きましたでしょうか?」

「ありがとうございます。ご配慮を感謝しています。ところでわからない箇所が一箇所ございますが。」

「どうぞお聞かせください。」

「ご執筆テーマ、、、、(仮)の最後に挙げられたタイトルですが。「椿H記」となっていますね。
あの~ぉ~、私がエッチを書くってことではないですよね???」

電話の向こうでは若い男性の声色がぱっと変わりました。噴き出したような笑い声です。

「すみません。こちらでは確かに 椿日記 と表示されているのですが、FAXで不具合が生じたと思われます。決してそのようなことではございません!」

やれやれでございます。

どんな名前がいいでしょうか。コラムの名前。
みなさまの率直な声をお聞きできればどんなにかありがたいと思います。どうぞよろしく。

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2007年1月20日 (土)

趣味ゆたかな 京の酒造会社 「黄桜」 

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http://www.kizakura.co.jp/index.htm



「黄桜」は京都にある酒造会社です。

カッパの画が先にアップした黄桜の動画にあったものですから、つい懐かしくなって追加として書いています。黄桜ギャラリーに出ているのは小島画伯のカッパです。やはり先の動画にあったのは清水昆に間違いないように思いました。昔は清水画伯のカッパが朝日新聞で有名になりここでも活躍していたのでした。


余談になりますが記事を書くため昨年、この会社に私はメールで取材をしたことがありました。管理職の方から丁寧なお返事をいただき、とても好印象を受けたのを思い起こすのです。

創業者のお方が趣味が深く、黄桜を愛好されお庭に植えて愛でていらしたことが社名になったとお聞きしました。

今日は昨年3月に行われた「2006FIFAワールドカップドイツ大会」 に寄せて黄桜が公開しているがカッパのポスターを、ご紹介いたしましょう。黄桜さん、勝手に画像を拝借しますがよろしくね!

           Kappa2006_03


ドイツに住する好漢、がんばるHiromba。さん いかがですかぁ~~~。




IT新聞 掲載記事
一部引用

・うこん-ざくら(鬱金桜)
別名:黄金桜、黄桜、浅黄桜、鬱金桜。ショウガ科の「ウコンの根」で染めたような色。

 ちなみに京都には「黄桜」という造り酒屋があるが、聞くところによると鬱金桜を愛するオーナーによる命名だという。しかし、御衣黄と鬱金とは専門家でも間違える程似ており見分けがつかない。御衣黄のほうが緑色が多く花弁には気孔があるのが、鬱金とは相違するらしいのである。

漱石は「少し青味を帯びて」と書き、別の章で「藤尾はすうと立った。朧(おぼろ)とも化けぬ浅葱桜が、暮近く消えて行くべき昼の命を」と麗人・藤尾をこのさくらを通して描写している。このことからも、ウコンよりギョイコウの青いイメージのほうが漱石の「浅葱桜(あさぎざくら)」には合致しているように思う。

 もしも、御衣黄(ぎょいこう)桜が漱石のいう「浅葱桜(あさぎざくら)」であると確定されると、私はまことに嬉しく思う。

 なぜらば、御衣黄は京都・仁和寺の出自と伝えられるからである。

 「昔の貴人が好んで着たウグイス色の気品のある衣の色に似ていたことから御衣黄と命名された。突然変異で生まれたであろう品種。江戸時代に京都の仁和寺で栽培されたのが始まりだという。」

(椿伊津子)

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2007年1月14日 (日)

宗家初釜 京都は終了 まもなく東京へ

京都で行われたで初釜式のようすを、裏千家ホームページに見ることが出来ます。
初日の七日は雪が降っておりました。
平成19年丁亥歳 今日庵初釜式 新年を祝い厳かに

丁亥は、音読みで (ていがい) ともいいますが、親しみやすいのは (ひのと い) ですね。猪の年おとこと年おんなは、大挙市中にあらわれたようです。


裏千家では、おひとり年男がおわしますのは余りにも有名です。
裏千家ホームページの中でお家元ご一家のお写真がとっても和やかで印象的でした。
まず「咄々斎」(とつとつさい)の床
http://www.urasenke.or.jp/textm/headq/soke/koyomi/hatuh19k/image/hatuh19k-02.jpg

年おとこに当たられる大宗匠。お家元。そしてご長男の明史さんが初登場のようです。家族として実家の手伝いをする、ただそれだけのことですと、ご自分で語っておられました。
五分刈りというのでしょうか。昔風のすっきりした青年の感じですね。
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お家元が点てられた第一わんは、ご長男が正客の表千家・家元に取り次がれたようにお見受けいたします。
三世代にわたるみなさまの、凛々しいお姿をここでも拝見することができます。

http://www.urasenke.or.jp/textm/headq/soke/koyomi/hatuh19k/image/hatuh19k-06.jpg
京都では7日から13日まで。東京道場では16日から20日まで。あわせて約6千人の招待客が参会とのことです。


拙サイト 関連ページ

2003年1月 今日庵第・十六世 千坐忘斎家元 吉祥の初釜式

2003年1月 今日庵第十六世・ 千坐忘斎家元吉祥の初釜式 その二

2002年1月13日  うま年・宗家初釜と女子駅伝

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2006年12月29日 (金)

カミーユ・クローデル作 兄・ポールクローデル胸像

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この夏に京大正門前の関西日仏学館に行き、撮影した画像がようやく記事になり日の目を見ました。

カミーユ・クローデル作 の 胸像も収蔵する 関西日仏学館

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JanJan tsubakiコラム 古都つれづれ

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2006年12月27日 (水)

顔見世 中村勘三郎襲名披露 千秋楽 

この慌しい年の暮れといいますのに、家の中の片付けはほっといて顔見世にいくのはちょっと気が引けるのでありました。理解あるオットドッコイのひとことで背中を押されるようにしてことしも行ってきました。もちろんひとりです。

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開幕前の舞台には、十八代目 中村勘三郎丈江 という企業主からの引き幕。




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午前10時半開演の芝居が終了して南座を出て撮影。雨が降っている中マネキを見上げる。。




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まいこさんを探したのですが、見当たりませんでした。去年は撮影できましたのに。



昨年の顔見世は坂田籐十郎襲名披露。この時の感想は日本インターネット新聞JanJanのトップ記事として掲載されたことを思い出しています。

世界遺産に登録された歌舞伎顔見世で坂田藤十郎襲名披露





昔は、歌舞音曲のたぐいは勝負のせかいと同じく、好ましいものでないという考えがありました。

何よりも学問と聖賢の道を尊ぶ、そうした家風が日本のどこかに確かにあったのです。
主人の父がそうしたひとであり、家風そのものでしたと私がいえば、なにか不釣り合いに聞こえるかもしれません。

そのためでしょうか。いい加減な私なのに好きなことをさせてくれる主人になった、とまあこういうわけなんです。
漬物好きな主人のために、白菜と蕪のぬか漬けを漬けましたし、明日頃は食べころとなるでしょう。

雨の顔見世・千秋楽は、午前の部で義経千本桜がよかったです。白狐に扮した中村勘三郎、アクロバットあり、それはたいへんな重労働だと思いました。

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2006年12月18日 (月)

アメリカと台湾の大学でわびすけサイトが紹介されています

いまさらという感じですが、一、二年前にアメリカのバージニア大学のサイトに私の名を発見したのです。

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厳密には五年前に、バージニア大学の図書館から私の或る画像を掲載したいという依頼のメールがきたのが発端でした。

日本の風習を取り上げる企画だそうで、私の正月風景がお目に留まったようでした。光栄なことと喜んでお受けしたのは申すまでもありません。その後ずっとお知らせがなく、こちらも忘れていたのですが、ある日検索から偶然に私のこの画像に辿り着いたのです。

アメリカでも格式高いバージニア大学、世界遺産の建造物がある大学は世界にも珍しいのです。日本文化の研究は群を抜いたものといわれています。

この画像は 洛中新春スケッチ 2001・1・14 に作成したものでした。掲載された一枚は、「昔風の 正統派 門松」 とキャプションをつけている門松。高台寺界隈のとある高級料亭の前で足を留め、撮影したのを思い出します。

自分の拙い写真が日本文化紹介の一端として永久保存され、お役に立っているかどうかはわかりませんが、バージニア大学図書館、並びに制作されたお方に感謝の念でいっぱいになります。

それから、今度は台湾の国立大学で、私のサイトが『侘び』の解説に取り上げられているのをずっと以前、検索で発見しました。漢字をあてずっぽうに読んでみたりして微笑したものです。

椿 家  (とわがHPを記載していますね。教科書でしょうか。)
伝統文化 椿家 :
 
(出典がきちんと掲載されているところは礼節があります。)
(画像は  やよいの雪 茶道宗家 2003年3月 の一枚です。)
 
松風庵  (引用)

此網站擬從日本語彙探討多元日本,了解日本歷史、地理、社會環境。

透過日本獨特的使用語彙認識日本文化、理解日本風土下孕育之民族性、價值觀、思考模式 …

1. 風土與美意識

從日本民族在文學、科技、演藝技能之成就,認識日本民族文化特色所表現的精神。

2. 社會與人際

認識現代日本社會、政治、經濟發展現況,探討日本社會發展面貌的背後成因與問題。從新認識思考台灣社會發展現況與問題。

3. 生活環境與性格

認識日本地理、社會環境,理解日本民族性、價值觀、思考模式。

http://www2.nkfust.edu.tw/~ayling/index.htm

思考語言與文化網站

言語文化

こうしてみますと、ネットは思いもかけない縁をもたらしてくれるのですね。

よい縁もあればそうでない縁も派生します。

今日は私にとって嬉しい「えにし」が国際的な東西の大学から結ばれていたことを、感謝をこめて書き留めておきたいと思います。 

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2006年11月20日 (月)

2006年今日庵宗旦忌 時雨のなかに

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ことしも宗家宗旦忌にご奉仕させていただきました。

雨模様の中を全国から宗旦さまにお参りくださった方々、700個のお菓子が足らないほどでした。

毎年無事にこの行事をつとめさせていただけることは本当に仕合せです。

午前7時過ぎに茶道研修ビルに行き、帰宅したのは午後5時過ぎでした。

今回の茶会記、はずかしながらわびすけの自筆です。なんやふぞろいですな。

                                                          床の間の花。沙羅の照り葉、椿は初嵐。花入、又玅斎自作。在判、銘 雪月花。
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川島製 インド古代模様

インドの象が見えますやろ。

と、私が先輩のうえださんに言いましたら、

そうかなあ、わたしには、馬と鹿がいるように見えますけどな。

と、いうお返事でした。

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まあ、そうかもL1010213soutankini1_2 しれませんな。なんでも、持

ち主に似るとは、昔からそういわはりますけど。

帯の垂れところを、よう、ご覧やっしゃ。L1010214kaikimae_2 

自分の至らなさをいつも感じますが、今日はひとしお…。

点前する時も迷いがありましたし、

半東のお役も何度かさせていただきましたが、失礼なことがあったのではなかったかと…。

反省すること多い一日でした。

辻利園のご当主がこの1枚を撮ってくださいました。

◇◇◇

過去の宗旦忌を、ここに挙げてみましょうか。

2000年 宗旦銀杏のもとに

2001年・2002年 宗旦忌

2003年宗旦忌 そうたん狐がきたような

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2006年11月12日 (日)

開炉の茶会 京都美術倶楽部11月例会 

京都美術倶楽部主催 松庵茶会 11月例会 1月9日 
担当 平松栄祥堂

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待合 床  景文筆  黄葉小禽画

宙宝和尚筆 横一行  開門多落葉

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花 トリトマラズ 椿   花入 姥ヶ餅焼 耳付置 

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本席 床脇 葛屋香炉     即全作

香合 赤織部  波ノ画

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釜 雪佳筆 鹿ノ絵 撫肩丸 十三ノ内 惺斎箱

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鹿の地紋が見事でした。神坂雪佳 ( かみさか せっか)は京の生まれ。光琳風を能くし、宮中に揮毫。また図案家として京洛の染色界に大いに貢献しました。勧業博覧会審査員・京美工教諭。昭和17年(1942)歿。

席主の平松さんはたいへん気のいい方で、道具だけでなく私も撮ってください、と冗談をおっしゃるのです。私はすっかり嬉しくなって平松さんのいい男ぶりを撮影しました。

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炉縁 眞塗高台寺蒔絵 即中斎箱   元斎宗哲作

風炉先 光雪筆 光悦垣画 腰     

光悦寺の先代住職が光雪という名でお描きになったもの。風情がございました。

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棚 青漆爪紅 糸巻 在判        一閑作

水指 瀬戸耳付 

茶器 桐蒔絵 折タメ棗 碌々斎好箱  一閑作 

茶碗  一入作黒  銘 夕暮れ     了々斎箱

替   伊羅保

〃   乾山  楓画

茶杓 大綱和尚作  歌銘 時雨
 時雨する 雲に心はなかりけり 晴れるも婦るも風のまにまに

建水 高取焼 エフゴ形

蓋置 竹

菓子 綾錦 鶴屋吉信製

器 雲錦食籠  庭園楓景漆ヲ以ッテ 五ツノ内  愈好斎箱 漆仙作

干菓子 下もみじ 松笠    亀屋伊織製

器   紅葉蒔絵 足付縁高

たばこ盆 紅葉の木手付   利斎作

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火入 染付 吹寄画 八角 妙全作

煙管 唐草彫  十代浄益作

たばこ入 紙  吉兵衛作

茶  珠の白  柳桜園詰

また、床の間下座の脇床に、松毬の置物がありました。

L1010173matsukasa

今回も正客をせざるを得なくなりました。皆さん遠慮されて時間が経つばかり、困りますね。

とりあえず、会記だけ書いておきましょうか。主客の会話はまた、後ほどに…。

L1010178senryoneko わが家の ドラとセンリョウの実

市バスに乗って自宅に戻りましたら、玄関先にドラがこちらを向いて、さも興味ないよ~といわんばかり。いつもこの子はそうなんですよ。

このあと、庭の椿の木の根元ちかくで、小のおつとめを真剣にやっておりました。尿毒症だと言われたこともありましたが、ちゃんとたっぷり時間をかけて無事おつとめができていたので、ほっとしたことでした。

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2006年11月 7日 (火)

三十三間堂の妙法院 鵬雲斎大宗匠による最初の献茶式

○天台三門跡 京都でこのようにいわれているお寺に妙法院があります。

妙法院、青蓮院、三千院です。でも妙法院という名よりは三十三間堂のほうが世間にはよく知られているようです。その蓮華王院本堂(三十三間堂)は妙法院の仏堂なのです。

11月5日は鵬運斎大宗匠の献茶式が妙法院で行われ、ご招待をいただきましたのでお知り合いのTさんをお誘いして参列させていただきました。


Tさんは京都大学の指導的研究者。28歳の独身男性でご専門は情報、ITには非凡な見識をお持ちです。私のカメラのシャッターを押してもらい、お互いを撮影したのが以下の写真です。茶道関連のものはご遠慮して妙法院内の背景でもわかればいいと思いまして。献茶が終わったあとの一ときです。














お献茶は宸殿で厳かに行われました。ここは幕末の七卿落ちがあった処と伝えられます。
そして小堀遠州作と伝える庭園もうつくしいものでした。何よりも公開寺院でないことから世俗的でない品格があり、祭壇横に整列された8人の寺僧さんがたの清清しい雰囲気がすばらしかったです。

読経も密教だからでしょうか。鷹揚な調べの、私にはあのモンゴルのホーミーにも似たような響きを感じました。皆さん感動されておりました。
これは天台声明(しょうみょう)と申しますか。梵唄(ぼんばい)と申しますか、もとはインドから伝わったものでしょうね。

今日庵席 大書院

東福門院の旧殿を移築したものとお聞きしていますが、その座敷で濃茶が振舞われました。

床 九条卿  お名前は覚えていませんが、懐紙に詠草がかかれた掛け物。

花、照葉 ドウダンツツジ 椿 が、仙叟作 竹 旅枕 に入っていました。

長板 二つ置き

道安風炉に 尾垂釜。 水指は 呉須 香炉形 でした。 

茶入 古瀬戸 たしか翁手だったでしょうか。 茶杓は、ああ、それで、とわかりました。

この間、10月29日の宗家開炉の日、例年出てくるはずの茶杓 一燈の「口切」が今年は無く別の茶杓だったのです。この妙法院献茶式の今日庵席、ここで使用されるためのものだったのですね。

なにしろ、妙法院でこれまでお献茶があったことはなく、この度、ご住職のご要望により初めて後白河上皇880年記念の献茶が鵬雲斎大宗匠によって実現したのでした。

まさに、「口切り」という銘の一燈のお茶杓は、この日にふさわしいものであったと思います。
茶碗は今日庵伝来、大徳寺呉器、気宇の大きい名碗でした。

点前は渡辺業躰。半東は金沢宗達さん。兄の金沢宗維業躰とご兄弟で亡き父君の名跡を立派に継がれている若手のホープでいらっしゃいます。若手ながら謙虚でしっかりした応対は宗達さんならではですね。

濃茶をいただいたあと、茶道口から大宗匠がおでましになり、点前座の後方に坐られ談笑されました。私は連れのTさんとご一緒にご挨拶に参りました。大宗匠はそのことを喜んでくださいました。

若い男性、それも今どきの若者らしからぬ武士然とした風貌の大学研究者に、これから裏千家茶道を理解し、興隆につとめてほしいとの期待がおありだったのでしょうか。
初心者へのあたたかいお励ましのお言葉でした。

Tさん 2006年11月08日 taro's blog 裏千家のお茶会

リンク
妙法院住職 すがわらしんかい さん




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2006年10月 4日 (水)

怨霊の『源氏供養』 紫式部と小野の篁(たかむら)

京都市内堀川通りをまっすぐ北へ上がると鞍馬口辺りに島津製作所があります。その一角に目立たない小さな石碑と標識があるのを、道ゆく人々は案外気付かずに通りすぎて行きます。

L1020468murasakisikibu   いにしえの京の埋葬の地

 『拾遺都名所図会』という文献には、此処がいにしえの埋葬地であったことが書かれています。

 「大宮(紫野北にあり、祭る所神秘なり、加茂に属す。大宮森、同所神木をいふ)小野の篁たかむらの塚(紫野雲林院卯辰の方二町ばかり畠のあひだにあり)、紫式部の塚(篁塚の西なり、上に榎あり)、○花鳥余情曰、紫式部墓所は、雲林院の末院白毫院南、小野のたかむらが墓の西にあり。」

 また、式部の信仰についても興味深い記載があるのです。

 「式部は檀那院僧正の許可を蒙りて、天台一心三観の血脈に入れり、兼てより雲林院の幽閉をしめけるも旁ゆへあるにや。」

 はるか平安時代に思いを馳せながら、舗道から小さな墓所の入り口の前に立ちました。

L1000900bosyo1

 紫式部墓所、そう、自然石に横に彫られた記念碑。小野篁卿墓と刻まれた縦長の石の標識。墓所へ通じる路も殺風景ではありますが清掃されており、奥まった場所にはなぜか尋常ではない雰囲気が漂っています。

 「むらさきしきぶ」と「おののたかむら」の二つの墳墓が目に入ります。元のすがたを写したと思われる土の小山が離れ離れにあり、その頂上に五輪

L1000906gorintou 塔のごく小さな墓が見えます。墓標である供養塔が二つ西に紫式部、東に小野篁と並んでいるのです。(写真3)

 私はしゃがむようにして礼拝。掌を合わせました。そしてふと、この両者にどのような繋がりがあるのだろか?と感じました。不審に思われる方はきっと少なくないことでしょう。

 もしかして秘めた恋人だったのでは?でも、そうした話はこれまで聞きませんね。はっきりしているのは、紫式部も小野篁も、藤原定家編『小倉百人一首』に、共に和歌が入選していることです。

  小倉百人一首のなかに

 「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月かな」
                       
                             紫式部
                       
 「わたの原八十島かけて漕き出でぬと 人には告げよあまのつりぶね」

                             参議篁

 小野篁の歌について

 「詞書「隠岐の国に流されける時に、舟にのりて出でたつとて、京なる人のもとにつかはしける」 承和五年(838年)、隠岐国流罪のときの歌。」

 流罪になったのは遣唐使制度を批判し、嵯峨天皇の逆鱗に触れてのことでしたが、まもなく許されて京に戻り従三位参議となります。

 小野篁一族は、よくミステリアスな家系だといわれています。たかむらは遣隋使を務めた小野妹子の子孫。孫には三筆の一人小野道風がいますし、小野小町も孫になるのです。
 百人一首のなかで小野小町が9番目に、参議篁(小野篁)は11番目にあります 。参議篁という名で書かれているのは参議の位というより重複を避ける意味があったと思われます。ちなみに紫式部 は57番になっています。

 しかし、紫式部があのように自由な筆致で物語を著したことで、当時の日本の社会がすんなり受け容れたのでしょうか?現代でさえ数々のタブーがあり、ありとあらゆる批判が捲き起こるのです。そのことをかねてより疑問に思っていたのでした。

 『源氏物語』の作者紫式部への批判と擁護

 しかし、私はこの墓所に接してはじめてその事情を知らされました。紫式部は大罪人だという批判があり、地獄に墜ちた人間だとされたのです。王朝貴族の時代、式部が生きていた間はそうでもなかったようですが、平安時代が終り武士の世の中となった鎌倉初期にはガラリと変わります。
 
 紫式部が狂言綺語の罪、愛欲を描いた咎で地獄に落ちたという説が広まりました。鎌倉時代『往生要集』の影響が考えられるところです。ただ、日本の社会のいいところは、捨てる神あれば拾う神あり。紫式部の救済のためにいわゆる「源氏供養」が行われたのです。

 その『源氏供養』は謡曲に描かれています。夢幻能。世阿弥作。一説に金春禅竹作。ストーリーを簡単にいえば次のようになります。

 「安居院(あごい)の法師が石山寺へ行く途中、里女に呼びとめられ「源氏物語」について問答しのあと、 光源氏の供養を頼み消え失せる。法師は女が紫式部の霊だと悟り、光源氏と式部の供養をしていると、 式部の霊が現われ舞を舞い、「源氏物語」の巻の題を織り込みながら、世の無常と弥陀の導きを願い 願文を渡して光源氏の回向を共にする。」

 そうして最後の場面は一転して、式部がじつは観音の化身であるという救済の結末になっています。まさに心ときめくクライマックスですね。

 「やがて法師は式部が石山観音の化身であることを悟り、 「源氏物語」もこの世が夢であることを知らしめるためのものであったと知る。」

http://www.noh-kyogen.com/story/ka/genjikuyou.html

 小野篁の神通力

 能楽の脚色では地獄から救われたものの、それで万事収まったわけではありません。人をたぶらかす悪行としてもの書きは認定されていたのですから、式部が地獄に落とされたという噂は人々の口づてに伝播されたのです。

 そこで地獄の閻魔大王の補佐官である小野篁の登場となるのです。地獄で苦しんでいる式部を救出できるのは、閻魔に顔がきく彼を措いてはあり得ないというわけです。
 
 野相公(やそうしょう)、野宰相(やさいしょう)と もよばれた彼は六尺二寸(188センチ)の長身。文人貴族に珍しい偉丈夫であり反骨の政治家であったようです。彼にまつわる奇怪な伝説は多く中でも有名なのが、夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたというもの。まるでアニメを見ている心地ですね。

 京都市内の六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)境内の閻魔堂には、閻魔大王と篁の木像が並んでいます。 寺の裏には篁が冥界へ通ったという井戸。この井戸から毎晩閻魔の庁へ出かけ、裁判を手伝っていたそうです。そして、嵯峨の清涼寺横の薬師寺境内の井戸(生の六道)から、この世に戻って来たといいます。

 さらに、重要文化財指定の「紫式部供養塔」があるのは、引接寺(いんじょうじ)通称千本えんま堂です。ここの境内の西北隅に、古い時代に紫野白毫院から移設したといわれ高さ約6メートルの塔が建っているのです。

 最初に挙げていますが、 『拾遺都名所図会』という文献に、「紫式部墓所は、雲林院の末院白毫院南、小野のたかむらが墓の西にあり。」 とあることがここで実証されるわけです。

 この寺の町名も、京都市上京区千本鞍馬口下る閻魔門前町といい閻魔さんに縁があります。

 文献としては「今昔物語集」。大江匡房(まさふさ)の「江談抄」など。今でいえばオカルトという部類なのでしょうが、よく考えたものです。実際、千本閻魔堂の開基はなんと小野篁。本尊が閻魔大王ときていますから、もう~その想像力には感嘆するばかりです。

参考
http://www.lib.hiroshima-u.ac.jp/dc/kyodo/chikurinji/takamura.html

 とにかく、紫式部を地獄から救出するために精出してくれた小野たかむら卿、やはりここは素直にお礼を申すべきでしょうか。

  写真1は、ムラサキシキブが美しかった頃。2003年秋に撮影。

 写真2は、最近の墓所。元の木は見る影もなく。

 写真3は、紫式部と小野篁。二人の墳墓は五輪塔。

 3.4年前、紫式部墓所の石碑には、植物のムラサキシキブが秋の風情を漂わせていました。残念なことに今ではその木を見ることはできません。

拙サイト
 スライドショー 紫式部と小野の篁(たかむら)
http://wabisuke.la.coocan.jp/2006murasaki.html

(椿伊津子)

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2006年8月29日 (火)

裏千家今日庵当番 大徳寺利休忌 2006年8月28日

スライドショー 2006年8月28日 厳しかった夏の終りに 大徳寺利休忌

L1000807nodaketo1_1 ノダケ、ムクゲ、ホトトギスほか。  花入は 唐物籠。

昨日28日は、早朝から大徳寺へ。


裏千家今日庵が当番にあたる利休忌の法要と追善のお釜がかかりますので、そのお手伝いです。私たち直門の淡敬会が副席としてお釜を懸けさせていただきました。
先輩の方々の知恵をあつめた取り合わせ、お道具の持ち寄りです。

その時の差し支えないものだけをカメラに収めました。不充分なものですが昨夜スライドショーにまとめてみました。

いかがでしょうか?
茶席の写真撮影はほんとうに久しぶりのことなんです。
ご感想をいただけましたら、どんなにか励まされるでしょう!!!


このスライドショーの記事部分の最後にリンクしているものを、ここでも再掲することにいたします。


以下は、これまでの 覚書など。 拙サイトより Link


2001年 5月28日 大徳寺 利休居士 月忌茶会


2002年 8月28日 大徳寺 利休忌(月命日)担当 裏千家今日庵


2003年 5月28日 初夏の大徳寺利休忌 道 愛 ひと そして 茶


2003年 8月28日 blogサロンランデエヴウ 初秋の茶会 大徳寺利休忌


2004年 8月28日 大徳寺利休忌 今日庵担当 副席 淡敬会 於三玄院


2006年 2月28日 JanJanコラム古都つれづれ 大徳寺・利休居士の毎歳忌


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2006年1月12日 (木)

和の学校のお正月

2006年 01月 12日
恒例の裏千家宗家の初釜はことしは10日のご案内でした。
直門のお仲間とご一緒の席でしたが、最終の時間帯になったようです。

兜門を辞去しましてから、和の学校にご年始にまいりました。

編集長といっても可憐な女性、吉田りえこさんと事務局長の山下さんという若い男性が
きびきびと働いておられます。





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「談話室」に書き込みがありました。なんと、りえこさんではありませんか。
そっくりそのまま、ここに…。ちょっと、てれますけれど。


01/11(水) 23:08
Re: 表紙の写真 吉田りえこ

わびすけ様 mohyo様 皆様 

わびすけ様、昨日は和の学校にお越しいただき本当にありがとうございました!
お話ができてとっても元気をいただきました。
でも、なんと、私の顔が表紙に…お恥ずかしい…カンニンしてくだされ…。

昨日、実はお話していて、わびすけ様の美しさにミトレテいました。
お世辞ではありません。
だって、ほっぺたがツヤツヤ!
帰られてから、一緒に和の学校の事務局をやっているYさんとも
「わびすけさん、なんであんなにきれいなん?」と話し合ったくらいです!
Mohyo様が私のことを「若い」と言ってくださいましたが
…いやはや、ありがとうございます…そんなことはないのです。
昨日のわびすけ様のほっぺたの若さには負けました。

ちなみに和の学校の看板の美しい文字は、
ボランティアに来てくださっている書道の先生が書いてくださいました。
(東京、大阪、和歌山に教室を持っておられる方で、
 その間に和の学校に週に一回来てくださっています)
それに頭上の注連飾りは、
昨年、和の学校で田んぼを借りて稲を育てたのですが、
さきほどの事務局を一緒にしているYさんがその藁で作ったものです。
年末にはお餅つきもして、その鏡餅も事務所の中にあるのですよ。
カビてきて、ひび割れていますけど。

Mohyo様。いつもメールマガジン「学校新聞」を読んで頂いてありがとうございます!
他のご購読いただいている皆様もありがとうございます!
でも、顔を思い出しながら読まないで下さい…
ああ…恥ずかしい…ナンテコトでしょう…

では、またお邪魔いたします。



更新のあと 椿 わびすけ - 01/12(木) 22:03
りえこさん
和の学校へのご年始が「和の学校のお正月」というページになりましたこと、
ご迷惑でしたしょうか?鏡餅がひび割れているところが写ってて拙かったかしら?
まあ鏡開きで、いずれ水に漬けた後おぜんざいに入れられる運命なのでしょうね。
編集部の建物と空気のあたたかさが皆さまに感じ取っていただければ何より!と思います。

いま和服に関心をお持ちの方にご参考にもなればと恥ずかしながらお目にかけました。
黒いコートも着物も亡母のお古を仕立て替えたもの。
こうしたところが和装の良い点でしょうね。
洋服ですとサイズがあって裁断してしまいますものね。

ご宗家の初釜に生前母は行けませんでしたから、母の着物を私が着ることで一緒に
参会しているような気持でした。

私など遠目に見られるから何とかごまかせますが、すべて着物がカバーしてくれる訳です。
民族衣装はやはり心やさしいものと思います。


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Re: 更新のあと ぼいやれ(フランス在住) - 01/13(金) 00:08

わびすけさま
ご多忙のなか次々と更新されるページに目を見張っております
初釜とて、なにしろ縁のない身ですが、以前拝見したお茶事の記事をあちこち見返しては
門の中のご様子をいろいろ思い描いております。ありがたいことです。

寒さ身に染むこの時期、お部屋のぬくもりがいっそう感じられます。
先に静さまや小春さまがおっしゃっていらしたこと、そのまま私の思いでもあります。
どうぞこれからもお元気でご活躍くださいますように。



 2005年10月26日  『和の学校』の ドングリたち

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